【西ドイツ】海軍長官ルーゲ中将の称讃する 日本海軍「神風特攻隊」の活躍

西ドイツ海軍長官ルーゲ中将の手記をまじえた元陸軍大佐による特攻隊の戦果記録です。

日本とともに共産党の世界侵略と戦ったドイツは、当時日本が置かれていた状況と日本人の民族性をよく理解していました。

ルーゲ中将は

「日本は国土の存亡を決する重大な危機に当面していた」

「昔から日本人は、万策尽きるまでは決して自殺行為を採らない国民である」

「日本人の長い伝統が、天皇と祖国とのためによろこんで死地に投ずる、美しい自己犠牲の精神であった」

と言い、

「神風特攻隊の犠牲的精神は世界でもっとも優れている」

と言っています。



出典:1957(昭和32)年 日本文芸社 「現代読本 第二巻第六号」 所収 
    元大本営海軍報道部 陸軍大佐 高瀬五郎
    「西ドイツ海軍長官ルーゲ中将の称讃する 日本海軍 『神風特攻隊』 の活躍」


戦闘法に一大転換

 第二次世界戦争が終ってから、もう既に十数年の歳月が流れている。

 戦争の惨禍を今さら、改めて思いおこそうというのではないが、戦後種々の批判が行われた神風特別攻撃隊についてその真相を摑(つか)んでおくことは決して無駄ではないと思う。

 まして神風特別攻撃隊に身を挺して散華した、多くの将兵達の行為が、祖国の興廃に殉ずる、いわゆる滅私奉公の精神から発したものであるだけに、戦争の相手国であった米国海軍からも、神風特別攻撃隊の成果に関する各種の資料が出揃った今日、これを回顧することは、むしろ我々の義務であるとすら感ずるものである。

 戦後、太平洋における日米海軍の戦闘の跡をつぶさに検討した、西独海軍長官ルーゲ中将が、その著述の中で次のように述べていることは、特に我々の注目をひく一事である。


×   ×   ×

ドイツ海軍旗1.jpg

 一九四四年昭和十九年十月二十五日、レイテ沖の米海軍の護送空母群の第二群に、十機の日本機が体当り攻撃を行った。それ以来、両軍の戦闘法に一大転換がもたらされることになった。戦闘において、飛行機が艦船に衝撃したことは、過去においても決して(めず)珍らしいことではなかった。しかし今まではそのほとんどが、戦闘中の飛行機が既に損傷を被った後か、あるいは母艦に帰投することが不可能になった場合に限られていた。

 たとえば、ミッドウェイ沖海戦において、一機の米国海軍機が巡洋艦「三隅」に体当りし、ガダルカナル沖において米軍の上陸直後日本の飛行機が、米国輸送船に衝撃し同船を炎上せしめている。

 またサンクルーズ群島沖海戦において、二機の傷ついた日本飛行機が、米国空母「ホーネット」に体当りして、大損害を与えたなどは、そのどれもが、搭乗機の損傷した後の出来事であった。

 こうした場合とは全く異って、一群の飛行機が始めから意識的に急降下し、敵艦に衝撃したのはレイテ沖が最初であった。

 これがいわゆる神風攻撃隊であって、日本大本営は、これを『特別攻撃隊』と公表した。この神風という名称は『神の風』の意味で、中世紀におこった日本の一大事件を思い返してつけられたものであった。即ち元のフビライ汗(世祖)が、日本国を征服するために派遣した蒙古の一大艦隊が、九州の博多湾に上陸を開始しようとした直前、突如来襲した暴風雨のために、遠征艦隊のほとんどが殲滅されたという古事から起ったものであった。

 レイテ沖海戦当時、日本は国土の存亡を決する重大な危機に当面していた。この状態に奮起した日本軍人の燃ゆるが如き祖国愛の精神は、期せずして『神の風』の観念をよび起し、冷酷な敵艦に身を以て体当りすることによって、かつての神風が敵艦隊を潰滅させた如く、祖国をこの危急から救おうとしたものであった。それは決して、血気にはやった若い軍人たちの自殺行為ではなかった。

 昔から日本人は、万策尽きる迄(まで)は決して自殺行為を採らない国民である。日本人の考え方によれば神風精神は、いわゆる、『武士の一生は、春ともなれば忽然として咲き、かつ潔く散り行く、桜花に譬(たと)うべし』という古語に謳(うた)われた、その桜花(さくらばな)にたとえたものであった。

 それは、日本人の長い伝統が、天皇と祖国とのためによろこんで死地に投ずる、美しい自己犠牲の精神であった。

 この意味からは、神風攻撃隊は、むしろ自己犠牲飛行機と表現した方が、最も端的にこの思想を現わしているとも云(い)えるものであった。

 マリアナ方面の戦闘において被むった大損害の後は、日本軍は敵に優る飛行機を急速に、そして充分に備えることは最早(もはや)不可能であった。

 第三航空戦隊司令官大林少将は、その当時既に『神風攻撃隊』を編成し、自らその指揮官となるべく意見具申を行ったが、それは作戦主脳部(ママ)の許可するところとならなかった。

 しかし海軍部内の一般的な思潮は、純航空作戦を断念して、特別攻撃による最後の手段を採るべきではないか、という考え方に傾むいて行った。殊(こと)に飛行機搭乗員の多数は熱心に、『特別攻撃隊』のために決死の志願を行ったが、それはこの『特別攻撃隊』こそ、勝利への希望をつなぐ、唯一の戦術であるという考えに起ったものであった。


決死の志願者続出

 この恐るべき特攻隊を決定する端緒を作ったものは、航空艦隊司令官有馬海軍少将その人であった。彼は一九四四年十月十五日ハルゼーの率いる空母部隊が、フィリピン東方海上に現われたとき、特攻戦術の採用に関する全将兵の念願を、身を以て実行に移した。そしてこの有馬少将の熱烈な行為が、首脳部を動かし、ここに『特別攻撃隊』は採用されることになった。

 おりから連合艦隊は、全力を賭してレイテ作戦を勝抜くよう、命令に接していた。そのことを知った大西と福留の両提督(第一、第二航空艦隊司令長官)は、部下の激しい愛国心に動かされ、遂に特別攻撃隊を急速に編成することになった。こうして数日後には、レイテ沖に敵艦隊攻撃への最初の機会が訪れて来た。かくして個人の犠牲の上に築かれた新たな戦術が、日本海軍によって生れたのである。

 日本陸軍の航空隊も、すぐ様これにならった。フィリピン周辺の海戦はもちろんのこと、沖縄沖の海戦では、海陸両軍の特別攻撃隊は数百機に上って、眼覚しい活躍を見せた。

 後になっては、空飛ぶ魚雷にも比すべき桜花機(米軍はこれを BAKA と呼称した)が現れるようになった。この桜花機に抱かれて飛行しながら高々度から敵艦に向けて投下される仕掛けになっていた。この桜花の特徴は、ロケット装置によって、高速度を出せるようになっていることであった。そして一人の操縦員によって、目標に向って突進できる形式のものであった。

 しかし数百機に上って製作された桜花機のうち、実戦に現われたものは極く少数で、その戦果も尠(すく)なかった。この原因は、桜花機を搭載した低速の雷撃機が、目標に到達する遥か前に、敵機のため撃墜されたからであった。

 この特別攻撃隊と同一の精神から生れたものに、人間魚雷があった。人間魚雷は、味方の潜水艦に依って敵の港湾に運ばれ、港湾内の敵艦船を攻撃した。ウルシー港ではこの人間魚雷が、港内に在泊中の一隻の大型油槽船を雷撃するのに成功し、その油槽船は、遂に大火災をおこした。

 シーア・ドラー港内に在泊中の一隻の弾薬船が、突如爆発したが、これは恐らくこの人間魚雷の襲撃によるものと推定される。爆発した弾薬船の船体は木葉微塵(こっぱみじん)に飛散し、更にその爆発によって海底に一大孔ができ、附近に碇泊中の艦艇上に居合せた数百人の乗員も爆死した。その時の爆発雲は二千米(メートル)も高く奔騰したのであった。

 この人間魚雷の使用回数も、比較的に少なかった。それは人間魚雷を搭載する潜水艦が、非常に少数であったからだった。戦局の不利から、これら人間魚雷搭載潜水艦の多くが、太平洋上の孤島を守る日本守備隊の補給用に使用され、その際多数の優秀艦をうしなったからであった。

 断片的な水中攻撃に比べると、空からの神風特攻は、誠に積極的であった。この神風特別攻撃隊の出現は、米軍によって、正に危険極(きわま)りない存在となって来た。これがため米軍は大損害を被むって、既定の戦術を変更し、対日侵攻作戦を遅らす土壇場にまで追詰められた。約二五〇〇人の日本将兵が、特別攻撃隊となって戦死し、一時的にせよ米軍の侵攻をくい止めたのであった。忽然として舞い起った神風となって、日本の非勢を挽回しようとした特別攻撃隊の行為は、日本人以外の国民では実行困難であろうと思われる。

 しかし、時既に日本は尽大(ママ)な打撃を被むっていて、長期間にわたる航空戦に精魂をすり減らしていた。最も優秀であり、また最も勇敢であった最後の飛行機搭乗員は、神風攻撃隊となって消耗し、しかもその果した功績は正確に知られずに終ってしまっている。

 当時日本国民は、かれらの攻撃の成果に大きな期待を寄せていて、国を挙げてその成功を熱心に祈っていた。しかし戦況はかれらの犠牲的な攻撃にもかかわらず、遂に戦局を挽回することは出来なかった。

 一九四五年八月中旬、米国との戦争は終結した。その日、第五航空艦隊司令長官宇垣提督は、自ら敵艦に体当りを敢行して果てた。また神風特別攻撃隊の育ての親であり、当時軍令部次長の職にあった大西提督は、部下に対する申訳けのために切腹し、懊悩の中に自殺した。

 われわれヨーロッパ人の敗戦という考え方は、これとは全く違う面もあるが、神風特攻隊の犠牲的精神が世界に冠絶 (*1)するものであるということは、間違いがない事実である。


×   ×   ×


 ルーゲ中将は、神風特攻隊について以上のように述べているが、中将の言葉にもあるようにこの神風特別攻撃隊の挙げた功績については、そのすべてが未帰還であったために、日本側でも十分には判っていなかった。戦後公刊された米国側からの資料などによって、ようやく明らかにされたものが決して尠くないので、その主なる例を挙げて、神風特攻隊の活躍ぶりをふりかえってみたいと思う。


レイテに神風特攻

(その一) レイテ島附近の戦闘について、次のような神風特別攻撃隊の活躍が報ぜられている。

 レイテ島における上陸直後の米軍の状況は容易でなかった。それはレイテ島の東側に飛行場を設営することが殆(ほと)んど不可能であったからである。

『泥又(また)泥、ブルドーザーは、何処(どこ)を掘(ほり)返しても泥でない処(ところ)はなかった』とは、実際に飛行場の設営に従事した米兵達の告白であった。米陸軍は一九四四年十月二十七日以降、飛行機の協力を得るようになったが、それは僅(わず)かに一カ所の飛行場を使用出来るようになったからであった。しかしその飛行場すらも、打(うち)続く降雨のため雨水が滑走路に溜まり、しばしばその使用を中止しなければならなかった。

 それに加えて折(おり)悪(あ)しく、米軍の護送空母群は、日本艦隊との交戦、神風隊の攻撃によって大損害を被むり、百機以上の飛行機を喪失したため、後退のやむなきに至った。さらに、米軍上陸部隊にとって不利となったことは、米大型空母群の過半が戦場から後退して、次期の東京攻撃に備えるためウルシーに引(ひき)返したことであった。


 日本軍はルソン島上の航空兵力を増強し、神風隊の攻撃を続行した。このため三隻の米軍大型空母が、神風隊の体当り攻撃を喰(くら)ったがその損害は軽少であった。一九四四年十一月一日神風隊は、レイテ沖において駆逐艦一隻を撃沈し、三隻を損傷させた。

 この神風隊に対する防禦手段としては、レイテの泊地に煙幕が張られた。煙幕は泊地艦船の乗員にとって肺や眼には不快な存在であったが、来襲する神風隊に対しては、目標の視認を困難にさせる効果があった。

 神風隊の攻撃が行われない日は、泊地にとって正しく平穏無事な日であった。多数のフィリピン人の男女が、この平穏な時を狙って小舟で碇泊中の米艦船を訪れ、艦上で休養している乗員と商売を行っては、土産物を交換していた。この間にも神風隊来襲の警報が、訪問者と艦船乗員とを、一時的ではあるが狼狽させるのであった。米軍作戦指導部では、この神風隊の攻撃による危険を重大視した。

 そして米空母部隊は、ルソン方面一帯の制空権を確保するまでは、東方への進撃を延期した。

 最近数カ月間における、米空母艦上に配属された医師の診断によれば、飛行機操縦員中、戦闘に従事できる者は、僅かに全操縦員の二十五パーセントに過ぎないと報告された。しかし実際にはこれら搭乗員の全員を使って、フィリピン地区の攻撃に投入し、神風隊に備えなければならない有様(ありさま)であった。

 レイテ島上の作戦が遅々として進まないため、米軍はその手に握った制海権を利用して一カ師団を上陸舟艇に搭載し、同島の南側を迂回して、西岸中央にあるオルモック附近に上陸させた。この船団は約三分の一が神風隊による約一〇〇機の日本攻撃隊の攻撃を受け、駆逐艦一隻を失ったほか、多数の輸送船や駆逐艦が損傷を受けた。こうした損害にもかかわらず米軍の上陸は成功し、日本側の強烈な反撃を押しかえして一つの橋頭堡(きょうとうほ) (*2) が構築された。その数日後、再び第二次の米軍護送船団が、オルモック輸送を行ったが、この時も神風隊の攻撃を受けて、駆逐艦一隻が沈没し、一隻が損傷した。


【本土周辺作戦地図】
1945スリガオ地図_2.jpg

【オルモック(レイテ島)】
地図_レイテ島要図_2.jpg


(その二) 一九四四年十二月十二日夕刻、レイテ島からミンドロ島へと跳躍作戦が行われた。

 薄暮せまる頃まで、跳躍部隊は偽航路をとり、スリガオ水道を通航した。日本軍の沿岸監視隊が、この米軍進撃部隊の行動を確認したと思われたのにもかかわらず、翌日までは何等(なんら)の抵抗を受けずに進撃が出来た。しかしその日の午後、突如として唯(ただ)一機の神風機が低空飛行で来襲して来た。

 その神風機は激しい対空砲火によって撃墜される寸前、巡洋艦ナッシュヴィルの艦橋めがけて体当りした。一大爆発と共に一三五人が焼死し、陸上作戦軍司令官一将軍をも含む二〇〇人の乗員が負傷し、電信及び電探装置はすべて破壊され、陸軍及び海軍幕僚部は、かれらの幕僚長と多数の重要職員と作戦指揮要具とを失った。

 この日はほかの神風隊も来襲したが、被害は駆逐艦一隻の損傷に止(とど)まった。

 また上陸時をねらって来襲した神風隊は、上陸資材及び弾薬を積載した二隻の上陸用舟艇に体当りした。

 戦艦及び護送空母に対する神風隊の攻撃はしばしば、目標から至近の処(ところ)にせまったが、成果を挙ぐることが出来なかった。

 翌日になって、一隻の高速艇が神風機の体当りを受け、木葉微塵(こっぱみじん)に飛び散った。米軍の戦艦及び護送空母は、こうした神風隊の襲撃による危害から免がれるために、上陸第二日目には現場から後進した。


(その三) ルソン島攻略作戦の実施に当って、マックアーサー (*3)の上陸計画はレイテ島の場合と全く同様であった。

 上陸軍を支援する海上部隊も変更なく、ハルゼーが第三艦隊を率いてルソン島の東方海上に位置し、同島及び台湾に配置された日本軍飛行場の制圧に従事した。上陸部隊は、旧式戦艦及び護送空母に依って護衛された。日本軍が戦術的に意表を衝かれた点は、米軍が上陸に極めて適したリンガエン湾の中部地点を選ばないで、同湾の南端で水深が浅く、しかも沼沢に富み、河川と堀濠とによって寸断された奥地を上陸地点として選んだ事であった。

 計四カ師団からなる二軍が先(ま)づ上陸する予定で、更に二カ師団が輸送船に乗船したままの姿勢で、予備隊として控えていた。

 これら軍団中の一つは、ホーランディア、アイタペ、マヌス及びサンザポールにおいて準備され、他に軍団はブーゲンビル及びグロースター岬において用意された。過去の戦場と化したこれらの地点は、ルソン島における新(あらた)な上陸地点からは、優に二千浬(カイリ)も隔たっていて、低速の輸送船団をもってしては、正しく十三日間を超ゆる航海を必要とした。かくして一月上旬には、六八五隻からなる上陸軍が上陸地点向けて航行中であった。

 その中にはスリガオ水道の海戦に参加した六隻の旧式戦艦とレイテ上陸作戦に再び充実された十八隻の護送空母、十一隻の巡洋艦、一六五隻の駆逐艦及び護送駆逐艦、六五隻の掃海艇がふくまれていた。

 ハルゼーは約百隻の艦隊を率いて同じ時期に、ウルシーを出撃した。彼が最も頭を悩ましたのは、神風隊の攻撃であった。

 神風隊に対しては、確実な対策はなかった。米軍があらゆる手段を尽して爆撃を行ったにもかかわらず、日本軍の飛行機はなほ多数が飛行可能の状態にあった。その主要な原因は、日本軍が本国から二週間の予猶 (*4) をもって増援補充を行うことが出来たからで、毎日百機から百十機の飛行機を以って、反撃することが可能であった。

 レイテ及びミンドロ島の上陸作戦では、既に百隻以上の米艦船が神風隊の体当り攻撃を受けたことから考えれば、七〇カ所以上の飛行場を日本軍が使用できるルソン島に近接すればするほど、ますます大きな損害を被むる率が増加することを、米軍としては覚悟せねばならなかった。

 果して神風隊は、攻撃を躊躇することはなかった。一九四五年一月三日、掃海部隊は二回にわたってその襲撃を被むった。その翌日には、神風機一機が弾薬船に体当りし、同船は大爆発を起して瞬間に沈没した。薄暮(うすくれ)に至って護送空母オマニーは、暗黒の水平線から飛来した神風機の命中によって炎上した。同艦は九三名の戦死者と多数の負傷を出し、激しい火災のため遂に船体を抛棄しなければならなくなり、味方艦の発射魚雷によって撃沈した。


【被弾し機体から炎を吹き出しながらも護衛空母オマニー・ベイの飛行甲板を飛び越える銀河】
1945オマニーベイ銀河.jpg


【オマニー・ベイの左舷を海面に向かって降下する銀河。左主翼に被弾】
1945オマニーベイ.jpg


【リンガエン湾で炎上しながら右旋回するオマニー・ベイ 1945年1月4日】
1945空母オマニーベイ.jpg


 このような神風隊の攻撃は、序の口に過ぎなかった。米軍輸送船団がマニラを素通りして北上するのを認むると、かれらはその攻撃をなお一層積極化して来た。そして巡洋艦ルイスヴィル及びオーストラリヤに体当り攻撃を行った他、護送空母二隻と多数の駆逐艦及び掃海艇を攻撃したが、いづれも沈没するには至らなかった。


【豪重巡洋艦オーストラリヤに特攻機が命中した瞬間 1945年1月8日】
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 その頃、ハルゼーの空母部隊は、台湾の飛行場を攻撃し、南支那海えの(ママ)進出を準備していたが、神風隊の攻撃が予想外に協力であったため、改めてルソン島の日本軍飛行場の攻撃に従事することになった。

 一九四五年一月六日オルデンドルフの率いる戦艦部隊が掃海隊を先頭に、リンガエン附近の陸地砲撃開始の当日を期して、空母部隊は、ルソン島飛行場の空襲を始めた。

 これに対して神風隊の大部分は、海軍機と陸軍機とから編成され、二十五時間以内に二十一隻の米艦船に体当り攻撃を行ったが、その中には戦艦三隻と巡洋艦三隻とが含まれた。

 かれらは特に艦橋を狙い、主脳部の殺傷と電探及び無線装置を破壊した。

 ハルゼーは数日間にわたって、徹底的な飛行場攻撃を行った。その結果地上においては七五機の日本軍飛行機を破壊したが、空襲では僅かに四機を撃墜したに過ぎなかった。

 その後、神風隊の攻撃は下火となったが、巡洋艦オーストラリヤは上陸当日第三回目と第四回目の体当りを喰(くら)い、乗員は不快きわまる思いをしたばかりではなく、翌日には第五回目の体当りを受けて、前部の煙突が倒壊し、安全海域に後退した。

 また巡洋艦コロンビアは第三回目の体当りを、護送空母キトカンベイは、同時刻に神風機二機の体当りを喰った。上陸日の午後には戦艦ミシシッピーが、艦橋に神風機の体当りを喰っている。


【猛烈な火焔に包まれた軽巡洋艦コロンビア 1945年1月6日】
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硫黄島と沖縄攻防戦

(その四) 硫黄島における米軍の上陸作戦にも神風隊は、敵空母部隊に対し体当り攻撃を敢行した。

 一九四五年二月二十一日米の第五八機動部隊は、日本本土空襲のために北上したが、夜間戦闘機を搭載した空母サラトガ及びインデペンデンスは硫黄島の附近海面に居残っていた。そして同空母の戦闘機は、天明と共に硫黄島や隣接島嶼に対して航空攻撃を行った。ついでサラトガの夜間戦闘機は、硫黄島上の歩兵部隊の夜間射撃の観測に従事するため飛立って行った。

 その味方戦闘機が帰艦して来たときだった。六機の神風隊が一群となって、米軍戦闘機と共に現われたが、電探からも味方戦闘哨戒機からも捕捉されることがなく、一挙にサラトガに向って殺倒(ママ)して来た。

 第一機は飛行甲板の最前部に命中し、第二機はほとんど同じ場所に一発の爆弾を投下したと思うと、海中に飛びこんでしまった。サラトガは忽(たちま)ちのうちに火焔に包まれた。


【半分焼け落ちた特攻機に消化剤を吹きかける米軍消火要員 1945年2月21日】
saratga4.jpg


 第三機は、舷と内側の二つを貫き格納甲板に突込み、大火災となった。第四機は対空砲火によって、片翼を失い艦首前方の海中に落ちた。その機の抱いていた爆弾は、サラトガの水線下に大孔をあけ、第五機は飛行甲板に命中し、第六機は撃墜されたが、その爆弾は更に飛んで舷側に一大破口をつくった。
 
 従来の海空機では、これだけ多数の命中弾を被むった空母が、生き永らえることは、とうてい想像し得ないことであった。

 しかし米空母の艦内防禦(ぎょ)は、それ程飛躍的な進歩と改善を遂げていた。そのためサラトガの火災は、僅か二時間のうちに消火された。

 このときまた他の日本機が来襲して来た。その飛行機は、落下傘附爆弾を以て同艦を照命(ママ)したのち、爆撃しようと試みたのだった。

 この来襲機の大部分は撃墜されたが、唯(ただ)一機がすくなくとも七〇〇瓲(トン)爆弾一発を同艦の艦行甲板に命中させた。この爆弾は、爆発に先だって甲板五層を貫通して大孔を開けた。しかしこれも二時間後には、破損された同艦の飛行甲板の後半部で、飛行機の着艦を行うことが出来るようになった。

 その日の夕刻、神風機一機が、護送空母ビスマルク・シーに来襲し、下降運転中の後部昇降機側に衝撃した。続いて第二の神風機が、艦内の火災に依って照明された破口に体当りして来た。この爆発によって消火隊員の多数が殺傷され、火災は急速に拡がって、格納甲板全部が火の海となった。同艦はやがて爆発によって艦尾を引裂かれた後、沈没した。


(その五) 沖縄攻防戦では、神風隊は最大の反撃を試みた。

 第一次攻撃は、三五五機(海軍二三〇機、陸軍一二五機)の神風隊によって一九四五年四月六日に行われ、主として前哨線に配備された駆逐艦群に目標が向けられた。三隻の駆逐艦が多数の乗員と共に沈没し、すくなくも十二隻の駆逐艦が大破した。

 しかし米軍上陸部隊に対しては、僅かに二隻の弾薬船と一隻の上陸用舟艇を撃沈し、舟艇十隻を損傷せしめたに止(とど)まった。

 これは米空母部隊の来襲を事前に知ることが出来たため、その戦闘機によって危険から免かれたからであった。そのため一機の日本機も、米空母部隊に近接することが出来なかった。

 神風機一八五機をもってする次回の大規模攻撃は、四月十二日と翌十三日にわたって行われた。このため多くの喪失艦と損傷艦とができたが、電探を装備した前哨部隊の被害が非常に大きかった。

 慶良間列島の艦船病院は、損傷艦艇の乗員で満員となってしまった。

 さらに、四月十五日から十六日にわたって行われた一六五機の神風隊によって、米艦船の損傷が続出した。このため駆逐艦による前哨線配備が改められ、すくなくとも二隻、あるいは四隻の駆逐艦が、哨戒線に配備されることになった。それ以来前哨線の艦船の喪失数は、非常に減少した。

 神風隊はその後も引続き攻撃を繰返し、六月二十二日には飛行機の数こそ少かったが、前後七回にわたって頻繁に攻撃した。

 殊に五月十一日には、大損害を物ともせず、米空母部隊の哨戒機による配備線を突破するに成功した。五機の神風隊が、ミッチャーの旗艦バンカー・ヒルに殺倒し、その中(うち)二機が同艦に命中した。艦上では四〇二人の乗員が戦死し、二六四人が傷付いた。火災は消火されたが、同空母は修理のため本国へ帰投しなければならなくなった。

 ミッチャーは幕僚と共にエンタープライズに移乗し、同艦の夜間戦闘機隊でその夜、日本軍の飛行場と、同時に配備された夜間戦闘機とを攻撃して、大成果を収めた。

 翌朝神風隊が米空母部隊を猛攻し、その一機は新しい旗艦に体当りし、前部昇降機側に命中した。その搭載爆弾は艦内下部深くに突入して爆発し、昇降機全部を空中高く吹き飛ばした。

 沖縄島をめぐる三カ月にわたる不断の空中戦で、神風攻撃隊となって喪失した機数は、一九〇〇機に上った。その挙げた戦果は、沈没艦二六隻(駆逐艦以上の艦艇は一隻もなし)損傷艦一六四隻であった。

 英空母部隊も、沖縄及び台湾間の諸島嶼上にある日本航空基地の攻撃に参加したが、かれらもしばしば神風隊やその他の日本機によって攻撃を受け、数機の命中を受けて艦船は損傷した。しかし英空母は、一般に神風機による大きな弊害をまぬがれたが、それは飛行甲板が米空母のそれと異って、装甲板をもって艤装されているため、爆弾に対し友好な防禦となっていた。斜角度を以て命中した爆弾は、殆(ほと)んど甲板を貫通しなかったのである。空母インドシタグルをねらった一機の神風機は高角砲によって大破され一瞬空中に飛上がったと思った次の瞬間、舵一杯で転舵中の同艦飛行甲板上に着坐(座)したが、機体の一部が舷外に転薄して、船体から相当離れた海面で爆発したため、被害を免かれたという事実もあった。

  • 最終更新:2015-11-30 05:12:01

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