【飛行練習生・三重海軍航空隊】「飛練魂」で飛ぶ特攻練習機
出典:1962(昭和32)年 日本文芸社 「現代読本」第二巻第六号所収
元海軍一等飛行兵曹 須磨行雄 「『飛練魂』で飛ぶ特攻練習機」
間断なき飛行訓練と罰直の連続、こうして海軍航空兵は敵殲滅のために巣立って行った。
「若い血潮の予科練の七ツ釦(ボタン)は桜に錨(いかり)」
この歌でも良く知られている予科練は、最近映画になっているので大抵の人なら知っていると思うが、この予科練を普通科に例えれば差当り高等科に当る『飛行練習生』の教程があることは一般の人はあまり知らなかったようである。
略称を飛練と呼ばれ、この教程に進むと始めて、布と木で作られた二枚羽根の中三式練習機による操縦訓練が始められる。ここで飛行機操縦の基礎訓練がみっちりたたきこまれ、高等飛行まで出来るようになると、本人の適性により機種が分けられ、実際に使われている実用機による訓練教程に進むのであるが、この教程を略称『実練(じつれん)』と呼んでいた。この教程を卒業してから搭乗員として、第一線に飛び出して行くのである。
【七ツ釦のジャケット】
『飛練』この二文字こそ当時の予科練生にとって、一日も早く行きたい希望の丘だった。予科練教程では飛行兵という名を頂戴しているもののせいぜい「グライダー」位で、おれは飛行兵なのだという気分にひたるくらいで、その他は毎日陸戦、短艇、通信、座学等に追われる一日なのだから、実際に飛行訓練のある飛練に一日も早く進みたい気持になるのは、当然の事であろう。
だが、飛練の訓練こそ、正に体力の限界を無視した闘魂ただあるのみといっても、過言ではない。
鍛練に次ぐ鍛練の毎日なのである。だから飛練の練習生も同じ七ツ釦は着ているが、鍛えられた、がっちりした躰(からだ)、鋭い眼だけ見ても、飛練か、予科練か、すぐ見分けがつく程なのである。
私が、予科練を卒業した頃は、すでに敵機は本土を空襲している状態になっていたが、予科練を卒業する時の厳重な適性検査の結果、操縦員に廻されることになった。
【地上適性検査機】
卒業生の大半は偵察員に廻されたのだから、私のような者が、飛行機操縦に適するかと、改めて自分自身を思いなおして見たのも無理はないであろう。それ程いろいろな適性機械にかけ、おまけに人相、手相まで調べられて、漸く志望通りの操縦に廻されたのである。
だが、飛練の訓練を思ったら予科練の訓練なんか遊んでいるようなものだと、良く先輩から聞かされていたので、飛練の博多航空隊の門をくぐる頃は、これから飛行機に乗れるのだという喜びの反面、内心は、皆、びくびくものであった。
ところが、先(ま)ず寝床は、吊り床(ハンモックの事)でなく、木製二段ベッドなので、やれやれ吊り床教練が、助かったとばかり、ほほえんだ。それに食事は毎日牛乳と、卵が出る、酒保(しゅほ)のしるこもなかなかうまいので我々を喜ばせた。
訓練といっても先輩の飛行訓練を見学するだけ、その他は座学と、せいぜい短艇訓練ぐらいなのである。しかも予科練でも時たま整列があってバッターが飛ぶ事があったが、ここでは隊門をくぐってから一週間になるのに、文句一ついわれない。そこで我々の気分は次第にのんびりしてお客様のような気分になって来た。そして十日間目を過ぎる頃は、
「何だ、先輩の野郎おどろかしやがって、予科練とちっとも違わないや」
という気持になっていた。そして唯(ただ)、後は飛行訓練の始まるのを一日千秋の思いで待っていたのであるが、そののんびりした気分が無残にも吹飛ばされてしまう時が来た。
名パイロットという人から聞いたのであるが、
『パイロットは、飛行機に乗る前夜は、絶対に女は近づけてはいけない。空の神が、やきもちをやく訳(わけ)でもないだろうが、事故を起した連中を調べると、大抵前夜女と寝ていると』
といっていたが、恐らくこれは、充分な休養と、精力がなくてはならぬからであろう。
操縦席の前に無数に並んでいる計器をにらんで全精力を傾倒しなかったならば、一寸(ちょっと)した不注意で、天国か、地獄に早速つれていかれるのだから、前の晩の楽しい彼女との一夜の思いを浮べながら、疲れた眼をこすりこすりやっていたら、事故が起きないのが反(かえ)って不思議かも知れない。
名パイロットにしてこの緊張を必要とするのに、生れて始めて (*1)飛行機に乗る我々が、飛行訓練をこんなのんびりした気分ですませてくれる筈(はず)がなかった。
飛行訓練が、一週間の予定表に載る頃になると、我々土浦航空隊の卒業生ばかりで編成されている練習生百名ばかりの分隊にぞくぞくと教員が転勤して来た。そして今まで五、六名だった教員が飛行作業を始める頃は、全教員を合せて、二十名近くなっていた。
この教員は、パイロットで、中には、甲種、乙種の予科練の先輩や、飛行記録に航空母艦撃沈と赤く記録されている、飛行時間何千時間という大先輩もいた。
さて、いよいよ待望の飛行訓練も目前に迫り、飛行服、飛行靴、飛行帽等も支給され、編成も、教員一名に、練習生五名という、ペア単位に分けられる。つまり飛行機一台をこの一ペアで、順番に同乗飛行をやる訳であるが、最初の間はプロペラを廻して初動を起したり、出発する飛行機のチョーク(車輪止め)外(はず)しをしたりして、なかなか飛行機に乗る番は来ない。だが待ちに待ったその日が漸くやってきた。
【飛行服を着た予科練たち】
ぴったりと身についた飛行服に身を包み、ペア毎に列(なら)ぶ中を、名前を呼ばれて飛び出し飛行機の座席におさまるまでが大変である。
いまか、いまかと待ち受けている私に、分隊士の「須磨練習生、同乗飛行出発!」と、呼ぶ声で、「はい!」と、元気よく返事をして列を飛び出した。
大地にめり込めとばかり、力強い駈足(かけあし)で指揮官の前、一歩横に止り、右足を大きく横にあげて指揮官の前に進み出た。そして飛行場も吹き飛べと大声を張りあげ、
「須磨練習生、第二十三号機離着陸同乗出発します!」
と、報告したのは良いが、余り大声を出し過ぎて終りの方はろくに声も出なかった。寧(むし)ろ報告するというより怒鳴るといった方が適当な表現かも知れない。だから報告し終ると一寸(ちょっと)した疲労を感ずる位、私は全力を集中して飛行訓練の第一頁を飾った。
【同乗飛行訓練】
これも大抵一回では「宜(よろ)しい」とは言ってはくれない。トチッたり、声が小さかったり動作のきびきびしてない者は何回でもやりなおされた。しまいには声がかすれて小さくなり、真冬の飛行場にいるというのに、額から汗が止めどもなく流れてきて、最後には自分がみじめに感じられたことも再三であった。
そんな時には、自分の思うように体が動かなくなって、後は唯(ただ)精神力だけが頼りである。「クソ!」と、心の中でいいながら何回も同じ動作をやらされ一歩も歩けなくなるまで仲々(なかなか)「もうよい」といってくれない、「もとえ! やりなおし」の指揮官の声だけが後から後からと続くだけである。
漸く報告が終り、座席に座ってやれやれと思っていると、後部の席の教員から伝声管で
「操縦桿を動かせ、方向舵、レバーの調子を点検しろ」
と、やつぎ早の号令である。
……なにしろ、私の乗った中級練習機は、操縦桿も、レバーも、同じ装置が取付けてあって前の席の操縦桿を動かせば、後の席もそれと同じように動くので、われわれ練習生がヘマな操作をすれば一目瞭然、それこそ手に取るように分って終(しま)うのだ。
だが悲しいことには初めて練習機に乗った私は飛行機が大空に上っても、文字通り頭がボヤッと上ってしまい、後(うしろ)に教員が同乗していることも忘れて体を硬着 (*2)させ、背後の教員が、
「操縦桿をもっと軽く握るのだ!」
と、怒鳴られても、飛行前に注意された"操縦桿は卵を落さぬ程度に柔(やわらか)く握る"なぞということはすっかり忘れ、唯(ただ)いうことをきかぬ自分の躰(からだ)をもて余す始末だった。
「何をしている」
いきなり後の教員から棍棒(こんぼう)で"コツン"と飛行帽の上からやられた。ハッと気が付いて漸く操縦桿を離し、始めて (*3)地上五百米(メートル)の空中に自分の躰が浮いてることに気がつく事も度々(たびたび)である。……
飛行機の機能を検査して異常がないとなると、後部の教員に、
「出発準備よろしい」
続いて、
「出発!」
の教員の号令で、私はレバーを全開した。発動機は耳もさけんばかりの爆音をたてて離陸の動作に入る。
普段地上で何回か練習をしてもいざ実際に飛び上るとなると、あわてたり、上ったりするので、チョークが車輪に止めたままになっているのもすっかり忘れてしまい、「出発」の合図をする。後部座席からは棍棒と一緒に
「こら! ぼやぼやするな、お前が事故を起すのはまだ早い!」
と、伝声管から教員の怒鳴る声が入る。
離陸してから空中操作の間中というもの、初めの間は万事がこんな調子であった。
【同乗飛行訓練(飛行中)】
だから着陸してから、
「オーイ須磨、お前どうだった?」
と感想をきかれても、後に残るのは背後から遠慮会釈なく飛んできた棍棒の痛さ位のもので、感想なんてある訳がなかった。
一通りペアの練習生の同乗飛行が終ると、教員が皆を集めて悪い点を別個に注意するのだろうと思っていると、いきなり、
「貴様達は勉強しているのか、やる気があるのか、全然憶(おぼ)えておらん」
と、怒鳴られて終った。
いささかでも緊張を欠くと、飛行中は良く事故を起すので、平常温和(おとな)しい教員も、飛行訓練となると、全く人が変ってしまう位に、われわれに容赦はなかった。
「やる気が出るようにしてやる」
といって、一人一人片っぱしから、愛の鉄拳を頂戴した。予科練でも大分殴られ馴れているつもりだが、矢張り飛練の教員達の殴り方は一段と身に沁み、皆顔が腫れあがる。
「おい須磨、この面(つら)ではとても外出なんか出来そうもないな……」
と、互(たがい)に不格好に腫れあがった顔で笑い飛ばすのだった。
しかしこの位は序の口である。飛行訓練が終了すると、分隊長からその日の批評がある。
「皆の勉強が足りない、気合いを入れて!」
などといわれようものならその後が大変である。飛行服の上に救命身 (*4)とソウ帯を着けて飛行場一、二周の駈足を軽くやらされ、兵舎に帰っても夕食も満足に食べる時間もなく、寝る時間までお説教と罰直の連続である。
飛行作業で疲れている躰を休めるどころではなかった。ある時には二列の横隊に整列した練習生の前、横、後に二十名ばかりの教員が異様な眼をして囲み、その中の最先任の教員が、「日本精神注入棒」と太書きした、大きなバッターを持って出て来る。平常余り文句を言わぬこの先任教員は、われわれの並んでいる前にやおら歩み寄り、一通り練習生に目を向けると、
「貴様達の今日の飛行作業は一体何だ! ここは女学校じゃない。貴様達はそれでも飛行服を着た飛行兵の心算(つもり)か、こんな事では先輩達のような立派な搭乗員にはなれない、今から精神を入れ替えてやる、出てこい!」
大喝(だいかつ)一声、先頭の練習生が恐る恐る進み出る。このトップバッター?を皮切りに二十人近くの教員も一斉に練習生に対して棍棒を振り始める。その叩く音が兵舎の中に不気味に響く光景はなんと形容したらよいだろうか。漸く罰直が終ると、次々に前に出て来た教員にお説教をやられ、冷めたくひえ切った冬のデッキ(甲板)に再び、
「前にささえ」
の号令で、"前ささえ"を二時間位続けさせられる。冷い甲板に、額から汗がぽたりと落ち、腕はしびれ、息が苦しくなり、唯(ただ)苦しいというの外(ほか)、例えようもない状態になる。
若(も)し"がくり"崩れでもしたら大変、目を光らせている教員のバッターの好餌(こうじ)になるだけなのである。
飛行訓練が激しくなると、それにつれていよいよ罰直も厳しくなった。殆(ほと)んど毎晩の様に続けられ、寝る時間も十一時過ぎ迄になり又ある時は寝てから、たたき起こされて、全く神経や体の休まる時間といえばベッドに潜りこんだ瞬間だけと云(い)っても過言ではない。
だが若いわれわれは、いくら寝ても寝足りたと、いうことはない。寝たと思ったら「総員起し五分前」になっているのだ。「総員起し」のラッパで僅かな睡眠の夢が破られて、当直教員の、
「何をぐずぐずしているのだ!」
と、いう怒鳴る声にあわてて飛び起き、一枚、一枚毛布を畳むのももどかしく兵舎の外に飛び出す。朝礼を終り、汗をかきながら兵舎の中に入ってみると、綺麗に整頓した筈の毛布がいつの間にか、外に放り出されその傍(そば)に当直教員が立っている。
「毛布を放り出されたものは、列外、その他は解散!」
こうして一日の日課が始まる。後は放り出された毛布の持主の飛行場一周の駈足が待っているだけである。
【九三式水上中間練習機:車輪のかわりにフロート2本を付けた型】
飛行機の整備と掃除で空腹になった胃袋に航空食の卵と牛乳が出る朝食は、この上ない素晴らしい御馳走(ごちそう)だ。飛行作業がある時は、分隊長、分隊士、教員などが飛行場に来るまでに飛行機を出して準備しなくてはならぬので、飯と、汁を別々に食べる時間さえ惜しく味噌汁の中に飯をたたき込むと、胃袋の中に流し込むようにして飯を済ませ、口を動かしながら兵舎から飛び出して行くのだ。
「親が死んでも食休み」などは、われわれには通用しない。
一日の主要日課である、飛行作業が終ってほっとして帰っても、兵舎で毎晩のように緊(し)められるのでは、幾ら二十才前後の血気盛んな私でも些(いささ)か参って終(しま)った。
そのためには何とか文句の言われぬように動作一つにも気を配った。甲板掃除の時も、仕事がない者がその辺に立っていようものならそれこそ大変で「気合が入っていない」といわれるので甲板をぐるぐる走り廻っているのだから大変であった。
そのため、朝の課業整列のときなぞ、練習生分隊は、他の分隊と比較にならぬ程光っていた。駈足の時九十度位に上げた脚が一直線になり、見事な団体駈足をやるので、よく他の分隊の教員が、
「練習生のあの駈足を少しは見習え」
と、言っているのが時おり聞えて来るので内心我々は得意だった。
ところが、自分達の教員は一度もほめてはくれず、毎晩整列が続くのであった。だがこれ位の訓練にヘコたれてはならぬのだ。
「おい、須磨こんなんじゃ死んだ方が楽だ」
と、いう同僚もいたが、この整列もわれわれ練習生を思っての処置だと思うと、私には教員の苦しい心の中が分るような気がした。
一番楽しい外出も余りうれしくもない。帰隊後は必らずといってよい程「しゃば気を叩き落してやる」といって、非情なバッターが飛ぶ時もあるからだ。でも外出して街に出ると、赤い顔をした可れんな女学生には大もてで、手製の可愛い人形を、
「マスコットにして下さい」
と、よく贈られることが度々だった。中には切々たる情をこめた手紙を貰い、迷惑そうな顔をしている練習生もいる。だが、当時の私の頭の中には女性の事なぞ考える余地のない程訓練又、訓練の激しさであった。
【戦前の女学生】
若くたくましい練習生の集りだと、自然に女性の話が出てもなんの不思議もないのだが話題に登ることすらなかった。
昭和二十年の春になると、飛行訓練は中止となり、練習機も特攻機の仲間入りをすることなった。練習機を偽装 (*5)し、特攻機に使うというのである。そのため訓練も夜間飛行だけとなり、毎夜急降下爆撃の訓練が続けられた。
ガソリンが欠乏するにつれて、アルコールを燃料に使い、中には離陸した瞬間、エンジンが止り海上に不時着したり、森の中に突込んだりすることも往々にしてあった。急降下の状態から、上昇姿勢に戻る時の馬力が足りないことは判り切っているにもかかわらず、夜間急降下で海中に突込んだまま機体諸共(もろとも)に粉々になって終(しま)うのだ。
「あの中三式 (*6)の飛行機は、B二九とすれ違っただけで墜落してしまうそうだ……」
と、話合っては笑っていたが、不思議に死というものが気にもならず、この無謀に近い練習も、計画も、これで少しでも国に役立てば、われわれの本望が達せられるのだ、という純粋にして崇高な精神というより他に言葉がなかった。
だが戦運は、我に利ならず、幸か不幸か出撃命令の前に、遂に運命の八月十五日がおとずれ、戦友や愛機と別れたあの一瞬を想い、ペンを置こうとする私の能裡に当時の様子がまざまざとよみがえってくる。(終)
【写真出典】
・1983(昭和58)年 講談社 「写真図説 帝国連合艦隊-日本海軍100年史-」
- 最終更新:2017-07-11 14:30:26