【第四三二振武隊】瀬谷隆茂
瀬谷隆茂
昭和十八年十月二十日仙台航空機乗員養成所入所、十九年陸軍委託学生として仙台陸軍飛行学校転属、同年七月同校卒予備候補生・上等兵、同年八月満州平安鎮第二十四教育飛行隊転属、二十年一月陸軍軍曹、同年四月十二日ハルピン出発、二十年五月二十六日第四三二振武隊として舟橋少尉を隊長に万世より出撃、散華。同日任陸軍少尉(三階級特進)。
靖国神社で会ひませう
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御両親様
御元気にて食糧増産に専念の事と存じます。隆茂御蔭様にて愈々(いよいよ)元気相成(あいなり)明後日は愈々出撃する予定です。ここは我等の最後の基地九州河辺郡の知覧(注)です。内地の山や川、田や畠何一つとして懐しいものばかりです。
此(こ)れらの山や川を見るにつけ家を出た時の事があれやこれやと走馬燈の如く思ひ出されます。一度思ひを戦局に馳せば何が何んでも我々の行かねばならぬ秋(とき)です。
皇国に生を享(う)け、皇国護持の為に清く散る若桜、何と嬉しい現在の心境でせう。血湧き肉踊る、日本男子の本懐之(これ)に過ぐるなし。御両親様どうか喜んでやつて下さい。
(注)このあと五月十八日夕方、知覧より万世に転進、同二十六日出撃。
思えば長き二十年我儘(わがまま)ばかりにて何等孝養も成し得ず遺憾の極みです。
しかし、隆茂もどうやらこうやら一人前の軍人として戦の庭に散れるのです。隆茂が沖縄の海に玉と砕けたとお聞き召された時は一言「隆茂よくやった」とほめてやって下さい。「七度生れ醜敵を亡(ほろぼ)さん」とは正に我々の願うとこときつときつとやります。最後に隆茂として御両親様に対し何等孝養を成し得なかった事を幾重にも幾重にもお詫び申し上げます。
御両親様どうか何時(いつ)までも何時までもお元気にて皇国の為に御健闘下さい。
では靖国で会ふ日を楽しみに隆茂は征きます。
辞世
大君の御楯(みたて)となりて散らん身の
水(み)づく屍(かばね)とわれ悔ゆるなし
君が為捧げしいのちいまぞ今
醜艦撃ちて玉と砕けん
昭和二十年五月十八日 隆茂
尊き
御両親様
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御父さん、お母さん、愈々隆茂は明日は敵艦目がけて玉砕します。沖縄まで〇〇粁(キロ)を翔破すべく落下タンクを吊り〇〇〇キロの爆弾を抱いた、機が緑の飛行場で武者振るいして自分の乗って呉(く)れるのを待つて居ります。明日会ふ敵は戦艦か? 空母か? それとも巡洋艦か?……。きつと一機一艦の腕前を見せてやります。
明日は戦友が待つて居る靖国神社へ行く事が出来るのです。日本男子と生れし本懐此(こ)れに過ぐるなし。
御父さん、お母さん、隆茂は本当に幸福です。では又靖国でお会ひしませう。待つて居ります。
最後に、御両親様の健勝を切にお祈りいたします。
五月十七日 隆茂
御両親様
【出典】1976(昭和51)年 現代評論社 苗村七郎 「万世特攻隊員の遺書」
- 最終更新:2016-05-28 12:18:59