テレ東「池上彰の『特攻』とはなんだったのか」のデマをあばく(2017年8月13日放送)|ゲスト編

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パックン氏「アメリカに"自殺攻撃(特攻)"という制度はない」

戦艦榛名に体当りした「アメリカのニセ軍神」

日本の特攻も制度ではありません。特攻はあくまでも現場における一戦術でした。しかし「カミカゼ」という名詞を悪意をもって「テロリスト」の代名詞として使用するアメリカでも「軍艦榛名に体当りして撃沈させたコリン・ケリー大尉」というフェイクニュースに感激、興奮、全米が泣いた事件がありました。


【コリン・ケリー大尉】
コリン・ケリー大尉_300.jpg


コリン・ケリー大尉の自爆行為が公報として全米に知らされたのは、1941(昭和16)年12月10日でした。公報の内容は

フィリピンデルモンテ基地所属の爆撃機がルソン島の北方海上で軍艦ハルナを捕捉、直撃弾を投下させたあと、指揮官コリン・ケリー大尉が自機ボーイング17型爆撃機とともに軍艦ハルナに体当りし同艦をまっぷたつに引き裂き沈没させた

というものでした。

この公報に全米は泣き、感激し、当時のルーズベルト大統領は15年後のアメリカ大統領に『ケリー大尉の遺児に閣下の暖かき配慮を』と記した信書を送るという前代未聞のやり方をもって、ますます全米を泣かせたのでした。

ところが、ケリー大尉に轟沈させられたはずの戦艦榛名は1942(昭和17)年6月5日のミッドウェー海戦で小破を受け、1944(昭和19)年10月25日のレイテ沖海戦では第三戦隊として戦艦金剛とともに参加、そこで爆弾につらぬかれ、日本に引き揚げたあと燃料不足のため呉軍港に底をつけてしまいます。そして戦艦榛名が本当に沈没したのは1945(昭和20)年6月22日、呉軍港がB29の猛爆を受けた時でした。


【呉軍港で爆撃を受け大破着底した戦艦「榛名」】
戦艦榛名呉軍港着底.jpg


しかしアメリカでは戦艦榛名が戦場に姿を現したことは一切報じられず、ケリー大尉の自爆行為は虚報であったと発表されたのはケリー大尉の戦死から15年後の1956(昭和31)年、ケリー大尉の遺児が大統領のぬくもりでウェスト・ポイント陸軍士官学校に無試験入学を果したというニュースと同時でした。


↓↓↓真珠湾攻撃後に報道されたコリン・ケリー大尉の体当り↓↓↓
空とぶ快報

一九四一年十二月十日
日本最大の戦艦「榛名」撃沈さる!

 これが新聞の第一面の全段を横につらぬいて掲げられた大見出しであった。その下に同じくらいの大きな見出しで、

コリン・ケリー大尉、体当り!
日本軍艦真二つとなる

 このニュースがどのくらい、まったく打ちひしがれていたアメリカ人を驚喜させたかは想像以上であった。

 新聞に掲げられた公報(コミュニケ)は次のようである。


 比島デル・モンテ基地第六航空師団所属爆撃機数機は、昨日(十二月十日)ルソン島の北方海上において、日本戦艦ハルナ(二万九千トン)を捕捉し、これに直撃弾を投下させたる後、指揮官コリン・ケリー大尉は、自機ボーイング十七を以って、炎上中の同艦に体当りし、生命と肉体を一瞬にして火と化すと同時に敵艦を真二つに引裂き、海底に葬り去った。

 なお、同攻撃において、われは日本戦艦ヒラヌマ(二万五千トン)級を炎上させ戦闘機能を完全に破壊したことを確認した。

 以上のコミュニケに添えて、コリン・ケリー大尉の勇敢なる指揮官らしい若々しいハンサムな写真と、体当りしたという「空の要塞」ボーイング十七爆撃機の写真と、そしてケリー大尉の若妻アイリンが、インタビューの記者団の前で、

「あたしは彼の妻としてでなく一米国人として、ケリーを誇り、彼の記憶を墓地まで持ちつづけます」

 と涙をふくんで雄々しく誓っている写真、三つの写真が掲げられ、ケリー大尉のマサチューセッツ州ニュベリポートの商人の息子に生れ、長じてウェスト・ポイントの陸軍士官学校を卒業し、のち空軍に編入されて操縦士となり、開戦三カ月前に、ルソン島アパリの航空基地配属を命ぜられ、後にデルモンテ基地に移動した経歴の詳細が記されてあった。

(中略)

彼の記憶を墓場まで

 十二月十七日! 一週間経ったが、アメリカ人のコリン・ケリー大尉に対する感謝と興奮はたかまる一方であった。そしてその感謝と興奮が絶頂に達したこの日、おどろくべき一つのゼスチュアが、時のルーズベルト大統領によって行われた。

 それは現在の大統領が、十五年後の米大統領に信書をおくるという前代未聞のやり方で発表された。

 コリン・ケリー大尉の遺児にして、勇敢なる父のあとを踏め、陸軍士官学校に入学の希望を持つ場合は、閣下の暖かき配慮を期待します。 フランク・デラノ・ルーズベルト

 つまりその時の一九四一年から十五年後の一九五六年(今年である)に米国大統領たるべき、まだ誰とも知れない人物に、十七才になるであろうコリン・ケリーの遺児がもし希望したら無試験でウェスト・ポイントの士官学校に入れてやってくれ、という意味のまことに劇的な手紙のわけである。

 むろん現在のアイク大統領は、当時はまだマッカーサー元帥の参謀副官をしていたのだから、ルーズベルトがアイクを目ざして書いたわけではないことは説明するまでもないだろう。

(中略)

輝かしき詳報

 それはよいとして、ここに、ジュニアの陸軍士官学校無試験入学のニュースと同時に冷酷なる一つの真相というものが発表されたのである。

 それは何かというと、勇敢なる護国の鬼、全米の感激と祈禱を受けて、大統領にまで未曾有の劇的な信書を書かせた故コリン・ケリー大尉の自爆行為ということは、まったくの虚報であったという事実の発表である。

 コリン・ケリー大尉は、決して日本海軍の至宝榛名に体当りしてこれを真二つに引裂いたりなどしなかった。コミュニケは誤報であり、榛名は当時数百浬(カイリ)離れた南支那海の基地にいた。同じコミュニケにあるヒラヌマなどという名の軍艦などは、日本海軍の中に、そんな名の軍艦はもとより水雷艇だっていなかった!

【出典】1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第四号所収
    陶山 密「-祭り上げられた戦士-アメリカのニセ特攻軍神」


イソロク・ヤマモトを体当りしてでも射ち落とせ

また山本五十六元帥を撃墜した戦闘機隊指揮官ジョン・W・ミッチェル陸軍少佐は、出撃前に、上司のL・S・ムーア中佐から「いかなる犠牲を払っても、元帥の飛行機を射ち落とせ」と命ぜられたそうです。戦後、ある人がこの件について質問した時、ミッチェル少佐は「万が一、射撃で元帥の飛行機を射ちもらしたとしたら、私は体当りしたかも知れない」と答えたそうです。

↓↓↓元海軍航空艦隊参謀の手記から:J・W・ミッチェル陸軍少佐「山本元帥撃墜では体当りも考えた」↓↓↓
 山本五十六元帥を撃墜した戦闘機隊指揮官ジョン・W・ミッチェル陸軍少佐は、出撃前に、上司のL・S・ムーア中佐から「いかんる犠牲を払っても、元帥の飛行機を射ち落せ」と命ぜられた。

 この命令は、最後の手段としては、体当りしてでも、任務を完遂せよとの意味をふくんでいたのである。最近某氏がこのことをミッチェル少佐に質問したときに、「万が一、射撃で元帥の飛行機を射ち洩らしたとしたら、私は体当りしたかも知れない」と答えている。

 最後の攻撃法として、捨身の戦法は、われも敵もとったところである。

【出典】1960(昭和35)年 自由アジア社 元海軍航空艦隊参謀 安延多計夫「南溟の果てに-神風特別攻撃隊かく戦えり-」

【資料出典】
・1983(昭和58)年 講談社 「写真図説 帝国連合艦隊-日本海軍100年史-」

  • 最終更新:2017-08-25 16:19:15

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