【甲種予科練・土浦海軍航空隊】われら"土空"十三期卒業生

【出典】1957(昭和32)年 日本文芸社 「現代読本」第二巻第六号所収
元海軍一党飛行兵曹 佐見星二 「-選ばれた甲種予科練-われら"土空(つちくう)"十三期卒業生」


霞ヶ浦湖畔にそびえる兵舎は予科練揺籃の地、土浦海軍航空隊である。ここで見敵必殺の訓練をうけた若鷲たちが、大東亜戦争の大空に飛び立ったのである。


【土浦海軍航空隊:一日体験入隊】
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火花をちらす鉄拳

「第七班総員整列! 何をぐずぐずしているのか」

 と、容赦のない力強い怒ったような号令が響いた。外は筑波山から吹き下す筑波おろしが、ヒューヒューと吹きまくり、「巡検終り」で寝静まった広い兵舎のデッキは、素足が氷り (*1)着くような冷めたさ (*2)である。

 私は他班の人達に迷惑にならぬようにと、息を殺して静かにハンモックから下り、素早く作業衣を着てごそごそと整列し始めた列の中に入って行った。左右のハンモックに頭をぶッつけながら班員の先頭に立った当番は、班長に向って静かな押し潰した声で、

「第七班整列終りました」と、答えた。

 班長の右手には、樫(かし)の棒で作られた「軍人精神注入棒」がしっかりと握られ、歩く度毎に、棒の先がデッキに、こつん、こつんとあたり、その音が不気味に寝静まった兵舎の中に響いて行く。

「お前達を巡検後集めたのは外(ほか)でもない、第七班の中に、班の名を、いや分隊の名をけがした不届者(ふとどきもの)がいるからである」

 と、薄暗い電灯の下で班長は口を切った。

「全国から選抜され──、甲種予科練習生として、この土浦海軍航空隊に入隊したのは、他人の者をかすめ盗るためではない!」

 私は始めて (*3)、班長の怒る理由が分った。

「班員一人の事故も、班員全体の責任であることに変りはない、今からお前達に、今後このような事のないよう気合を入れてやる!」

 と、云(い)うなり当番の班員を皮切りに、大きな拳骨(げんこつ)が、足をふんばった練習生の顎(あご)に、いやという程ぐわんと飛んで行くのだった。

 先頭から順に私の方に近づいてくる。隣の鈴木練習生の前に班長の大きな拳骨がうなった時には、何(な)んともいいようの無い震えが私の体を襲い始めた。ぐっと両手に力をいれてふんばってきて矢張り容易に、その震えは止まりそうもない。歯を喰いしばって、前方をニラミつけていると、いきなり、大きな鉄拳が私の顎に来たと思った瞬間、目の周りから夜空の星の如く、火花がちり、続いての一発で完全に私の体は床の上に倒れて終(しま)うだらしなさであった。

 寒々とした兵舎にこだまする愛の鉄拳の嵐は漸く止み、その後はかえって歯の痛みが止まったみたいに晴れ晴れとした気持になることが出来た。気合を入れられ、再び、ハンモックの間をくぐりながら整列したわれわれに

「今夜はもう遅いから、早く寝ろ」

 と、今迄と打って変った、温味(あたたかみ)のある班長の声で、私は、痛い頬を撫でながら、未だ暖みの抜けきらぬ毛布の中に潜って行った。

 昭和十九年三月の終りも近い、土浦海軍航空隊、第五十四分隊第七班の、とある些細な夜の一コマである。


【土浦海軍航空隊:吊床】
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 海軍甲種飛行予科練習生の第十三期として昭和十八年十二月に、三重海軍航空隊に入隊して、僅か三カ月で土浦海軍航空隊に転属したわれわれではあるが、土浦航空隊の雰囲気と、教育方法は、開設間もない三重航空隊と異り、万事につけてと迷う (*4)ことが度々であった。そして、その最初の罰が巡検後の整列となったのだ。

 三重空(みえくう)時代には、鈴鹿おろしに悩まされ、土浦へ来て再び、筑波おろしの肌寒い、身を切る風に悩まされたが然(しか)し土空での訓練はそれにも増して厳しく、又激しさを加え、矢張り、予科練揺籃の伝統を受けつぐ所だけあって、あらゆる点での訓練の施設が整えられていた。

 戦時中にスクリーンを飾った予科練の映画を観た人達は覚えているだろうが、あれは全部土浦航空隊で撮影されたものであった。

 霞ヶ浦湖畔の一角に陣取った土空は全く予科練の育成に適した場所と云えよう。湖畔に沿って造られている、水上機の発着場とその格納庫、その中には独逸(どいつ)のハリケーン戦闘機や、初期の海軍の飛行機が納められており、格納庫の外には双発の九六式陸上攻撃機が、その大きい図体をキラキラと銀色に輝かせているのだった。


【予科練:水上戦闘機】
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 これだけでも私の、空への闘魂は益々漲(みな)ぎり、練習機への搭乗……それは即ち予科練教程の修了が待ち遠しくて仕方がなかった。

 三重空時代既に適性検査に依って、操縦、偵察が各人に決定され、土空に転属と同時に操縦適性の者は操縦の各分隊に、偵察適性の者は偵察の各隊に分れ、それに依って訓練と日課も異って来た。偵察分隊では、連日のように通信に主力を入れて教育され、操縦分隊は、飛行機の整備、構造などに力を入れて教育されて行った。


【予科練:通信訓練】
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【予科練:発動機の教務】
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 幸(さいわい)私は、自分の希望どおり操縦分隊に廻されたが、操縦員になるためには、先(ま)ずあらゆる試練にも耐えて行くだけの精神力や、体力が必要とされた。何事も早く、機敏に行動しなければならないのだ。殊(こと)に空中に於ける戦闘の勝敗は瞬時の間に決せられるので、一刻一秒の時間もゆるがせには出来ない。相手より一秒遅れて敵を発見した時は、最早(もはや)敵の飛行機に依って死地に追いつめられたと同じだと、先輩の言った言葉が、頭に刻みついて忘れることができなかった。

 朝の「総員起し」に始まり、夜の「吊床(つりどこ)下(おろ)せ」に終る一日というものは、一分たりともいえ緊張を欠く事さえ出来ない。

 先(ま)ず隊内で行(ゆき)違う練習生が、自分と同期であるか、十二期の先輩であるかを見極めなければならないのだ。若(も)し先輩に対しぼやっとして欠礼でもしようものなら、

「こら! 十三期止れ、お前の目は節穴か」

 と、いきなり拳骨をくらうのは日常茶飯事である。


すざましい釣床訓練

 一日のうちで必らず行われる、スピーディで、すざましい (*5)訓練は、吊床(ハンモック)訓練である。一個分隊、二百名近くの練習生が、兵舎狭しとばかりに、吊床を縛ったりほどいたりする訓練は、全く最初は苦しいの一語に尽きた。

 兵舎内の一部に設けられたネッチング(露台のような場所)に、納められている吊床の縛った麻縄の位置が、どれも同じようにそろって綺麗(きれい)に列(なら)べられてあるが、それ迄なるには矢張(やは)り相当の訓練が必要なのである。

 白い事業服の上衣(うわぎ)を脱ぎ、作業帽の顎(あご)ヒモをかけ、ズボンを半分迄まくりあげた私は、吊床の納めてあるネッチングの前に一列に同じ班の練習生と一緒に並んだ。右隣りには、第六班が、これも同じように一列に並んで緊張した顔でいまや遅しと号令の出るのを待ち構えているのだ。

「総員吊床下せ!」

 拡声機 (*6)から流れるこの号令で一斉(いっせい)に戦の火ぶたは切られる。各班毎に二名がネッチングに登り、一人一人に吊床を手渡して、自分の吊る場所にハンモックを持って行き、僅か一分足らずの間に兵舎は静寂に返った。吊床がネッチングから全部下されたのだ。そしてこれからが本当の"吊床訓練"の本領に入るのだ。私は吊床を自分の前に置き、当直教員の号令を待った。正に緊張し切った一瞬!

「よーい。始めッ!」

 と、言い終るか終らぬ間に、吊床の端についた鉄の輪がビームに掛かる音が"ガチン"と一斉にしたと思うと、後は、サー、サーと麻縄をほどく音が続き、時を同じくして、

「第七班」……「第五班」

 と、吊(つり)終った班の名前が当直教員に報告される。この間の時間は僅かに三十秒、それでも当直教員は「よし!」とは云(い)わなかった。

「吊床おさめッ!」

 の号令で一斉にハンモックが縛られていき再び「第何班」と、同時に縛り終った班の報告が行われた。そしてこの時間は四十秒掛(かか)っただけである。

 この吊床訓練は毎日十回位行われ、時間が依り以上に短縮されぬ場合には、その罰として"前支え"をやらされることも度々であった。時には各班対抗の"吊床競技"がやられ、一番最後になった班は必ず、

「お前達はやる気があるのか!」

 と怒鳴られて、急行 (*7)下爆撃(食卓の端に足先を乗せ、床に手をついて躰(からだ)を支え、頭を下にさげた前支)をやらされた。躰の血が全部顔に集るので、顔は異様に腫れぼったくなり、息はつまって全く苦しいものだ、然(しか)し、こんな事位にへたばって終ったら予科練の生活は一日も出来はしないのだ。

 だが中には病気を併発して倒れるものもいたが、それは極(ご)く僅かな人数であった。

 土空の雰囲気に馴れるにつれて、間誤(まご)つくことはなくなった。外出も月二回は許可され土浦迄足を伸ばして大いに英気を養ったというのは表面だけで、大いに胃袋を拡張させると言うのが外出の目的であった。

 アルミニュームの厚い弁当箱にぎっしりとつめられた御飯だけでは、食い盛(ざ)かりのわれわれが何(な)んで満足できよう。この時とばかりに、練習生指定の食堂や海軍会館へ行って、胃袋の能力の有る限り押し込み、帰りの隊門での歩調も苦しそうにしている姿は、今でも思わず笑いたくなる恰好(かっこう)のものだ。だから外出の翌日は食べ過ぎの下痢患者が出て医務室が繁昌(はんじょう)するといった調子だった。


戦艦"山城"の艦務実習

 春も過ぎ、夏の前振れ (*8)である梅雨時になると各分隊対抗の、予科練独特の球技である"闘球"試合が始まる。この試合には分隊の名誉にかけても勝たなければならない。われわれ五十四分隊長始め分隊士や教員の熱の入れ様も又、ひとしお力のこもるものであった。

 各班から優秀な練習生が選手に選抜され、毎日火の出る練習が続けられた。このために同じ班の大場練習生は腎臓炎を起し遂に入室する迄になった。それでも彼は止(や)めようとはしなかった。

 練習の甲斐なく五十四分隊は他の分隊に破れ去って意気消沈したが、そんな時は決って

「気合を入れてやるッ!」

 と、総員整列して、広い練習場を何回も駈足(かけあし)をさせられたが、少し位の駈足位では参らぬ位に、次第に鍛えられて行った。罰のための"前支え"も一人前の予科練になりつつある私にはスポーツのように感じられてきた。

 "闘球"でもなんでも予科練には全部が攻撃のための訓練である。後へは退かず、唯(ただ)前進あるのみ。何事も体当りで猛進するのだ。このことは、相撲の訓練に如実に現われている。小さな技などは大禁物で、若(も)しやろうものなら、勝っても負にさせられてしまう全くの正攻法、仕切った二人が元気良くぶっつからなければ、へとへとになる迄何回もやり直しをさせられ最後に、尻を叩かれるのがオチである。

 私は同じ班の鈴木練習生と良く取組むことがあった。互(たがい)に見合って文字通り衝突すると、目から火花がちり、頭の脳天がジン!と痛くなる事があり、石頭の鈴木練習生には全くシャッポを抜いだ (*9) 。そしてその時に、私は一瞬ひるんで、彼に押し出されて終(しま)うのだ。

 負けると再び残って新手と取組む、然(しか)し前の衝突が響いている私は、新手にも負けて終った。三度の新手と取組み今度こそはと、ガン!と突込んだが、ひらりと体を変わされ (*10)前につんのめる。四度の新手である。泣くにも泣けず私は、歯を喰いシバってニラミ合った相手に対し、班長の軍配が上にあがった瞬間、全身火の玉の如く、当って砕けろとばかりに体当りをくらわした。相手はその勢(いきおい)でペタンと尻餅(しりもち)をついたので漸く土俵から降りられたが、その時班長に、

「よし、よく頑張った!」

 と、云われた言葉はこの上なく嬉しいものであった。こうして次第々々に予科練魂は養われていき、座学に実習訓練にと毎日休む暇もない訓練となって行くのだった。

 予科練習生時代に必ず行われるものに職務実習がある。軍艦に乗組んで、座学で習得した事を実際に見聞し又、経験してみるのだ。この艦務実習には痛わしい不詳事件が、私達一期先輩の、十二期甲種予科練習生にあった。それは、十二期練習生が、実習のためよく名前の知られている戦艦"陸奥"に乗組み、瀬戸内海を航行中、原因不明の火薬庫爆発に依り艦諸共(もろとも)、海中深く沈んで終(しま)ったことである。この原因は現在に到る迄不明とされ謎に包まれた儘(まま)となっている。

【戦艦「陸奥」】
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 私達十三期は、横須賀に碇泊中、矢張り戦艦である"山城"に乗組んだ。戦艦としては小さいと云うことだが、それでも小さな島の様に感じられた。丁度(ちょうど)七月の上旬である。幾重にも仕切られた艦内は全く蒸されるように暑い。「巡検終り」が告げられると艦内の喚気 (*11)がぴたりととまり、昇降口のハッチが閉ざされるので暑くて寝られる所の騒ぎではなかった。

【戦艦「山城」】
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 翌朝「総員起し」の後、われわれ練習生も山城の乗組員ともども甲板洗いをしたが、その洗い方の早い事、まごまごしているとつき飛ばされそうになったりする。おまけに後(うしろ)にいる教員からは

「掃除をしているのか、撫ぜているのか」

 と、怒鳴られて、方々の態(てい)で水で足を洗い艦内に引揚げた。

 朝食が終ると、艦内の一巡であるが、一度案内された位では完全に迷子になる程の広さである。その中で私を驚かせたのは、主砲の一番根元のその大きさであり、ピカピカ光ったその輝きにも又二度びっくりであった。

 だが一番困ったことは、一日一度は厄介になる便所である。座り方を教わり、いざ用達しと思うのだが、ヒヤッとする冷めたさには出る可(べ)きものも出なくなる始末で、全く閉口させられて終った。

 艦内の狭いラッタルを悠長に登ったりしていると、「こら、駈足で登らんのか」と、一喝喰うか、いきなり戦艦"山城"製の拳骨が遠慮なく顎を目がけて降ってくるので、全く油断は禁物である。

 短日間の艦務実習も終り、久里浜に上陸、予科練発詳 (*12)の地である追浜(おっぱま)海軍航空隊に一泊して再び土浦海軍航空隊に戻り、漸く最後の総仕上げに、厳しい訓練と、飛行術練習生としての配属が検討され始めた。


配属実習航空隊の決定

 だが、その厳しい訓練も、あと僅かに迫った帰省休暇のために寧(むし)ろ、励みにさえなって来た。マット体操に機械体操にと、私の体は次第に、飛行兵として、物心両面に於て充実して来るように感じられて来た。

【マット体操】
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 マット体操では倒立も空転も出来るようになり、自分の身も自由自在に動かせることも出来る。軽快な、パンツに半ソデシャツと運動靴を身につけた姿は、何処(どこ)からみても一人前の予科練であった。しかしそうなってみても尻に出きた擦り傷は痛みが断えなかった。

 短艇訓練で出来た名誉の傷なのだ。

 霞ヶ浦湖畔上短艇の後尾に乗った教員の笛の吹く音に合せて、一枚一枚漕いでいくつらさは尻の傷で、例えようの無い痛さである。

 樫(かし)の太い棒で作られた橈(かじ)は、支えるのにも大変なしろものである。教員の「用意」の号令で、橈を一斉に、水中に入れんばかりにし握った部分を前につき出し「ピー!」と鳴った笛の合図で一斉に漕がなければいけないのだ。しかし下手をして橈を一人が流し始めるともう目茶苦茶だ。全部のペースに影響してカッター(短艇)は進もうともしない。

【短艇訓練】
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 これも最初の頃で、次第に馴れてくると、要領の良い奴は唯々(ただただ)調子を合せて漕ぐ真似をするだけだ。然しこれが見付かると、大変である。

「この横着者め!」

 と、いうが早いか、舵を取る鉄の棒が、横着者の脳天めがけて飛び大きなコブが出ること必定である。少しでも橈の乱れが見付かると、細長い樫の棒がヒューとうなって頭を狙って飛んでくるのだ。

 手に出た豆が潰れて液が流れ、一枚漕ぐ度毎にピリ、ピリと痛みが神経に響く、上体を前後に屈折すると尻の皮のむけた所が腰掛けて居られぬ位に痛むが誰しも苦痛を顔にさえ現わそうともしない。ぐっとこらえて"これ位の事で弱根 (*13)を吐いてたまるか"とばかり口を真一文字にむすんで唯(ただ)一心に漕ぐばかりである。

 汗びっしょりになって喉が乾き始める、そうすると、後部に乗っている班長は、短艇のあかくみでいきなり水を浴せ始める。その間も断え間なく合図の笛の音は止まず、それに合わせて漕ぐ練習生の顔には漸く疲労の色が見えてくるのであった。

 こうした訓練を経て、漸く待ちに待った帰省休暇の許可が降り、一週間、再び帰ることの出来ぬであろう我が家での生活を味合うため、純白の七ツ釦(ボタン)の制服に、トランク片手にして、班長の見送りを受けながら、土空の隊門を後にした。

 八カ月目に見る故里(ふるさと)での一週間の生活は余りにも短かかった。しかし、最後の一日を前にしての晩、残念にも敵空襲の状報 (*14)で後髪引かれる思いで、父母を後にして再び隊門を潜(くぐ)った。

 戦局は益々不利、私は水上機の操縦と決定配属先の航空隊も漸くにして決められた。休暇から帰って卒業迄の残り少い日々は前にも増して訓練が激しくなった。私は普通より一カ月、早目に配属されることになったからである。

 実習よりも早く終らせなければならない座学が連日続けられた。午前中動き廻った時は午後の座学に居眠りが出るのには困った。時々見廻りに来る当直教員に見付かったら最後授業の終った後でアゴ(拳骨)を貰わなければならない。
 
 殊に夕食後の温習時間には居眠りの傾向は激しくなった。だから"温習終り"の拡声器からの号令で、一斉に本を机の中に整頓してしまい、軍人教諭を一人一人が暗誦し終り、もうこれで寝られるかと思うと実に嬉しかった。

 漸く月日は過ぎ去り、最早(もはや)土浦海軍航空隊の生活とも別れを告げ、待望の"飛練 (*15)"への勇飛 (*16)も間近に迫って来た。

 昭和十九年八月三十一日、予科練習生の課程を修了し、土浦を後にして、実習部隊の水上基地である鹿島海軍航空隊に向うことになった。

 その日隊門の両側に並んだ、十四期、十五期の練習生や、われわれをかく迄育てあげてくれた分隊長、分隊士そして教員は、隊伍堂々、挙手の礼で行進する我等(われら)十三期卒業生を見送ってくれたのであった。行進しながらも何か目頭が熱くなってくるのも、私ばかりではあるまい。

 告別の行進も終り、身の廻りの品々を衣嚢袋(いのうふくろ)につめ、鹿島航空隊差向えのバスにゆられて、今度は本当に別れをつげなければならぬ時が来た。

 自然に両眼から流れ出る涙には止めようもなかった。わざわざバス迄見送ってくれた班長の目にも、キラリと光るものを私は見た。

「女々しいぞ、泣くな」

 と、云いながら見送ってくれた、戦友や班長の姿が見えなくなる迄、私は手を振り続けた。

 再(ふたたび)見ることが出来ぬであろう。遠ざかり行く土浦海軍航空隊をしっかりと見つめ、実習部隊での予科練よりもっと厳しい訓練と飛行練習に腰をしっかり据えたのだ。

 配属の決定された鹿島海軍航空隊は、土空から僅か自動車で一時間の佐原町近くにあった。矢張り霞ヶ浦湖畔に、二並びの兵舎が隊門からの舗装された道路の両側に陣取った誠に小じんまりした海空隊であった。

 然しこの水上機航空隊を巣立った先輩の中には幾多の水上機の名パイロットが生れでて大東亜戦争に武勲をたてていた。

 隊門に入った瞬間から今迄土空などで感じられぬ実戦の凄まじさがひしひしと身に沁みて感じられてならなかった。

 二式水上戦闘機、零式観測機(艦載機)彗星艦爆……など実戦機が翼を並べて飛行場狭しと列をつくって爆音高らかに空中高く舞い上り、綺麗な編隊飛行で真上を通ったり、棄身(すてみ)の急行 (*17)下で水上に浮んだ標的を銃撃するその様子をみて自分もあんなになれるかと思いながら敵艦攻撃を夢見ながら飛行練習に励むのだった。(終)

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【写真出典】
・1983(昭和58)年 講談社 「写真図説帝国連合艦隊-日本海軍100年史-」
・1995(平成7)年 光人社 「日本軍用機写真総集」

  • 最終更新:2017-07-11 12:21:02

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