【マリアナ沖海戦】日米戦力比較・第一機動艦隊編成艦一覧
【米軍】マリアナ進攻部隊(中将 R・A・スプルアンス)
第58機動部隊 | |||||
隊 | 第1群 | 第2群 | 第3群 | 第4群 | 戦列第7群 |
指揮官 | 少将 J・J・クラーク |
少将 A・E・モンゴメリ |
少将 J・W・リーヴス |
少将 W・K・ハリル |
中将 W・A・リー |
兵 力 | 空母2 ホーネット ヨークタウン 軽空母2 ベローウッド バターン 重巡3 ボストン ボルチモア キャンベラ 防空巡1 オークランド 駆逐艦14 |
空母2 バンカーヒル ワスプ 軽空母2 モンテレ キャボット 軽巡3 サンタフェ モビール ビロキシ 駆逐艦12 |
空母2 エンタープライズ レキシントン 軽空母2 サンジャーシント プリンストン 重巡1 インディアナポリス 軽巡3 モンペリエ クリーグランド バーミンガム 駆逐艦13 |
空母1 エセックス 軽空母2 ラングレー カウペンス 軽巡3 ヴィンセンス ヒューストン マイアミ 駆逐艦11 |
戦艦7 ワシントン ノースカロライナ アイオワ ニュージャージー インディアナ サウスダコタ アラバマ 重巡4 ウィチタ ミネアポリス ニューオリンズ サンフランシスコ 駆逐艦14 |
隻 数 | 22 | 19 | 21 | 17 | 25 |
フーバー少将 | 中部太平洋前進基地航空部隊 | (基地機879機) 内訳: 陸軍 269機 海軍 258機 海兵隊 352機 |
潜水艦 | 約10隻 |
計 | ||
空母 | 7 | 艦上機 475機 ▲飛行機損失 艦上機 126機 |
軽空母 | 8 | |
戦艦 | 7 | |
重巡洋艦 | 8 | |
軽巡洋艦 | 9 | |
防空巡洋艦 | 1 | |
駆逐艦 | 64 | |
合 計 | 104 |
【日本軍】第一機動艦隊(中将 小沢治三郎)
艦 隊 | 第三艦隊 | 第二艦隊 | 附 属 | |
部 隊 | 本 隊 | 前 衛 | 補給部隊 | |
甲部隊 | 乙部隊 | 第三航空戦隊 第一戦隊 第三戦隊 第四戦隊 第七戦隊 第二水雷部隊 |
- | |
第一航空戦隊 第五戦隊 第10部隊 |
第二航空戦隊 | |||
指揮官 | 中将 小沢治三郎 |
少将 城島高次 |
中将 栗田健男 |
- |
兵 力 | 空母3 大鳳(たいほう) 翔鶴(しょうかく) 瑞鶴(ずいかく) 重巡2 妙高(みょうこう) 羽黒(はぐろ) 軽巡1 矢矧(やはぎ) 駆逐艦10 |
改装空母1 龍鳳(りゅうほう) 補空母2 隼鷹(じゅんよう) 飛鷹(ひよう) 駆逐艦8 |
改装空母3 千歳(ちとせ) 千代田(ちよだ) 瑞鳳(ずいほう) 戦艦3 大和(やまと) 武蔵(むさし) 長門(ながと) 戦艦2 金剛(こんごう) 榛名(はるな) 重巡4 愛宕(あたご) 高雄(たかお) 摩耶(まや) 鳥海(ちょうかい) 重巡4 熊野(くまの) 鈴谷(すずや) 利根(とね) 筑摩(ちくま) 軽巡1 能代(のしろ) 駆逐艦8 |
駆逐艦6 タンカー6 交洋丸 清洋丸 速吸 |
隻 数 | 16 | 12 | 25 | 12 |
計 | |||
空母 | 3 | 7 | 艦上機 328機 ▲飛行機損失 艦上機 293機/陸上機 137機/合計 430機 |
改装空母 | 4 | ||
補助空母 | 2 | ||
戦艦 | 5 | ||
重巡洋艦 | 11 | ||
軽巡洋艦 | 2 | ||
駆逐艦 | 32 | ||
タンカー | 6 | ||
合 計 | 65 |
第一航空艦隊(角田中将) | 基地機 250機 |
潜水艦部隊 | 15隻 |
第一機動艦隊編成艦一覧
第二艦隊(長官 栗田健男中将)
第一戦隊
【戦艦 大和(やまと)】
昭和12年度(1937)計画、通称マル3計画 (*1)の仮称艦名第1号艦として呉工廠造船船渠内で建造された。
写真は1941(昭和16)年10月26日または30日撮影の続航運転公試中の大和。基準速力(16ノット)の続航公試時の成績は69,124トン、17,430軸馬力、15.91ノット。
【戦艦 武蔵(むさし)】
大和型2番艦。マル3計画の第2号艦。大和と同じく軍機艦として三菱長崎造船所で機密建造された。備砲、甲鈑は呉工廠製造。わが国民間建造艦として最終最大の大艦であり、船台より進水したわが国最大艦でもある。
写真は1944(昭和19)年10月22日、0830~0900(午前8時30分~同9時00分)ブルネーを出撃中の武蔵。これが最後の出撃となった。駆逐艦「磯風」艦橋より白石東平大尉撮影。
【戦艦 長門(ながと)】
1920(大正9)年呉工廠で完成。本艦と同型艦「陸奥(むつ)」の名は戦前の日本海軍の象徴であり、また日本の国勢の代表でもあった。
写真は1920(大正9)年10月27日、宿毛湾外での終末全力運転中の長門。この写真は長門引渡しの当日(1920年11月25日)に海軍省より全世界に公表された。1931(昭和6)年度聯合艦隊旗艦。
改装後の「長門」。1934(昭和9)年呉工廠で改装に着手、1936(昭和11)年初頭完成。写真は呉を出港直前の長門。
第三戦隊
【戦艦 金剛(こんごう)】
大東亜戦争に従軍した12隻のわが戦艦中、最旧かつ唯一の外国建造艦。同型艦「比叡(ひえい)」「榛名(はるな)」「霧島(きりしま)」とともに高速戦艦(30ノット)としてもっとも活躍した。
写真は1913(大正2)年5月8日、イギリスクライド湾における全力公試時の金剛 (*2)。
第二次改装を終えた金剛。1935(昭和10)年より横須賀工廠で改装に着手、1937(昭和12)年初頭に完成。写真は1937(昭和12)年1月13日、横須賀軍港第2区沖出し中の金剛。
【戦艦 榛名(はるな)】
金剛型の第3艦。横須賀で建造の「比叡(ひえい)」につづき、第4艦「霧島」(三菱長崎)と平行して建造。1915(大正4)年に神戸川崎造船所で竣工した。
写真は新造艦時代の榛名。全力公試運転中。1915(大正4)年1月23日撮影と推定されている。
高速戦艦に改装された榛名。1934(昭和9)年9月、改装に着手。写真は改装工事が終了して運転公試中のもの。1934(昭和9)年7月、宿毛湾外での撮影。
第四戦隊
・一等巡洋艦は現在の重巡洋艦です。 |
【一等巡洋艦 愛宕(あたご)】
高雄型第2艦。「赤城」に次ぎ呉工廠造船船渠内で建造。本艦は1938(昭和13)年~1939(昭和14)年に改装。
写真は1939(昭和14)年8月25日、館山沖での全力運転公試(逆風航走)中の愛宕。
【一等巡洋艦 高雄(たかお)】
妙高型を改良した高雄型の第1艦高雄は、横須賀工廠で妙高の進水直後に、同船台で起工。同型艦「愛宕」「摩耶」「鳥海」4艦とも1932(昭和7)年前期完成。この時、重巡洋艦の日米隻数は12対8、上海事変時の切迫した国際危機をよく乗り切った。
写真は1939(昭和14)年7月14日、改装全力運転公試中の高雄。
【一等巡洋艦 摩耶(まや)】
1932(昭和7)年6月、神戸川崎造船所で完成。「鳥海」とともに未改装のまま大東亜戦争に参加した。
写真は1935(昭和10)年、夏大演習中に別府湾に休養入泊した第二艦隊(大演習青軍部隊)の摩耶。手前から「鳥海」「高雄」「摩耶」「愛宕」(以上第四戦隊)、「青葉」「衣笠」「古鷹(ふるたか)」(以上第六戦隊)、「由良」(第二潜水戦隊旗艦)、「長鯨」(同母艦)、「神通」(第二水雷戦隊旗艦)。
【一等巡洋艦 鳥海(ちょうかい)】
1932(昭和7)年6月、三菱長崎造船所で完成。
写真は1938(昭和13)年6月18日、横須賀で撮影。前期訓練を終え、母港で休養整備成り、後期訓練出港の準備成った姿。
第五戦隊
【一等巡洋艦 妙高(みょうこう)】
ワシントン条約下のいわゆる1万トン巡洋艦の第1艦。同型艦「那智(なち)」「足柄(あしがら)」「羽黒(はぐろ)」とともに、日本の巡洋艦の精鋭として昭和初期、世界の注目を集めた。1927(昭和2)年4月16日、横須賀工廠で快晴下の命名式には昭和天皇初の行幸を賜った。拝観者は10万人余。
写真は1941(昭和16)年3月31日、大改装後、宿毛湾外で全力運転公試中の妙高。
【一等巡洋艦 羽黒(はぐろ)】
1929(昭和4)年、三菱長崎造船所で完成。妙高型第4艦。1939年、改装。
写真は上掲の「妙高)と同時に撮影されたもの。前甲板には一群の見学者が見える。
第七戦隊
【一等巡洋艦 熊野(くまの)】
1937(昭和12)年、神戸川崎造船所で竣工。最上型第4艦。最上型は建造途中、または建造後、大きな改造を必要としたが、1937(昭和12)年、4艦がそろった時、すべての不備欠陥は解消され、わが巡洋艦のうち、もっとも高性能、有力な艦となった。
写真は1939(昭和14)年5月3日、"打ち方始め"直前の熊野。昭和14年度第七戦隊第一類戦技(主砲射撃)当日、土佐沖にて撮影。
【一等巡洋艦 鈴谷(すずや)】
最上型第3艦。1937(昭和12)年、横須賀工廠で完成。本艦命名式(進水)は昭和天皇行幸下の最後のものとなった。
写真は1935(昭和10)年11月、館山沖を全力公試中の鈴谷。
【一等巡洋艦 利根(とね)】
1938(昭和13)年11月20日、長崎造船所で完成。わが海軍最終、最高の傑作重巡洋艦である。軍縮条約無効下に進水する見通しが明らかとなったため、当初より20㎝連装砲塔を搭載。砲塔1基を減らし、4基全部を前部に集めたのは巡洋艦として世界でも異彩であった。
写真は1940(昭和15)年、泊地にいこう利根。利根型同型艦「筑摩」より撮影された。
【一等巡洋艦 筑摩(ちくま)】
1939(昭和14)年5月20日、長崎造船所で完成。
写真は1942(昭和17)年10月26日、南太平洋海戦で奮戦中の筑摩。米機の爆弾が本艦艦橋に命中し、火災を生じている。米軍撮影。
第二水雷戦隊
・二等巡洋艦は現在の軽巡洋艦です。 |
【二等巡洋艦 能代(のしろ)】
1943(昭和18)年6月30日、横須賀工廠で完成。阿賀野型第2艦。マル4計画 (*3)で10余年ぶりに建造された二等巡洋艦。水雷戦隊旗艦を目的にした。
写真は1943(昭和18)年6月、東京湾外で終末全力運転時に撮影されたもの。
能代のほか、第二十四、第二十七、第三十一、第三十二駆逐艦隊が参加。
第三艦隊(長官 小沢中将兼務)
第一航空戦隊
【航空母艦 大鳳(たいほう)】
マル4計画で建造された重防禦大型空母。1944(昭和19)年3月7日、川崎重工業で完成。第二次世界大戦の作戦に従事した世界最大の空母。
写真は1944(昭和19)年5月、タウイタウイ泊地に待機中の大鳳。写真撮影時、大鳳の遠方に航空母艦「翔鶴(しょうかく)」、右遠方に戦艦「長門」、左遠方に戦艦「大和」がいた。
【航空母艦 瑞鶴(ずいかく)】
1941(昭和16)年9月25日、神戸川崎造船所で竣工。翔鶴型2番艦。全空母中、大東亜戦争でもっとも活躍した。
写真は1941(昭和16)年9月25日、神戸湾内で引渡し式の当日撮影。
【航空母艦 翔鶴(しょうかく)】
1941(昭和16)年8月8日、横須賀工廠で完成。マル3計画で建造された大型空母。同型艦「瑞鶴(ずいかく)」とともに、わが主力空母であった。
写真は1941(昭和16)年8月23日、横須賀軍港で撮影。本艦と「瑞鶴(ずいかく)」の完成は、日米国交の悪化(いわゆる「ハル・ノート」。近衛-ルーズベルト会談前の日米交渉においてアメリカが対日経済封鎖解除の条件として、わが国が大陸に展開していた「防共駐兵」の撤収を要求、わが国はこの一点だけは絶対に譲歩できなかったため交渉は決裂し、太平洋戦争開戦に至った。この「防共駐兵撤収」は戦後「中国大陸からの日本軍撤兵」とあたかも日本が中国を侵略したかのように歪曲されている。実際に日本が「侵略」したものは蒋介石が「人民に告ぐる書」で述べているようにアジアにおける米欧国際金融資本の権益と侵略拠点であった。)に対処して繰り上げられた。
第二航空戦隊
【航空母艦 隼鷹(じゅんよう)】
1942(昭和17)年5月3日、長崎造船所で完成。未完成だった商船橿原丸(日本郵船)を海軍が買収、空母に改造したもの。速力と防禦力を増強したが中型空母より劣った。飛行機関係はだいたい蒼龍級と同程度の能力。
写真は終戦時の隼鷹。1945(昭和20)年11月1日、佐世保軍港エビス湾にて撮影。
【航空母艦 飛鷹(ひよう)】
1942(昭和17)年7月31日、川崎造船所で完成。「隼鷹」に同じく、未完成商船出雲丸(日本郵船)を空母に改造したもの。
写真撮影時は不明。
【航空母艦 龍鳳(りゅうほう)】
1942(昭和17)年11月28日、横須賀工廠で完成。潜水母艦「大鯨(たいげい)」を空母に改造したもの。
写真は1942(昭和17)年11月、東京湾で公試運転中の龍鳳。小型ながら好成績の空母であった。
第三航空戦隊
【水上機母艦 千代田】
1938(昭和13)年12月15日、呉工廠にて完成。
写真は1938(昭和13)年11月10日、佐田岬沖を全力航走中の千代田。
【水上機母艦 千歳】
1938(昭和13)年7月25日、呉工廠にて完成。1940(昭和15)年、甲標的母艦に改造(呉)、1943(昭和18)年、空母に改造。
写真は1938(昭和13)年7月18日、佐田岬沖(伊予灘)を全力公試中の千歳。
【航空母艦 瑞鳳(ずいほう)】
1940(昭和15)年12月27日、横須賀工廠で完成。小型空母に改造できるように計画された高速給油艦「高崎(たかさき)」が、進水後に潜水母艦として完成させることとなったが、1939(昭和14)年末、空母として完成させることになったもの。
写真は、1940(昭和15)年12月17日、館山沖を全力航走中の瑞鳳。
第十戦隊
【二等巡洋艦 矢矧(やはぎ)】
1943(昭和18)年12月29日、佐世保海軍工廠で完成。
写真は完成引渡しの10日前、1943(昭和18)年12月19日、佐世保出港時に撮影されたもの。
【出典】
・1983(昭和58)年 講談社 千早正隆編 「写真図説 帝国連合艦隊-日本海軍100年史-」
・1970(昭和45)年 株式会社ベストセラーズ 福井静夫 「写真集 日本の軍艦 ありし日のわが海軍艦艇」
- 【*1】 正式名称は第三次海軍軍備補充計画。
- 【*2】 韓国は軍艦旗(旭日旗)を「戦犯旗」などと呼んで問題視するが、韓国が国民に教育している「日帝の朝鮮民族抹殺政策」を当時の日本が実際に施行していたならば、費用対効果を重視する日本人はこれらの軍艦を朝鮮半島に接岸して艦砲射撃で三日とかからずして朝鮮民族を抹殺したはずである。ここに当時の日本の国力と韓国が主張する「日帝の民族抹殺政策」の矛盾が生じる。韓国は実際にはなかった「日帝の朝鮮民族抹殺政策」から朝鮮民族が生き延びた理由として、日本がまるで日清戦争のような地上戦(青山里の戦闘)を朝鮮民族にいどみ、強制連行や強制徴用で「朝鮮民族抹殺をたくらんだ」ということにしている。
- 【*3】 正式名称は第四次海軍軍備充実計画。
- 最終更新:2018-03-02 05:51:10