【第三神風桜花特別攻撃隊】最後の抵抗線は台湾と沖縄だ! 湊川出陣の野中桜花特攻隊

菊水2号作戦/第2次航空総攻撃概要

場所 沖縄付近
戦闘状況 沖縄東方の高速空母機動部隊(第5艦隊)および沖縄周辺の上陸支援部隊に対する特別攻撃
日本側攻撃部隊 海軍 第三神風桜花特別攻撃隊神雷部隊桜花隊、同攻撃隊
神風特別攻撃隊常磐忠魂隊
第二護皇白鷺隊
第二八幡護皇隊艦攻隊、同艦爆隊
第二草薙隊
第二至誠隊
第二七生隊
陸軍 特別攻撃隊誠第十六飛行隊
誠第二十六戦隊
第二十振武隊
第四十三振武隊
第四十六振武隊
第六十二振武隊
第六十九振武隊
第七十四振武隊
第七十五振武隊
第百二振武隊
第百三振武隊
第百四振武隊
第一特別振武隊
司偵振武隊
連合軍艦船被害 沈没/米駆逐艦マンナート・L・エーブル(桜花と特攻機による)、米上陸支援艇33号
大損傷/米戦艦テネシー、同アイダホ、同ニューメキシコ、米駆逐艦スタンリー(桜花による)
    同バーディ、同セラーズ、同カッシン・ヤング、米敷設駆逐艦リンゼイ、
    米護衛艦リッドル、同ロール、同ホワイトハースト、米上陸支援艇57号
損傷/米敷設駆逐艦ウォールター・C・ワン、米掃海駆逐艦ジェファーズ(桜花による)
   米掃海艇グラディエーター、米中型揚陸艦189号
作戦経過 菊水1号作戦により米攻略部隊に大損害を与えたので、五航艦(第五航空艦隊)司令部では、
敵に動揺の兆がある。あと、一、二撃を加えれば敵機動部隊と攻略船団に潰滅的損害を与え
ることができるだろうと考えた。菜種梅雨のため実施が4月12日に延びた菊水2号作戦では、
夜間戦闘機、重爆撃機、飛行艇1機、爆装水上機3機、桜花8機を含む約500機が投入され、
未帰還機は100機以上に達した。この作戦では、日本軍は航空機とパイロットの両面で重大
な損害を被った。五航艦では撃沈:特空母1隻、戦艦1隻、巡洋艦2隻、艦種不詳1隻、撃破:
戦艦2隻、輸送船1隻、炎上:艦種不詳5隻の大戦果をあげたと発表していたが、実際には、
撃沈されたのは特攻機と桜花が命中した駆逐艦マンナート・L・エーブルと大型上陸支援艇
33号の2隻だけで、その他16隻が損傷し、うち12隻は重大な損害を被った。射撃支援群指揮
官デイヨー提督の旗艦テネシーにも特攻機が命中し、23名が戦死し76名が負傷した。


出典:1957(昭和32)年 日本文芸社 「現代読本」第二巻第九号所収
   元海軍省軍務局第四課勤務 佐藤光洋 「湊川出陣の野中桜花特攻隊」



母機から離れた「桜花」は流星の如く敵艦に突進した!

体当り兵器「桜花」生る

 秘められた日本海軍航空隊の最後の特攻兵器「桜花」がはじめて実戦に現われたのは昭和二十年三月のことであった。

 物量を誇る世界一の軍備国アメリカを向うにまわして、日本がやむにやまれぬ戦いに立上ったのは昭和十六年十二月八日であった。それから三年あまり、最初の勝利に喜んだのも束の間、真珠湾攻撃を卑怯な欺(だま)し打ちとするアメリカ側の積極的な攻撃によって、戦局は日に日に日本側の不利となって行った。


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☞大東亜戦争開戦の一因は対日経済封鎖だった。大東亜戦争開戦時、日本の石油備蓄量は9ヶ月~1年分しかなかった


 国民総動員が下命されて、青年は勿論(もちろん)のこと、学業半ばの学徒たちも勇躍国難におもむいたのであった。

「欲しがりません、勝つまでは」

 それが苦しい生活に耐える国民の合言葉となっていた。一億玉砕も叫ばれた。神州不滅を信じて、次ぎ次ぎと散華してゆく若い航空隊特攻隊員は、戦局がどんなに不利になっても日本の勝利を疑わず、平然として死の操縦桿を握り、敵艦船に体当りのため出動してゆくのであった。

 その頃、昭和十九年の夏から二十年の春にかけて、無敵を誇った日本連合艦隊は、戦艦も航空母艦も、優秀な巡洋艦もほとんど敵の航空機によって海底深く沈められてしまっていた。B29による内地への空襲も激しく、十九年八月中旬の九州、中国地区への大型機の来襲を皮切りに、十一月には関東東海地区へ、それから東京へと次第に大胆な攻撃を加えて来るようになった。

 二十年になっては、二月に硫黄島にアメリカ軍が上陸し、戦局の焦点は沖縄の攻防戦に移って来た。


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☞大東亜戦争開戦の一因戦前共産運動の中心地はアメリカだった。日本に米軍を呼びこんだのは日本の共産主義者である


 「桜花」が、特攻兵器とて誕生したのはこの頃であった。日本海軍が世界戦史にもかってない必死肉弾攻撃の、神風特攻を採用したのは、十九年十月のレイテ作戦からである。


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 生みの親は大西滝次郎中将、最初の特攻隊員は、兵学校出身の関行男大尉を隊長とする二十四名であった。正式な名称は「神風(しんぷう)特別攻撃隊」と呼ばれ、特攻機としては戦闘爆撃機が主として使われていた。最初は一時的な作戦の要求から生れた特攻隊であったが、残存日本艦隊の主力がレイテ沖に破れ、続く比島 (*1)沖海戦では巨艦「武蔵」をも失うという大打撃を被って、最早尋常一様の手段では到底不利な戦局を挽回することが出来なくなって来ると、次々と新しい特別攻撃隊が編成され、それらの隊員たちは只(ただ)一筋に祖国の勝利を願って勇敢に敵航空部隊に襲いかかってゆくのだった。

 戦局は最早体当り以外に、打開の途(みち)が全くなくなって来たのである。「桜花」はこうした気運の中に生れた、最後の航空特攻機であった。発案者の太田少尉は、それまでラバウル方面の空輸任務に従軍して輸送機の機長であった。

 この特攻機は、発案者の名前をとって「マル大」と呼ばれ関係者以外にはほとんど知る者がなかった。正式の名称である「桜花」は、本居宣長の歌からとられ、日本の国花というべき桜のように、美しく散ることを念願としたものだった。

 それまでの特攻機は、飛行機に二五〇瓲(トン)程度の爆弾を抱かせて、飛行機もろとも襲いかかるという方法をとっていたが、この「桜花」は一人乗りの小型木製滑空機で、一式陸上攻撃機の腹の下に抱かれて飛ぶようになっていた。頭部には一噸(トン)八〇〇瓩(キログラム)という恐るべき炸薬(さくやく)を充填し、目標の二万米(メートル)附近まで進撃すると、母艦から離れて猛烈な速力で滑空し、目標に向って突撃する特攻機であった。

  尾部にはロケット五発を持っていて、高度六千米では、約三万米まで滑空出来るようになっていた。一度母艦から離れた「桜花」は、絶対に帰って来られない、恐るべき死の特攻機だったのである。

 最初の訓練は、十九年の九月末から、岡村基春(つねはる)大佐が司令となってはじめられた。隊名も「神雷部隊」と名付けられ、鹿島神宮に近い神の池(こうのいけ)が基地に選ばれた。

 日本を救う最後の空の特攻隊員として、全国から選ばれて集まった搭乗員たちは、日に日に悪化する戦局に歯ぎしりをしながら、半年あまりの激しい訓練によって立派に成長し、肉体的にも精神的にも悠々とした落付き(おちつき)を見せるようになっていた。この神雷部隊が九州の鹿屋基地に移ったのは、米軍主力が沖縄に上陸する直前のことであった。


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成算なき出動命令

 三月に入ってからの敵の空襲は、ますます激しくなっていた。一日には有力な機動艦隊が南西諸島の日本基地を攻撃し、四日にはB29一五〇機が東京に来襲した。十日にもまた一三〇機のB29が東京を襲い、十二日には同じく一三〇機で名古屋の工場地帯を爆撃、十三日には機動艦隊が九州南部と四国へ攻撃をかけ、十七日にはB29の六十機が神戸を襲い、十九日には呉方面へも来襲してくるという激しい攻撃振りであった。二十一日にはP51が硫黄島に進出して来たが、このときは陸海軍合せて二万三千名の日本部隊も二十万のアメリカ軍に押されて全滅の状態となっていた。

 最後の抵抗戦として守るべき場所は、台湾と沖縄である。敵は比較的防空設備の整っている台湾をねらわず沖縄をめがけて攻撃を加えてくることは必至の状態と見られるのであった。

 最初の神雷部隊の出撃はこの時に行われた。

 二十一日のことである。

 この朝味方の偵察機は、都井岬の沖合に、上空直衛機をつけないで微速力で航(はし)っている敵の米航空母艦三隻を発見した。この敵空母は沖縄上陸作戦に備えて、十九、二十日の両日に亘(わた)って四国、中国、九州地方を攻撃した機動部隊で、わが特別攻撃隊の反撃に遭って損傷したものと思われる。十九日に特別攻撃隊に襲われた敵空母は、エンタープライズ、ヨークタウン、イントレピット、フランクリンの四隻であった。二十日には彗星艦爆二十機が、同じく空母エセックス型を撃破し、サラトガ型には大火災をおこさせるという戦果を挙げていた。都井岬の沖に現われた三隻はこれらの中の損傷艦に違いなかった。


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☞1945年3月19日炎上する空母フランクリン。特攻を受け艦戴機のロケット弾が連続して激しい誘爆を起した。


 満を持していて神雷部隊の大編隊に出動の命令が下った。「桜花」を抱く母機の一式陸攻は十六機、掩護戦闘機は五十機であった。しかし命令を受けた岡村司令の顔には、なぜとも知れぬ憂いの影が漂よっていた。それは掩護する味方戦闘機の不足による心配が、司令の顔に憂いとなって現われているのであった。

 「桜花」を抱く母機の一式陸攻は、図体が大きいばかりではなく、速力の遅い飛行機である。余程強力な味方戦闘機の掩護がなければ、敵空母から舞い上る敵の戦闘機や直衛機を振り払って、目標に近づくことは困難であった。強力な掩護があれば、今日の出撃は、絶好の機会である。敵空母三隻を見事に撃沈させて、敵をアッと言わせて見せる自信があった。岡村司令は命令を受けると直ぐに、第五航空艦隊司令部の作戦室に飛び込んで行ったのだった。横井俊之参謀長に逢ってもっと掩護戦闘機をふやして貰うためであった。

「司令の言われるのは、もっともなことだが、精一杯で五十五機なんだ。これではどうしても足りないだろうか」

 横井参謀長の顔も、心なしか曇っていた。激しい訓練によって折角(せっかく)伎倆の向上している大切な搭乗員を、成算のない戦闘に出してやることは、上官として忍び難いことであった。

「足りない、と思います」

 岡村司令は考えこむようにして言った。横井参謀長が、不意に宇垣長官のほうに向き直った。

「長官、お聞きの通りですが……」

 そのとき長官は、つと立上って来た。そして手を岡村司令の肩にかけた。

「今日のような時に使えないとしたら、桜花はもう使う時がないよ」

 静かな声ではあったが、その中には、きびしい決心がこもっていた。岡村司令は長官の言葉の中にひそむ決心を一瞬にして覚(さと)った。


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☞宇垣纏中将

「やります!」

  はっきりと答えて作戦室を出た司令は、自分が先頭に立って今日の攻撃に出ようと覚悟したのだった。二十年間、戦闘機と共に生きて来た岡村司令は、生え抜きの戦闘機搭乗員であった。それだけに誰よりも部下の心を知っていた。無駄には部下を殺したくない。それが岡村司令の心を苦しめるのであった。死場所を選ばせる。それが子供である部下に対する親としての司令の愛情でなければならなかった。だがもう既にその時機は過ぎ去ったようである。

 五十五機の掩護機隊、いや日本海軍航空隊では精一杯となって来たのだ。岡村司令はゆっくりと、飛行場に出て行った。その顔にはさっきの苦悩の色はなく、いつもの精悍な武人らしい表情になっていた。

 飛行場には、慌しく出撃準備が進められている。岡村司令は暫(しば)らくそれを眺めていたが、やがて今日の出撃指揮官である野中五郎少佐のところに、真直ぐに近づいてゆくのであった。

「おい、今日は俺が先頭でゆくぞ!」

 近づくなり司令は、野中少佐をにらみつけてそう言った。

「司令、それは駄目ですよ。今日はいくら司令の言葉でも、私が行きます!」

 口をへの字に曲げた野中少佐は、怒ったような顔で、司令をにらみかえした。

 二人はそこに突っ立ったまま、お互(たがい)の目をじっと見つめ合っていた。


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☞野中五郎少佐。江田島海軍兵学校出身。


はためく大楠公の旗印

 その二人の沈黙を破るように、陣太鼓の音がとうとう鳴りひびいて来た。出撃準備完了、搭乗員集まれ、の合図であった。

「しっかりやってくれ」

 岡村司令が、右手をぐいと差出した。それをぐっと握った野中少佐の手には、激しい力がこもっていた。

「司令の心に、必ず添い遂げます!」

 はっきりとそう言い切った野中少佐は、指揮所のほうに大股で去って行った。

 その指揮所には「八幡大菩薩」と大書した幟(のぼり)が、五色の吹流しと共に立てられている。野中少佐はその前に仁王のように突っ立って、集まってくる搭乗員たちを待つのだった。

 岡村司令と同じように、生え抜きの飛行機乗りで、雷撃隊の名指揮官として有名であった。陣太鼓を叩いて命令を伝えるという勇猛なところもある半面に、部下をいたわり愛するという大きな愛情を持っていた。若い隊員たちは、この野中隊長と生死を共にすることに大きな誇りさえ感じていた。

 今日の出撃が、ほとんど成算のないことを、野中少佐はその長い間の経験からよく解るのであった。岡村司令が、若い有能な搭乗員たちを無暴 (*2)な死に追いやらなければならない責任を感じて、今日の陣頭指揮を買って出た気持は、解り過ぎるほど解っていた。

 岡村司令はその野中少佐のあたたかい気持を、はっきりと感じとったのだった。いまは成功を祈るだけである。ごうごうと響く爆音の中で、司令は熱いもののこみあげてくるのをじっと押えていた。

「しっかり頼むぞ!」

「大丈夫だ。お前も後から来い」

「うん、すぐに行くぞ、俺の分も残しておけよ」

 搭乗員たちは、肩を抱き合って、楽しそうに最後の別れを交している。

 宇垣長官も見送りに出て来た。野中少佐の号令一下、搭乗員たちは口々に、

「お世話さまになりました」

「後を頼みます」

 手を振って別れの挨拶をすると、自分の飛行機に向って一散に走ってゆくのであった。それを見送る宇垣長官の目にも岡村司令の目にも、一杯の涙がたまっていた。

 「桜花」を抱いた一式陸攻は、野中機を先頭に次ぎつぎと離陸して行く。白い鉢巻が、あざやかに人々の目に映って、爆音も高く大空に飛び去ってゆくのであった。


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(頼む、成功してくれ!)

 岡村司令は飛び立つ一機毎に、腹の中にそう祈っていた。

 第一神風桜花特別攻撃隊神雷攻撃隊はこうして午前十一時三十五分、勇ましく飛立って行ったが、最初は五十五機出る筈(はず)の掩護戦闘機が、エンジン不良で取止めたり、途中から引返してくるものなどもあって、最後まで任務を続行出来たものは僅かに三十機という有様であった。

 一方索敵の結果は、最初に発見した損傷空母三隻だけではなく、敵は三、二、二という空母を中心にした有力部隊と判って来た。

(あぶない)

 誰の心にも、その考えが浮んで来た。しかし攻撃中止の命令は、いつまで経っても出なかった。宇垣長官の決断によって、攻撃は飽くまで続行されることになったのだ。

 予定地点到達の時間が来た。しかし出発して以来、野中隊からは何(な)んの報(しら)せもない。岡村司令の顔には、苦悩の色が濃く浮んで来た。もう帰るにも燃料のない時間となってしまった。

「敵を見ざれば南大東島に行け」

 応急措置の電報が打たれた。それに対しても何んの応答もなかった。

 野中隊の最後が判ったのは、傷ついた掩護戦闘機がかろうじて基地に辿(たど)りついてからであった。その報告によると、野中隊は一四〇〇〇浬(カイリ)の地点で、敵の直掩機に発見され、約五十機のグラマン戦闘機と、味方の掩護戦闘機と激しい空中戦となったが味方戦闘機の必死の防戦も空しく、遂に母機の一式陸攻は敵に喰い下がられてしまった。

「桜花」を抱いていては、行動の自由が利かないので、この特攻兵器を落して身軽になった一式陸攻隊は編隊もくずさず勇敢に敵戦闘機に向って戦いをいどんで行った。だがやがて最後尾の一機が火を吐いて落ちると、味方の飛行機は次ぎつぎと火だるまとなって野中隊長に訣別の挙手をしながら海中めがけて飛びこんでゆくのであった。


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 最後まで残った野中隊長は、部下の壮烈な最後を見届けると、急降下して断雲の中に突っこみ、遂に見えなくなってしまったというのであった。

 岡村司令は、その報告を聞き終ると、一人でこっそりと飛行場に出て行った。涙を人に見られたくなかったからである。うつむいて歩いていた司令は、急に顔をあげた。

 さっきまで野中少佐のいた目の前の指揮所に、野中隊が日頃掲げていた大楠公(だいなんこう)の旗印「非理法権天」が、岡村司令を元気づけるように、へんぽんとひるがえっていたからであった。そのはためく音が、岡村司令には、野中少佐の声のように聞えて来た。

「司令、やっぱり駄目でしたよ」

 野中少佐の大きな声が、旗の向うからひびいて来るようだった。

「今日の出撃は、湊川の出陣だった」

 岡村司令は、凝然とそこの突っ立ったまま、遠く雲の果てに飛び去った神雷部隊の勇士たちに、心からの祈りを捧げるのであった。


土肥機遂に成功す

 岡村司令のこの苦衷は、それから間もなくきれいに洗い去られる時が来た。

 沖縄の戦闘が日増しに激しくなって来た四月十二日であった。菊水二号作戦に呼応して、再び「桜花」の出撃となったのである。

 この日の出撃は、神雷部隊の桜花攻撃は八機であった。このほかに海軍の他の特攻機が約八十機、これに百十数機の制空隊を加えた大特攻隊で、勇躍して沖縄の敵艦船攻撃に飛び立ったのであった。

 この桜花攻撃隊の中には、大阪第二師範出身の土肥三郎中尉が加わっていた。彼は搭乗員の世話掛甲板士官として、特攻隊員のため住みよい宿舎を作るために、一生懸命になっていた。出撃の日も、最後までそのことについて心配し、作戦主任の中島正中佐に

「今日は、S設営隊から畳を十五枚借りる約束をしています。それから寝台も六つ届くことになっています。それを必ずとっておいて下さい。忘れては駄目ですよ」

 と微笑ましくダメを押して、機上の人となったのである。

 大特攻攻撃隊は、各機単独にそれぞれ進路を変えて、目的地点に突進してゆくのであった。


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☞1945年4月12日戦艦ミズーリに肉迫する特攻機


 横抗防空壕の中の電信室では、電信兵が全神経を耳に集めて、攻撃隊から送ってくる電波を一つも逃さぬように捕えていた。

 電信符号には、攻撃機にイ、ロ、ハなどの特定名をつけて打ってくるようになっていた。

 基地から沖縄まで三七〇浬もある。先発の零戦特攻隊は早くも沖縄に到着して、&footnote(text=長符連送(ちょうふれんそう)(我、敵空母に突撃中)、短符連送(たんふれんそう)(我敵水上艦艇に突撃中)の電波}が次ぎつぎと入ってくる。しかし桜花攻撃の一式陸攻からはなかなか電波を送って来ない。もしや野中隊の二の舞いではないだろうか。不安が人々の心をかすめる頃になって、土肥中尉機から

「敵戦闘機を認む」

 という短符三つ連送の電波が飛んで来た。一瞬岡村司令はじめ全員がハッと思った。

 敵の戦闘機に発見され、空中戦闘となれば、次ぎにくるものは、野中隊と同じく自爆である。不気味な時間が一秒、二秒と過ぎてゆく。

 と、また土肥機からの電波が入った。

「我、敵戦闘機をまく」

 司令の顔にも生色(きしょく) (*3)が浮んで来た。土肥中尉には神助があったのだ。しかし続いて聞えてくる無電は、人々の胸を締めつけるような荘厳なものであった。

「桜花発射用意!」

「目標、敵戦艦」

 後数秒、遂に来た。息詰まる一瞬だった。

「発進!」

 母機から離れた「桜花」は、いまや一噸八〇〇瓩の爆弾となって、流星のように敵戦艦に突進して行ったのである。

「命中だ……」

 つぶやくように言った岡村司令の目からも、土肥中尉の成功をひたすら祈っていた中島作戦主任の目からも、白いものがポトリと落ちるのが見えた。(終)


【資料出典】
・1983(昭和58)年 講談社 「写真図説 帝国連合艦隊-日本海軍100年史-」
・1997(平成9)年 株式会社ベストセラーズ 「写真集カミカゼ 陸・海軍特別攻撃隊」下巻
・1995(平成7)年 光人社 「日本軍用機写真総集」
・1954(昭和29)年 富士書苑 「大東亜戦争写真史 特攻決戦篇」

  • 最終更新:2017-08-16 14:10:39

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