テレ東「池上彰の『特攻』とはなんだったのか」のデマをあばく(2017年8月13日放送)|証言者編

【目次:タイトルをクリックすると該当記事に飛びます】

91歳元海軍特攻隊員の証言における虚偽

1945年5月14日エンジンの不調で基地に引き返す時、僚機の風防が開いて電信兵が手を振っていた

【事実は…】
・この日三人乗りの飛行機は陸海軍ともに出撃していない。
・この日出撃した海軍機は全機ゼロ戦爆装(単座)なので搭乗員は一人だった。
・同日に出撃した陸軍機も三名で三機出撃しているので一機に一人搭乗だった。


【資料画像:1945(昭和20)年5月14日の陸海軍特攻隊出撃機】
1945年5月14日出撃.jpg

【第六筑波隊:零戦爆装】
第六筑波隊零戦爆装.jpg

【第十一建武隊:零戦爆装】
第十一建武隊零戦爆装.jpg

【第八七生隊:零戦爆装】
第八七生隊零戦爆装.jpg

【陸軍司偵振武隊:百式司偵三機にパイロット三名=一機に一人搭乗】
19450514陸軍特攻隊.jpg

「僚機の風防が開いて電信兵が手を振ってて涙が出た」とか台本でもあるんですかね?

出撃して基地に戻ると上官に怒られた

【事実は…】
・エンジン不調の場合は独断ではなく基地に問い合わせをして指示を仰いだ。そして帰還命令や中止命令が出れば帰還した。

・第一神風桜花神雷部隊を掩護した石原中尉機他合計二機は傷つきながらも基地に帰還している。

・番組でも紹介された国分飛行場から出撃した飛行予備学生は出撃した機の帰還を待つ基地のようすを川柳に詠んでいる。

・1945(昭和20)年4月28日の第三神風桜花神雷部隊の出撃では天候不良のため出撃機11機中9機が基地に帰還した。岡村大佐「実は司令もお前達を送った後、天候不良の報がはいり、心配していたところだった…本当によく帰ってくれた」。

・第二菊水隊員の手記によれば小野という人物は「三回出撃して無事に帰還した」とある。

↓↓↓第二菊水隊員「出撃後のエンジン不調で基地に問い合わせをした↓↓↓
壮絶対空砲火の洗礼

 私としても第二菊水隊員として始めての出撃だ。

 第一回でなく、何度でも命を永らえて攻撃したい気持とこのまま突入しようかと二つの考えが頭の中で渦をまき廻転したが、私はつまらぬ見得をはらずにグラさんに逢ったら何でもよいから逃げて逃げて、攻撃のみ完(まっと)うしようと決心していた。

祈念する必中の一弾!

 それから第二菊水特攻としては今一度、出動の幸運を得たが列記すれば左のようになる。

 第一回 桜島上空少し手前でエンジン故障

 第二回 桜島上空を過ぎて五分位してから西中尉からエンジンの具合悪いがと言われたので基地へ問合せると中止命令

【出典】1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第七号所収
    当時七〇一空一〇五飛行隊第二菊水隊員元海軍上飛曹 赤田重義 「阿修羅の艦爆機『彗星』」

↓↓↓傷つきながらも基地に帰還した石原中尉機↓↓↓
還らぬ若人たち

 最後まで残った豪宕(ごうとう)野中隊長機を、掩護機の石原中尉が認めた次の瞬間には──

 ガガン、と連続銃撃がグラマンから隊長機に集中された。自分の機体のように石原中尉は感じた。

(やられたか!)

 ガクッと頭(こうべ)を垂れたかと思うと、紅蓮の焔(ほのお)の中に錐(きり)揉みが始まっていた。

 凱歌を挙げて引揚げていくグラマン機。

 全出動機中、石原中尉を含む二機の搭乗員だけが傷つきながらも、辛うじて基地に帰還することができた。

【出典】1958(昭和33)年 日本文芸社 「現代読本」第三巻第五号所収
    元海軍報道班員 野方和彦「人間爆弾桜花隊出撃の前夜」

↓↓↓国分飛行場から出撃した特攻隊が詠んだ川柳↓↓↓
川柳合作

夕食は貴様にやると友は征き

今日も亦(また)全機未帰還店閉ひ(指揮所の後かたづけ)

還らぬと知りつゝも待つ夕べかな

今日も亦全機還らず月が冴え

【出典】1953(昭和28)年 日本出版協同株式会社 白鷗遺族会「戦没飛行予備学生の手記 雲ながるる果てに」

↓↓↓桜花11機中9機帰還、岡村大佐「司令が心配していた、よく帰ってくれた」↓↓↓
無念敵影を見ず

 全神経を目に集め、今か今かと、息詰る数十秒、高度は遂に千米(メートル)。だが依然として視界は零。残念無念だが、攻撃は断念した。急上昇。

 母機より上ってくるよう合図がある。バンドをはずして再び母機に搭乗。

 桜花機は高速と落着の早いため五千米以下の投下は無効果であり、また禁ぜられていた。五千米で投下しても敵艦に体当りするまでわずか一分内外の時間である。

 高度五千米に昇ったとき「桜花」は落下された。操る人もなく、一瞬のうちに雲中に消えてしまった。その雲を見る私の眼に、熱い涙が湧き出た。

 今まで過重だった母機は、操作も軽々と一路基地を指して帰った。

 基地に帰ってみると、今朝の出撃機十一機中八機まで帰っていた。つまり、私は九機目に帰投したのであるが、私の後に続く機はついになかった。

「ご苦労であった。実は司令もお前達を送った後、天候不良の報がはいり、心配していたところだった。全機無事引き返してくれるよう祈っていたところだった。本当によく帰ってくれた……」

 部下には実父の如き岡村大佐に、やさしく肩をたたかれ、慰められた私だが、心はいつまでも重かった。

 そして、再度の出発にあわぬうちに、終戦をむかえてしまった私である。

【出典】1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第四号所収
    神雷部隊桜花分隊 元海軍上飛曹 渡辺正男「戦慄の人間爆弾『神雷』」

↓↓↓元第二菊水隊員「小野は三回出撃して無事に帰還した」↓↓↓
無念! 搭乗割りに洩れる

小野(特別乙種練習生の一期だったと記憶する)は三回出撃して無事に帰還して居(お)り三回目は敵空母を轟沈している。

【出典】1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第七号所収
    当時七〇一空一〇五飛行隊第二菊水隊員元海軍上飛曹 赤田重義 「阿修羅の艦爆機『彗星』」

あれれ?話がちがうぞ?

「特攻を熱望している」と捏造された

【事実は…】
・1944(昭和19)年10月8日、台湾台南航空隊で桜花搭乗員志願者を募集したとき、司令は「親一人、子一人の者」「長男」「妻子ある者」は特攻志願者から除外した。

・二〇一空がフィリピンで特攻隊員志願者を募集したときは「身のまわりの整理や家庭の事情で、あすすぐには志願できないものもいるだろう、と逃げ道をこしらえておいた」。特攻を志願する者には八ツ切の紙片に「氏名」を書かせた。

・第二菊水隊員の手記では「志願したのに搭乗員割にもれてしまった」とある。

・七生昭威陸軍特別攻撃隊員「最初から特攻のつもりで志願したようなわけだし」

↓↓↓桜花分隊員「親一人、子一人の者、長男、妻子ある者は特攻隊員から除外された↓↓↓
将棋の駒の搭乗員

 昭和十九年十月八日。

 台南航空隊練空教程の卒業を間近にひかえた私たちが、午後の飛行作業も終り、夕食をすませ、楽しい雑談に移ろうとしているところへ、搭乗員総員、武道場集合が伝達されてきた。

 今までになかったことである。何事だろう? 誰の心にもそうした思いがあったに違いない。くわしい戦況はわからないわれわれだが、すでにサイパンが敵に占領されていることくらいは知っていたので、何となく、胸さわぎを感じた。

 武道場で待つ間もなく、司令が現れ、壇上に立った。静かに場内を見廻した。

「親一人、子一人の者は手を上げよ」

 何の前おきもせず、司令はこう言った。その顔はいつになく真剣であった。

 しばらくすると、幾人かが手を上げた。それを待っていたかのように、司令はおもむろに命令した。

「それらの者は退場せよ」

 手を上げた者たちは、一瞬とまどった表情になったが、うなだれ気味に、静かに退場した。

「長男は退場せよ」

 二度目の命令に、また数人が退場した。

「妻子ある者も出よ」

 さすがに、これは二、三名しかなかった。

 こうしたことがくり返されている間に、私は、ただごとでない、重大なことを発表するに違いないと考えながら、司令の言葉を待った。

 あの有名な『月月火水木金金』艦隊勤務の歌詩 (*1)を作った高橋俊策大佐が、今、壇上で私たちを見つめている司令なのだ。


「私はこの神聖なる武道場で諸君に聞いてもらいたいことがある」

 と、前置きした司令は、次のような話をした。

 戦局はわが方に利ならず、敵は間もなく南西諸島、あるいはフィリッピン又はこの台湾にも進攻してくると思う。

 いま内地で一中必殺の新兵器を考案中である。このたび、この新兵器の搭乗員を全国の航空隊より志願者を募って編成することになった。諸君の中には種々の事情もあることだろうから、よく考えて准下士官以上は飛行長まで、下士官、兵は分隊長まで申し出てもらいたい。

 切々たる口調の話が終ると、司令は、水を打ったようにシンとした静けさの中を退場して行った。それに続いて私たちも外に出た。すでに暗くなって、空には月があった。

【出典】1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第四号所収
    神雷部隊桜花分隊 元・海軍上飛曹 渡辺正男「戦慄の人間爆弾『神雷』」

↓↓↓二〇一空「特攻隊員志願については逃げ道をこしらえておいた」↓↓↓
下士官からの志願

 やがて待っていた足音が近づいてきた。上官の寝息をさまたげぬように気をつかって、靴音を忍ばせながら階段をあがってくる。久納中尉が去り、国原少尉がきた、作戦室の入口の大扉のまえに、先任搭乗員の姿があらわれた。その手には一束の封筒──、それぞれの命運を秘めた一束の封筒が握られている。かれは黙って敬礼し、それを私に渡すと、そのまま静かに出ていった。

 私はその封筒を開けなければならない。二十有余の封筒はテーブルのうえにある。日ごろから部下の心情は、私には十分わかっているつもりではあるが──、万一のばあいということもある。しかも先刻、指揮所まえで、身のまわりの整理や家庭の事情で、あすすぐには志願できないものもいるだろう、と逃げ道をこしらえておいたのである。万一のばあいはどうするか? 万一にも志願者のなかった場合は?……。

 やがて私の指は、机の引き出しのなかのはさみを冷たく握り、封筒の封を一つ一つ切っていった。なかから出る用紙八つ切りの紙片、──その一つ一つには、ハッキリとした字体で、つぎつぎと志願者の氏名が書かれている。と、そのなかにまじって、二枚の白紙が私の目にしみた。

【出典】1967(昭和42)年 河出書房 猪口力平/中島正「太平洋戦記 神風特別攻撃隊」

↓↓↓第二菊水隊員「志願したが搭乗員割からもれた」↓↓↓
無念! 搭乗割りに洩れる

「これより特別攻撃隊の搭乗割りをなす……」

 の示達(したつ)があり、全員が志願していた。特別攻撃隊編成名簿が読み上げられた。

 私の名はその搭乗割りに洩れていた。

【出典】1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第七号所収
    当時七〇一空一〇五飛行隊第二菊水隊員元海軍上飛曹 赤田重義「阿修羅の艦爆機『彗星』」

↓↓↓陸軍特攻隊員「最初から特攻のつもりで志願したようなわけだし」↓↓↓
嫌な神様扱い

本誌 あの当時、特操 (*2)の教育は、すぐ特攻へと移行出来るやり方だったンですね。皆さんその点、どんな風に考えて居られたのでしょうか?

中村 特攻隊としてやらせるのだという最高府の方針は、われわれの間にも云(い)わず語らずのうちに感じとっていました。そもそも私なんかの場合は最初からそのつもりで志願したような訳(わけ)だったし、みんなもその心組みだったと思います。だから例えば訓練の上の苦痛なんかも、たいがいなことは耐え抜けてゆけた。そうした心の支えがあったから、希望があったから、苦痛も苦痛と感じなかったンですね。

【出典】1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第七号所収
    座談会「特別操縦見習士官第二期 炎の闘魂!学鷲血戦史」

海軍兵学校出身者は特攻隊員にはならなかった

【事実は…】
・元海軍飛行兵曹だった桑原さんの証言の前に番組で扱った敷島隊の関大尉は江田島海軍兵学校の第70期卒業生である。

・第一神風桜花神雷部隊桜花隊の指揮官だった三橋謙太郎大尉は第71期卒業生、同隊攻撃隊指揮官だった野中五郎少佐も第61期卒業生である。

・二〇一空が関大尉を敷島隊の指揮官として選びだすときに「指揮官には、兵学校出のものをえらぼうじゃないか」と決まった。

・上記指揮官以外にも多くの江田島海軍兵学校卒業生が特攻隊員として出撃、戦死している。


【資料画像:敷島隊指揮官 関行男大尉 海兵第70期】
関行男大尉.jpg

【第一神風桜花神雷部隊桜花隊指揮官 三橋謙太郎大尉 海兵第71期】
桜花神雷部隊.jpg

【第一神風桜花神雷部隊攻撃隊指揮官 野中五郎少佐 海兵第61期】
桜花神雷部隊野中五郎少佐.jpg

↓↓↓二〇一空「指揮官には兵学校出身者をえらぼう」↓↓↓
 以上のような状況で、体当たり搭乗員の主体である列機の方は問題なくきまったが、つぎは指揮官をだれにするかであった。九期練習生に機密保持上、ほかの搭乗員たちにたいしてはこの件について「けっして、口外してはいけない」と、くれぐれも注意して宿舎に帰らせ、玉井副長が士官室にもどってきたときは、すでに午前0時をすぎていた。

 私は玉井副長から搭乗員たちの模様を聞いて、言いしれない感動に打たれた。しかし、この純一無垢な搭乗員をだれの手に託せばいいのか? 玉井副長とのあいだに相談がはじまった。私は言った。

「指揮官には、兵学校出のものをえらぼうじゃないか」

 指揮官と考えた瞬間、玉井副長の能裡にひらめいたのは管野直(かんのなおし)だ、管野がいいということだったという。しかし残念ながら当時かれは、要務をおびて内地に出張中であった。

「管野がおればいいのだがなあ!」

 そうつぶやきながら、玉井副長は考え込んでしまった。

 当時の指揮官格の士官搭乗員は一四、五名いたのであるが、こんどの指揮官には人物、伎倆、士気の三拍手 (*3)そろった、もっとも秀れたものを選び出さなければならない。こうして思い悩む玉井副長の胸中にしだいにあらわれてきたのが、関行男大尉であった。

【出典】1967(昭和42)年 河出書房 猪口力平/中島正「太平洋戦記 神風特別攻撃隊」

江田島の海上自衛隊第1術科学校、教育参考館はテレ東を訴えていいレベルの捏造。江田島市もテレ東を訴えちゃえ!!

海軍兵学校出身者は作戦会議に参加する。やつらは特権階級だった

【事実は…】
・江田島海軍兵学校の卒業生は1944(昭和19)年までの約70年間で7000人以上いた。単純に計算して年に100名の卒業生がいたことになる。海軍兵学校は指揮官を育成する学校なので、その全員が作戦会議に参加したら現場は大変なことになる。

・階級でいえば江田島海軍兵学校を卒業すると同時に海軍少尉候補生となり、一年間練習艦隊および連合艦隊で実務練習後、少尉を任官した。少尉は士官の一番下の官職である。

・海軍兵学校を卒業したからといって参謀になれるわけではない。ちなみに海軍予備学生(学徒出陣で出征した学徒兵)も航空隊で一年間の基礎教育と訓練を受けたあと、海軍少尉を任官した。

↓↓↓海軍学校入学案内「海軍への道」から卒業生数と卒業後の進路↓↓↓
海軍兵学校生徒となるには
 一、海軍兵学校の概要

 本校は過去約七十年間に七千人以上の生徒卒業者を送り、また大正十一年以来約六百名の選修学生卒業者を出している。即ち海軍の兵科士官の大部分は本校の出身者である。

 八、卒業後の進路

 海軍兵学校を卒業すると同時に、海軍少尉候補生(奏任待遇)を命ぜられ、直ちに練習艦隊に乗り組み(戦時中は練習艦隊に行かず)、続いて連合艦隊各艦に配乗せられ、実務の練習に従事し、一ヶ年にして海軍少尉に任官する。年少者は 二十一歳にして少尉となることが出来るわけである。爾後、時に陸上に勤務することもあるが、海上勤務を本領とし、中尉、大尉、少佐……と進級してゆく。


【帝国海軍官職階】
帝国海軍官職階1_500.jpg

【出典】1944(昭和19)年 旺文社編〔他〕「海軍への道」

階級闘争かよ?

証言者のおばさん「特攻機が突入するときは長符連送をするんです」

【事実は…】
・特攻機が敵艦に突入するときの電信符号はすべて長符連送ではなく、突入目標によってちがった。長符連送は空母に突入する場合であって、空母以外の敵艦船に突入する場合は短符(たんふ)連送だった。

・その他の電信符号は「敵戦闘機を認む」は短符三連送だった。

↓↓↓元海軍省軍務局第四課員の手記から桜花特攻隊が送ってきた短符三連送↓↓↓
土肥機遂に成功す

 横抗防空壕の中の電信室では、電信兵が全神経を耳に集めて、攻撃隊から送ってくる電波を一つも逃さぬように捕えていた。

 電信符号には、攻撃機にイ、ロ、ハなどの特定名をつけて打ってくるようになっていた。

 基地から沖縄までは三七〇浬(カイリ)もある。先発の零戦特攻隊は早くも沖縄に到着して、長符連送(我、敵空母に突撃中)、短符連送(我敵水上艦艇に突撃中)の電波が次ぎつぎと入ってくる。しかし桜花攻撃の一式陸攻からはなかなか電波を送って来ない。もしや野中中隊の二の舞いではないだろうか。不安が人々の心をかすめる頃になって、土肥中尉機から

「敵戦斗機を認む」

 という短符三つ連送の電波が飛んで来た。一瞬岡村司令はじめ全員がハッと思った。

 敵の戦斗機に発見され、空中戦斗となれば、次ぎにくるものは、野中隊と同じく自爆である。不気味な時間が一秒、二秒と過ぎてゆく。

 と、また土肥機からの電波が入った。

「我、敵戦斗機をまく」

 司令の顔にも生色(きしょく)が浮んで来た。土肥中尉には神助があったのだ。

【出典】1957(昭和32)年 日本文芸社 「現代読本」第二巻第九号所収
    元海軍省軍務局第四課勤務 佐藤光洋 「湊川出陣の野中桜花特攻隊」

↓↓↓基地に帰投した第十九金剛隊員の手記から「敵戦闘機を認む」の短符連送↓↓↓
雲間にひらめく激突の大閃光 痛恨! 全機応答なし

 ようやく船団中央から猛烈な対空砲火が開始された。私の機はビンビンと振動する。畜生ッ! と前をみるとシコロフスキーが居た。突入して爆弾と共に粉微塵に飛び散ったであろう僚機の弔(とむらい)合戦だと私は歯を嚙みしめた。追尾してそ奴を餞(はなむけ)にしたら帰投しようとフルにエンヂンをふかした。シコロフスキーは私の急追に気がついたのかつかないのか、同じく全速でふっ飛ばしていた。

 直線飛行では零戦はシコロフスキーの比ではない。だんだんに敵機は遠ざかる。私は残念ながら帰投する他はなかった。(当時、21型は馬力一一〇〇、全備重量二、五トンで、シコロフスキーは全ての性能が約倍近い優秀機だった)

 私の帰投時間は発進後一時間三〇分を経過していて、報告板に〇四三〇と記入された。

 まもなく二〇分後、伊藤機が帰投、右翼に相当の被弾だった。

 基地司令部には、私の打った"敵戦闘機を認む"の連送しか入っていない。私はイライラしてきた。

【出典】1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第四号所収
    二〇一空第十九金剛隊 元海軍上飛曹 榊原健太郎「(途切れた短符連送)われ機動部隊に突入す」

このおばさんの証言が真実なら全機空母突入で日本軍大勝利のはず。


【資料出典】
・1996(平成8)年 株式会社ベストセラーズ 「写真集カミカゼ 陸・海軍特別攻撃隊」上巻
・1997(平成9)年 株式会社ベストセラーズ 「写真集カミカゼ 陸・海軍特別攻撃隊」下巻
・1960(昭和35)年 自由アジア社 元海軍航空艦隊参謀 安延多計夫「南溟の果てに-神風特別攻撃隊かく戦えり」

  • 最終更新:2017-08-25 19:36:13

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード