【特攻隊とマスコミ】読売報知新聞|昭和20年6月27日掲載

出典:1977(昭和52)年 原書房 寺井俊一編 「航空基地 都城疾風特攻振武隊」 都城特攻隊取材録


"麦秋の基地に出撃待つ紅顔の神鷲"

 今日もこの基地から幾人かの特攻隊員が麦秋の故国に訣別の翼を振りながら出撃して行った。昨日も一昨日も、そして明日もあさっても再び還らぬこの出撃は間断なく続くのである。基地の宿舎にはあとに続く隊員達が陸続と詰めかけて出撃の順番を待ち侘びてゐる。月の明るい夜など若い隊員達はよく宿舎の裏の松林で南国の冷々とした月を賞(め)でながら夜の更けるのも忘れて語り合ってゐる。

 音楽を語り詩を吟じ、月に誘はれて尺八をふき鳴らす若い隊員の心境は陣中に茶をたてた古武士の面影にも似てあくまでも淡々とした静けさである。煌々(こうこう)と冴える月光は若い人達の魂を感傷的にする。広い基地の夜空を流れる嫋々(じょうじょう) (*1)とした尺八の音は特攻隊員の心に懐かしい故国への思慕を募らせる。

 散る日を知るが故に特攻隊員の思ひは切々たるものがあった。「自分にも故郷に今年五十六歳になる母親が居ります。」明日出撃する野口少尉が木蔭を洩れて射す月光を浴びながら記者に語った。色白のどちらかといへばきゃしゃな少尉は葉隠武士の流れを汲む佐賀生れだった。「残るのはたった一人ですが、幼いころから"武士道とは死ぬことと見つけたり"と教へてくれた母ですから私が明日散ったらきっと褒(ほ)めてくれるでせう。」

 さりげなく語った野口少尉の言葉に記者は胸を衝(つ)かれる思ひがした。隊員達と幾日かを起居をともにしながら記者も特攻隊員を何か自分達とは遠い距(へだ)たりをもった人々のやうに考へてゐた。併(しか)し、やはりわれわれと同じ人の子であった。野口少尉も他の隊員と同じやうにこの宿舎に来ると同時に突込みの角度とか沖縄の気象とか敵艦船上に散り砕ける一事のみを考へてゐる人としか見えなかったが、その若い連中に矢張り老母を思ふ断ち難い肉親の情が小さな焔(ほのお)を立て胸の一隅に燃えてゐたのだった。

 小さな焔はともすれば火勢を増して胸を焦したこともあった。その度に野口少尉は必死になって焔を振り消した。「人間のよわさといひますか最初は苦しみました。併(しか)し戦ひの苛烈さが自分のこの弱さ、苦しみを救ってくれました。個人の私情に囚われるやうな生ぬるい戦争ではないのですから──」

 付近の叢(くさむら)にすだく虫の音に耳を傾けながら、ぽつりぽつりと切って語る航空士官学校出身の若い人々の体温が肩を並べて腰を下ろしてゐる記者の素肌に感じられる思ひがした。この人達も矢張り自分と同じ人間である。自分の周囲にゐる幾人かの友人達と較べて少しの変ったところもない青年である。飛行服を脱いでかうして話合ってをれば相手が神でもなければ特別な世界の人でもない。矢張り月を眺めては郷愁に駆られもし肉親への想ひを馳せる多感な青年であった。

 「優しい母でした。一人息子の自分を唯一の頼りに随分苦労もした母ですが、でも一ぺんにウンと大きな孝行が出来ますから。」野口少尉は白い歯を見せてニッコリ笑った。平凡なただ普通の人間である少尉と自分の距(へだ)たりが考へさせられた。徹しきったといへばそれまでであるが、それにしても余りに淡々とした静かな表情である。

 「戦争の苛烈さを本当に見つめた日本人だったら誰でも特攻精神を把握するでせう。私達がかうして何か特別な人間のやうに扱はれるのもまだ一億が本当に戦争の酷(きび)しさを感じてゐないからではないでせうか。元寇の昔には特攻隊が生れなかったといふことは元軍を邀(むか)へた当時の日本国民が一人残らず特攻精神に徹してゐたからではないでせうか。だからこそあの大国難も突破出来たのでせう。自分はの戦ひにも特攻隊が必ずや特別視されなくなる時が来ると信じてをります。その時こそ自分達の死に花が咲く時ですよ。」

 特攻隊員は純真な紅顔の若人ばかりである。基地の人々が打ち振る小旗の嵐にも処女の如く顔を染めてはじらひながら出撃して行く神々であった。

  • 最終更新:2018-08-14 18:38:45

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