【生き残り特攻隊】甲種飛行予科練習生第十一期生座談会「戦史に輝く殉国の魂」

出典:1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」 第一巻第四号所収 
   「生き残り特攻隊 戦史に輝く殉国の魂-甲種飛行予科練習生第十一期生座談会」



【出席者】

終戦時 築城航空隊艦上戦闘機操縦員 元海軍上飛曹 吉原●二

 〃  台南航空隊艦上爆撃機操縦員 元海軍上飛曹 吉川●一

 〃  大村航空隊夜間戦闘機操縦員 元海軍上飛曹 半場●之

 〃  鹿屋航空隊操縦教員     元海軍上飛曹 前村 ●

(管理人注:プライバシー保護のため、一部伏せ字にしています)


本誌 生き残りの特攻隊員は非常に少いときいて居りますが、そのうちでも同期生だけがこうして顔を合せるということは何年に一度かでしょう。時代はすっかり変りました。だが変ったと思いたくないのは当時の一死国に殉じて行ったあの特攻精神です。

民族の血潮に脈々と流れていた熱情というか、そういったものをいま静かに振りかえって偲(しの)ぶことも有意義ではないでしょうか。そんな意味から今夜はひとつ、大いに若かったあの頃の思い出ばなしをきかせて頂きたいと存じます。

先(ま)ず大村の草薙部隊におられた吉原さんからおひとつ……


鍛えられた肝ッ玉 熱鉄の男児誕生

吉原 たしかに理屈じゃなかったですね、説明しろといわれても一寸(ちょっと)どうかナ、いまの若い人達に理解されないのもムリはない、バカみたいなもンだ。

前村 しかしああいうお互いハチ切れんばかりの情熱を、ブッつけ合った練習生時代の楽しさは、いまの人達には可哀そうだが想像も出来んだろう。

本誌 練習生時代で一番なつかしかった思い出といっては何んですか?

前村 やっぱり半舷(はんげん)外出でしょうね(註……海軍はすべて艦艇勤務が基本をなしていて前進方向に向って右側を右舷、左側を左舷と呼称、交互に外出日を設定していた)一ヶ月後にはじめて許可されたのですが、土浦の市内へ出てまっすぐとんでいったのは食い物屋だった。結局食うこと以外は考えてなかったンですね。

半場 入隊した時は四等飛行兵だったなア……半袖のシャツを着て……近所から来た者はそれでも面会があったからよかったが……まったく一カ月は一年くらいにも思ったもンだ。

前村 いや、遠くからも面会に来たぞ、三宅島や樺太なんかからもわざわざ面会に来たのがあったぞ。

半場 土浦の人々は実によく協力してくれた、小さな小供(こども)なんかでもなア……

本誌 外出のとき定泊といったようなものはなかったんですか?

前村 各班毎にクラブがあった。つまり普通の一般家庭ですね、ここへ集って先輩の話をきいたりするのが楽しみでした。

吉原 励まされたもンだ。

前村 何んといっても楽しかったのは東京行軍だよ。

吉原 五月二十九日の海軍記念日に東京市内を行軍したのは忘れられないナ。剣はつけなかったかな?

吉川 そんなことあるもんか、剣はつけていったよ。

吉原 そうだったか?

吉川 藤沢から片瀬、江ノ島をまわるあの辻堂演習も忘れられないぞ、それに艦務実習、艦隊履歴にのっているだろう……

吉原 一ヶ月びっしり乗り込まされたなア。

吉川 甲板掃除から吊床(つりどこ)訓練、毎晩叩きあげられたバットの味、それでもあの目のまわるような艦隊勤務の面白さは忘れられないなア。 

【海軍記念日 昭和18年】
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飛行科独特のしつけ 奇妙な訓練三人会話

半場 艦務実習で俺が乗り組まされたのが扶桑だ。運命の八日(註…昭和十八年六月八日)だったなア、あの日、すぐそばに停泊していた戦艦陸奥の爆沈があったんだ。

吉原 あの時は大変だったなア、俺は丁度長門に乗艦していた……(前村氏に)お前は陸奥に乗ってたんだろう?

前村 食罐(しょくかん)洗いに行って、助かった、あの時の状況は同期生の中川要が何かに詳しく書いてあったが──

半場 なにしろすぐ隣りの陸奥のことだからその爆発音にはみんな飛び上った。戦斗(闘)ラッパが鳴りひびくと一緒にすぐ対潜警戒に入った。われわれ実習飛行兵は後檣(ごしょう)の下に集合させられてなア。

前村 兎(と)に角(かく)随分死んだ。同期生だけで百三十人もいっぺんに死んだ。舷窓からドンドン水が入ってくるそれでいったん潜って舷窓(丸窓)を探ぐり当て、そこからようよう這(は)い出して助かったのもいた……

本誌 ひどかったそうですね、あの事件は。ところで吉原さん、あの当時、飛行練習生だけの特別な訓練というか、一般の兵科ではやらなかった日常のしつけ訓練、そういったものはなかったんでしょうか?

吉原 ありましたね、訓練すべてがほかの兵科よりキツかった──

本誌 例(たと)えばどんな?

吉原 食事なんかのときもですね、中途でいきなり「手をかえッ」という号令がかかるんですね、つまり左手にハシ(操縦桿)を持ち代えるワケです。これは戦斗機員にとって一番いい訓練だった。機上にあって右手と左手を同じように使いわけなければならぬわれわれ戦斗機員は、右利きであると同時にまた左利きでもなければならなかったのですから──

吉川 一歩地上を離れて上空へ行けば、頼りになるのは自分ひとりだからなア。

吉原 三人会話もあった。甲は乙と丙から別別の話を同時にきいてまとめ、それを乙に改めて伝達する。乙はその甲の話と丙の話を両方から一緒にきいてそれを丙に伝達する、そして丙もまた甲と乙の両方から全然別の話をきいて甲に伝える、といった具合に、全く変った訓練をくり返しやらされたもんだ。勿論(もちろん)これは、機上で両方の耳を同時に働かさなければならない場合が多いので、その為だったのですがネ。


死に物狂いの十六時間 朝から夜までスキ間がない

前村 全くいま考えて見るとよくやったと思うね、体力をつくることと、精神訓練を徹底的にやらされた──

吉原 バットもよく貰ったなア、しかしネチネチやられるよりはあの方がいい、サッパリしてて──

吉川 お前の為に総員罰直をくらったことはたびたびあるぞ、前村は真面目だったが。

吉原 俺はカマ室(汽罐室)にばかりもぐって昼寝していたからなア(笑声)

前村 何しろ腹のへるのには参ったな、訓練が兎に角(管理人注:とにかく)はげしかったんだから──

吉原 入隊して半年間というもの酒保物品がほとんどないんですね、まあ一週間に菓子袋一個ぐらいの程度でめしが、搭乗員は満腹しちゃいかんというんでいつも七分目位ときてますから。食べ盛りの年頃でその辛(つら)さといったら全く──

前村 命がけで銀バイによく行ったもんだ。

吉川 われわれ十一分隊は烹炊所(ほうすいじょ)に一番近かったんで、よくせしめてきてはネッチングへ隠しておいたもんだ。

吉原 あの時の真剣な顔ったらなかったナ、どいつもこいつも──(笑声)

吉川 然(しか)し一番弱ったのはあの『見学者』だよ。

吉原 女の子の見学者には一番困ったナ。

吉川 とんでもない時に総員起しをいきなりかけられて、吊床からとび下りたのはいいが、何しろ不意の事でフンドシの端がだらりと垂れ下がったままの吊床納めだ。若い娘の見学者を意識してやるんだから、血が頭へカアーッときていつもの調子が滅茶々々でネ。教員にはしぼり上げられるし、全く情なくなったよ──

半場 「吊床下ろせ」が十八秒だったなア、シュシュシュシュッ、というロープの音、ハンモックの括(くく)りが五カ所だったなア、みんな眼の色が変ってた──

吉川 多い時は十何回もくり返されて──真冬でもシャツ一枚で汗びっしょり──俺なんか背が低いもんでフック(吊り金具)へ届かないだろう、呼吸を計って一回で飛びって引っかけ損ったら万事休すだった。

半場 六時に跳ね起きて六時三分には整列終りか。


異性を考えられるのは余ッ程すばしこい奴だ

前村 女を考える余裕など全くなかった。実はいいのが故郷にいたんだがナ、ああ火のつくように追っかけられたんじゃあ、全然その気が起きないから不思議だ。

吉川 どうだか怪しいもんだぞ(笑声)

吉原 いやそれは本当だろう、艦のなかでも練習生時代はいつも駈け足だ。のんびり一ぺん歩いて見たいと思ったよ。

半場 練習生時代の思い出と云(い)えば、耳掻き(十期生大野木猛氏の渾名)にひどく殴られた。癪(しゃく)にさわったから剣道でウンと引っぱ叩いてやったことがある(半場氏は剣道三段)

吉川 負け残りというのがあったっけなア。

本誌 何んですか、その『マケノコリ』ってのは?

吉川 それはですね、角力(すもう)なら勝つまで何人でも取り組まされるんです。柔道だと結局しまいには落とされて(気絶して)しまうんですね。

前村 姿三四郎と渾名(管理人注:あだな)されたわれわれ十一期のあの三四郎(中井清四郎氏)はほんとに柔道は強かったなア。

吉原 分隊一だった。戦死したが、惜しい男だったナ。強いのではその他にも森がいる。いま交通公社へいってるらしいが──


執拗な米機もネをあげた 恐怖の秘密特攻基地

本誌 実施部隊へまわったのは皆さんいつごろからですか?

吉原 そう、十九年の五、六、七月にかけてですね。二等下士で、みんなバラバラに配属されました。

半場 わしは最初上海へまわされて、それから間もなく佐世保の水上航空隊でゲタバキ水上機に乗っていたんですが、つまらんので大村の夜戦(夜間飛斗機)──月光に移してもらったら、この吉原と一緒になったんですよ。

吉原 俺は最初から大村だった。

半場 大村基地には飛行機は随分あったなア。

吉原 もっとも大村といっても戦斗機はほとんどわれわれの草薙部隊にあったんだが。

本誌 その九州の大村基地からですね、出撃された前後の模様を出来るだけ詳しくお話下さいませんか。

吉原 九州には特攻隊の飛行基地が十幾つもありましたが、そのうちでも大村、鹿屋(しかや)、鹿児島などは有数なものでした。殊に鹿屋基地は完全な秘密飛行場でしてね、山の頂上を切り開いて滑走路をこしらえ、前後が断崖ですから若(も)し着陸を誤って進みすぎると前方のガケに落ち込んでしまう、といった危険極まりない処でした。つまり此処(ここ)で母艦発着の猛訓練をさせられたわけです。左右が何しろ垂直に切り崩した狭い滑走路(八〇〇米:メートル)ですから、敵も最後まで発見出来なかったようですネ。


【米軍空襲下の鹿屋航空基地】
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吉川 その滑走路の下は四方八方に通じる穴蔵(あなぐら)になっていてなア。

吉原 そうだ。其処(そこ)から上るのにエレベーターになってましてね、いや、エレベーターといっても、あの田舎のつるべ井戸のそのつるべを、兵隊が二人がかりで引っぱってるというヤツですがそれに乗って穴蔵の壕舎(ごうしゃ)から滑走路へ跳ね上るやいなや、直(す)ぐ飛行機の操縦席にとび込み、エンジンをかける、それまでに要する時間が四分ちょっとでした。

本誌 其処は最後まで空襲はなかったのですか?

吉原 数える程しかなかったと思います。少くとも私の知ってる限りではですね。


疾風! 元朝の邀撃(ようげき)! 強襲! 凶猛な空の殴り込み
(*1)

本誌 二十年の三、四月頃から米軍は何んとかして特攻基地を潰そうと、しらみ潰しの大空襲をしかけてきたそうですが──

吉原 連日でした。よる昼見境いなくワンワンやってきましたね。殊に私のいた大村基地は一番ひどかったんじゃないですか。あそこは当時、設備、規模から云っても日本一だったし、飛行場の南には大村航空廠があったし、南方へ飛び立つ特攻隊員は例外なくあそこを中継地として行ったものでした。だから奴等(やつら)からは一番狙われていたわけですネ。どんな犠牲をはらってでも壊滅させなきやアと焦(あせ)ったのも無理はないですね。

本誌 いつも不意を襲われてばかりもいなかったでしょう、こちらからも邀撃して大空中戦を演じたといったことは──

吉原 ありましたよ、それは私から話しましょう。あれは(半場氏に)二十年の元旦の朝だったなア?

半場 そうだ。正月元日の遥拝式のときだ。

吉原 丁度あの朝は、九州には珍(めず)らしく小雪がパラつきましてね。号令台の前には洋上偵察の九〇一空と艦上戦斗練習隊の三〇二空、それにわれわれの草薙部隊がびっしりと、そうですね、全部で一万二千人位もいましたか、これが居並んでいた。司令は寺崎大佐でした。

半場 神崎隊長は笠野原で戦死されたんだなア──

吉原 神崎国雄大尉、この人はわれわれ戦斗機隊の隊長だったのです。この人が司令のすぐ横に飛行長の小松少佐と一緒に並んで居りましたあの時の光景はいまでもハッキリ思い出しますね。するといよいよ遥拝式に入ろうとする時、当直の通信士が気狂(きちが)いのようにとんできた、そして通信紙を司令に手渡した。敵機の来襲を知らせてきたのです。横っとびにわれわれは搭乗員宿舎に駈け込んだんですが、もう自動車が入口に待機してるんですヨ。「速くせんかッ!」なんて、大声で有名な佐伯少尉に怒鳴られたりしてね、飛行服をつける暇もなにもあったもんじゃない、飛行帽と二、三の用具を引っ掴(つか)むと夢中で自動車で飛行場へスッ飛んだのです。

本誌 敵機はどの辺まできていたんですか?

半場 たしか通信士の持ってきた報告は、敵爆撃機隊が大挙して、シナの連雲港上空を通過したという報告だったと思いますよ。

吉原 そうだ、時間的に兎に角ひどく切迫していたのです。


【中国 連雲港】
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繰り返された死闘! 磨き上った操縦者魂

本誌 邀撃可能の戦斗機は何機ぐらいあったのでしょう?

吉原 草薙部隊だけで七十二機ありました。それが全部出たんです。

本誌 その時の模様をひとつ話して見て下さいませんか。

吉原 その日の私の戦斗配置は、邀撃先鋒隊だったものですから、他の列機よりは早く飛ばなければならなくて、着くやいなやすぐ座席に飛び込んだんです。整備員はもうずっと先にきて──いや、制服も着換えずそのままの格好でしたよ──それがエンジンの調子をジッと見ていて、よしッと叫ぶと回転を絞りパッと手を上げて合図した。──いつも飛び上るときの整備員のあの祈るような眼付き、忘れられないね。

本誌 いい話ですね。整備員の労苦は縁の下の力持ちみたいなもんだが、それだけに必死なねがいが機体の整備にこもっているんでしょうね。

吉川 そうです。実際あの連中のわれわれや機体をいたわってくれた気持は全く勿体(もったい)ないくらいのもんでしたよ。だから笑って死地に飛び込めた──

吉原 一番機に乗っていたのが、あの国宝的名パイロットの佐伯少尉(鹿児島出身)でした。私は三番機ですぐそのあとを追いかけた。つづいて二番機、四番機と忽(たちま)ち追いついてきた。艦上戦斗機隊は普通一番と三番が編隊を組み、二番と四番が組んで一区隊の編隊となるのです。高度六千で小隊を編成すると一気に五島列島の江の島上空までフッ飛ばしましたよ。

本誌 敵爆撃機はやはりB29ですか?

吉原 そうです。B29の大編隊でした。五島列島の西方、三十哩(マイル)ぐらいの上空でしたか発見したのは。此方(こちら)へ向ってわれわれが大手を拡げて待ち構えているとも知らずにぐんぐん迫ってくるんです。八梯団ぐらい──

本誌 八梯団?

吉原 そう、一梯団というのは大体五機か七機で編成されてましたが──そいつが、実に悠々と近付いてくるんですね。猛烈に斗争心が湧いたなア。──此方は高度一万米(メートル)でした。敵は九千か九千五百くらいだったか──充分に引きつけておいて遂に一番機が火蓋を切った。それからはもう乱戦また乱戦で私も無我夢中で機銃レバーを押し続けたのです。


激突した空の要塞 黒煙に包まれた一塊の敵

本誌 どんな気持でしょう。その時の心境というか?

吉原 そうですね、飛行機乗りの戦斗は地上と違ってヂカにむごたらしい死骸や惨禍を眼前に見ないせいもあって、恐怖感といったものはまるでありませんね。ただ、眼の前を真っ黒い煙りを吐いて墜ちてゆくさまをチラッと見るぐらいのものですから……

本誌 なるほど──

吉原 しかしあの日の邀撃戦では、弾丸の被害は座席後部の胴体あたりに三発ぐらい受けただけでしたが、別な理由で身体中がズキズキ痛いほど苦るしかった。というのはですね、何せ突嗟(とっさ)のことで充分な飛行装具も身につけていない有様でしょう、一万米の上空と云えば冷下(ママ)六十度ぐらいだし、どうしても欠かすことの出来ない落下傘バンドは無論のこと、電熱服も身につけていない状態でした。だがそれを承知でとも角も一分一秒でも早く飛び出したからこそ、ああした大戦果を挙げることが出来たのです。

本誌 その時の敵機はどこからきたのでしょう?

半場 あとで知ったんですが、たしか支那大陸の成都から飛んできたと云ってましたよ。

前村 いや、あの頃は毎日だったんですよ、ただそれまではきまって夜間ばかり狙われたがあんな白昼堂々と大編隊を組んで、押しよせてきたのは初めてでしたね、しかもそれが元旦の朝とは……

吉川 敵サンはすっかり仕組みやがったんだよ──

半場 それで思い出すのはその前のやはり珍らしい昼間の大空襲のときだ、坂本中尉の体当りされた……(吉原氏に)いつだ? あれは──

吉原 うん、たしか十一月の二十一日? じゃなかったかナ

半場 そうだ、昭和十九年十一月二十一日、間違いない。あの時のこと誰か話しろよ。


【米軍機飛来ルート:中国成都→連雲港→長崎県大村】
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壮絶! 炎の坂本中尉機 鬼神も哭(な)く轟然体当り

本誌 体当り機が出たんですか?

吉川 そうなんです。矢張(やは)りこのときも朝の大空襲で、丁度朝食中だったもので、われわれは食べかけの食器をそのままにほうり出して飛び上ったんです。

半場 (吉川氏に)あの前の戦訓座談会のときだったなア、俺は坂本中尉の話した言葉をハッキリ憶(おぼ)えているが、最初の零戦21型は速力がなかったろう。B29の方がどうしても速いし、やるんだったら攻撃一度きりだと云っていた。俺はそのとき、これはきっと体当りする意味なんだなと思っていたが、矢っ張りそうだったんだなア──

本誌 21型といいますとゼロ戦ですか?

吉原 そうです、零式戦斗機です。私共(わたしども)はその21型と52型に多く乗って居りましたが──

本誌 坂本中尉という方は有名だったんですか?

吉原 坂本中尉っていう人はその前からもみんなに知られて居りましたよ。いつも髪の毛を長く伸して、帽子をその上にチョコンとのせていましてね──海兵出の秀才だったそうです。戦死後すぐ二階級特進して少佐になられましたが──

半場 最初二機を墜(おと)して三機目へ体当りをくれたというから全くすごい。清水兵長(特別乙種飛行兵)もあの時やはり体当りで戦死したなア。

吉原 そうだ、清水もあの時だ。

半場 邀撃戦でとに角漸(ようや)く蹴散(けち)らして、昼過ぎにへとへとになって帰ってきたんですよ。壕舎へ入って昼食です。すると、朝の人数の食器が余るんですね、還(かえ)って来ない者の食器ですよ──淋しかった、誰も眼を見合せるだけで何とも云わないだけに余計……

吉原 さっき話した元旦の邀撃戦は、早速に朝日新聞へのりましたが、われわれの草薙部隊はその前からも名だたる感状部隊の異名を持って居たほどです。実際、陸軍から海軍へ感状がきたというのは草薙戦斗機隊だけでしょう。

本誌 昭和二十年に入ってからですね、敗戦がもう蔽(おお)うべくもないといった時分に、皆さん最前線の人達の気持は一体どんなだったのでしょうか。多少戦局に対して懐疑的な気分といったそういうものは……

(一同異句同音に)そんなことはなかった(と四方から騒然云い出す)

前村 そんなことはなかった。全く敗戦などは考えたこともなかったから、第一われわれの基地ではいつも敵機と四つに組んで、その都度(つど)大損害を与えて撃退していましたからね。

半場 コミヤラレタことは少しはあったが、大概(たいがい)はさんざんにやっつけてやって滅茶苦茶に編隊をくずして逃げるヤツを追い討ちかけたことは随分あったが──


訪ねてゆくもよしあし 泣かれた遺族の家庭

本誌 特攻隊はどんな基地にも必らず居たのでしょうか?

吉原 そうです、艦攻、艦爆のあるところ必らずいましたよ、特攻は──。

吉川 "特攻隊"という名前は戦後のよび名なんですね。あの頃海軍では正式には、"特定搭乗員"といっていましたよ (*2)。私が二十年のたしか七月十日だと憶えていますが鹿屋基地にいった時、兵舎の前に銀河隊の遺品がずらりと並んでいるんですね。私は"彗星"でしたが、何か感無量といった感じでしたね。

前村 (半場氏に)お前は戦死した戦友の家へ見舞いにゆくか?

半場 うん、出来るだけ行くようにしているんだ。訪ねてゆくとやっぱり随分よろこばれるなあ、この前も上海のクリーク戦で、一緒に弾丸(たま)うった奴がいて、故郷が九州なもんだから一度訪ねていった。生きて還っているものとばかり思っていたら死んでいたよ──

前村 俺は戦死した戦友の家へ行ったら急におふくろさんに泣き出されて、困ったことがあったナ。思い出すらしいんだなア。帰えりに親父さんに叮寧(ていねい)にお礼を云われたが、悪いけれどあまり顔を見せないで欲しいと涙ぐんでた。だからその後は時たまお盆ぐらいに線香代を少し送って、訪ねないことにしているんだが。

本誌 いろいろあるでしょうね。お互いに生死を超越した戦友同志のことですから──


これが帝国軍人か 情を知らぬ最高府

吉原 ここで云っていいかどうか判(わか)りませんが、いまだに私の脳裡を離れない思い出があります。月日はハッキリ憶えて居ないけれど、たしか十九年の秋頃だったろうかなあ。或る日五、六人と鹿屋航空隊へ出かけたのですよ、そのとき私は需品倉庫へ行こうと思って一人で倉庫脇の道を急いでいた。するとあそこでバッタリ顔を合せた男、名前はちょっと云えませんが、見ればもと同じ分隊にいた〇〇飛曹じゃありませんか。〇〇飛曹いや、かりにFとしておきましょう。私は思わず立止まって「おい、Fじゃないか、お前こんど此方(こっち)か?」って呼びかけたんですね。ところがFの奴、おかしなことに急にソッポを向き返事もせずに兵舎内へかくれてしまったんですよ──

吉川 お前、Fと会ったのか、あそこで……

吉原 会ったんだ、たしかあれの一ト月位前だったかなア。しかしあの時は俺は人違いかとも思ったんだ。よく見れば服装は兵だし、てっきりそうだと思っていた。

本誌 本人だったんですか、そのFという人は?

吉原 そうなんですよ。実は彼は立派な特攻隊でその半年程前に鹿屋基地から南方作戦に狩り出されましてね、運の悪いことに途中故障で不時着した場所が敵地だった。忽ちとっ捕まって全員監禁されたというんですよ。(吉川氏に)九六の陸攻だろう? あれは──

吉川 そうだ、搭乗員は七名だ──

吉原 まもなく其処(そこ)は日本軍が占領したのでF達は無事救出はされましたが、いやしくも捕虜の汚名をかぶせられた以上はそのままでは済まされない。全員位階勲等は剥奪Fも海軍二等航空兵に降等されてしまったというわけです。


「さようなら」の声残して 孤影逍然飛び去った一機

本誌 ひどいもんですねえ、それでさっきの兵の服装をしていたというのがわかりましたよ。

吉原 彼等は部隊にあっても監禁こそされなかったけれど、隊員との面会も許されず会話も禁じられていたそうです。

吉川 あれからFらの飛び立った噂をきいたのは明治節の日じゃなかったかな?

吉原 そう、十一月三日の明治節だったという事を俺もきいたんだ。何処へやらされたのかは知らないが、とに角あの朝早くだったそうだ。あれだけ沢山(たくさん)ある飛行機のなかで単機出撃は、無事に帰れぬ事を約束された命令だったろうなア。見送る人もごくわずか、七人を乗せた大型九六陸攻は、誰にも知られずこっそり死ににやらされたんだ──

本誌 何処(どこ)へやらされたんでしょう?

吉原 それはわかりませんが、よい死場所を与えられた自爆行だったんですね。どんなにわびしい気持を残して飛び立って行ったか、私はFのその時の顔付きが見えるような気がします。それは出撃でもなければ進撃でもない、おそらく、去る──といった感じだったでしょうね……

吉川 (吉原氏に)Fはたしかお前とずっと同卓だったな?

吉原 そうだ、だからよけいになんだかこう何日(ママ)までもカスみたいに残ってるんだろうなア……

本誌 とすると、親元には戦死の公報か何かがいってる訳(わけ)ですか?

吉原 公報ですか、それは半年前、Fの最初の特攻出撃の時に既にもう通達されていた筈(はず)ですから……私はその後、なんとかしてせめてFの形見になるものをと気を配ってみたんですが、とうとう髪の毛一本、爪のひとかけらも、手に入れることが出来なかった──いや、これはわれわれの胸の中だけのことで、遺族には聞かせたくないですねえ……

吉川 戦争とは云え、あまりにも惨めですよ。死ぬより辛いことだなア……

前村 俺もあとでその話をきいて思わず泣いたもんだ。飛び立って行った彼等から打ってよこした電報は三度たしかに受けとった筈だ。一番目のは「快晴、敵根拠地上空に達す──」か。その次が、「われを邀(むか)え撃つ敵機なし、全弾的確に投下──」そして三番目が「われこれより突入す、天皇陛下万歳、大日本帝国万歳──」それが最後だった。

本誌 中央の最高府は何んにも云わなかったのでしょうか、何か意志表示みたいなものは?

吉原 何んにもなかったらしいですね。当然のこととして黙殺したのでしょう。

吉川 全く考えるとやり切れないなア。

吉原 人間のいのちを余りに粗末にしすぎたんだ。人命軽視もここまでゆくとバカバカしくなりますね。

本誌 いや、たいへん有りがとうございました。沁(し)み沁(じ)みしたまったく感銘深いお話で、吾々(われわれ)としましてもここに言うべき言葉を知りません。謹んで戦死された方々の御冥福を祈るばかりです。では、これで──。





  • 最終更新:2016-03-14 08:44:10

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