テレ東「池上彰の『特攻』とはなんだったのか」のデマをあばく(2017年8月13日放送)|MC編

池上氏の"特攻"解説におけるデマ

池上氏「特攻はレイテ沖海戦から始まった」

【事実は…】
・体当りは旅順口閉塞作戦のときからあった。日本の敗色が濃くなってきたから特攻を編み出したわけではない。

↓↓↓防衛省防衛研究所「特攻は古くからめずらしいことではない」↓↓↓
第二節 全面的特攻化戦備

  第一項 特攻の起り

特攻(不帰必殺必死の攻撃法)的理念は、日本陸海軍に於ては相当古くから珍しいことではない、彼(か)の旅順口閉塞、爆弾三勇士、真珠湾の特殊潜航艇の如きは何れも特攻的性格に類するものと見られよう、

【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C16120668300:1951(昭和26)年 防衛省防衛研究所「第2節 全面的特攻化戦備 第1項 特攻の起り」(1コマ目)

↓↓↓元海軍航空艦隊参謀の手記から「特攻以前の特攻」↓↓↓
搭乗員の合言葉

 戦局が日毎に重大になるにおよんで、昭和十九年十月二十日、第一航空艦隊司令長官大西滝次郎中将は志願者のうちより二十四名を選抜して、体当り攻撃隊を編成して、神風特別攻撃隊と命名された。

 その第一陣は、栗田艦隊のレイテ湾突入に呼応して、十月二十五日に、敵空母の飛行甲板に炸裂したのであった。

 この体当り攻撃法は大西司令長官の発案による独創的のものであったのであろうか。これより前に、このような攻撃法は実施されなかったであろうか。そもそも大東亜戦争は、戦っても戦わなくても、亡国を免れえないかも知れない瀬戸際にまで追い詰められて、立ち上がった戦争であった。従ってわれわれ将兵の覚悟の程も又格別であった。この一死奉公の精神が凝結して開戦劈頭、特殊潜航艇の真珠湾攻撃となって現れた。この岩佐中佐以下九軍神の壮挙は暫(しばら)くおき、私はここに大東亜戦争中に現われた飛行関係のみの事実を拾って、この答えにしたいと思う。

 昭和十六年十二月八日、ハワイ空襲をもって、日本の運命を決した開戦の幕は切って落され、午前八時には淵田美津雄中佐の率いる空襲部隊は真珠湾上空を圧していた。この時アメリカ艦隊を爆撃中のわが艦上爆撃機の一機は、敵の対空砲をうけ、遂に機体は燃えだした。

 艦爆は、煙の尾を曳(ひ)き、火を噴きながら、フォード島の西側に碇泊している水上機母艦カーティス(AV-4)に向って、急降下していった。

 艦爆はカーティスの後部にある水上機を吊り揚げる大きなクレインに触れ、ついで、後甲板に突入した。瞬時にして、艦の後半は火の海となり、第三砲塔は使用できなくなった。


 上空で、この火災を認め、戦友の体当りを目撃した僚機(りょうき:隊長機に従っていく兵の機)は、つぎつぎにカーティスに急降下爆を加えていった。

 第一弾は、後部の撃留浮標(原文ママ)に命中、第二弾は近弾、第三弾は、遠弾で共に命中せず、第四弾は、左舷のボート甲板に命中し、主装甲甲板を貫徹して、爆発した。数名の死者と五十名以上の負傷者を出して、船の損害はますます大きくなっていた。

 同じく真珠湾攻撃に於て、第二波攻撃隊の第三制空隊長飯田房太大尉(二階級進級、中佐)は敵弾のために、愛機の燃料タンクを裂かれ、ガソリンが洩れて、もはや母艦に帰るには充分な燃料のないことを知ると、列機を集めて、これを母艦に帰える針路に誘導した後、部下に訣別して、単機戦場に引き返えし、格納庫に体当りした。

 詳細は不明であるが、マレー沖海戦に於て、わが航空部隊の精鋭が英極東艦隊の主力プリンス・オブ・ウエールズおよびレパルスを撃沈した時、わが一式陸上攻撃機一機が、プリンス・オブ・ウエールズに体当りしたことを米誌は伝えている。

 昭和十七年三月、ジャバ上陸作戦のとき、輸送艦団の上空直衛をしていた陸軍機は、艦団に突進してくる敵水雷艇に体当りして艦団を身をもって守った。

 昭和十七年六月、ミドウェー海戦に於ては、友永丈市大尉(二階級進級中佐)は赤城、加賀、蒼竜相ついで猛火に包まれて、飛竜だけが孤軍奮闘している時に、戦機を失うことをおそれ、燃料タンクの破れたままの飛行機に、片道の燃料を搭載させ、莞爾として山口司令官、加来艦長に別れを告げて、敵空母に「止め」の攻撃に向った。

アメリカ側の資料には、友永大尉機の奮戦を明かにするものはないが、大尉の率いる雷撃隊が損害をかえりみずに肉迫して、その魚雷二本が、ヨークタウン(CV-5)に命中したことは、敵側も認めている。この片道攻撃は、すでに離艦の時から生還を期さない十中十死の特攻攻撃であった。

 昭和十七年十月二十六日、南太平洋海戦では、わが攻撃機一機が、燃えながら、空母ホーネット(CV-8)に体当りした。

 アンダマン島附近では、陸軍機が英船に突入している。

 昭和十八年十月十九日、マリアナ沖海戦の初期、戦場に向って進撃する空母大鳳から、艦爆(艦上爆撃機)に搭乗して発艦した航空兵曹長小松咲雄は、大鳳に向って迫る魚雷を発見し、とっさに魚雷に向って体当りを決行して、身を捨てて大切な母艦を護ろうとした。

 昭和十九年十月十四日の午後、台湾沖海戦に於ては、敵弾をうけて火達磨(ひだるま)になったわが雷撃機は、巡洋艦レノ(CL-96)に突入した。体当りをくった敵艦の損害は大きく、戦列を離れて、修理の為に、ウルシーに後退していった。

 昭和十九年十月十五日、比島(フィリピン)クラーク・フィールド基地に於て、指揮をとっていた第二十六航空戦隊司令官有馬正文少将は、戦勢を判断し、一機一艦を屠(ほふ)る体当り戦法によって、戦勢挽回の機をつくろうと、自(みず)から飛行機に搭乗して、出撃したのであったが、敵側の資料では、当日敵の被害艦は出ていない。

ある米誌には、「日本側は、有馬少将は空母に体当りしたと宣伝しているが、実際は海中に墜落したのだ」と書いている。群がる敵戦闘機の攻撃か、或(あるい)は筆舌につくしえないような熾烈な敵の対空砲火の為か、雄図空しく、接敵中に万斛(ばんこく:はなはだ多い分量)の恨をのんで散華されたことであろう。

 有馬司令官は、私の海軍大学校時代の恩師であって、今、私は教官の温顔を思い浮べ、しばし筆をおいて、合掌する。

 食うか食われるかの戦斗のさなかに、身は傷つき、飛行機も破損して、最寄の基地まで帰れなくなった場合、あるいは飛行機が火を発して、焔(ほのお)が飛行服を焦がし、後数分の余命も疑わしい急迫した時に、敵を目前に見ながらあっさりと 「わが事終われり」 と手を挙げる者は、一人もないといってよかろう。誰れでもが、最後の努力を結集して、少しでも多くの敵を斃(たお)し、少しでも多く敵に損害を加えて、使命を果さんものと、目標に向って一途(いちず)に突撃していくのが、戦かう者の心理である。

 「最後は敵艦に体当り」という言葉は、私の知る限りに於て、日本海軍搭乗員(航空機パイロット)の合言葉であった。実に怖(おそ)ろしい執念であるが、これが刃を交している時の戦かう者の闘魂なのである。

【出典】1960(昭和35)年 自由アジア社 元海軍航空艦隊参謀 安延多計夫 
    「南溟の果てに-神風特別攻撃隊かく戦えり」 このままにしてよいのか

池上氏「桜花は一個も当らなかった」

【事実は…】
・1945(昭和20)年4月12日に出撃した第三神風桜花神雷部隊は土肥三郎中尉機(桜花)は米駆逐艦マンナート・L・エーブルに見事命中、同艦を沈没させている。この戦果はアメリカ側でも確認されている。

・その他の桜花戦果についてはアメリカ側資料によれば駆逐艦スタンリーが桜花至近で損害甚大、掃海駆逐艦ジェファースも桜花至近で損害大とある。

↓↓↓第三神風桜花神雷部隊をふくむ特攻隊の大戦果↓↓↓
・駆逐艦マンナート・L・エーブル桜花一機命中及び特攻機一機命中沈没
・上陸支援艇三三号 一機命中 沈没
・戦艦アイダホ 一機命中 損害大
・戦艦テネシー 一機命中 損害大
・駆逐艦スタンリー 桜花至近 損害甚大
・駆逐艦バーディ 一機命中 損害大
・駆逐艦ゼェラース 一機命中 損害大
・駆逐艦キャッシン・ヤング 一機命中 損害大
・護衛駆逐艦リッドル 一機至近 損害小
・護衛駆逐艦ロール 一機至近 損害大
・護衛駆逐艦ウオールター・C・ワン 一機命中 損害大
・護衛駆逐艦ホワイトハースト 一機命中 損害大
・掃海駆逐艦ジェファース 桜花至近 損害大
・敷設駆逐艦 リンゼイ 一機命中 損害大
・掃海艇グラディエーター 損傷 被害不明

【資料画像】
神風特別攻撃隊戦果一覧表説明.jpg

第三桜特攻隊_2.jpg


英霊は池上氏に祟ってよいと思います。そもそも池上氏は大日本帝国の敵だった共産党側の人間ですし。

池上氏「特攻は必ず死ぬことが前提だった」

【事実は…】
・機の不具合などで特攻機が基地に帰還することはよくあった。

・1945(昭和20)年に入ってから中央は本土決戦に備えて特攻要員を温存し消耗を避けた。

↓↓↓神雷部隊桜花分隊員「桜花がうまく落下せず攻撃を断念、鹿屋に帰還した」↓↓↓
無念敵影を見ず

 私は四月二十八日の攻撃にも参加した。沖縄に近い場所で、雲の切れ目の真下から猛烈に撃ってきたのが敵の戦艦であった。

 私はすぎに桜花に乗移り「落せ」と信号したが、どうしても落ちない。辷(すべ)らしても落ちない。猛烈なGをかけても落ちない。桜花を下げている部分の調子が悪くてどうしても落ちないのである。

 私は桜花をゆすぶったりして、あばれてみたが、それでも落ちず、遂に基地に帰った。

【出典】1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第四号所収
    神雷部隊桜花分隊 元海軍上飛曹 渡辺正男「戦慄の人間爆弾『神雷』」

↓↓↓陸軍特攻隊員「昭和20年に入ってからは中央は特攻要員を温存した」↓↓↓
血の『決と号作戦』

本誌 最後の特攻『決と号作戦』というわけですね。その当時の模様をひとつ──。

  われわれが『決と号』の命令を受けた当時は、もうすべてがほんとに末期的現象を呈していましたから……

礒谷 もう勝てないかも知れないという感じが強かったですね。勝てなければ自分達も生きて還れない、とに角習っただけのことを力一杯ブッつけて死のう、そんな気持でした。それで自分達の責任が果せるんならそうしようと……。

臼田 昭和二十年に入ってからは、もはや一機対一機の対戦闘ではなくなっていましたね。いわば連合戦闘といったような…特攻要員を出来るだけ温存し、消耗を避けて本土の決戦に備えようという中央の意図がハッキリ出てきたようでした。

【出典】1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第七号所収
    座談会「特別操縦見習士官第二期 炎の闘魂 学鷲血戦史」

↓↓↓参謀本部|軍令部「日本本土決戦に備え航空兵力及特攻兵力は優先整備す」↓↓↓
第二項 全面的特攻化戦備と本土決戦防備準備

一方一九四五年二月に入り全比島の大勢既に決し、更に二月下旬難攻不落を誇った硫黄島亦(また)激戦の末攻略せられたばかりでなく、日本内地に対する大規模空襲の兆、日に明白となり、従って我々としては戦備の重点を航空兵力及び特攻兵器に局限すると共に、日本本土決戦の防備態勢を完備せねばならぬことになった。斯くて一九四五年二月以降日本海軍の戦備は一方に於て疎開竝(ならび)に防空作業を強化し極力生産力を維持しつつ他方全面的特攻化戦備に移行したのである、又此の実行は陸軍との協議連絡を密にして互に採長捕短、相互協同戦備の遂行を期することとなったのは特筆に価する所であった。その状況は同年四月一日附の陸海軍両統帥の申合わせに克(よ)く表現されている、即ち次の通りである。

   昭和二十年度前期陸海軍戦備に関する申合
            参謀本部
            軍令部

  昭和二十年四月一日
            参謀次長
            軍令部次長
 第一、要綱

昭和二十年度前期陸海軍戦備は左の要綱に依り之(これ)を整備す

一、航空兵力及特攻兵力は優先整備す
  陸軍地上兵備(新設四十箇師団を含む作戦兵備)及海軍兵備(航空兵力及特攻兵力を除く)中本土邀撃決戦期に戦力発揮を期待し得るものは右に準じ急速整備す

  海上交通防衛戦備は最少限度に止め其の他の戦備に就ては国力を勘案し重要戦備に支障なき範囲に於て之を整備す

二、陸海軍戦備は協力して之を行ふ如く努力す

【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C16120668400:1945(昭和20)年 参謀本部|軍令部|参謀次長|軍令部次長「第2節第2項 全面的特攻化戦備と本土決戦防衛準備」(2コマ目)

池上氏「大西中将が特攻は統率の外道と言った」

【事実は…】
・「統率の外道」とは"統率"の常道からはずれているという意味。大西中将は「作戦指導上まずい」という意味で「外道」という言葉を使ったにすぎない。

↓↓↓防衛庁防衛研修所戦史室「統帥の常道とは」↓↓↓
特攻戦法の出現

 しかし、もとより本戦法の内面には各種の苦悩があった。特攻隊員の決定、処遇、特に攻撃の発令は、指揮官に深刻な精神的重圧を与え、統帥の明朗、発剌、柔軟性を失わせる傾向があり、また戦果の確認が困難で過大な報告となる危険もあった。それは明らかに統帥の常道ではなかったが、比島失陥後のわが軍は最も効果的と認められる唯一の本戦法に、いよいよ期待をかけ、その規模を拡大したのである。

【出典】1971(昭和46)年 朝雲新聞社 防衛庁防衛研修所戦史室「戦史叢書 比島捷号陸軍航空作戦」むすび

↓↓↓防衛省防衛研究所「統率の外道とは統率の常道からはずれた」という意味↓↓↓
第二節 全面的特攻化戦備
  第一項 特攻の起り

然(しか)し斯かる戦斗行動は統率上の邪道なるに鑑み、従来幾多の決死隊出願者があったに拘(かか)わらず、統率者としては攻撃後の生還収容の万途を講じ得る場合(仮令(たとえ)具体的には希望的手段に過ぎないにしろ)に限り此の決死行を計画し命令したのであった。

アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C16120668300:1951(昭和26)年 防衛省防衛研究所「第2節 全面的特攻化戦備 第1項 特攻の起り」(1コマ目)

↓↓↓元海軍中佐「大西中将は作戦指導がまずい、と言った」↓↓↓
「統率の外道だよ」

 私は大西長官と二人で、司令部前庭の防空援体に入った。しばらくすると長官は、

「先任参謀」と言った。「城英一郎大佐が、たぶん、ラバウルから帰ってきてからだったかなあ、体当たりでなくては駄目だと思うから、とにかく私を隊長として実行にあたらせてくれ、と再三言って来たことがある。内地にいたときにはとうていやる気になれなかったが、ここに着任して、こうまでやられているのをみると、自分にもやっとこれをやる決心がついたよ」

 長官は顔をまっすぐまえの壁にむけたままである。私は黙っていた。外ではバララバララと銃撃の音が聞えている。すると長官はつづけて、

「こんなことをせねばならないというのは、日本の作戦指導がいかにまずいか、ということを示しているんだよ」

 と言った。なおも私が黙っていると、

「なあ、こりゃあね、統率の外道だよ」

 そうポツンと言った。

【出典】1967(昭和42)年 河出書房 猪口力平/中島正「太平洋戦記 神風特別攻撃隊」比島における神風特別攻撃作戦

「外道」という言葉を使って特攻隊のイメージを悪くしようとするサヨクの印象操作にダマされないようにしましょう。

池上氏「天皇に戦争をやめさせるために特攻を進めた」

【事実は…】
・昭和天皇が終戦を決意しても、帝国憲法第五十五条の規定による輔弼(ほひつ)大権主義のため、天皇の御聖意は大臣や軍部の輔弼(副署)がなければ、それを国務上発動することはできない仕組みだった。(輔弼とは:明治憲法の観念で、天皇の行為や決定に関し進言し、その結果について全責任を負うこと。国務上の輔弼は国務大臣、宮務上の輔弼は宮内大臣および内大臣、統帥上の輔弼(輔翼とよぶ)は参謀総長・軍令部総長の職責であった)

・池上氏の解説のように仮に天皇が特攻を御覧になって終戦を決意したとしても、たとえば帝国海軍武官が太平洋戦争開戦時からアメリカの政略機関であるダレス機関と密かに進めていた終戦工作を帝国海軍首脳部を取り巻く竹槍部隊(文字どおり竹ヤリで連合国と戦おうと主張した人たち)および陸軍の一部の勢力がつぶしたこと、終戦工作中の宮中に陸軍将校が乗りこんでクーデターを起そうとしたことを考え合わせれば終戦が実現しなかったことは明らかである。天皇ではなく日本政府と大本営が終戦を決意しないかぎり終戦は実現しなかったわけで、軍が「天皇に戦争をやめさせるために特攻を進めた」ということはあり得ない。

・東京裁判において「戦犯」とされた人たちが「天皇に戦争責任はない、すべて輔弼の責である」と主張したのも、この輔弼大権主義による。

↓↓↓法学博士里見岸雄「天皇親政の実際は官僚政治、軍部政治だった」↓↓↓
第四節 輔弼的大権主義

 帝国憲法の一大特色であると共に又一大欠陥となったものはその輔弼的大権主義である。維新以後、名分上天皇親政となってからは、従来無制限であると考へられてゐた天皇の権能に制限を加へるものとして現れたのが帝国憲法である。

(中略)

 このような建前から個々の天皇大権は設定されるのであるが、通常これを五種にわける。所謂国務大権、皇室大権、統帥大権、祭祀大権、栄典大権がそれである。国務大権は国務大臣の輔弼によって行われ、皇室大権は宮内大臣が輔弼し、統帥大権は軍令大権ともいひ、陸軍参謀長、海軍軍令部総長が輔弼するところであるが、祭祀大権は天皇親(みづか)らこれを行ひ、国務大臣又は宮内大臣の輔弼を要しなかったし栄典大権と呼ばれるものも一般国務と区別され一に聖恩に出づるものとされた。このように天皇大権は極めて広汎であったが、その実際的意味は、天皇に名分を求めた官僚政治又は軍部政治即ち輔弼的大権主義といふことであった。

 まづ国務については帝国憲法第五十五条の『国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス。凡(スベ)テ法律勅令其ノ他ノ国務ニ関スル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス』といふ規定により、天皇大権は単独に発動することは許されず、国務大臣の輔弼を以てするのほか発動することは憲法上ありえないことであった。天皇が仮りにどのようなことを欲せられても国務大臣の輔弼がない限りそれを国務上の大権として発動することは出来ない仕組みなのであるから、大権政治とは輔弼政治にほかならないのである。従って、国務大臣の側に於て言へば、大小の国務は悉(ことごと)く自らの輔弼行為なのであって、大権とは輔弼の結果としての名分であったに過ぎない。いやしくも大権行為のあった時は輔弼によったものなのであるから、国務大臣は輔弼の全責任を負はざるを得ない。その結果が国家にとって好ましくないものであっても、それは輔弼の責任であって天皇の責任ではない。天皇は輔弼を無視することも出来ないし、輔弼なしに自由に大権を行使されることもありえないし、輔弼を拒否することも許されないのであって、輔弼とは事実上、拒否されざる奏請にほかならなかった。仮りに天皇が大臣の輔弼(奏請)に対し、反対の意見を述べられても聖意不可と信ずれば大臣はその非なる旨を奏上して翻意を願はねばならないし若(も)し天皇が重ねて強く主張されても大臣の方が考へを変へ聖意に賛同したとしても、その賛同したことは賛同することが正しいと信じての事であるからそれが直ちに輔弼なのであって、分はいけないと思ったが陛下が余りに強く御主張になるので譲歩して賛同申上げたのだから、責任は天皇にある、といふことは認められないのであって、あくまでそれは輔弼の責である。これが憲法第五十五条の規定であり、それと関連して第三条の『天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス』といふ規定が天皇無答責を保障したものと解されたのである。

(中略)

 ところが、帝国憲法は第十一条に於て『天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス』、第十二条に於て『天皇ハ陸海軍ノ編成及常備兵額ヲ定ム』と規定してゐるが、この前者は、所謂統帥権独立の根拠とされ、統帥軍令は一般国務から独立し、直接に天皇大権を以て行はれるものと解する軍部の要請が勝義とされ、更に拡張解釈されて第十二条についても帝国議会の議決を要する予算以外の事項は成るべく軍部が内閣と別箇に自由に行動し得る慣習法をつくりあげてしまった。そして、陸海軍は陸軍大臣海軍大臣に就任し得る者の資格を始(はじめ)は一般に将官に限定したが後これを強化して現役将官でなければならない事に規定したため、内閣は軍部の意思に反しては成立も存立も不可能の事態を現出し、軍部は参謀総長、軍令部総長等軍令系のみの帷幄(いあく:作戦計画を立てる所。本陣。本営)上奏権を軍政の両大臣にもこれを認め、日本は恰(あたか)も対立する二つ又は三つの輔弼機関が同時に存在する奇現象を呈し、国政頗(すこぶ)る不円滑を極め、殊に軍部の専横甚(はなはだ)しきものあるに至った。満洲事変以後特にこの弊害が増大し、つひに破国の大事を招いたのであるが、然(しか)し統帥大権といふも、天皇の自由任意の大権といふわけではなく、必ず参謀総長、軍令部総長の輔弼を要することは、参謀本部条例、軍令部令に於て規定せられた通りである。

【出典】1962(昭和37)年 錦正社 里見岸雄「日本国の憲法」第二章 明治憲法の特色

↓↓↓重光葵「すべて輔弼の臣の責任である。天皇に責任はない」↓↓↓
A級戦犯
 然(しか)し彼等(かれら)は何れも気分は朗かである。

 平沼老人曰く、
  監獄の経験のないものは真の人間にはなれぬと云(い)はれて居るがその通りじゃ。

 永野(修身)元帥、
  真珠湾攻撃の命令発出は全く自分の責任であって他に責任者はない。而(そ)して真珠湾の攻撃は軍事的に見ても大成功であったと思ふ。裁判所が真珠湾攻撃の責任者を探すのに手数をかける必要は何(な)にもない。

 東条大将、
  開戦の政治上の責任は自分の負ふ所である。外(ほか)には迷惑をかけぬ。

と云って居る。佐藤中将は五十二才の最年少者で、さすがに血の気が多い。A級戦犯の列に加はった事を誇(ほこり)とする共に、世論が敵の宣伝に迎合して戦犯を以て恰(あたか)も非国民の如き口調のあるのを憤慨し、而して曾(か)つて日本を指導した同列の責任者達が戦犯を免れんが為(た)めに、責任転嫁の策動をして居ることを痛撃したりした。

 気息奄々として獄に繋がれて居る老人達は如何なる運命が彼等を待って居るにしても、日本民族の将来の為(た)めに皇室を護り通さねばならぬと云ふ信念は堅い。裁判を通じても国家の前途に何等(なんら)か貢献し度(た)いと云ふ熱意に燃えて、この最後のピルグリメージに毎日上って居るのである。彼等は日本国民として其(その)顔は希望に輝いて居る。

【出典】1986(昭和61)年 中央公論社 重光葵「重光葵手記」戦争を後にして

↓↓↓元海軍武官「太平洋戦争勃発時から日本が官民挙げて試みた和平工作」↓↓↓
痛恨! ダレス第一電

戦争末期、政府および軍の一部において日本の徹底的壊滅を防ぐべくさまざまな和平工作が行われた。外務省がやったソ連への仲介依頼工作、支那派遣軍が試みた重慶との工作。そして海軍がスイスにおいてアメリカの外交機関との間で進めた工作。結果的にはどれも失敗したが、このスイスでの和平工作はもっとも実現性の強いものであった。筆者はその当時者、在スイス日本公使館付海軍武官。

(中略)

 第二次世界大戦中ベルリンにいた日本海軍の首脳部は、戦争勃発の当初から、ひそかに、いつかは必ず来るであろう終戦に備えて日米直接和解の途を準備していたのである。しかし、この事は大戦中欧州に在った日本海軍首脳部の最高にして至厳な機密であったから、きわめて限られた人しか知らなかったし、またこれらの人々は絶対に口外しなかった。そしてその実施には実に苦労した。まずそのために、スイスやスエーデン等中立性の顕著な国において米英側と常に秘密に接触しなければならなかった。そこで特にスイスにおいては反ナチのドイツ人フリードリッヒ・ハック博士(後述)を通じて私と酒井直衛(在独海軍武官秘書官)の線で努力した。

(中略)

 まず私たちは多数のスイス人および在留邦人と幾度も懇談し、またドイツ、イタリー、スペイン等の枢軸側の要人やスエーデン、ポルトガル、ソ連等の人々とも会談した。これらの人々はいずれもドイツの末路と次に来るべき日本の敗戦を論じ、早期和平の必要を力説した。特に公使以下在留邦人のほとんどすべてが、すみやかに日本が和平を講ずべきであるとの意見に賛成のようであったが、その準備と具体的な方策においてどの程度の対策が講ぜられていたのかははなはだ疑問といわざるをえなかった。それも当然で、これこそ国の安危にかかわる最高至大の問題であり、開戦当初から頭において多少の苦しみもなめ、準備もして来た私たちもその緒(いとぐち)が見つからぬのである。何人といえども単なる思いつきや軽はずみで充分な準備なしに盲動すべきではなかったろう。またこの戦争を続けるかすみやかに止めるかの鍵は、いうまでもなく東京の軍部が握っていたのである。

(中略)

 昭和二十年四月二十三日ちょうど米軍が沖縄攻略に全力を挙げていた当時、私達は慎重審議の結果ついに結論に達し、日本海軍の名をもって在スイスダレス機関を通じワシントン政府に対し、日米直接和平の交渉を開始することにして、そして即日、スイス日本公使館内海軍事務所内にハック博士の来訪を求め、我らの同志として、米側との接触に当ってもらうことにした。なおこの席には私、津山氏および西原武官が同席した。その日のうちにハック氏はダレス機関と第一次会見をしたが、その劈頭において、ダレス氏より「本件はさしあたりスイスにおいては現当事者以外のものに秘密にすべし」との要求があり、私たちもこれを厳守して他に口外しなかった。この機密の問題はその後我々は長く守って来たが当時、私の電報や笠氏が別に出していた電報を東京で受信し、直接これに関与した少数の日本側要人を経て、終戦後一般に知れ渡るようになったが、いずれもその一部しか伝えられていないし、また中には間違っているものもあるようである。そういうわけで私はここに元ダレス機関要人の同意を得て、当時の経緯を公表することにしたわけである。

(中略)

 六月十五日、第二十一電では、特に米内大臣宛に親展で武官の名において、ダレス機関との連絡に関し従来の経過を説明し、最後「今やあなたには残っている戦力、国力のすべてを捧げてこの対米和平を成就することが唯一の国に報ゆるのゆえんではないでしょうか」とまで極論した。

 いやしくも現職の海軍大臣に対し、こんな電報まで打たねばならなくなった事は心から悲しまれたし、躊躇もされた。私たちは原稿を机の上に置いて一晩熟考した。

 が、しかし"我々は断行した"。

 そのためか六月二十日にいたり、大臣の名において武官宛軍機親展電報として、「貴趣旨はよく分った。一件書類は外務大臣の方へ廻したから貴官は所在の公使その他と緊密に提携し善処されたし」との返電があった。

 ああ、我ら一同は東京に人なきを痛感した。日本の開闢(かいびゃく)以来の最大の問題に対し、最後の瀬戸際まで来て、しかもこんなにまで正しく条理を尽くしているのが分らない!!

 国が亡びる時はやはり亡ぶだけの理由があるものだ。それにしても海軍大臣より正式に外務大臣に廻り外交交渉となる事を喜んだ。きっと外務省には有能達見の士がいる事だろう。本当に日本の事を心配し八千万国民のためを思う人なら外務の人であろうが、どこの誰であろうが、この問題だけは明白である! しかしながら今から外務省に廻ったのでは通信の機密の点やその他いろいろの点でうまく行かず、時間がかかって日本が亡びるまで間に合わぬ。

(中略)

 越えて七月にいたり二、三回公使の方より簡単な質問があったが、その外(ほか)には何ら積極的な動きはなく、一方日本の戦勢は一日一日と悪化して行った。もちろん我々はその後しばしば大臣、総長に対し米英およびソ連軍の動き、欧州の混乱状態その他政戦両略の報告をし、急速和平の要を執拗に説いた。スイス公使加瀬俊一氏も同様の主旨で打電大いにつとめられたと聞く。あとで聞くと、公使や与謝野参事官、正金(銀行)の北村孝次郎氏などにも対米折衝への試みがあったようだ。笠信太郎氏は公使館を通じても内閣宛に再三急ぎの電報を送った。が、東京は最後まで動かなかった。戦局はいよいよ急となり、原子爆弾の投下、ソ連の参戦となって急転直下終幕となった。一方、在欧軍事委員長の阿部さんはベルリンからスエーデンに行き、スイスの我々と相提携して、対米和平を計ろうとしたが、不幸にも抑留され活動を阻止されたのは痛恨きわまりない。

 一九四六年四月私たちが欧州から帰ってきてから知ったことであるが、我々の提案に対し海相米内氏は終始賛成であり、海軍軍務局長の保科さん、大本営海軍作戦部長の富岡さん、大本営内閣連絡官高木さん(海軍教育局長)の三要職にある人々はいずれも同意で何とかしてこの案ですみやかに和平に持ってゆきたいと異常な努力をしたが、海軍側では軍令部の首脳者の一部を取りまく竹槍部隊および陸軍の一部に退けられ、本意ならずもついに果し得なかったという事であった。

【出典】1988(昭和63)年 文藝春秋 「『文藝春秋』にみる昭和史」第一巻所収
    藤村義朗「痛恨! ダレス第一電」(「文藝春秋」昭和26年5月号掲載)

池上氏には「日本人をバカにするな」と言いたい。


【資料出典】
・1983(昭和58)年 講談社 「写真図説 帝国連合艦隊-日本海軍100年史-」
・1995(平成7)年 光人社 「日本軍用機写真総集」
・1996(平成8)年 株式会社ベストセラーズ 「写真集カミカゼ 陸・海軍特別攻撃隊」上巻
・1997(平成9)年 株式会社ベストセラーズ 「写真集カミカゼ 陸・海軍特別攻撃隊」下巻
・1960(昭和35)年 自由アジア社 元海軍航空艦隊参謀 安延多計夫「南溟の果てに-神風特別攻撃隊かく戦えり」

  • 最終更新:2017-08-25 16:40:53

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