【第一筑波隊】石橋申雄

石橋申雄

東亜同文書院大学
神風特別攻撃隊第一筑波隊、昭和二十年四月六日南西諸島にて戦死、二十五歳


 絶 筆

 遺 書

 背景 機動部隊来襲と共に数十年来の大雪寒気殊の外でありましたが、大雪の消ゆると一緒に、はやくも木々も芽を吹きはじめ、春近しの感が深いものがあります。

 種々御心配の御様子でありますが、お蔭(かげ)を以て壮健軍務に精励してをりますので御安心の程願ひます。尤(もっと)も斯(かか)るドタン場に立至り、生等の途は明かに決して居ることヽ御覚悟あられますやう、子として親に向って斯様(かよう)な事は申上げにくいのではありますが、父上ならば明白に御推察下さると存じ、又それを喜んで下さることヽ存じますので一応申上げておきます。

 今のうちに思つてゐることは何でも言ふやうにとのお言葉、誠に有難く、斯程(かほど)までに思つて頂きながら、子として何等(なんら)孝養も尽さぬまヽ、と考へる時、些(いささ)か後髪をひかれる思ひが致します。兄弟のうち小生一人のみ手塩にかけて頂き、且又最高学府までやつて頂いて、今斯(か)うして海軍士官として下つ端(ぱ)ながら人の上に立つ身になつて過去を振返つて見ますときに、苦労らしい苦労もなく、又苦しかつたとその当時思つたことも今は反(かえ)って懐かしく、想ひ出深く感じられます。同文書院は勿論(もちろん)、小学校の折からも友人に恵まれ、今斯うして海軍生活をおくつてゐる間にも同僚との間も和を以て第一とし、友人の誰彼も好感を以て交つてくれるのは決して自惚(うぬぼれ)ではなく、之(これ)も父上の幼少よりの御教育の賜(たまもの)と深く感謝してゐる次第です。既に還暦を超えられた父上に些かでも楽な生活をして頂き度(た)いといふのが小生の唯(ただ)一つの希望でありましたが、反つて御心配のかけつ放しだといふのも、一つは時局の然(しか)らしむところと御容赦を願ひます。

 兄、弟共に出征し、幸子は未だ幼く、甚(はなは)だ以て心許(もと)ない次第でですが何卒御自重あつて、御幸福に御生活下さるやうお願ひ致します。

 身一度軍籍に入つて今更何とて言ひ遺す事はなく、唯それのみがお願ひし度い事です。

 結婚に付(つい)ては軍籍にある身の云々(うんぬん)するのは如何かとも想ひますが、時代の声は従来の考へ方に些か変化を及ぼし、「後のことを思ふ」と云(い)う消極性と対立して、自己の生命を一すぢ現世に残すとの考へもあります。この問題に関しては自分としては自分の意志を明白にし度くはありません。

 唯父上の御意志に任せます。結婚し度い相手などはありません。若(も)し明日の運命のはつきり定つた男に対して、喜んで嫁ぐといふ者があつて、それが父上の御気に入るやうでしたら結婚してもよいと思ひます。
                                 申雄
  三月八日
 
 父上様



 絶 筆

 父上様

 九州の春は早いのですね、櫻も菜の花も美しく戦場さながらのこヽにも何となくなごやかな気分を与へてくれます。


桜菜の花.jpg


 昨夜はぐっすり眠りました。夢さへ見ないほどでした。頭もすつきり気分も爽快です。

 同じ地続きで、ちよいとそちらに廻り度い気もしますね。 (*1)

 お寺、水源地(何れも伯父、叔母)等によろしく。

  六日早朝 
                                 申雄

    (註)出撃当日鹿屋基地に於いて書いたものらしい


【出典】1953(昭和28)年 白鷗遺族会編 「雲ながるる果てに-戦没飛行予備学生の手記-」

  • 最終更新:2015-12-06 03:42:05

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