【第三御楯隊】清水正義

清水正義

慶応義塾大学
神風特別攻撃隊第三御楯隊として菊水一号作戦に参加、昭和二十年四月六日直掩機に乗って出撃、南西諸島にて戦死、二十四歳


 海軍志願のこと

 七月三十一日発五十九信拝見しました。五十八信に同封の写真ではとても健康さうで、大部若返ったやうですね。福知山へ行く前と同じやうだとお母さんも云(い)って喜んでをります。当方一同相変らず元気ですが、兄さんが広島に転任になってから丁度一月、大部慣れて来ましたが、毎日淋しいです。

 昨日お父さんの手紙と一緒に来た便りに依ると、愈々(いよいよ)待望の窓口へ出られるやうになったとか、本格的な銀行員になった訳(わけ)ですね。張り切って刻苦勉励してゐることと思ひます。

 前便でお知らせしました海軍予備学生志望の件ですがこれは主計兵願でなく(勿論経理の予備学生もありますが……)、兵科を志望したものです。

 先月(七月)二十六日、越中島の高等商船学校で身体検査竝(なら)びに口頭試問を受けましたが、

 第一志望  航空   B合格
 第二志望  一般兵科 B合格

となりました。

 飛行適といふことになってをりますから、多分採用されるだらうと思ってゐますが、飛行適の者は九月中旬にもう一度、身体の精密検査及び性能検査を受け、こえに不合格の者は一般兵科に廻され、十月一日入校することになるやうです。

 お母さんは飛行機などと云(い)って心配してゐますが、死ぬ時はどんなことをやってゐても死ぬんですし、今、日本の要求してゐる最大の武器は飛行機であることを思へば、僕も体で間に合ふのならば喜んで飛行機に乗りたいと思ってゐます。

 何(いず)れにしても、もう一度精密検査を受けるので、もし身体に異状があればはねられる訳ですし、採用されることになれば、自分の体にも充分自信を持つことが出来、大いに張り切ってやりたいと思ってをります。

 この半月程前から、朝晩体操をやったり、日曜日には海へ行ったりして、錬成に勉めてゐます。調子が段々良くなるやうな気がします。

 今度の海軍志願の件に関しては、池田辺りでいろいろ意見があったやうですが、兎に角(とにかく)、自分で自分の途(みち)を行って見たいと思って受験しました。

 決して一時的な昂奮状態で志望した訳ではなく、種々考へた上でやりました。

 唯(ただ)、僕が行ってしまふと、お母さんが一人になるので、家の問題に関聯(連)してどう処置すれば良いかヾ心配ですが、これも、僕に召集があったと思へば、止む得ないことと思ひます。

 兄さんの嫁さん、なかなか良い候補者がありませんが、広島で盛り飯なんか食べさヽれて不自由してゐるらしいですし、また人一倍気を使ふ方ですから、矢張り早く嫁さんを貰って、一日の疲れを治す家庭が必要だらうと思はれます。尤(もっと)もお母さんが広島まで行けると一番良いのですが。

 今年も、もう十日で秋になります。

 虫に鳴き出されたりすると、厚かった夏もなんとなく名残り惜しいやうな気がします。

 お父さんの愛唱歌? 「埴生(はにゅう)の宿」がしっくり来る季節が来ます。この間の写真では、まだまだあの歌を唱(うた)っても可笑(おか)しくない元気があります!

 体を大切にして貰って、孫にもあの歌を教へてやって慾(ほ)しいと思ひます。 左様(さよう)なら


 八月二十日

 御父上様


【埴生の宿】



【出典】1953(昭和28)年 白鷗遺族会 「雲ながるる果てに-戦没飛行予備学生の手記-」




  • 最終更新:2016-02-16 13:15:34

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