【飛行第百一戦隊】特攻神 「日本のあとを頼むぞ」



出典:1977(昭和52)年 ビジネス社 生田恂 「陸軍航空特別攻撃隊史」 鎮魂歌 その一 特攻神



 この人は、沖縄航空作戦当時、南九州の防空と特攻隊の掩護に任ずる、飛行第百一戦隊の通信将校として都城東飛行場に勤務し、今は岐阜の片田舎で中学校の教師をしている。彼は、生徒が卒業する前に、きまって「特攻神」の話をするそうである。次の文章はその一節である。



 私は、この作戦の時、九州都城の基地にいた。私の部隊の任務は、特攻隊出撃の世話、即ち爆弾をつけること、宿舎と食事の世話、沖縄へ誘導すること、特攻機が敵機から撃ち落とされないように援護すること、などだった。来ては征き、来ては征く幾組かの隊の世話をした。その光景はいまもありありと思い浮かべることが出来る。

 彼らは偉いものだったよ。「二、三時間後には死が決まっている」とはどうしても思われない明るさ、平静さ、全く頭の下がる態度だった。いよいよ出動の飛行機に乗り込む時には

「色々御世話になりました。私どもは先にまいります。日本の後を頼みます」

とニッコリ笑って飛び立って行ったのだよ。中にはロープを取り出して

「体が飛び出さないように、機体にしっかりと結びつけてくれ」

と世話をする整備員に頼んでいた戦士もいたよ。見送る者は皆、感動のあまり涙をこらえることが出来なかったものだ。


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 こういう人たちが、清らかな気持で身を捨ててくれたにもかかわらず、日本は敗れてしまった。私はとても悲しかった。特攻隊勇士と手を握り合って約束したことはどうなったのか。「おお、きっと私も後から行くからな」と言った約束が私を責めた。じっとしていられない気持だった。私は古武士の精神を幼年学校以来教えられている。日本の国が栄えるように骨折ったのに、日本は駄目になってしまった。そうだ、死んでお詫びするのだ、と思った。そうした折、上司から

「若い者は早まるな、生きのびて新しい国に尽くせ、決して無駄死をしないように」

との戒めの言葉があった。私もここで甚(はなは)だ申し訳ないが、生きながらえて何かの役に立とうと思い直した。

 あれから二十年、私は教師として若い者たちの前に立っている。どうかな、私の背中に何か見えないか ─── 私はいつも特攻隊勇士をおんぶしているのだが ─── 私は彼らがかわいそうでならないのだ。思っても見よ、彼らが死なずにいたら、今ごろはテレビを見て楽しんだことだろう。マイカーで思うままにドライブしていたかも知れない。

 日本の発展を祈り、日本国民を敵の爆撃から救いたい一心で特攻隊員になった純情至誠の青年たちに、一体どんな報いが与えられたのだろうか。

爆弾が破裂するときには、万本の針が一時に体を刺す痛みがしただろう。


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敵艦に突っ込む前に、不幸、弾が愛機に当たり燃え上がった時は、熱い火焔がその体を焼いたことだろう。


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私はあれこれ思うとき、本当に彼らがかわいそうでたまらない。こんなにも尊くかわいそうな人たちを忘れ果てて、今の日本人は何をしているのか。贅沢三昧(ぜいたくざんまい)をしているくせに、まだ不平不満だらけで、ワッショイワッショイ、デモばかりしているではないか。


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私は今生かしていただいている境遇が申し訳なく、勿体(もったい)なくて仕方(しかた)がない。だから、私は今の人たちが乗りたがる自動車を決して欲しいとは思わない。彼らのことを忘れて、どうして私だけが楽しまれようか。よい着物をきようとか、美味しいものを食べようとか、いい気になって遊ぼうとか、もう私には考えられない。

唯々(ただただ)おそれるのは、かわいそうな特攻勇士にどう報いるか、だけなのだ。二十年たった今、私は特攻隊勇士の願い「日本のあとを頼むぞ」を忘れずに、私一人になってもよいから、この言葉を守っていこうと心に決めているのだよ。

 日本の現在、卒業する中学生は何百万人といよう。また、先生も何十万人といよう。その多数の中から不思議にも私は皆とここに向かい合っている。私と皆とはよくよく深い因縁があるとみえる。皆は、私にとって大事な大事な人たちだ。

どうかね諸君、もし私の話に共鳴してくれたら、このかわいそうな特攻隊の人たちの願いをきいてやってくれないかね。日本の国をよくしたい、後を頼むぞと言った彼らの願いを。それを言い換えれば 「君たちがすくすくと成長し、真に正しい道、真実の道を進んで祖国を愛し、日本を輝かしい国にすることだ」と思うのだが。名誉も地位も一切捨てて、教師の道を歩いている私の願いは、すなわち特別攻撃隊殉国勇士の願いなのだが。

(昭和三九、三、一記)


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【写真説明:上から】
①1945(昭和20)年5月3日、菊水5号作戦が発令された日の台湾新竹基地、神風特別攻撃隊帰一隊の記念写真。
②1945(昭和20)年5月4日19時33分、護衛空母サンガモンの艦首から突入した特攻機。飛行甲板中部に命中し、携行した爆弾が甲板の直下で爆発、甲板と格納庫の両方に猛烈な火災が発生した。米軍の搭載機は次々と炎上、手前の飛行甲板は爆風の圧力で上方に湾曲している。
③1945(昭和20)年5月14日、九州南方および沖縄沖。帯状の炎を吐きながら軽巡ヴィックスバーグの至近海面に突入しようとする特攻機。プロペラは停止し、左側からに機体から飛び散った破片らしいものが落下しつつある。燃え尽きていく若者の叫びが聞こえるようである。
④1968(昭和43)年3月、東大闘争。安田講堂前で医学部学生処分に抗議するデモ隊。
⑤1968(昭和43)年11月12日、東大闘争。日共系と反日共系の内ゲバ。
⑥陸軍特別攻撃隊第113振武隊の二式高練。1945(昭和20)年6月6日、沖縄の連合国艦船をめざして飛行中。搭乗員は中島璋夫伍長。知覧から発進、突入機数は中島機をふくむ10機。



【写真出典】
・1997(平成9)年 ベストセラーズ カミカゼ刊行委員会「写真集カミカゼ 陸・海軍特別攻撃隊」下巻
・1995(平成7)年 毎日新聞社 「毎日ムック 戦後50年」



 

  • 最終更新:2016-03-14 09:04:42

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