さまよえる魂

日清戦争後の明治36、7年(西暦1903、1904年)頃、貧乏だった日本から多くの日本人がフィリピンに移民として渡りました。

真珠湾攻撃の年、1941(昭和16)年には日本人移民の数は2万9000人にのぼり、うち1万9000人がダバオに、4500人がマニラ市に、3000人がマニラ北方百五十マイルの所にあるバギオに住んでいたそうです。

日本人移民はフィリピンミンダナオ島のダバオ州を営々と開拓し、苦労の末に麻という特産品を開発し、5万人の現地雇用を創出して、ダバオ州の租税の八割は日本人が負担するまでになったそうです。

しかし1942(昭和17)年、中立を保っていた米国が一転して反攻、フィリピンに上陸するや日本人移民を強姦、虐殺し始めました。その一報を聞いた帝国陸軍坂口部隊がダバオを急襲、生存していた日本人移民を助け出しました。

その時、危険をかえりみず、日本人をかくまってくれたフィリピン人も大勢いたそうです。

当然、帝国海軍も日本人が虐殺されていると知って、歯ぎしりするほどくやしかったでしょう。

1944(昭和19)年12月、フィリピンのマバラカット飛行場から出撃した爆戦隊のうち三機が帰還しませんでした。ところが、出迎えに出た人々の目に死してなお編隊に加わっていた間島少尉の魂が見えたのだそうです。



【フィリピン飛行場、基地所在地】
◆…海軍 ◇…陸軍
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出典:1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第七号所収 「さまよえる魂」


 私たちは、その時のことを、後で "さまよえる魂" と呼んだ。そうでも呼ばなければ、ほかに云(い)いようがなかったからだ。

 私たちは、その頃(昭和十九年十二月)マバラカット飛行場(比島) (*1)で地上勤務をしていた。この飛行場では、ふた月前の十月、日本最初の 『神風特攻隊』 が飛びたっていたのだ。

 私たち地上勤務員は、神風の大戦果に日夜湧き、不眠不休の作業にも拘(かかわ)らず、搭乗員に負けるものかと、頑張りとおしたものである。

 その日も、敵船団めがけて、飛行場からは爆戦隊が飛びたった。私たちは、全機無事に帰還するように祈りながら見送った。

 夕方だった。味方機帰るの声に、私たちは飛行場に飛びだした。一機二機と、飛びたっていった時の数とを考え合わせながら、数えていった。三機の不足だった。私たちの顔が一瞬暗くなった。

 私たちの受持(うけもち)であった間島少尉の機も、そのうちの一機だった。上空では帰らぬ間島機の位置を空けて追悼編隊が組まれていた。

 と、その私たち受持の眼に、白い雲のようなものが間島機の位置で動いているのが、はっきり見えた。その白いものは、僚機 (*2)と一緒に編隊を組んで私たちの頭上を通過していった。私たちは、負けん気の間島少尉が、無念の涙をのんで死んだことを思い、心から、彼の冥福を祈ったものだ。



【参考資料】
・1958(昭和33)年 日本文芸社 「現代読本」第三巻第五号 元山下兵団部隊坂口部隊 陸軍軍曹 伊藤清吉「総虐殺寸前! 救援快速部隊来る」


  • 最終更新:2015-06-04 07:37:45

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