【第二七生隊】千原達郎

千原達郎

京都大学
神風特別攻撃隊第二七生隊、昭和二十年四月十三日沖縄方面にて戦死、二十四歳


 お守り袋

 二月六日(昭和二十年)

 好調の時、戒心せよとはよく言つたものだとつくづく思ふ。私はこの頃からだの調子もよく、飛行作業も順調に行くので、確かに図に乗つてゐた。飛行機に乗るのが不安でないばかりか、面白半分に乗るやうな気持をさへ生じて来てゐた。恐ろしい事である。やんぬるかな、午後の部署教練で飛行機分散の令にてエンヂンをかけて、とつとことつとこエンドの掩体壕まで持つて行つたところ、溝があるのに気づかず、ドシンと左車輪を突込んでしまつたのである。機体は十五度ばかりも傾き、見られた恰好(かっこう)ではなかった。十人余りが手伝つてくれて、やつと上げたものヽ、脚が折れなかつたのは全く奇蹟としか思へぬ。折れてゐたら一体どうなつたことか、不注意こヽに到って極まれりの感深し。

 外観は別條ないやうに思ふが、どこか故障してゐるに相違ない。明日は一番に乗らう。そして確かめて見よう。蒔(ま)いた種は自分で刈取らねばならぬ。図に乗つてはならぬ。

 好調の時、心すべし。


 二月十日 晴

 今週は素晴しかつた。一週間に十回も乗るなどといふことは前代未聞である。からだの調子も良く、気分も乗り気であつた。事故を続出したのは取り返すすべもない恨事であつたけれども、それを償はねばといふ気持で、自分としては随分骨惜しみしないで働いた。やる気がないと云(い)うのではないが、脆弱なからだを気にして、ついこの位でよして置かうといふ工合(ぐあい)になり、汗を流してくたくたになるまで頑張るといふやうなことはついぞなかつた私であるが、事故を起してからは考へが変つた。

 不惜身命、斃(たお)れるまで頑張らう、さういふ考へになつた。この一週間それに徹したとは思はないが、緒についたといふ気はする。とても後味がよい。清々しい。

 飛行靴を新調する。紐で縛つたり、針金で縒(よ)つたりしてゐたが、終(つい)に持たなくなったものなり。


 二月十五日 晴

 私の飛行服の胸のポケットには、お守袋が入つてゐる。袋は学徒出陣の餞(はなむ)けとして京大から贈られたものである。中には皇大神宮 (*1)のお守りを始め、諸々方々のお守りがぎつしり入つてゐる。私は朝、飛行服に着替へて学生舎を出ると、胸のこのお守袋を手で触りながら、明け切らぬ東の空に向ひ、「母上お早うございます、立派にお役に立ちますやう、今日もお守り下さい」と口の中でつぶやく。飛行機に乗る前にも、この所作を繰返すことがある。夜は寝る前に星空に向ひ、「お母さんおやすみなさい、立派にお役に立ちますやう、明日もお守り下さい」と、心でいふ。いつ頃からかういふ習慣になつたのか知らないが、何は忘れてもこれだけは忘れたことがない。女々しいとも思ひ、滑稽だとも思ふ。しかし、この習慣を止(や)めようとは思はない。私は母の愛と祈りを片時も忘れたことはない。私と母とはいくら離れてゐても、このお互ひの愛と祈りとでぴつたり繋(つなが)つてゐるのである。


 二月二十一日 曇

 内容の乏しい生活は、送るに長く、回想するに短し。食事は一つの楽しみである。しかし食ふことだけが楽しみといふ生活は惨めである。そこには心からの歓喜といふものがない。溌剌(はつらつ)さがない。レベンディッヒ (*2)でないレーベン (*3)は、レーベンの名に値しない。

 明け方の五時過ぎ便所に起きると、鈴木に教はつたサソリ座が便所の屋根に引掛かってゐた。私は天文学が好きで、ヂーンスの「軌道を巡る星」などを読み耽(ふけ)ったりしたのだが、星座の知識は極めて貧しい。北斗七星はさておき、オリオン、カシオペアなどといふ誰でも知つてゐる星座ですら土浦で初めて知つたくらゐである。天文航法等は次第に重要化するのだから、かなりの知識を養つておく必要がある。


【さそり座】
さそり座2_600.jpg


 当隊の重大な改変が明日発表されるといふ。勝つためならばどんな命令も有難く必謹あるのみ。


 二月二十二日 晴

 八時十五分総員集合、司令訓辞、皇国の危急を救はむが為に練習航空隊を解消し、速かに所要の戦力を増強すべく新しき編成が樹(た)てらるる旨発表あり、次(つい)で隊長より詳細に発表さる。

 我は第六分隊なり。隊員学生十三名、分隊長は田中中尉なり。更に田中分隊長より各自の部署を申(もうし)渡さる。我は第一区三番機、二番機は原田少尉、四番機は信國少尉、而(しか)して一番機は正に田中中尉にてあるなり。これに勝る喜び、これに勝る光栄ありや。田中中尉の列機として共に飛び共に死するの喜びを思ふ時、我身の幸に唯々(ただただ)感謝するのみ。死所を得たる喜び何に譬(たと)へんや。うれしうれし、勿体(もったい)なし。然(しか)れども顧みて思ふに、その責任何ぞ重き。拙劣の技倆(ぎりょう) (*4)、脆弱の身体、果してその任に耐へうるや。唯々祈る、立派にお役に立ち得むことを。


 三月二日 雪

 南洲遺訓を読んでゐると、年抄言志録 (*5)の所に、死生に就(つい)て、かういふところがある。

 曰(いわ)く「我身天物也、死生三権在天、当順受之、我之生也、自然不生、生時未嘗知喜也、則我之死也、亦自然而死死時未嘗知悲也、天生之而天死之一聴干天而己………死之後即生之前、生之前即死之後、而吾性之所以為性者恒在於死生之外………」と (*6)。私は道心うすくしてまだ死生に就て深く考えてことがない。従つて悟りといふやうなものから甚(はなは)だ遠い。然し我々には任務を果すといふことが第一で、死生といふようなことは、そんなに開き直って考へなければならない程重大なことだとは思へないのである。どうしたら勝つことが出来るか、どうしたらお役に立つことが出来るか、といふことの方がよつぽど重大なやうな気がする。つまり死生に就て深く知らないので、盲蛇に怖じず (*7)式に平気ですまして居れるのかも知れぬ。


 三月三十一日 曇後晴
 
 一、第一中隊明朝を期して国分に進出と決す。二中隊は四日、我々三中隊は十日なり。

 晴天に霹靂(へきれき)の落つるが如し。覚悟は既につきたる筈(はず)なれど、若き血は踊るなり。全力を挙げて明日進発の飛行機の整備飛行を行ふ。

 夜は五分隊は士官食堂の宴(うた)げの席に連り、六分隊はデッキで呑(の)む。最後の夜故従容自若として過したき気もすれど、若き血は踊つて、さはさせぬなり。酔迷、はしたなきと咎(とが)むることなかれ。欣喜抑へ難く、男子と生れし本懐を託するに術なかりしなり。

 一、午後身の廻り整理、転勤と違ひて母の元に帰る荷物なれば、念に念を入れ、母の解きて取り出だし給ふ姿を思ひ浮べつヽ整理するなり。

 遺言の如きは敢へて書かず、只(ただ)、立派にお役に立ちますやう夜昼となくお守り下さつた母上に心から有難うを申上げるのみなり。


 四月一日

 一、十数機格納庫の前にずらり勢揃ひをする。真新しい装束に、腕の日の丸も鮮やかな、一中隊の面々が、あちこち縫って歩いてゐる。晴の日、既に冷静氷の如し。しかし天候思はしからず、終(つい)に進出は翌日となる。もう一日彼等(かれら)と共に暮せる。

 一、五、六分隊学生の学生教程卒業式。

 長かつた学生時代とつひに別れを告げる日が来た。その日はまた同時に必中必沈の征途への門出の日である。

 一、敵は沖縄に来た。基地航空勢力の範囲での作戦によるヂリヂリ押しといふ常套手段を捨て、機動部隊のみによる上陸作戦を企図して来た。

 地道な打算もしたにはしたらうが、理性の律し得ぬ自然の勢に流されてゐると考へてもよい。神機到らんとす。我等は今そこへ馳せ参ぜむとしてゐるのである。


 四月二日 曇 

 一、天候面白からず、またも進出見合せとなる。千載一遇の機に間に合ふやを恐るヽなり。

 一、最後のものが決定せねばいつまで経つても真に御役に立つ男となることは出来ぬ。

 葉隠(はがくれ) (*8)に、「武士道とは死ぬことと見付けたり。二ツ二ツの場にて早く死ぬかたに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。また大戦大変に逢うても動転せぬといふはまたしきなり。大変に逢うては歓喜踊躍して勇み進むべきなり。一関越えたる所なり。」とあるを深く深く身に体せねばならぬ。今に及んで未だにこのやうなことを言はねばならぬといふことは恥かしいことだ。然し事実だから致し方もない。恥を免れようと思へば、死身になつて最後のものヽ決定に努力するより外(ほか)ない。

 一、田中分隊長空輸より帰らる。待ちに待ちたる分隊長の元気な顔を見て安堵するなり。


 四月三日 曇

 一、愈々(いよいよ)出撃とて別盃(べっぱい)まで終りたる所へ、海から十米(メートル)先も見えぬやうなガスがどつと押し寄せ、飛行場は眞白に垂れこめらる。進出今日も叶はず。早く出ろとは云はないけど、後が閊(つか)へゐる故、出るものは出て了(しま)はねば落着かぬなり。

 一、葉隠より。

「武士は萬事に心を付け少しにてもおくれになる事を嫌ふべきなり。就中(なかんずく)物言ひに不吟味なれば我は臆病なり、その時は逃げ申すべし。おそろしき、痛いなどヽいふ事あり。されどもたはむれにも、寝言にも、たは言にも、いふまじき詞なり。心ある者の聞いては心の奥おしはかるものなり。兼て吟味して置くべき事なり。」

 一、午後自差 (*9) 修正、夜晩酌、娑婆の人もするなり晩酌てふものを我も試みむとでもいふところ、些(いささ)か陶然たり。


 四月四日 晴

 一、一中隊二中隊一番に出撃と決す。

 凛々しき晴れの飛行服姿、まこと若武者の初陣はかくてこそと思ふなり。然し我々の伎倆としては曾(かつ)て無き大飛行である任務は真に重い。皇国の隆替(りゅうたい) (*10)は唯(ただ)今の決戦にかヽつてゐる。どんな事があつても集結地の鹿屋までは無疵(むきず)で全機到着せねばならぬ。恙(つつが)なからむことを祈るなり。発進、されど遺憾ながら飛行機の装備完全ならず、一機また一機と引返し、十一機が再出発の止(やむ)なきに到る。戦ひと云ふものは、さうとんとん拍子に行くものではない。色々とつまづきながら、それでも、大局的には「狙ひ誤たず」といふのが戦ひの常態なのであらう。

 一、十日進出予定が繰りあげられて七日と変更される。荷物の整理を急いで置いてよかつたと思ふなり。トランクに晴れの装束一切を入れて秘かに「遺品一式」と洒落(しゃれ)るなり。

 一、心静かに送る一刻一刻の美しさよ、有難さよ。


航路_元山_鹿屋2.jpg


 四月五日 晴

 一、一中隊の残り及び紫電隊、零戦隊、続々と発進、正に元空(註・朝鮮元山航空隊)を挙げての総出陣なり。いや元空ばかりではない、日本を挙げての壮途(そうと) (*11)である。興廃の岐路に立ち、今や日本は怒髪天を衝いて進みに進むなり。

 一、私の飛行機は二中隊の片岡が乗つて行つたので、ペラ (*12)がひんまがつて一月前から野天におつぽり出してある、一一五号が振り当てらる。アンマリでしようといふところだが、私が初めて単戦で着陸の単独をやつたのがこの一一五号故因縁浅からざるを思ひ、是が非でも今の中(うち)に修理を完了して明朝早々試 ♈(飛行) 出来るまでに漕ぎつけむものと、てんてこ舞なり。

 一、葉隠に曰く

 「何事も成らぬといふ事なし。一念起ると天地も思ひほかずものなり。成らぬといふことなし。人ふがひなき故思ひ立ち得ぬなり。力をも入れずして天地を動かすといふもたヾ一心の事なり。」


 遺  書

 立派にお役に立ちますやう最後までお守り下さつた母上の厚き愛と祈りに心から有りがたうを申上ます。
 これからはお國の子皆の母となつて変らぬ愛と祈りでお守り下さい。
                                 達郎
  母上様


【七生隊・元山航空隊別れの宴(別盃)】
七生隊・元山航空隊別れの宴.jpg



【出典】1953(昭和28)年 白鷗遺族会編 「雲ながるる果てに-戦没飛行予備学生の手記-」

  • 最終更新:2015-12-02 09:17:05

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