まぼろしの連合艦隊

1945(昭和20)年7月、津軽海峡に連合艦隊が現れたそうです。

夜明けの津軽海峡で北上する連合艦隊には乗組員の姿が見え、煙突、大砲までよく見えたそうです。

日本敗戦が決定的となりつつあった時、連合艦隊は再び単冠(ひとかっぷ)湾をめざしていたのかも知れません。

もう一度、真珠湾攻撃をやるために。

英霊の日本を思う心は、今でも生きているのだと思います。


【真珠湾攻撃】
1941(昭和16)年、日本は和平への努力もむなしく、戦争への道を選ぶしかなかった。大本営は11月5日作戦準備完整、12月1日には開戦決定と8日以降の武力発動を発令した。これより先、南雲忠一中将率いる機動部隊(航空母艦6隻基幹)は11月26日択捉島単冠湾を出撃、ハワイへと向かった。
hitokappu_2.jpg

【南雲忠一中将】
nagumo_shireichoukan.jpg




1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第七号所収 永井春三 「幻の連合艦隊」


 よく東京でも蜃気楼が見えた、などと云(い)って騒ぐが、日本では富山湾が一番よく、この蜃気楼を見られるそうだ。

 だが、私の見たのは、蜃気楼とは思えない誠に鮮(あざや)かなものだった。

 それは終戦の年の七月、本州と北海道を結ぶ津軽海峡での出来事だ。私は鉄道に務め、青函連絡の貨物船に乗り組んで、日に二回この海峡を往復していた。空襲と潜水艦の脅威に、内心おののきながら、それでもお国の為(ため)と、日の丸の鉢巻を頭にしめていたものだ。


【青函連絡船航路】
seikan_renraku1.jpg


 明け方だった。青森を出た私たちの貨物船は、海峡のまん中にさしかかっていた。いわゆる一番の難所だ。

 と、甲板に出ていた私は、北東の沖合いに、暁闇(ぎょうあん)を突いて北に進んでゆく、堂々の艦隊を見たのだ。それは、手にとるように、明瞭に乗組の人の顔は見えなかったが、艦橋から、黒煙を吐く煙突、大砲までがよく見えた。艦隊は各種軍艦を混(まじ)えて、四十艘はあったろう。


kankan_shiki_s8.jpg


 私は、船内に駈け込むと、同僚を呼んだ。十二、三人の同僚が、甲板で、この艦隊の威容に涙を流して、万才(ばんざい)を叫んだものだった。
 
 だが、不思議にも、この時、日本には、こんな艦隊が、既(すで)に無くなっていたのだ。それにしても、あの時、旭光(きょっこう)の軍艦旗を翻(ひるがえ)して北に進んでいた連合艦隊は、果して、なんであったのだろう。私は、一場の蜃気楼と解したくないのだ。いや、この時居合わせた同僚たちも、私と同じ気持ではないだろうか。



【地図出典】Wikipedia 青函連絡船
【写真出典】1970(昭和45)年 株式会社ベストセラーズ 福井静夫 「写真集日本の軍艦-ありし日のわが海軍艦艇」




 

  • 最終更新:2015-06-04 07:44:20

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード