【第二菊水隊】日本最後の生命線沖縄へ! 阿修羅の艦爆機『彗星』
出典:1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第七号所収
当時七〇一空一〇五飛行隊第二菊水隊員元海軍上飛曹 赤田重義 「阿修羅の艦爆機『彗星』」
日本最後の生命線沖縄へ、陸続と特攻隊は繰り出された。全能力をブチ込んだ彼我(ひが)の凄惨なる死闘は展開された!
私の長兄は海兵 (*1)六十四期の卒業で海兵教官を経て硫黄島の防空参謀(少佐)だった。
「お前がこの島の上空へ飛んで来るような予感がする」
とう手紙を手にしたのがたしか昭和二十年の二月始めだったが、其の後はパッタリと通信も途絶えていた。
いま記録をみると人間の歴史始まって以来最も激烈な上陸準備の艦砲ならびに爆弾が二月十七、十八日両日にわたって繰り返されたと云(い)う。
☞硫黄島に上陸する米軍
星条旗が摺鉢山に掲げられたのが二月二十三日午前一時十五分で、同日夕刻、父島の電信員が、
「父島の全将兵よ。さようなら」
との電報をキャッチして以来、如何なる電波も捉え得なかったとある。
硫黄島の日本軍将兵は栗林中将以下戦死行方不明二一、三〇〇名余、悲壮なる玉砕を遂げているのだ。
栗林中将の打電された電文、
「余は十七日深夜出撃、敵にたいして最後の突撃を決意せり、諸先輩知己に訣別せんとす」
との電文と共に優勢な米軍の渦に突入した将士の喚声がまざまざとこの耳に聞えるようだ。
眼を閉じれば東京の南一〇六〇浬(カイリ)のあの小さな島に押し寄せる米艦船の群れ、ときどき襲うスコールはあっても米軍の砲撃は止むことなく島の海浜といわず山麓地帯といわず、処(ところ)嫌わず打ち込まれ、空には無数の艦戴機の編隊の唸(うな)り、爆音、轟炸音(ごうさくおん)、閃光。─────
私の兄もこの鉄と血の雨の中に玉砕して、征(ゆ)きて還らぬ人となったことだろう。
横須賀へ転勤命令が来たときに辞退して同島にとどまったというその兄。────
私は兄のお蔭(かげ)で転任地の上級将校の方から温かい言葉を頂いたりしたが、何よりも私自身をいましめる規範がこの兄だった。
硫黄島の玉砕を秘(ひそ)かに感じていたのが昭和二十年三月の半ばで、この時、私は九州国分基地にいた。
☞国分基地
私も特別攻撃隊第二菊水隊員として沖縄へ突入爆撃の命を受けていた。
搭乗機は彗星艦爆、零戦より僅かに大きな機体の快速機だった。
いよいよ発進。沖縄到達予定は暁方の二時。
もちろん単機である。
私の他に順次に発進したのは嵯峨山海軍中尉(予備学生十二期)伊藤上飛曹、椿上飛曹だった。
私たちの分隊長は八井田大尉(勝浦出身)だった。
搭乗員は頭に長い毛を三本生やすのが常識というか習慣になっていたが私も伸ばしていた。
そしてまた実科は充分に血と汗を流してもやるがいわゆる机上勉強の方は余りやらないというのも一つの習慣みたいになっていた。
事実、私はその最たるものと今では恥じているが、訓練時代から暴れン坊だった。
この国分飛行場での出撃を目前に控えた訓練でも、普通は高度六〇〇〇なのに急降下して三〇〇から四〇〇位まで落してから、ぐっと操縦桿を上げて機首を起すことをよくやった。海面スレスレになるのだ。
急降下して来て急に引き起すのだから指揮所の方からみているとまる海に突ッ込んだように見えるらしい。
「自爆だぞ!」
と気を揉まれたものだった。
烈しい訓練も暴れん坊もいいのだ、と思った。そんなことは構わないが今度は身を捨てて、沖縄へ突入なのだ。
私はなぜか出発の宴を軽くすませた後でも心にかかるものがあった。
胸に去来するもの、それは兄のこと、過ぎて来た基地の出来事などだった。
爽やかな夜風が飛行場の上空を吹いている。
くっきり澄んだ夜空で飛行機が静かに鈍い光りをみせていた。
三月とは言え九州ではもう桜がほころび始めている。警備兵が整備後に桜の枝を折って搭乗機に飾ってくれていた。
私は小野にも行川(なみかわ)にも勝る攻撃をやろうと心に誓っていた。
小野(特別乙種練習生の一期だったと記憶する)は三回出撃して無事に帰還して居(お)り三回目は敵空母を轟沈している。
行川(千葉山武郡出身)はラバウル基地から沖縄へ来た人で度胸のよい名操縦員の誉れが高かった。
戦死した兄にも、また天地の神々にも、私の出撃が大戦果を挙げ得られますようにと念じていた。
硫黄島、ウルシー等の近海は敵艦船が無数に動き廻っていることだろうと思った。そのざわめきが、沖縄の空を通り越して此処(ここ)まで伝って来るような気さえした。
やるぞ! と言う決心のそのあとで、フト贅沢かも知れないが出来ることなら死ぬ前にもう一度青畳の上でごろりと横になってみたいなとも感じた。
しかしそんな考えはすぐに消えた。私は特攻隊員だ。贅沢な熱を吐くなと強く自分を叱っていた。
───特別攻撃隊───と言えば何よりもまずクラーク基地を思い出す。
昭和十九年夏にダバオを引き払って私も七〇一空第一〇五飛行隊員としてクラーク基地にいたとき、関隊長以下の敷島隊の発進があったのだ。
☞水筒の水で別杯(別れのさかずき)を交わす敷島隊
ちょうど比島 (*2)沖海戦直後で、基地は電波の波だった。
───米機動部隊レイテ近接中
───未明サンベルナルジナ水道を東進中
───ミンドロ東南方に敵艦影
入電はみな敵機動部隊の近接を告げていた。
十月九日(だったと思う)午前四時
「総員集合」
の命令が下命された。
「これより特別攻撃隊の搭乗割りをなす……」
の示達(したつ)があり、全員が志願していた。特別攻撃隊編成名簿が読み上げられた。
私の名はその搭乗割りに洩れていた。
そしてあの長身の関大尉以下が十月二十五日サマール島近海で、敵艦船に殺到、空母セント・ロー撃沈、キトカンベイ、スワニー、サンガモン、サンテー、ホワイトブレインズ等に大痛打を与えているのだ。
☞護衛空母スワニーに突入するゼロ戦
私の同期では酒井(樺太出身で柔道二段だったが無口な普段はおとなしい肥った男だった)がこのとき死んでいる。
私は艦爆隊一〇五のためにその時の搭乗割りには洩れたけれど、今度こそは沖縄へ出撃出来たのだ。
夜風がひとしお爽やかに感じられてきた。
発進には間もない時刻になっていた。
全員髪の毛を遺した。
身の廻りの整理も済んでいた。
死出の晴れ衣(ぎ)(と言っても搭乗員だからその都度装具はとりかえられた)が妙に嬉しく感じられた。
風に揺れる伊藤の純白のマフラーが印象的だった。
誰だったか赤襷(あかだすき)を下につけていた。きっと恋人か姉妹の贈り物なのだろうが、良いものだ。ちょっと羨ましい気もした。
指示が終る。
午前一時五五分過ぎ機上の人となる。
整備員が飾ってくれた桜の枝が機の前と、うしろにさしてあった。
エンジン始動。桜の花びらが震動でハラハラとこぼれた。
順次に単機が発進だが、これは桜島の裏側に敵グラマンがよく旋回していることがあるからだ。
目的地に突入するまでは死ぬにも死に切れない。出来る用心をするに越したことはないのだ。
私としても第二菊水隊員として始めての出撃だ。
第一回でなく、何度でも命を永らえて攻撃したい気持とこのまま突入しようかと二つの考えが頭の中で渦をまき廻転したが、私はつまらぬ見得をはらずにグラさんに逢ったら何でもよいから逃げて逃げて、攻撃のみ完(まっと)うしようと決心していた。
離陸───高度五〇〇〇───雲量七───
操縦員は優秀な西中尉(神戸出身)だからこの攻撃の成功は万(ばん)疑いなしだろう。後は運を天に托(たく)すのみだ。
雲が一面に敷きつめられているので視界は悪くあの美しい桜島も見えないが、針路は桜島上空を通過して一路沖縄へ──
雲層の切れ間を縫って南へ南へと飛翔した。
今一度一覧表(風力)をみる。航路よりやや右に流されていた。
「偏路修正やや左」
と操縦員に報告する。
何時(いつ)グラマンが来るかと気を揉んだが、まだ遭遇はしていない。
快晴ならば五〇哩(マイル)圏内は見透しがきくのだがと、かえって雲が邪魔な気もした。
予定コースを航速五〇〇哩で機は進んでいた。
間もなくわが軍の大要塞沖縄上空だった。緊張に身内がブルブルと震えた。
敵艦船の制海圏内でもあり、艦戴機の制空圏内でもある。
沖縄一〇〇哩前方───操縦員がやや高度を下げる。
雲はまだ多いが出発前よりは少ない。この分では下界は雨かも知れないと思った。
雲の切れ目が大きくなって来た。
と、おお見つけた!
居たのだ! 敵機動部隊。
それも空母型一、巡洋艦、戦艦が付いている。大物だ!
準備すべてよろし、五三〇哩まで出していた。
こんなに艦船が近接しているのでは地上のわが軍はどんなに苦闘していることだろう。ふッと硫黄島で玉砕した兄の厳しい顔が浮んだようだ。
───何も考えるな、ただ突入しろ!
と囁(ささや)かれているようだった。
いきなり敵船からの対空砲火を浴びた。夜の闇の中に機銃の火箭(かせん) (*3)が上に登ってくる。烈しい火力というより美しい灼熱の赤い線に見えた。
カーッと体が熱くなったが、すぐにそうした意識も消え頭だけが冴え切って眼は前方をみつめたままだった。
これを無我の境地というのだろうか兄の顔も消えていた。ただ敵艦船に掴(つか)みかかりたいだけなのだ。
機首がグーッと下った。急降下だ。投下高度は四〇〇───
私は突入の電波(長符連送)を押しっぱなしだ。
高度はグングン下る───二〇〇〇から一五〇〇、八〇〇、七〇〇……あとはこの「彗星四三型」の性能に頼るのみ。
敵艦船の打上げる砲火も眼に入らないが、機の周囲はおそらく弾幕の渦だったろう。
───五〇〇、四〇〇───
今だ! と心に念じて投下した瞬間、キューンと左に折れて直上昇に移行していた。
空母の艦側(かんそく)に大きな水柱が立っていた。チラッと視野の端にとらえたときは機は早くも雲の中に突ッ込んでいた。
機の左前方にボカッと砲火が炸裂した。機がグラッと揺れた。危い!……だが弾着は少々遠く的外れだった。
投下確認の上に無事成功だったのだ。
私は始めて人心地を取り戻した。と途端に訳(わけ)もなく眼頭がジーンと熱くなった。
△
やや東廻りののちにわれわれは無事に基地上空に到達したが、桜島前方一〇〇哩位に来たときだ。どうも感じが変だと気がついた。
弾扉(だんぴ)が締っていないのだ。ただちに操縦員に報告してから締めようとしたが、何処(どこ)かギヤアが故障したようだ。
「弾扉開閉故障……」
と報告して操作するも全然だめ。
その儘(まま)、着陸準備に入る。
飛行場がグングンせり上ってきた。指揮所を始め基地全員が心配して見守っているらしく大勢の人影が手をふったりしていた。
ガーッと噛みつくような着陸だった。とうとう基地の北寄りに着陸していた。
整備員が真ッ赤な顔で駈けよって来た。
それまで気がつかなかったが、私は左膝に、相当強く打撲傷を負っていたのだった。
この出撃は分隊長八井田大尉からもその後お褒めの言葉を頂いている。
それから第二菊水特攻としては今一度、出動の幸運を得たが列記すれば左のようになる。
第一回 桜島上空少し手前でエンジン故障
第二回 桜島上空を過ぎて五分位してから西中尉からエンジンの具合悪いがと言われたので基地へ問合せると中止命令
第三回 列線から滑走中、指揮所から赤旗出発中止が出た。これは時間外のために取りやめとなった
こうして私の特別攻撃隊としての出撃も終ったが、続いてラングーン方面の敗退となり沖縄本島の陥落から終戦を、九州国分基地で無念の涙にくれたながら迎えてしまったのだ。
昭和十九年八月、船団護衛の任務のままにダバオに着任、更にルソン島に飛び、そこより十一月末に台湾へ───更に九州の国分への間、第七〇一空一〇五飛行隊員として続けられてきた空の生活だった。それが終戦! 遂にこの空の生活ともお別れかと、私にはもう涙も出なかった。
司令以下の訓示をうけて、ともかく故郷福島へ復員することになった。
「七〇一空、一〇五飛行隊員と名乗ってはいけない」
といわれて、八月の二十日国分飛行場を立ち、途中倉敷の陸軍飛行場に立寄ったあと、真赤に焼けたゞれた東京上空を伏し拝みながら、松島の基地に着いたのは八月二十一日昼過ぎであった。 (おわり)
【資料出典】
・1983(昭和58)年 講談社 「写真図説 帝国連合艦隊-日本海軍100年史-」
・1995(平成7)年 光人社 「日本軍用機写真総集」
・1996(平成8)年 株式会社ベストセラーズ 「写真集カミカゼ 陸・海軍特別攻撃隊」上巻
- 最終更新:2017-08-16 07:49:04