死の監視兵

戦前、のちの連合国は日本に対し、数々の経済圧迫を加えていました。

シナは1908(明治41)年から排日・排日貨運動を開始し、支那事変勃発するやアメリカでは共産党(米国労働総同盟などの団体)主導で大規模な日本製品ボイコット運動が行われました。

そののち、1941(昭和16)年7月26日にはアメリカが在米日本資産凍結令を公布(翌日発効)、同年8月1日アメリカは対日石油輸出を全面的に停止しました。

このほかにも米欧は日本製品に不当課税を課すなどして、日本が戦争に踏み切るように仕組んでいました。

一方、日本国内でも近衛内閣で上限なしの臨時軍事費が承認され、帝国陸海軍は武器開発、生産に明け暮れるようになりました。そのため、日本国内では紙幣はあるが物資がないという、極端な物資枯渇におちいってしまいました。

まさに地獄です。


【攻撃の合間にドーナツとコーヒーを楽しむ余裕の米軍】
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飢餓に苦しむようになったのは日本国民だけでなく、最前線の日本軍も同じでした。特に戦場の場合は敵によって補給線が絶たれれば凄惨な飢餓地獄となってしまうのです。

日本敗戦の原因として、出征した方々は異口同音に「物量に負けた」と言います。

それもそのはずで、連合国というのは国際金融資本(=共産党)つながりの国家ばかりです。

敗戦、物資不足という国民の不満を利用して共産党が革命を起こす

というのはロシア革命、ドイツ革命でも見られたお決まりのパターンです。

日本の極左野党が安保法制、憲法9条改正に反対するのは平和主義者なのではなく、日本敗戦革命を企図しているからです。


【髪をこがすような暑さの中、ニューギニア戦線の高射砲勇士】
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1942(昭和17)年、ニューギニア戦線では飢餓におちいり、空を凝視したまま死んでいた監視兵がいたそうです。




出典:1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第七号所収 元軍曹 的場忠夫 「死の監視兵」


 昭和十七年十一月、東部ニューギニヤのブナ戦線は、連日、米濠軍の猛烈な包囲攻撃を受けていた。

 ジャングル内に設けた監視所には、上空監視の兵が、絶えず戦機の攻撃を見張っていた。制空権を失った日本軍には、増援部隊の到着も望めず、食糧弾薬さえ欠乏して、まさに島流しの状態であった。

 食糧が一日一合になった。だのに、敵の攻撃は圧倒的に盛んになって、兵隊はばたばたと倒れていった。

 ジャングルの監視兵も、飢えと疲労で、その任務を果すことさえ並大抵のことではなかった。事故者が溢れ、二時間交代が、三時間交代になった。

 そして十八年の正月を迎えた頃には、一週間の断食が続いた。数か所あった監視所も、半分に減らされた。

 私は、この戦線の下士官として、ジャングル内の監視所を日に一回廻(まわ)って歩いた。

 と、第三監視所まで来た時だ。樹上の監視兵が、遠くで見ていた時の格好から、少しも動かず、凝(じっ)と天を仰いでいるではないか。まるで呼吸を忘れた人間のようだった。

 監視兵は天を仰いで立ったまま死んでいたのだ。後で分った事だが、交代の兵が途中で倒れ、死んだまま交代を待って一日中立っていたわけだ。


【写真出典】
・1996(平成8)年 カミカゼ刊行委員会 「写真集カミカゼ 陸・海軍特別攻撃隊」

【資料出典】
・1953(昭和28)年 中央公論社 重光葵 「昭和之動乱」上巻
・1997(平成9)年 展転社 名越二荒之助編 「世界から見た大東亜戦争」





  • 最終更新:2015-06-05 02:03:13

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