【第七二振武隊】千田孝正

千田孝正

昭和十七年東京陸軍航空学校大津教育隊(第十期生)として宇都宮陸軍飛行学校修了、同年七月二十七日平壌第十三教育飛行隊佐藤隊に転属、同年十月一日任陸軍兵長、二十年五月二十七日第七二振武隊として万世より出撃、散華。同日任陸軍少尉(四階級特進)。


 莞爾として出撃、本望々々

   1

 謹啓 初夏の候と成りました。其(そ)の後、御両親御一家様御機嫌如何ですか。突然内地 (*1)九州よりの便り、此(こ)の間迄支那に行って居りました何と云(い)っても益々元気旺盛、日々愉快な暮しばかり、他事乍(なが)ら御安心下さい。生まれて始めての満州、支那、一寸(ちょっと)内地、朝鮮とは趣を異にして居りますね。何処(どこ)に行っても内地人 (*2)の方々が我々を歓待して呉(く)れ、我が儘(まま)の限りを盡(つく)して参り、今にして申訳(もうしわ)けのない様(よう)な次第であります。満州の五日間はこれとて変りませんね。何と云(い)つても大御皇威 (*3)の広きことを今にして感じ、日本の国の有難さをしみじみ感じました。特に支那斎南に於ける大詔奉戴日 (*4)に支那民家の萬(ママ)る所が日の丸の旗がなびいて居ることには涙が出る程感慨無量でありました (*5)。現地在留邦人の気概も又格別なもの、本当に頭が下る程であります。生れて始めて見た北京は又実に離宮かの如く特に上空からの市街は夢そのものですね。一度御両親でも一緒に連れて行つてあげたい様です。可愛い日本の子供が兵隊さん兵隊さんと云つてなついて来ると、本当に内地に居ると変りませんね。旅館内に居れば又内地と変りませんが一歩外に出たら矢つ張り(やっぱり)支那だなと強く胸に来ます。夢に聞いた「クーニヤン (*6)」つてたいしたものでもないね。何とバカな顔ばかりしてゐてね、と云ふと叱られますから止(や)めませう。物価の高い事一寸(ちょっと)驚きました。サイダー一本三五円、煙草一箱百円、子供の一寸した「オダ賃」がざつと五百円と云ふ調子ですからね、到底吾々(われわれ)には手が出せないね。それから二日位後に錦州から写真を送つて参りますから御礼を出して於いて下さい。自分のは全身飛行服で写してありますから調度(ちょうど)いゝぢやないかと思ひます。良く写つて居たら引延しでもして見て下さい。女の子から御便り来た事と思ひますが、何も御心配はいりませんから。今日も晴、これでよし、敵艦が何だ、へへへ……。この野郎


 二伸

 下らぬ事ばかり書き並べ申訳けありません然(しか)し我々孝正等の目的は只(ただ)一つ不動滅せず。神機到来再びはるばる支那より九州に、それは孝正が云ふ迄もない。十分御両親様方には御承知して頂ける事と思ひます。孝正は此歳二〇年実に幸福過ぎる程幸福に育ちました二人親共持ちそして御親切な御叔父様を頂き、日になく色々御世話様になり、今にして何と御詫びの言葉なく、散る日が来たことは申訳け御座居ません。それに帰省中は何につけ御心配を掛け続け何と申訳けしてよいやら、御近所の方々にもお家の方から呉々(くれぐれ)も御礼「孝正は幸福者でした。御近所の方々から可愛がられ、かうして立派な姿になれました。屹度(きっと)御期待にはそむきません。必ずやります」と特に桂様、福次・勝様方軍人である方にはよろしく御礼を云つて下さい。それから「千鶴ちやん三保ちやんから頂いた人形さんは必ず一所に連れて行って上げませう」と、酒向先生にも色々御礼下さい。大空へ、そして靖国へ、兄弟五人揃って靖国へ、姉上様方にもよろしく御伝へ下さい。

 勉兄上にも一筆啓上しなくてはなりませんが何と云つても時間のない様になりましたから「唯弟孝正は先に元気で行きます。靖国にてお待ち致します」と丈(だ)けでよろしいから、思ひ付き思ひ付き書き並べますが悪しからず、国民学校同級者の皆様にも、御親類の方々にも四六四九(よろしく)「唯行きます」私孝正の言葉は之(これ)に尽きる、莞爾 (*7)として離陸、本望々々、喜んで下さい。


   吾(われ) 忠成りて孝ならんと欲するや
      孝なりて忠ならんと欲するや

     いな忠孝一本 (*8)なり


 神国強し 必ず勝つ 後に続くを信ず
 御国の栄えんこと必勝を祈り 御両親皆様の御健闘を祈りて散らん
  散る桜 残る桜 散る桜 では皆様後をお願ひ致します

   昭和二〇年五月十八日記す


 孝正明日愈々(いよいよ)出陣、七時半空母突入の予定であります。莞爾として出撃いたします。

 もう二三時、明日は〇時起き出かけなきやならぬ。月の明りで書く字がはつきり読めない為こんなになりました。

 御両親、皆様の健闘を、福山さんの所へ行つて下さい。遺品も置いてありますから。

  月を明りに

   吾必沈 明日早朝出撃
    孝正の本懐これに過ぐるものなし

  必沈を期す 明日の出撃の為今晩は早くに失礼いたします。兄上達によろしく。

  見よ孝正のうでを
   飛龍荘の麗子さんに写真を送ってやって下さい。

                          千田孝正

 御両親様

【1941(昭和16)年12月9日 米英宣戦布告を報じる朝日新聞】
宣戦の大詔.jpg


   2

必沈 轟沈 又轟沈
吾(わ)が願ひ 酒のみて
我必沈確実なり
快なるや我が体当り
見よ 沖縄の空と海を
我が法名には
「純」を忘れない様に願ふ
「あゝ悲しいかな」は必要なし
何も俺は哀しいわけは一つもない
唯 喜で一杯なり
それから我には遺骨だなんて無い
我が身の物は遺しません
大体俺なんかは墓場なんて勿体ない
俺はむしろ墓場より拍手の方が好きだ
孝正の遺ハイは

千田孝正1.jpg

仏壇より神様棚の方がいゝかも知れぬ
次に過去を語る
何故俺は高二から工業校を止めたか
何故川崎航空機に入った
一に飛行士になりたかったのだ
さうして俺は幸過ぎた
親に対し申訳けなし

一、鉄砲弾とはおいらのこと
  待ちに待つた門出ぢやさらば
  友よ 笑ふて今夜の飯は
  俺の分迄喰って呉(く)れ

二、でかい魚雷を翼に抱いて
  俺の得意はいざ体当り
  愉快じやないか仇(あだ)なす艦
  上る火柱、水柱

三、男散るなり 桜の花に
  散りて九段で 又咲きかへる
  散つて行くのは 電撃魂
  笑ふて咲くのは 大和魂

千田孝正2.jpg

 七二振武飛行隊歌

一、翼輝く日の丸に
  燃ゆる闘魂 目にも見よ
  重い爆弾かゝえ込み
  散るは敵かん轟沈だ
  あゝ我らこそ七二隊

二、平壌原より巣立ちたる
  我等十二の若桜
  母の面影 胸に秘め
  散るは敵かん体当り
  あゝ華なれや七二隊

三、狙ふ獲物は敵空母
  何を小癪(こしゃく)な艦戴機
  見たぞ突進 轟沈だ

千田孝正3.jpg


【出典】1976(昭和51)年 現代評論社 苗村七郎 「万世特攻隊員の遺書」

  • 最終更新:2016-05-28 12:52:45

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