【第三御盾隊】靑木牧夫
靑木牧夫
高知師範学校
神風特別攻撃隊第三御盾隊、昭和二十年四月十六日沖縄方面にて戦死 二十三歳
祖父を懐(おも)ふ
拝啓
御祖父様御病気の知らせを聞きましてあまり意外の事に夢のやうでなりません。私この歳に至るまで親代りにそれ以上に可愛がられて来た事を思ひ、またこの度の御病気との知らせを聞くと全く身に沁みる痛手です。特に私は随分長らく病気の為(ため)、御祖父様には随分御心配をかけました。御祖父様の健康なる間はとかく孝行もおろそかになり、特に病中はすまぬすまぬと思ひながら何時(いつ)もわがまヽばかり申しまして全くすまない事でした。然(しか)しこれも御祖父様のあまりにも大きな愛にあまえてゐた私達とお思ひ下さい。思へば幼い頃より一日の休みもなく働きなされる御祖父様のひざもとに育ち、或(あるい)は朝早くから荷車を引いて野菜を遠くまで売に出られる姿を見、日暮れて、田畑より歸(帰)られる尊き姿を見、一日のつかれをあのなつかしき思ひ出の「風呂」にて休められる元気な御祖父様は全く私達に取って幸福のかぎりであり家の柱でありました。
ある時ははるばる高知のサーカスにつれて行ってもらひ、或はシナネ様につれて行ってもらひ、幼き時の幸福が限りなくこみあがって来て有難さに涙ぐんで来ます。近くはあの町田病院に殆(ほと)んど毎日のやうにはるばる自転車を運ばれ、全快を我が事のやうに喜んでゐられた事を思ひますと、遠くはなれた此(こ)の地で唯(ただ)じっとしてゐられなく唯神に全癒をひたすらお祈りするばかりです。どうか誠心通じて速(すみやか)に全快されますやうに、お祖父さん何時(いつ)もの元気を出して下さい。
お母さん随分御心配でせう。僕もお祖父さんには身に沁みる御恩を受け、育てられて来ましたのでこれに勝る心配はありません。私入隊以来最大の幸ひは、家の者の健在なりとの手紙でありました。それでこそこれ迄(まで)も何一つ心配もなく一生懸命精出して来ました。それだけに意外な思ひでした。然し歳は歳でも元気なお祖父さんですから、必ずなほらねばならんと信じてゐます。遠くにゐて何の孝養も出来得ないのは實(実)に残念でなりませんが、お母さん雄三と一緒にあらん限りの孝養をして下さい。僕に代ってやって下さい。僕も在郷中はお母さんにはよく御承知の通りで、何も出来ず何時(いつ)も済まぬとは思ひながら過して来て、今は御国に捧げる身体となりました。元気で一生懸命努力精進してお祖父様やお母さんに喜んで戴き度(た)いと思って居(お)りました。今では飛行機も増々上達して来ました。戦地に行く迄には、一度や二度は家に帰る機会もありませうから、その時には皆の元気な姿を見、また私の元気な軍服姿も見て戴かうと思って居りますので、お祖父様にも必ず癒ってもらはねばなりません。その中(うち)には兄さんも歸ってこられるかも知れませんから。
私達一番の幸は皆の元気な姿です。お母さんもあまり心配してお体をこわさないやうにして下さい。弘田さんにもたのんで置きますから。
ではお祖父さんの事はしっかりお願ひします。雄三にもよく世話してあげるやうに申して下さい。
敬具
手袋有難う御座居ました。
【出典】1953(昭和28)年 白鷗遺族会編 「雲ながるる果てに-戦没飛行予備学生の手記-」
- 最終更新:2015-11-30 06:51:56