【神風特別攻撃隊第一八八幡護皇隊艦攻隊】若麻績隆

若麻績隆

大正大学
昭和二十年四月六日神風特別攻撃隊第一八八幡護皇隊艦攻隊として出撃、南西諸島にて戦死 二十三歳


 殘記

 自己を満足させようとする努力が、「残記」を書かしめようとする。
 
 この記は短い私の一生の遺書である。
 
 この記に残った動静がわづかにでも父母のなぐさめとなれば嬉しい。


 事故を目前に見て、なほも私は一歩を進め得るのは、私が私自身を握り得る時に於てである。
 
 事故があった。私が私を摑(つか)む程度がいかに緩いかに戦慄する。

 この戦慄は無くさなければならない。

 己を摑むこと、これに対する意識失くして、しかも巨然 (*1)としてゐる人、素朴な人、原始的な明るい生活圏を羨望する。されど徒(いたず)らに羨む勿(なか)れ。この道を真っ直ぐに乗り切る意志と力とは、私が学生生活中に学んだ筈(はず)だ。食後デッキで「智恵子抄」を十分間読んだ。もう萬人の通る通路から数歩自分の道に踏み込みましたと云(い)ふ言葉が目に滲みる。

 幸か不幸か私には、豫(予)備学生入隊以来雑談する友を持たない。昔はあんなにさわぎ廻った私でゐるのに……。

 他人のゆく道を歩かなくともよい。

 自分の道をぐんぐん入ってやらう。

 ふと眼を醒(さま)した。嵐は止(や)んでゐた。戦友の寝息が、人間の安息を物語ってゐるやうである。五六人離れて聞えるいびきも父のいびきに似てほヽえましい。あと一時間もすれば「総員起し」 (*2)になるのだ。

 寝台のきしまないやうに起き出でヽ、身支度を整へ、殉職した友を見舞ふべく学生舎を離れた。今朝はあの山国の故郷の五月の朝を思ひ出すほど暖い。「ドア」の取手を握った感触 ─── むかし寝物語に聞いた童話の子供が春の国を訪づれて最初に手がけた「ドア」の取手によく似たものである。

 通夜室には遺族の方は居(お)られなかった。

 昨夜、弔辞の原稿を作ってやったりして、夜遅くまで煙草の煙の中にゐたせゐか、頭が重い。分隊長の命令でもなく、しかも隣の分隊の仕事を、一言の許可も受けずにしたことを申しわけなく思ふ。でも私一人で骨折って出来ることなら、やはりして上げてよかったとも思った。

 こんな小さな骨折りは誰にも知られずにゐた方が気が楽でよい。

 己(おの)れだけ正しいのみならず、他をも正しくする。他を正しくせん為(ため)には、己(おのれ)は純一無雑の修行道を歩まねばならない。一歩行っては一度つまづき、延々と続くその嶮路(けんろ)を歩まねばならない。

 搭乗員の生活は如何(いか)にもデカダン (*3)のやうに一般に思はれてゐる。然(しか)し不思議な事に、そんな空気は過去四ヶ月の間を振り返って全く思ひ出せず、反対に日々の向上、日々の修養といふ事が非常に大きく表はれてゐる。

 平和な時代に五十年、六十年をかけて圓(円)満に仕上げた人生を、僅々半年で仕上げなければならない。勿論(もちろん)圓満などは望むべくもなからう。荒く、歯切れよく、美しく仕上げねばならないのだ。

 今日と同様な人間的生活を明日もあれかしと望む事は出来なくなって来た。だがまだ墜死の如きは事故と見做(な)して居(お)り、運命とは思ってゐない。それを宿命と考へる時には相当な犠牲があってからの事であらう。


 明日は天気になるらしい。

 私達にとって伎倆は生命である。一定期間の中に於て伎倆を士官としての腕まで上げなければならない。雨が降って乗らない日が続く。生命を刻むやうだ。

 明朝から本格的に始める。日記を書く暇もなくなるであらう。

 私はこの訓練中にも死ぬかも知れない。

 養子相続の出来ぬ風習の我家であって見れば、妹に父母を任せる事も出来ない。

 弟に頼むのみだ。弟も戦の庭に出るとすれば、早く弟の結婚を望む。無理とは知ってゐるが成るべくさうしたい。私は征途に先立って、私の家の断絶をさへ決心して来た。が、父母の幸福は望んで止(や)まない。


 事故によりまた同級の学生が死んだ。私はそれを飛行場の中央からはからずも目撃した。

 夕食の時、従兵がもって来た卵を二つ眺めてゐると、その「在り方」が如何(いか)にも奇妙なものであり、私のもってゐる心の何処(どこ)かに似てゐるのを発見した。

 そして夕食を食べなかったあの学生のテーブルの上にも、やはり配られたであらう二つの卵の容(かたち)をぼんやりと思ひ浮べてゐた。

 水たまりに散った椿の花の黒く色あせた路、梅花の凋落、放心でもなく悲しみでもなく、二つの卵の陰影を思ひ浮べた。そして卵に凸助(でこすけ) (*4)を書いた。それが弟の顏(顔)に似てしまったのは又(また)淋しかった。弟が長野師範へ合格したと知らせて呉(く)れた。何処でも良いから合格しさへすればと願ってゐたが合格と云(い)ふ事は実に嬉しい。安心とはこんな気持か。

 母上のお喜びも察せられる。兄弟が皆家を離れてしまうかと案じてゐたが、弟が家から通学できるとは幸ひこの上なしである。

 然(しか)し私は弟を大学まではやりたい。羨望するにはあらねども、大学生活の如何に甘美なるものか。弟よ、願はくば向学の志を捨てる勿(なか)れ。向学の志、それは青春の熱情である。

 妥協を斎(つつし)め、気節(きせつ) (*5)を尊ぶは男子なり。

 怒る可(べ)きに怒るは男子なり。

 弟よ、生活するのはお前自身である。決して小さな型に塡(は)められる事なく、常に破壊々々と、新らしい己を建設して、青春不滅を誇れ!

 重ねて云ふ、生活するのはお前自身である。

 随所に主となれば立所皆真(りっしょみなしん) (*6)

 小さな統御(とうぎょ) (*7)よりも大なる放佚(ほういつ) (*8)

 小を嫌ひて剛健の趣味に生きよ空に来い。

 故郷のやうに柔らかな山々の多いこの地の晩春。 (*9)

 椿こぼれた明るい河原の片隅の、へしつぶれた小屋、瓦(かわら)がまた新らしいだけに人生の哀れを思はせる。

 人は日々に死に近づいてゆく。

 それが正しい相である。

 一切が空(くう)に歸(帰)す。

 一切空なるものはそれがすなわち平和の相貌である。

 戦は大きなるつぼのごとく生命を吸ひこんでゆく。人は何も残しおくことは出来ない。

 防人(さきもり)吾等(われら)、征きては再び歸(帰)る日の歌はない。歌はなく只(ただ)祈る。たらちね (*10)の、安からんことを。


 孤独は陰影を呼ぶ。

 明朗は浮薄の上にあり。

 陰憂と浮薄を避くるには孤独を愛して常に透明なる太陽の下に居(い)るべし。

 明朗を好みて氷雨降る朔北(さくほく) (*11)に一人旅だつべし。

 母から懐かしい便りが時々送られる。

 返事は書くのであるが、つい出しそびれてしまふ。我儘(わがまま)お許し下さい。

 晩春といふよりは初夏であるが、今日しとしとと霧深めば逝く春の心もしのばれる。

 戦に在りて人の気質が形而下(けいじか) (*12)的にすさぶとき、人はまた約束とか、結合の道義を信じ合はうとする。それが戦友といふものではなからうか? 信義、それが破壊せんとするとき、野暮と兇暴の最後の姿が表はれる。智にも覆はれない本能のまヽなる蕃兇(ばんきょう) (*13)が抒情と善意と希望と純な肉体を最も惨なる醜なる土足にふみ躪(にじ)る。

 父母へ御無沙汰してゐる。

 内地にゐる間だけでも沢山(たくさん)手紙は差上げて置く可(べ)きだ。

 もうつヽじの花も色あせた。

 故郷の築山(つきやま)のつヽじも長いしべを残して散り落ちる頃だらう。



 遺書

 出撃の準備を急いでゐる私の飛行機の傍(かたわら)で一筆したヽめます。

 私の足跡は廿 (*14)有餘(余)年の昔の故郷から、今この野いばらさへも柔らかな春の若草の野末まで続いて来ました。そしてこヽで終ります。

 何もしてさしあげられなかった不肖お許し下さい。でも国の為(ため)になって男の意地が立てばそれでよいと思ひます。

 そヾろ感傷をさそふ春の雲に眼を放てば、満ち足りた気持が睡気(ねむけ)をさそひます。

 日の丸鉢巻に縫ひ込んだ教へ子の遺骨の肌ざはりに、いつしかしらず祈る心の湧き出だします。

 出撃の命が下りました。隊長は地球を抱いてぶっ倒れろと云(い)ひます。私も学生達にさう教へました。

 では皆様御健闘を祈ります。

                     たかし拜

 昭和二十年四月六日正午



【出典】1953(昭和28)年 白鷗遺族会編 「雲ながるる果てに-戦没飛行予備学生の手記-」

  • 最終更新:2015-11-30 06:53:54

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