【珊瑚海・南太平洋・マリアナ沖海戦|翔鶴機銃員】空母翔鶴の最期(後編)
出典:1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第四号所収
当時南雲部隊旗艦翔鶴機銃員 松下譲 「──長恨マリアナ沖海戦──空母翔鶴の最期」
この日の戦闘は彼我(ひが) (*1)熾烈を極めていたが、幸(さいわい)に翔鶴は爆発も沈没もしなかった。艦載機を全機発艦したあとの空母の上甲板は丁度(ちょうど)雨天体操 (*2)のようなものである。まして翔鶴のそれは、他の空母の倍も厚い鋼鉄で出来ており、二五〇キロや三〇〇キロの爆弾などはてんで受付けもしなかった。大型の魚雷でも食わなければめったに沈むものではないのであった。
その魚雷にしてもアメリカ側のはのろいし、また遠くに落し過ぎるので、この時は全部が回避出来た。
ただヨークタウンから発進した攻撃機の爆弾で、艦首の飛行甲板を一部こわしただけだったのだ。
【米空母から発進する米軍機】
アメリカの攻撃機が、わが翔鶴への攻撃をおわって帰りはじめたころには、その母艦は、こちらから飛んでいった艦載機によってこっぴどくやられていた。
雷撃機はレキシントンを見事に挟み撃ちして、図体の大きい、回避ののろい巨艦に二本を命中させ、爆弾の二発と至近弾数発は、彼の弾薬庫を轟然大爆発させた。ヨークタウンには、超大型八〇〇キロ爆弾を一発お見舞い申して上下甲板を四段も貫き、完全に両艦とも爆沈されたと信じられていた。しかしあとで知ったが、この時ヨークタウンは必死の操作によって漸く危地を脱出すると、修理に数ヶ月を要した深傷(ふかで)だったが、兎に角(とにかく)、この時は沈没だけはまぬがれたという。
一方レキシントンの方は大変だった。
一番最後に帰艦した零戦の内山少尉の話をきくと、雷撃をくらったレキシントンは、戦闘がおわっても次々と起る艦内の弾薬庫の誘爆で、ひどい傾斜と火災に悩んでいたが、一時間ほど経ったころ、突然大爆発が起った。命中魚雷で少しづつ洩れ出したガソリンにとうとう火がついたのだろう。見ていると爆発は立て続けにおこったという。それからまもなく、内山少尉が帰艦しようと機首をめぐらす頃、幾度目かの轟然たる大爆発の音とともに、遂にその三万三千トンの巨体を大きく揺すって、一瞬海中に没し去ったという。薄暮の迫った海面には、ドス黒い重油が残光のなかで不気味に渦を将(う)いているだけだった。内山少尉は静かに機上で瞑目(めいもく) (*3)したが、その最後は敵ながら壮烈無比な光景だったと報告しているのを、私達も同じ感慨で聞いたものだ。
米空母レキシントン轟沈 空母翔鶴、瑞鶴艦載機68機は米空母レキシントンとヨークタウンに襲いかかった。 写真右端が空母レキシントン。 魚雷命中の衝撃で洩れ出したガソリンに火がつき、レキシントンは2回にわたる大爆発を起し遂に海底に没した。 沈没直前のレキシントン。救助のため駆逐艦が横付けしている。 レキシントン、沈没直後。 |
この時の戦闘は、搭乗員の奮戦効 (*4)を奏して数の上ではハッキリ日本は勝った。
改装空母祥鳳の沈没は痛かったが、アメリカ側は、この巨大空母レキシントンと、その他、タンカーや数隻の駆逐艦を失っていた。わが翔鶴とヨークタウンの手傷でも、明らかに彼 (*5)の方がずっとひどかった。
だが戦闘の勝敗はただそれだけできめられるものであろうか私はいま静かに考えて多くの疑問なきを得ない。
あの蒼く澄み切った珊瑚海の美しさを私はいまだに忘れることが出来ない。そしてその水の上に、旭日の軍艦旗をひるがえさせる日はもう永劫に失われてしまったのだった。
その月の中旬、翔鶴は呉のドックに入るために内地(ないち) (*6)に帰港した。内地に帰るのが楽しいのはおそらく休暇のある古参兵や戦友たちだけであって、われわれ若い兵隊にはまた血のにじむような内地訓練が思い出されて、それほど嬉しいとも思わなかった。
入渠(にゅうきょ) (*7)中は艦内の訓練も制限されるので、肉体的には大分楽だったが、毎日の刺戟(しげき) (*8)のない生活や無味乾燥な艦底の整備作業にはあきあきした。上官の気が荒(すさ)んで、一寸(ちょっと)したことにも下に者がひどい目にあうのもこんな時であった。
機銃も二十基ほど増設された。二十五粍(ミリ)機銃が主で、前甲板(ぜんかんぱん)と両舷側にはみ出るように取りつけられた。いずれも取りはずし自由で一基に隊長と兵二名がつき、自動照準による研究と訓練が行われた。
やがて赤錆びた艦体(かんたい)も塗りかえられ、見違えるように美しくなった。
新装された翔鶴はまもなくドックを出て、再び前線へ駈け(か)り出された。そこには南太平洋戦をめぐる彼我の激闘が、はやくもわれわれを待ち構えていたのだ。
昭和十七年十月十八日の未明、翔鶴を錨をあげ、静々と瀬戸内海を移動して豊後水道を経て再び祖国に別れを告げ、太平洋に乗り出したのであった。
それより最大速力二十六ノットで一路南下した。(最高速力は三十二ノット)
南下するにつれて暑さも急にひどくなり、訓練も実戦の様相をおびてきた。起床と同時に、艦内全部消燈してまっ暗やみの中で猛訓練が行われた。普通では食事時間中だけは絶対に訓練戦闘配置の号令はかからないのだが、今度は食事最中でもお構いなしに「対空戦闘配置につけ」の号令がかかった。二十四時間中、一刻の油断も出来なかった。
こうしたなかでも艦の速力はいささかも落さなかった。艦は一体どこへ行くのか、また何の作戦目的でゆくのか、勿論(むろん)私たちには一切わからなかった。そして、どこをどう航海したのか知らないが、約一週間で或る小さな無数の島にかこまれた港に碇泊した。
夜が漸く明けたので、薄暗がりの中に眼をこらして見ると、片側は平らな陸地が細長く広がっている泊地で、すでにそこにはもう前から来ていたのだろう翔鶴の姉妹艦の瑞鶴(ずいかく)、瑞鳳(ずいほう)、隼鷹(じゅんよう)の空母群や、金剛(こんごう)、榛名(はるな)などの高速戦艦の姿も見えた。朝霧がはれると、遠くかすかに、同じ戦艦の比叡(ひえい)や霧島などの偉容(いよう) (*9)もやがて望見された。
【戦艦「比叡」】
【戦艦「霧島」】
新造艦時代の霧島。
改装後の霧島。
「随分集ったなあ」
同じ当直見張りに立っていた森元一水 (*10)もそばで眼を輝かせて呟(つぶ)やいた。
「あの駆逐艦だけでも何隻いるだろううん、まず二十隻以上はたしかだな」
「こっちにかたまってるのは?」
「あれは重巡(じゅうじゅん) (*11)だ」
その重巡も十隻は優に越していた。
「すごいぞ!」
私も全く頼もしくなって思わず叫んだ。これこそ太平洋戦争の初期、海域せましと荒れまくった無敵南雲(なぐも)部隊の精鋭機動部隊の全容だったのだ。
十月二十五日、未明とともに全艦隊は敵を求めて東に向って出撃した。その夜、不意に襲ってきた敵の触接 (*12)機から猛烈な爆弾の洗礼を受けた。幸い、その時はみな海中に弾は外(はず)れて、何の被害もなかったが、それによって敵機動部隊の近くにあるを察知したわが方は、直ちに夜の明けきらぬうち全航空部隊を発進させた。いままでの経験で、きっと翌朝必ず大空襲をしかけてくると判断したからだ。
【空母を飛び立った九七式艦上攻撃機は遥かな敵空母をめざして真一文字に飛ぶ】
「いよいよ、この近くにいやがるンだ」
「来らばきたれだ!」
われわれは腕を叩いて四方八方の空を睨みまわしていた。
艦載機の発進を全部終った午前五時二十分頃だった。突如、
「敵機見ゆ、艦上機約百二十機、東方五千メートル」
と艦内スピーカーがガナリ立てた。
見ると東方上空より大編隊が悠々と近付いて来るではないか。
忽(たちま)ち全員戦闘配置につく。艦隊はしきりに全速をもって『の』の字旋回運動をしていた。
【参考:マリアナ沖海戦での旋回運動|1944(昭和19)年10月26日】
「よーしッ」
一同唇をかみ必殺の気合で身構えているうちに、敵機は徐々にまた艦隊の前方に旋回してきた。どうやらこの前と同じだ。
私はその時、艦首から急角度で私の機銃目がけて突込んできたカーチスを、夢中で狙いうちした。
ガーンッ!
という叩きつけられたような感じがしたと思うと、私の意識の糸はそこでプツンと切れてしまった。
数秒間であったかそれとも数十分であったかはっきりわからないが、兎に角(とにかく)私は間もなくハッと気が付いた。私は銃架(じゅうか) (*13)にしがみついたまま倒れていたのだ。
無意識に右手を首筋にまわしたら、ねっとりした血が一面に背筋に流れている。自然手はポケットの応急手当の綿花を引っぱり出していた。そして首筋の負傷個所と思える部分へそれをぐいッと挿入すると、そのまままた人事不省(じんじふせい) (*14)に意識を失ってしまった。
何処(どこ)か体の一部分がひどく痛いと思って気がついた。眼の前に軍医長が、強心剤であろうか数本の注射を、私の胸に続けざまに打っているところだった。それから衛生兵が両側から鋏(はさみ)をもって、私の戦闘服装の上から下着までをジョキジョキと切断し、上半身を丸裸にした。忽ち繃帯(ほうたい)をぐるぐる巻かれ、竹で編んだ海軍の患者護送用具でエレベーターに乗せられ、中甲板(ちゅうかんぱん)の後部戦闘臨時傷病室に担ぎこまれた。担ぎこまれたと同時にまた私は気が遠くなった。その後は記憶が途切れとぎれに中断している。
そうして幾時間か経った。
「これは出血がひどいなあ」
という声が微かに耳元できこえた気がした。その途端、物すごい傷のいたみで不意に眼がさめた。
私は大勢の軍医や衛生兵にかこまれて、傷の治療を受けている最中であった。首筋と背中に、突き刺さった弾丸の破片摘出のため手術をして、いま応急縫合を終ったばかりの処(ところ)らしかった。勿論(むろん)麻酔薬などうっているひまなどない。それでもリンゲル (*15)一本が股(また)の付け根にうたれた。私はそれでしばらくして次第に元気になってきた。
いくらか痛みも堪(た)えられるようになったところで私は、はじめて眼だけを動かして室内の様子を眺める余裕が出てきた。
広い室内には約六十名ぐらいの負傷者がいた。そのほとんどがみな重傷者ばかりだった。私の隣りには、死んでいるのか生きているのか少しも動かず声も出さない老兵が横たわっていた。足のない者、片腕のない者も無数にいた。咽喉(のど)から顎(あご)にかけて肉が裂けて、繃帯の血がドス黒くにじみ出ている者、それらが異様なうなり声をあげたり叫んだりしている、地獄さながらの光景だった。
上甲板ではいまだに激烈な戦闘がなおも繰りかえされているらしく、絶えまない震動がビリビリッと伝わってきた、その上、時々、
ドッスーンッ
という物凄い音がきこえてくる。大型魚雷でも食らったのか。戦わずにじっとしているほど、恐怖心にかられることはない。いたたまらない気持であるが、体はどうにもこうにもならないのである。
だがこの日の海戦(南太平洋海戦)も天はわが方に味方してくれたようだった。
機先を制してわが方から発進した攻撃隊は三波にわかれて米空母エンタプライズとホーネットに殺倒 (*16)して行った。空母対空母の決戦である。この頃の日本の搭乗員は、まさに伎倆円熟、見事な奮戦ぶりを示した。そして、遂にホーネットを沈没させ、不死身のエンタープライズまた再起不能に近いまでの大打撃を与えて大破させるなど、日本機は、総崩れになって避退する米艦隊を尻目に、悠々と戦場を、引き揚げてきたという。
ホーネット強襲 空母ホーネットはドーリットルのB25をのせて東京空襲をやった艦である。午前10時ごろホーネットは日本雷撃機、急降下爆撃機の集中砲撃を浴び始めた。恐るべき弾幕をおかし、勇敢な艦攻は重巡洋艦ノーサンプトンの上を飛び越えてホーネットに肉迫する。あと数秒! ホーネットの飛行甲板めがけて急降下爆撃機が突入すると左方低空から艦攻が魚雷を投下する。左端はその水煙。 轟然艦橋付近に爆弾命中、急降下した艦上爆撃機は身をひるがえして右に逃げる。艦上攻撃機(右端)が落した魚雷はまだ水中を走る。 すでに機械は止まり午前10時21分ころにはホーネットは左に傾いたまま死んだように南太平洋に横たわった。 ホーネットの飛行甲板にはいたるところ破孔があき火焔は一面に拡がる。米兵が消火に全力をあげる。 |
わが翔鶴も、この日右舷中央に魚雷一発を強く打ち込まれていた。だがたいしたものではない。その損傷は中破程度だった。姉妹空母の瑞鳳も同じように浅傷を受けていた。
飛行機の損失、アメリカ七四機、日本六九機とあとできかされた。練達の搭乗員百名以上を一挙に失ったわけである。これだけは実に痛恨事だった。
猛撃は続いた 南太平洋海戦で痛撃をうけたのはホーネットのみではなかった。エンタープライズ群の最新3万5000トン戦艦サウスダコタもまた艦上攻撃機に襲われた。 12時半ころ続いて艦上爆撃機が急降下し、サウスダコタの前部砲塔に直撃、至近弾3を食わせた。 米艦スミスの艦橋に日本の九七式艦上攻撃機1機突入、特攻隊編成以前の特攻である。米艦スミスは轟然爆発し、激しい火災がすぐ艦を覆う。特攻について日本の人命軽視と批判する者がいるが、自殺を禁止しているキリスト教国の集まりで世界の資源を牛耳っていた連合軍と、連合国による経済封鎖と対日不当高関税で経済を死滅させられ加えて米軍にことごとく船を無差別撃沈されて救助に使える船がなかった日本とを同等に語るのはあまりにも不公平である。連合国のアジア植民地化政策および共産主義による世界同時革命に反抗した日本はこうして命がけで戦わねば侵略者アメリカに滅ぼされるところだったのだ。アメリカがフランスからパナマ運河を強奪した理由は、大西洋艦隊を太平洋にすばやく移動させるためであった。アメリカ艦隊はパナマ運河を手に入れたことで、従来の南米周りから3000マイルも短くアジアに殺到することが可能になったのである。 南太平洋海戦に出現したアメリカの防空巡洋艦は日本機の強敵であった。15センチ高角砲12、40ミリ32、20ミリ16の弾幕にあいゼロ戦2機が落ちてゆく。 防空巡洋艦サン・ファンに対する攻撃。 敢闘する日本機隊。 |
翌十一月の初旬、日は忘れたが私は懐しい翔鶴を一時離艦して、シンガポールの海軍病院で治療を受けることになった。
セレターの波止場から、自動車で病院に運ばれると、すぐ突き当りの割りあてられた病室のベット (*17)へ寝かされた。日本人の看護婦と現地人の若い看護婦もきて、いろいろ面倒をみてくれた。
この病院は、以前イギリスの海軍病院であったとかで、設備もととのい周囲も実に快適な環境だった。丁度(ちょうど)、ジョホール (*18)の小高い丘の上に建っていたので、見晴らしのきく私のベットの窓からは、美しいジョホールの町が一目で展望できた。
【ジョホール】
私の両側のベットに寝ていたのは、一人は零戦の操縦者で飛行下士官の犬山二飛曹 (*19)だった。六月のミッドウェー海戦のとき、赤城に乗り組んでいて、まだ一機も飛び立たぬうちに不意の敵襲に、もろくも大敗を喫し、そのとき右目と右前身いちめんに機銃弾の破片を受けたまま、海中にほうり出されたものだった。もうほとんど快癒に近く、病室では一番元気に振る舞っていた。
だがこの元気者も、退院の日が近付くにつれ、何かかえって沈み込む日が多くなった。快癒といっても右眼はほとんど使いものにならなかったからだ。
「この体じゃなア、もう二度と飛行機乗りにやアなれねえなア」
そう云(い)って、もう一方の何んでもない左眼を淋しげにしばたいていたこともたびたびだった。
この犬山二飛曹は、またたいへんな文学青年でもあった。或る時、私に、便箋に記した自作の詩だというのを見せてくれた。彼がその後、内地帰還になる途中、その船が軍需品を満載していた為に台湾沖 (*20)で敵潜水艦にやられ、悲壮な最後を遂げたのだが、奇(く)しくもこの便箋だけが私の手許(てもと)に残った。
『二十連空の歌』という題名だったが、この歌を声を出して読みあげるたびに私は今でもあの元気な犬山二飛曹の人の善さそうなわらい顔が思い出されてならない。
南国の空は毎日クッキリと晴れ上っていた。私はこゝで暖い正月を迎え、春、夏とまたたくまに過ごしていった。
十八年九月下旬、私は漸く軽快退院を命ぜられた。
久しぶりに内地にもどってきて、私は懐しい母港横須賀海兵団で、次の配乗の命を待った訳(わけ)である。その間約二タ月(ふたつき)ばかり、新入団新兵の教育助手をさせられた。なかなかいい配置だった。
戦局はその時分からひどい下り坂をたどっていたらしい。毎日のように戦地にゆく部隊で勢揃いしては出発していった。
私にもいろいろ他艦への話や陸戦隊 (*21)への誘いもあった。しかしどうせやって貰(もら)うなら、やっぱり翔鶴へのせて貰いたかった。他にどんないい条件があろうと私には翔鶴が唯一無二のなつかしい母艦だった。私は、私信で幾度も翔鶴のもとの分隊長宛に、配乗の一日も速かならんことを願っていた。
十二月近くに、漸くにその待望の翔鶴乗り組みの命がもたらされた。私は雀躍(こおどり)してよろこんだ。受持ちの新兵も、事情を知っている者はみなよろこんでくれた。
丁度その時、翔鶴はふたたび初島沖にその巨体をやすめていた。幾十幾度かの激戦をくぐってきて、なお健在な逞(たく)ましいその姿は、惚れ惚れするほど頼母(たのも)しかった。
十二月五日の朝、私は五、六人の者と内火艇に乗って翔鶴に向った。吸いよせられるように艇が舷側についた。
衛兵に敬礼する暇ももどかしく、後甲板から一気にラッタルを駈け上り、再び翔鶴の艦上の人となった。
身を刺すように汐風(しおかぜ)はつめたかったが、それもかえって心地よかった。
「松下上水 (*22)、只今(ただいま)乗艦いたしました。よろしくお願いいたしますッ」
私は感激に力一杯の声を張りあげて、分隊長の前に立って申告した。
「おう、きたか、待っていたぞ。またしっかりやってくれ」
分隊長も思いきりの優しいまなざしで、私を見つめてくれた。坂口分隊長、あゝいまはあの温顔の分隊長も既になし。どうして居られるか。私は考えると眼のなかがジーンと熱くなってくる。
「傷が、色男の顔でなくてよかったなア」
いつも冗談を吹っ飛ばす分隊士、あの懐しい飯森分隊士もそばから微笑して、もう声をかけてくれた。
その足で直ちに班長にも挨拶(あいさつ)してまわった。
何もかもがみなもとのまゝだった。挨拶が終ったあと、私は、すぐ以前の配置にかけ上った。そこにはやはりあのまゝの十粍(ミリ)機銃が私を待ち迎えてくれるかのように据っていたのだ。
私は懐しさにしばらくは艦内をあっちこっちと歩いてみた。ところが乗員の半分以上はもといたときと変っているのがすぐ判(わか)った。見なれない顔ばかりだった。しかし老兵が少なくなって若い兵隊がそれにかわっていたので、活気は非常なものだった。
歩いているうち、居住区で私はばったり同年兵の山本上水に出っくわした。
「また帰ってきたぞッ、たのむぞッ」
山本上水は一瞬眼を丸くして、私を見つめていたが、いきなりぎゅっと右手を力一杯握りしめられた。
「生きていたのか、おい、そうか、貴様、よかったなア、おれは、おれはもうお前がもうあれっきりかえってこないもンだと思っていたンだ」
そう云って、何度も何度も、よかった、よかったと云ってその眼に泪(なみだ)を一杯ためていた。
話をきくと、翔鶴はあれ以来数度の海戦に参加、その都度敵機の猛爆にさらされ、潜水艦にも始終つけ狙われて、何度もひどい被害を蒙ったが、いつも少破 (*23)ぐらいですみ、ドックに入るとすぐ修理して、また次の海戦に参加するといった具合だった。だが、人員の損傷は大変なもので、これまでに約半数が、死傷で交代させられたという。しかも、傷を負って内地に送還させられても、途中で死亡するのか或いは他へ配置変更で行くのか、再びもどってくる者はほとんどいないといってもよい位だと云っていた。
山本上水のその話をきいて、私ははじめて先刻からの余りにも見なれない顔ぶれの多いのが合点がいったのだった。
「お前も随分苦労したろうなあ」
私は山本上水の手を握って、沁み沁み(しみじみ)そう云ってやった。たとえ傷ついていて仕方なかったとは云え、私がシンガポールの病院で、至れりつくせりの看病で安楽に寝ていた事が、何んだか悪かったような気さえするのであった。
昭和十九年六月十五日の朝。
ボルネオのタウイタウイ泊地に集結していた機動部隊は、わが翔鶴、大鳳など九隻の空母を主力として、いよいよマリアナの決戦場目指して出撃した。
この朝早く、全軍にたましいを揺すぶる電報が連合艦隊司令長官から届けられた。
「皇国の興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層努力セヨ」
というのであった。この日の海戦は実に日米の運命を賭けるべき「あ号作戦」なのだともきかされた。
フィリッピン群島内の水路から、太平洋に出るには、サンベルナルジノ海峡と、スリガオ海峡の二つしかないが、このときはサンベルナルジノ海峡を通過して、暮色迫る太平洋にうって出た。
狭い海峡を日本艦隊が一列縦隊になって進撃してゆく。
無数の島々から成っているフィリッピン群島。その群島の島と島との間の海路は、狭い上にもまた曲りくねっていたが、そのうちでもギマラス島とパナイ島間のイロイロ海峡は特に狭くて、戦艦や大型空母は漸く海峡一ぱいになって進航していた。
戦艦は大和、武蔵をはじめとして、榛名(はるな)、金剛(こんごう)など計六隻、空母はわが翔鶴、大鳳、瑞鶴の第一航空戦隊、隼鷹(じゅんよう)、飛鷹(ひよう)、竜鳳(りゅうほう)の第二航空戦隊、千代田、千歳、瑞鳳の第三航空戦隊の計九隻で、その他大型巡洋艦十一隻、軽巡洋艦二隻、駆逐艦三十三隻、補給艦艇十二隻、計七十三隻の大艦隊ときかされた。これは殆(ほと)んど当時としては日本帝国海軍の保有していた全艦艇であったといってもよかった。
私は戦友たちと共に、胸踊らせながらこの壮観を眺めていた。戦艦につぐ空母、空母につぐ大戦艦その間に巡洋艦が、又駆逐艦が続いている。まして視界の届くかぎり、大小の艦艇が、曲りまがって一列縦隊に延々と続いているのである。
狭い海峡を、相当な速力で進航して行くので、大艦が過ぎてゆく両岸には、大きな波が勢いよく捲(ま)き上って、思いっ切り高い白い飛沫がとび上る。
「実に壮観だなア」
近くで誰かゞ思わず感嘆のこえをあげていた。
日本艦隊はその年の三月以来、空母中心に構えを変えて、艦隊名も第一機動部隊と改められていた。
司令長官は小沢治三郎中将で、この時の旗艦大鳳に坐(座)乗して全艦隊の指揮に当っていた。
いままさに真赤な南国の夕陽は、フィリッピンの島かげに没せんとし、夕焼け雲の下キラキラ輝く大海(おおうみ)に、わが艦隊は次々に出て行った。太平洋はさすがに広く、そしてうねりは高かった。
艦隊は夜間警戒航行序列となり、いよいよ暗くなった太平洋を一路決戦場へと急いだのであった。
だがこの夜は敵に遭遇しなかった。翌十六、十七日の索敵機は発進されたが、やっと敵機動部隊を掴(つかま)えたのは十八日の午後遅くだった。
運命の十九日は遂に来た。
〇八〇〇、決戦の幕は切って落された。二波に別れたわが攻撃隊三三二機が、明るい南洋の朝の大気の中、轟音をとどろかせて母艦を飛び立っていった。
日本の作戦は、脚の長い航続距離の長い此方(こちら)の飛行機にものをいわせて、アメリカ側の手の届かぬ大遠距離から一撃を食わせ、さっと引き揚げようとの巧妙なやり方だときかされた。
ところが、これはあとで知ったのだが、日本側が十六、十七と懸命に索敵機を放っていた頃には米側はもう既に、潜水艦によって日本艦隊の動静をキャッチし、巧みにリレーして逐一報告されていたとのことだった。今更悔やんでも仕方ないが、だからこの三三二機の攻撃機が大挙して各空母から発進されたことも、事前に察知されていた。
米軍は、戦斗機 (*24)全部を、二〇哩(マイル) (*25)ほどの近いところに集中して、手ぐすねひいて待ち構えていた。まさに飛んで火に入る夏の虫の形容そのまゝだったろう。五五〇粁(キロメートル)以上も飛んでいった(約東京-大阪間位)日本攻撃機に猛烈な空戦を挑んできた。だからこれを突破して敵機動部隊に迫ったのは僅かに四十数機にすぎなかった、という。そして戦艦サウスダコタとインデアナにかすり傷を追わせたゞけで危うく帰ってきたのを含めて、生還百機あまりというのが真相だった。これは私があとで復員のとき偶然一緒になった同じ翔鶴に乗り組んでいた艦攻 (*26)の三島上飛曹から、その時実際にきかされた話である。
丁度午前八時十分頃だった。航空戦隊の全部を発進しおわって、その行手をしばらく見送っているうち、突然、斜め前方に位置していた旗艦空母大鳳の、右舷のあたりに轟然と火柱が上った。
「アッ、魚雷だッ!」
誰かゞ大声で絶叫していた。
大鳳の右舷からは、忽ちむくむくと青黒い重油が海面にいっぱいに流れ出てきた。今まで真っ白だった航跡がドス黒い色に変った。まるで人が傷ついて、血汐を噴き出すのにも似た凄惨な状景だった。
実に大胆きわまる敵の攻撃だった。この鉄筒の陣形の中へ潜入してくる敵潜水艦の恐るべき度胸……。わが駆逐艦は忽(たちま)ちその附近の海面に直ちに数十個の爆雷を投下しだした。
だが、一方傷ついた大鳳は、その後大した事もなく以前と同じように真っ直ぐに航行していく。速力も落とさず──
「うーん、流石(さすが)は大鳳だ」
見守る人々の眼は一様に感激のためにうるんでいた。
(不沈空母と謳われた三万二千トンの大鳳はその三月に竣工し、マリアナ海戦はいわば初陣だった。速力三十三ノット、搭載機八十四で十糎(センチメートル)高角砲十二基を持っていた。日本のエセックスわが翔鶴に次いで設計された最優秀艦で、空母の弱点とされていた飛行甲板に、世界に先がけて五〇〇瓩(キログラム)爆弾の急降下に対して強力な防禦装置をほどこしてあった。煙突は外側に斜に傾いていた。だが、世界に誇ったこの空母も、この日の潜水艦襲撃により、大型魚雷を数発蒙むり、一時応急修理が行われたが、然るに午後二時頃突如大鳳は大爆発を起した。艦の前後部中央の火薬庫が誘爆を起したのだ。母艦の内外は一瞬火の海と化し、全機能を停止して波間に漂流すること二時間余、遂に午後四時二十八分艦首より海中に没し去った。〔註…編集部〕)
【空母大鳳】
わが駆逐艦の無数の爆雷投下にもかゝわらず、米潜水艦はあくまでも巨大空母の大鳳と翔鶴をつけ狙っていたらしかった。
【爆雷投下|対潜水艦】
既にして命令は対潜戦斗(闘)に切りかえられていた。各艦ジグザグ航路で魚雷攻撃を防ぎながら進んでいった。
だが敵もさるもの、またまたわが艦隊の真っ只中にもぐり込んで、再び魚雷攻撃を敢行したのである。
午前十一時二十分頃だったと思った。翔鶴に二本の敵魚雷がまっしぐらに驀進(ばくしん) (*27)してきた。危ないッ!
「雷跡(らいせき)ッ」
と、伝声管が戦斗指揮所へ怒鳴ったときは私はもう目をつぶっていた。遅かったのだ。
次の瞬間、ズズーンッ という鈍い音を立て魚雷が遂に翔鶴の左舷後部に一本、二本と続けざまに突込んできた。同時に物凄い勢いで水柱が噴出し、奔騰(ほんとう) (*28)し、艦橋の上高く噴き上って、ざーっと上甲板になだれ落ちた。
「畜生ッ」
と叫んだのも瞬間で、続けてまた二発、激しい動揺を感じた。今度は左舷の中央部だった。
もう応急修理の方法も何もない。艦は急速に左に傾き出した。
「野郎ッ。畜生ッ」
何かわけのわからぬことを喚(わめ)きながら兵隊が飛行甲板を走ってゆく。私も飛び出したいが配置を離れることが出来ない。じりじりしていた。すると、
「後甲板火災ッ」
と叫ぶ声がきこえた。すでに濛々(もうもう)たる黒煙と白煙(しろけむり)のねじり合うような渦巻きで、中央部より後は全然見えない。おそらく左舷下甲板のあらゆる配置は、もう滅茶滅茶(めちゃめちゃ)にやられたのかも知れなかった。
するとまもなく、私の体は、ダアーンッ という物凄い音響といっしょに、背後の鉄扉面へ木っ端(こっぱ)のようにはじき飛ばされた。突如翔鶴は大爆発を起したのだった。
艦内にたまったガスが一時に爆発して、その厚みを誇った鋼鉄の発着甲板を内側から噴き上げたのだった。その時発着甲板にいた乗組員や搭乗員は多数海中に吹っ飛ばされた。
鉄扉に叩きつけられて、いち時は失神しそうになったが、やっと私は痛む全身を引きずるようにして起き上った。
──総員戦斗配置を離れえッ──
という声がどこからともなく聞えてきた。
もう艦のそこいらじゅう火の海だった。
「総員飛行甲板に集合ッ」
艦内拡声器の声が微かに私の耳にきこえてきた。続いて拡声器は、戦斗配置を離れて速やかに脱出するよう伝えていた。だがもう既に、その時は遅すぎたようだった。
艦は大きく左舷に傾むいていて甲板の上は右舷に集められた移動物が、ずるずると左舷の方に滑り出した。人々はそれを避けながら右へ右へと寄っていった。
あまりに傾斜する時間が早かった。私は同年兵の山本上水の顔を夢中で探したが見当らない。山本上水の配置は、機銃弾庫員の指揮者だった。彼はいつも後部の最下甲板の弾庫にいた筈(はず)だった。
「山本上水ッ!」
私は無駄とは知りながらも、力一杯はらの底からふりしぼるような声を出して、何度か怒鳴ってみた。しかしその声も、他でも戦友を呼び合う怒号や叫喚の渦に忽ちかき消されてしまった。生(な)ま温かい泪(なみだ)が私の頬をつるりと滑っていた。私はもう叫ばなかった。
どんどん傾斜の度を増していた艦は、急角度にぐらりと大きく傾いた。
早くも上衣(うわぎ)をとり、脚絆(きゃはん) (*29)とズボンをぬいで飛び込む支度をしている者、何もつかまるものとてない広い飛行甲板を、移動物と一緒にコロコロと左舷に転がってゆく者──騒然たるなかに艦はすでに四十度から五十度まで傾いていた。すっかり水面に浮き上った右舷の艦腹にまだ取りついて這(は)い上っている者も大勢あった。
私はようやく右舷の手摺りを握って、艦腹にまわりかけた、とその瞬間だった。突然凄(す)さまじい第二の爆発が起って、艦橋附近に真っ赤な火柱が噴き上った。そして、その火柱は海面を横這(ば)いに走ったと見るまに、艦体は急激に左舷へ横転した。
一瞬、そこいら中のものすべてが忽ち海中へ抛(ほう)り出されてしまったのだ。
しまったッ、と思った。逃げおくれたッ、もう駄目か、ひどい水圧に引き込まれながらごおーっと耳に渦の鳴るのをきいて、だんだん私は気が遠くなっていった。
それから何(ど)の位経ったか、兎に角(とにかく)私が気がついたのは、幸(さいわい)にも駆逐艦の甲板の上だった。駆逐艦は遠くから瀕死の翔鶴を見守っていて沈没と同時に乗組員の救助作業をやっていてくれたのだった。
痛む身を無理に起して、振りかえって見ると、あたりは茫洋(ぼうよう) (*30)たる大海原で何も見えなかった。それと覚(おぼ)しいあたりには重油がドス黒く一面にひろがっているだけだった。
ああ、遂に沈んだのか。乗艦以来足かけ三年、二万六千トンの巨体をもって性能よく、ほとんど太平洋戦争全期にわたって、機動部隊の主力として活躍した翔鶴だった。その攻撃力の点においても絶対負けずと自負して生き残っていたわが翔鶴も遂にここに沈んだのである。あっ気(け)ない最後──昭和十九年六月十九日の午後二時一分だった。(終り)
【出典】
・1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編「大東亜戦争写真史 開戦進攻篇」
・1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編「大東亜戦争写真史 太平洋攻防篇」
・1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編「大東亜戦争写真史 南方攻守篇」
・1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第七号 陸海軍航空肉迫決戦総集版
・1970(昭和45)年 株式会社ベストセラーズ 福井静夫「写真集日本の軍艦 ありし日のわが海軍艦艇」
・1983(昭和58)年 講談社 千早正隆「写真図説 帝国連合艦隊-日本海軍100年史-」
- 【*1】 彼と我。相手と自分。
- 【*2】 「雨天体操場」と思われる。(1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編「大東亜戦争写真史 開戦進攻篇」より)
- 【*3】 目をとじること
- 【*4】 原文ママ
- 【*5】 あちら
- 【*6】 日本本土
- 【*7】 船体をドックに入れること
- 【*8】 刺激と同じ
- 【*9】 すぐれてりっぱな姿
- 【*10】 一等水兵の略
- 【*11】 重巡洋艦の略
- 【*12】 敵の所在に近づいて状況をさぐること
- 【*13】 小銃などを立てかけておく台
- 【*14】 まったく知覚を失うこと。意識不明になること
- 【*15】 リンゲル液。摘出した動物の組織を浸すのに用いる生理的食塩水。本来は主に変温動物の組織用として作られ、これを改良して恒温動物用としたものがリンガー‐ロック液であるが、俗にはこれもリンゲル液と呼ぶ。多く血液の代用として皮下または静脈に注射する。イギリスの医師リンガー(S . Ringer1835~1910)が創製。リンガー液。リンゲル
- 【*16】 原文ママ
- 【*17】 原文ママ
- 【*18】 シンガポールはイギリスがマレーのジョホール国の王から強奪して作った都市で、イギリスはのちの対日戦を見越して軍港を建設した。日本軍がシンガポールを占領した理由はこの軍港とシンガポールが国際資本のアジア侵略拠点だったことにあった。
- 【*19】 二等飛行兵曹の略
- 【*20】 残虐な米軍の日本船無差別撃沈のため「バシー海峡は日本人の墓」といわれていた。
- 【*21】 海軍軍人により編成された陸上戦闘用の部隊
- 【*22】 上等水兵の略
- 【*23】 原文ママ
- 【*24】 原文ママ
- 【*25】 ヤード‐ポンド法による長さの単位。1マイルは1760ヤードで、約1.6093キロメートル。または海里(浬)(かいり)(sea mile)の略。
- 【*26】 艦上攻撃機
- 【*27】 まっしぐらに進むこと
- 【*28】 はげしい勢いで上がること
- 【*29】 旅などで、歩きやすくするため脛すねにまとう布。巻脚絆(まききゃはん)に同じ。→巻脚絆:脚絆の一種で、小幅の長い布を足に巻きしめて用いるもの。巻きゲートル
- 【*30】 果てしなく、広々としているさま。広くて目当てのつかないさま
- 最終更新:2018-03-09 18:24:29