【第六神剣隊】牧野 缶亥

牧野 □ (正しくはへんが缶つくりが亥)

明治大学
神風特別攻撃隊第六神剣隊を率ゐて出撃 昭和二十年五月十一日南西諸島にて戦死 二十二歳


想ひは走馬燈の如く


 きわめて断片的なれども書残す事共(ことども)。


 御父上様
 御母上様

 すでに書残せし手紙も御送付申上げましたが、更に出撃の前日の今日、一言申上げます。

 人生僅(わず)か五十年とは昔の人の言ふ言葉、今の世の我等(われら)二十年にして既に一生と言ひ、それ以上をオツリと言ふ。まして有三年も永生きせしはゼイタクの限りなり。いさヽかも惜しまず、笑って南溟(なんめい) (*1)の果(はて)に散る、又(また)楽しからずや。

 金澤(沢)の備中町、材木町小学校の頃、一月置(ひとつきおき)ぐらいに病気をした弱かった頃、また千葉の家の前のグミの実など、潮干狩のこと、新潟の永き思ひ出、水道町の交番……寺浦の家、白山浦の家、下宿の思ひ出、静岡の家、狸(たぬき)の小屋、深澤さんのをぢさん、をばさん! 明大に於ける生活、下宿、岐阜の事、寺の娘、また再び金澤に戻って、瓢簞(箪)町の時代、釣りの事、色々と断片的に思ひ出され、懷(懐)しく、目を閉づれば眼前に浮び上ります。唯々(ただただ)御両親様の御健康を祈るのみ。

 御父上様の例の御病気(何んでもこはす短気病)は今後お愼(慎)み被下度(くだされたく)、御母上様の御心痛察するに餘(余)りあり。

 此(こ)の世の中で惡(悪)い事は皆やったし、うまいものは食べたし、ドラムカンの風呂にも入ったし、朝鮮へも行ったし、思ひのこす事なし。

 一緒に死ぬのは斎藤幸雄一等飛行兵曹とて21才の少年? かはいヽ男です。何故(なぜ)か私をしたって大分前から一緒に飛んでいますが、死ぬのも一緒です。技術も非常に優秀な人です。伯父さんが仙台市にをるさうです。別便に住所がありますから慰問してあげて下さい。

 最後の夜に映画があります。今から。


 
 出陣の朝。

 散歩に行くやうな、小学校の頃遠足に行くやうな気持なり。


 〇三〇〇朝めし。すしを食った。あと三時間か四時間で死ぬとは思へぬ。皆元気なり。



【出典】1953(昭和28)年 白鷗遺族会編 「雲ながるる果てに-戦没飛行予備学生の手記-」


  • 最終更新:2015-11-30 06:56:16

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