【第七御盾隊第二次流星隊】林 憲正

林 憲正

慶応義塾大学
昭和二十年八月九日、神風特別攻撃隊第七御盾隊第二次流星隊
本州東方海上にて戦死 二十五歳


 日誌(散華当日まで)

 四月三日(月)  (昭和一九年)

 もう四月である。今日の外出で櫻の花が咲いてゐるのを見た。米子女学校前の櫻並木も相当ふくらんで来た。春である。春が来たのである。然(しか)るに我々の ♈ (飛行)作業の進捗ぶりはどうだ! 未(いま)だ單獨は遠い未来の夢の如く思はれる。飛行機のむづかしさを近頃しみじみと感ずる。

 外出。クラブで Beethoven のヴァイオリン・コンチェルトとバッハを聴く。 Oh! gott!!

 私の心は何故(なぜ)か悲しみに充(み)ちた。死と云(い)ふものを私は脱却出来ないのである。 死にたくないのだ。 今一度、父母の前で酒を飲みたいのだ。そして思ひきって優しい言葉の一つをかけてみたいのだ。この前の外出日の歸(帰)りだったか、私は過去において親不孝ばかりして来たやうな気がしてならなかったのだ。そのやうなこヽろを抱いて、冷雨に濡れながら歸ったが、今日もそのことがおもひ出されてフッと感傷にふけったものだ。然し軍隊である。生と死の境界に我々は置かれているのだ。ひとは私を明朗でサッパリしてゐると云ふ。その實(実)、私の見た私は實に小心でサッパリしない愚劣な人間なのだ。

 我々に明日はない。昨日もない。ただあるものは今日、否、現在のみ! この考へに徹しなければならぬと感ずる。日曜の夜は誰でもが一応感傷を抱くらしい。私もその一人であらう。


 七月二十二日(土) 晴

 昨日「天翔る学徒」と云ふ海軍飛行豫(予)備学生を対象として取扱った小説を讀(読)んだ。相當(当)な感銘を受けた。私の周囲のことが凡(すべ)て些細なことのやうに思はれてならなかった。私は「私」のことばかり眺めてゐるにすぎない。そして「私」に關することなどは今や卑少なものと思へて来たのである。

 私は戀(恋)人の為に死すことの出来る人間を知ってゐる。私自身も或(ある)ひはそのやうな場合があれば、愛人の為に死ぬことが出来るであらう。

 私は郷土を護る為には死ぬことが出来るであらう。私にとって郷土は愛すべき土地、愛すべき人であるからである。私は故郷を後にして故郷を今や大きく眺めることが出来る。私は日本を近い将来に大きく眺める立場となるであらう。 私は日本を離れるのであるから。 そのときこそ、私は日本を本當(当)の意味の祖国として郷土として意識し、その清らかさ、高さ、尊さ、美しさを護るために死ぬことが出来るであらう。

 私はこんなことを考へて見た。そして安心したのである。まことに「私」の周囲のできごとは卑少である。私のこヽろは今救はれてゐる。朗らかである。

 午前飛行作業を終へて午睡 (*1)をしてゐたら、手紙が来た。


 十二月十三日(水)

 昨夜、映画があった。「無法松の一生」である。大變(変)いい映画だと思った。人間の美しさと云ふものは、身分とか地位或は衣服、化粧等、更には学問とか云ふものによってではなく、その人間のこころの美しさであることをしみじみと知るであらう。本當に美しい人間とは「松」の如きであるかも知れない。

 昨夜の雨もカラリと晴れて、今日は快晴。絶好の ♈ 日和であるけれど、地面が悪くて「彗星」はとべない。練成下士官が 99FB で編隊をやる。

 今朝の整列のとき、隊長は大谷中尉の血書を示された。ハンカチに「特攻隊死願大谷恒太郎」と書き、日の丸が真中に染められてあった。未だ生々しい血の色であった。多分、先日の攻撃隊編成のときのものであらう。頭が下る。

 我々学徒搭乗員は幾千幾萬とゐる。13期だけでも相當な数であらう。そして私達の一人々々が、その学徒搭乗員を代表してゐるのである。一人がいいことをすれば全体の名が上り、一人が過(あやま)てば全部の名を下げるのである。大谷中尉はまことに我々全部の為にその意気を示してくれたものと云ふべきであらう。 個人の行動それは直ちに全体の行動である。 このことを忘れて行動するの徒よ、大谷中尉にならへ。

 軍隊に於ては、殊(こと)に Egoismus は許さるべきではない。 (朝記)


 二月二十一日(昭和二十年) 曇、夕小雨

 十一日の紀元節の朝、国分を発って、夕方大分に着いた。搭乗員は私と池浦中尉の他下士官五名である。向ふ一〇日間、大分基地で「流星」の講習を受けるためだ。

 来た當(当)座は、横空 (*2)の人々は一種の脅威であった。それに流星と云ふ未だ実験中の高性能機の勉強で大變(変)だった。仲々(なかなか) ♈ キには乗せてくれず、居候のくるしさを大分味った。私達のことは全部私と池浦中尉とでやらねばならぬのだ。K5の名誉、13期の名誉を考へるとウッカリも出来ない。そのやうな明け暮れの中で国分に別れた仲間が無性に懐しかった。

 13期! それはやっぱり一つのクラスである。離れて見ると、その人達がたまらなく懐しい。特にK5にまとまった十六人の13期は、これで私達の生涯を終るその最後の戦友だと思ふと、全く兄弟のやうな気がする。然(しか)しそんな感傷の中にも、少くとも流星と云ふ新作機に乗るのは13期の中で池浦と私がトップであると云ふ誇りが私達を元気づけてくれた。

 七十二期の宮地中尉もよく指導して下さった。十五日に初めて地上滑走をやったが、それからは本土附近に迫る敵機動部隊の為に ♈ 作業は出来なかった。或る日は、魚雷を抱いて暁の強襲をかける陸軍新鋭機「靖国」を送って帽を振った。感激の一瞬であった。

(お母さん! 私のクラスの者五千人の中で新鋭機「流星」に乗るのは私と池浦中尉が第一番目です。この名誉をよろこんで下さい。)


 四月二十七日

 今窓外は雨だ。

 私の部屋は酒宴をする。

 酔っぱらった

 これだけの記録で此の部屋の Romantick なフンイキを感じてくれるか

 男ばかりの世界

 清潔なよろこび

 死が明日にも自分のものである生活の一コマ

 生きている限り明朗で、そして飲み、「ヘル談」 (*3)をするのが ♈ キ乗りの生活である

 机の前に活けられた菜の花よ! もう春はたそがれる!

 ……………

 …………… 想ひ出の語らひよ!


 五月六日 (註・日記は四月となっているが五月の誤りならん)

 クラス会をやった

 酔うて歸(帰)る五月の夜の星よ!

 さらば

 みんな仲よくしなければならぬと思ふ

 戦争はきびしい

 生きることは思はれない、と同時に、死ぬこともたやすくはない

 生きている限り死んではならない

 藤の花が夜眼にも美しい

 五月の青空よ



   五月十二日木更津基地へ転進、五月二十二日より日記は始る。(編者註)


 
 五月二十七日

 海軍記念日

 おひるはごちそうが出た

 アンデルセン童話を読む

 月の光のような世界。花や小鳥が語る世界

 こんな世界は單なる空想の世界ではなく、私達がいつか生れ變(変)る世界である

 私は楽しかった

 満月の太田山道を宿舎へ歸る

 女学校で映画を見たのだ。月光の新緑に映り返る美しさ


 七月三十一日

 今日こそ出撃の日である。我が流星隊八機の特攻々撃の日である。朝起きると、深い深い霧。山の木々の葉や梢から、その霧が雫となってポタリポタリと滴り落ちてゐた。

 ♈ 場へ来ると私達の ♈ キに搭載すべき品々がきれいに整理されて置いてある。

 昨夜身につけるものもすっかり更へた。母上の送って下さった千人針も腹につけた。国立の小母様の下さった新しい純白のマフラーも用意した。私の身の廻りにある最上等のものを身につけたわけだ。

 出撃命令を今か今かと待ちながら、只(ただ)独り防空壕に入ってこれを記してゐる。

 父上、母上初め兄弟姉妹、その他親戚知人の皆様、さやうなら。

 御元気でやって下さい。

 私は今度は「アンデルセン」のおとぎの国へ行って其処(そこ)の王子様になります。そして小鳥や花や木々と語ります。

 大日本帝国よ、永遠に栄えんことを。


 八月三日

 快晴の夏が続いて俺は未だに生きてゐる。あの日、敵機動部隊は姿を消してしまったのである。俺達の特攻待機もとけた。

 一昨日、石野中尉が試 ♈ に乗ってそのまま歸らなかった。どうなったのか遂に不明。

 恐らく東京湾中に没したものと推定される。悔みても餘りあることだ。あの日、敵機動部隊が来て居れば、彼は俺と共に出撃し、その若き祖国愛に燃ゆる生命を以て米空母一隻を轟沈せしめたであらうに……。

 後に残された若く美しい清子夫人はどうなることであらう。とに角、彼を惜しむ。


 八月九日 快晴 (註・戦死の日)

 敵機動部隊が再び本土に近接して来た。一時間半後に、私は特攻隊としてここを出撃する。秋の立った空はあくまで蒼く深い。

 8月9日!

 この日、私は新鋭機流星を駆って、米空母に體(体)當(当)りするのである。

 御両親初め皆様さやうなら。

 戦友諸君、有難う。



【出典】1953(昭和28)年 白鷗遺族会編 「雲ながるる果てに-戦没飛行予備学生の手記-」
 

  • 最終更新:2015-11-30 06:47:42

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