【珊瑚海・南太平洋・マリアナ沖海戦|翔鶴機銃員】空母翔鶴の最期(前編)
出典:1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第四号所収
当時南雲部隊旗艦 翔鶴機銃員 松下譲 「──長恨マリアナ沖海戦──空母翔鶴の最期」
太平洋全期間に亙(わた)ってほとんどの戦闘に参加、遂にマリアナ沖海戦中その巨軀を海中に没し去った悲劇の空母翔鶴──
昭和十六年四月、横須賀海兵団で私が三ヶ月の新兵訓練をミッチリ受け、いよいよ実施部隊へ配属と喜んでいたのに、案に相違して陸上勤務の追浜(おっぱま)航空隊へまわされた時には本当にガッカリした。それというのも私の教班長の寺島一曹 (*1)が、上海陸戦隊 (*2)がえりの猛者であり、折にふれてはきかされた華々しい実戦のもようが、若いわれわれの血潮を躍らせていたからだ。殊に班務をさせられていた私は、直接その影響を強く受けた。実戦に参加しない兵隊など、およそ私には考えられなかった。
「教班長、是非私を実施部隊にやって下さい。お願いいたします」
「この野郎、生意気いうな、まだまだお前たちの出るまくじゃないんだ」
濛々(もうもう)と煙草のけむりが立ちこめる教員室の椅子にフンゾリ返えって、寺島一曹はそう云(い)って私を睨みつけたものだ。
(この寺島教班長はそれからまもなく、戦艦改造の超巨大空母『加賀』に乗り組んで、ミッドウェーの海戦に参加し、壮烈な爆死を遂げた)
【改造中の空母「加賀」】
戦艦になるはずだった「加賀」を空母に改造する工事が8割がた終わったところ。横須賀工廠。
【上空から見た空母「加賀」|1930(昭和5)年】
追浜航空隊は主として整備部隊の教育が主だった。訓練は戦局の逼迫と共に、連日猛烈を極めていた。教員はほとんど実戦がえりの荒武者揃いで、『吊床(つりどこ)下ろせ』のあと、六角の精神棒は毎晩とんだ。最も悽愴な空気に身振いする『総員罰直』の嵐は、きまったように三日目ぐらいにきっと、二、三人の犠牲者を出して行われた。
激しい日程のあと、夕食を黙々と済ませながら、云いようのない不安が全員の胸から胸へただよってくる。
何かやり切れない気持だった。そんな時、果して重々しい足どりで、通路の真ン中に立ちはだかるのは、片頬の肉を弾丸で削ぎとられたという、ギョロリとした眼玉の甲板下士 (*3)だ。
「一寸(ちょっと)きけ。夕食が終ったならば、総員甲板整列」
一瞬、水をうったような緊張のなかに、氷の戦慄が背筋をはしった。
「わかったかッ!」
「はあいッ」
全員沈痛な返事をふりしぼる。忽(たちま)ち各班の卓が片隅へ寄せられ整然と、先を争って整列する各班。みんな無言、或(あ)る者の眼は血走り、或いは絶望に引きゆがめられた顔、けいれんしているような表情の者──
「第二班ッ」
「第五班ッ」
「第三班ッ」
いち早く整列完了の班から、続けざまに甲板下士に報告が飛ぶ。全部の班の報告が終るや、間髪をいれず甲板下士から、先任教員へ改めて再報告だ。
「第二分隊整列よろしッ」
先任下士はこんなとき、不機嫌に黙りこくって、ジロリと一瞥(いちべつ)を与えるだけなのも薄気味悪い。
「近頃お前たちの様子を見ていると、何かわからんが非常にダレてきておる。おれ達が甘やかしているのが悪いのか、それともお前たち自身が時局の認識を欠いてきているのか、いまはいったいどういう時であるかは、おれ達がいちいち言わずともわかりきっていることだ。前線で血みどろになって戦っている者の事を、少しは考えて見ろ。今日はそのタルんでいるお前達の精神の中へ、熱鉄を入れてやるから。いいか!」
そして、凡(およ)そ三十分から一時間、時としては二時間にも及ぶ言語に絶したオシオキが行われるのだ。途中で気絶した者は、なおもオスタップと称される桶の冷水をブッかけられ、息を吹きかえすと同時に余計に痛みつけられた。
しかしそうした、訳(わけ)のわからぬ地上の訓練ともお別れする時がきた。その年の十月、私は思いがけなく空母翔鶴に乗り組むことになったからだ。
【空母「翔鶴(しょうかく)」】
翔鶴への乗組員は整備分隊からは大分来たようだったが、私たちの班からは山本二水 (*4)と私との二人だけだった。
一ヶ月。また私たちは横須賀海兵団へと逆もどりし、其処(そこ)で全部の課程を終了して (*5)、父と妹が遥(は)るばる故郷から訪ねてきてくれた最後の面会日に、全員の乗艦発表があった。
私の乗艦は空母翔鶴と書いて張り出されてあった。
私はやっと念願が叶い、これでいよいよ戦地へ行けるぞと思うと、恐いような嬉しいような何んとも云えない気持ちだった。
いよいよ乗艦の日がきた。
私達は、班長、隊士、分隊長に別れの挨拶(あいさつ)をし、衣嚢(いのう) (*6)を担いでトラックで波止場に向った。そこから三隻の大発(だいはつ) (*7)に分乗して、各々(おのおの)配乗されるのである。
大発は、各艦の配乗者約百二十名ほどをそれぞれ乗せて、初島沖に向った。十月下旬にしてはひどく暖い日だった。静かな朝の海面に、機関の音が快(こころ)よかった。
ふりかえると、もう岸壁は靄(もや)でかすんでいた。思い出の多い追浜はどの辺だろうか。そんな感慨にふけっているなかを、大発は波紋を拡げながらどんどん走った。
初島沖には、大小さまざまの無数の艦船が碇泊していた。その中でケタ外(はず)れに大きく、ボーッと小島かなんぞのように霞んでいる黒い塊があった。隣りに立っていた山本二水が、私の横腹をつついて、
「おい、見ろよ、あれが翔鶴だぜ」
と指差しておしえてくれた。
私は、はじめてこのとき空母翔鶴をみて、そのあまりの大きさなのにびっくりした。他の艦船に比べて、全くそれは動かぬ小山のような感じだった。
「へえー、あれがなあ、ずいぶんデッカイんだなア」
「驚いたろう、もっとも、はじめてじゃ驚くのが当り前だ。俺はナ、あの翔鶴が艤装してたときに、いっぺん分隊士と一緒に行ったことがあるんで知っているんだ」
山本二水は、分隊士のお気に入りだったので、或いはそうした機会にもめぐまれたのだろう。
そうこうしているうちに、大発は白浪(しらなみ)を蹴立てて、見る見る艦に近付いてゆき、やがてそのドテッ腹の中央部に横付けになった。
もうさきに着いていた各分隊からの大発も数隻、移乗の最中であった。見上げる高い甲板からは、乗組員が大勢で下の私達をのぞいていた。五貫(ごかん) (*8)前後もある衣嚢を担いでようやく最後に鋼鉄の甲板上に両足を踏みしめて立った時は、私の五体は感激のために小刻みにふるえていた。
ああ、私もとうとうこの巨大空母翔鶴の乗組員となったのだ。
「よし、頑張るぞ! お父さん、そして病気のお母さん、見ていて下さい。きっと僕は立派な帝国海軍々人になって見せますから」
私は潮風に吹かれながら、ハッキリとそう心の中に誓ったのだった。
艦内の空気は訓練を受けた海兵団のそれとは矢っぱりまるで違ったものだった。それでも、おどおどしていた乗艦第一日は、班長以上の訓辞と仮配置の決定をもって、どうやら無事に終った。
私の配置は、最初高角砲分隊の弾薬庫であった。右腕には、新入隊者であるというしるしに赤い腕章をつけられた。
われわれ新入隊者は約八十名くらいいた。日課は、先(ま)ず艦内のあらゆる場所を案内して貰(もら)った。班長の先導であちこちと艦内をめぐって歩いた。その間、上官と行き交った場合の敬礼だけは、絶対忘れてはならなかったが──。
翔鶴の定員は約二千名であって、そのときは約千七百名ほど乗組んでいると班長は説明してくれた。二千名というと、私の住んでいた町の総人口の二倍以上だ。びっくりした。
艦橋、戦闘指揮所の周囲には、十六門の高角砲が空を睨んで猛訓練の真っ最中であった。高角砲は二門づつに分かれ、八基宛配置されていた。これが私の新配置であった。
班長は、
「これが高角砲だ、いいか、お前たちはこの対空要員として、敵の襲撃より艦を守る重要な配置だぞ」
そう云って真剣な顔でわれわれの面上(めんじょう) (*9)を見まわした。この高角砲の弾丸を、一番下の弾薬庫から射撃の位置まで安全にしかも迅速に届けるのが、私たちの任務であった。それは誰かがやらねばならぬ大切な、欠かすことの出来ない配置ではあったが、あまり華々しい配置でない蔭(かげ)の力としての、この弾薬庫員の仕事は、正直のところあまり有りがたいものではなかった。
対空機銃は八十八基、主として上甲板つまり艦載機滑走路の両舷にびっしり配置されていた。これが一斉に火を噴いたら、恐らく敵機は突込んでくることが出来なくなるだろうときかされた。そしてこの配置員の訓練は、他のどの部署よりも猛烈であっただろう。のちに私は、この機銃分隊に配置転換されたのだが、機銃の中でただ四基しかない十三ミリ連装機銃が正式に戦闘配置ときめられた。場所は艦橋中央の戦闘指揮所の後部にあった。
前後甲板の中央が、ポッカリ穴のあくエレベーターになっており、そこから格納庫より引き出された艦載機が、次々と運ばれる仕組みだった。搭載機は八十四機だった。
居住区は中甲板に分れていた。
私の同郷の先輩である機関の高橋上機曹 (*10)は、矢張り翔鶴に前から乗り組んでいることを知っていた。いち度遊びに来いと云われ、その居住区、右舷後部下甲板の第三十六兵員室に行って見ようとして幾度か出かけたが、いつもたどりつくことが出来なかった。
いっぺん演芸会の催されたときに、充分な時間を持って探しまわったが、この時もどうしても会えずに空しく引き返えしてきたことがある。その高橋上機曹に初めて会えたのは、私が乗艦して三週間も過ぎてからだった。そのときは総員集合の終ったあとに、ひょっこり高橋上機曹の方から訪ねてきてくれたのだ。
それほど艦内は広いなかを錯綜し、こみ入っていた。だから艦内の様子のあらましがわかったのは二ヶ月以上も経ったずっと後のことだったと記憶している。
一週間の新入隊者としての教育は終り、赤い腕章を外(はず)されるといよいよ一人前の翔鶴の乗組員だ。そして私は機銃分隊に改めて配属させられた。
第一分隊、第二分隊が高角砲、第三分隊、第四分隊が機銃分隊、第五、第六、第七分隊が艦載機の整備分隊その他であった。
日課は、先ず総員起し五分前の号令から始まる。〇六〇〇 (*11)総員起床、いなごのように吊床から飛び下りると僅か十数秒でハンモックをくくりあげて片付け、上官の寝台も同じく数秒間で片付け、またたくまに居住区の簡単な掃除をおわり、〇六一〇早くも各分隊とも所定の位置に整列をおわって、それぞれの分隊士から副長へと報告がなされるのだ。
短い"整列よろしッ"の号令が早朝の潮風に乗って凛とひびく。
散解になって海軍体操がすむと、すぐ甲板士官のハリ切った号令が艦内スピーカーを流れて響きわたる。
「水兵員甲板洗えッ!」
これが一日の日課のうちで一番キツイやつだ。たわしのバケ物みたいな大きなのを両手に持って、水を流した中、下甲板(げかんぱん)を磨くのである。背後には古参の水長 (*12)などが、例の六角の樫(かし)の棒を持って、まなこをらんらんと光らしている。
「おそいぞッ!」
「この野郎ッ、尻が高いッ!」
などと怒鳴ってブンなぐる。磨きが終ると今度は雑巾のバケ物のようなゾーフというのを持って横一列に並び、
「押せえーッ」
の号令一下、一斉にそれを押しながらサイドからサイドへ走って甲板の水をすっかり切る。毎朝この行事でいっぺんは息の根の止まる思いをしたものだ。
この甲板洗いが終ると洗面である。艦内にあっては清水は全くの貴重品だ。その限られた水で全員が洗面するのであるから、新兵中はほとんど洗ったことがない。勿論(むろん)それがバレたら大変な懲罰だ。
〇七〇〇、総員集合のもとに軍艦旗の掲揚。この時は水兵分隊から選ばれた十二名の兵が、完全軍装に身をかためて、喨々(りょうりょう) (*13)と吹奏される喇叭(らっぱ)の音と共に、衛兵司令の号令の下、スルスルと旗竿を上ってゆく軍艦旗に対し、捧げ銃(つつ)、をするのである。
艦長以下乗組員全員が、その背後に整列して敬礼する。勇ましく爽やかな、そして厳かなひと時である。
【参考:江田島海軍兵学校の軍艦旗掲揚】
【軍艦旗】
〇七一五、ようやく朝食になる。しかしこれも兵隊にとっては大変な忙しい日課の一つだ。
その日の日課は、特別の予定変更がない限りは、前夜の巡検終了後艦内スピーカーで、甲板士官より発表された。
普通は、朝八時より各分隊毎に指揮官の指示によってそれぞれ作業が始められた。私の場合は、十三ミリ機銃の弾薬庫員として、下甲板の奥深くもぐり込むわけである。
弾薬庫は艦の前後部、両舷の最下甲板の一番安全度の強いところに設けられてあった。弾薬庫は六畳二間と四畳半一間ぐらいの広さで、大きな寒暖計が中央にブラ下っていた。通風筒からは、秋の涼しさ位の冷風が一日中送られており、じっとしていると少し寒いぐらいであった。
機銃弾はキチンと包装されたボールに入れられており、それを更に二尺 (*14)と一尺位の長方形の木箱に納められてあった。一つの重さは約六貫目ぐらいだった。それがほぼ八尺ぐらいの高さに積み上げられてあった。
弾薬庫員の訓練の目標は、勿論(むろん)弾を安全に迅速に機銃に装塡することにあったが、これは簡単なようでなかなか大変な仕事だった。
何より先ず体力が必要だった。
六貫目の木箱を持って小さなマンホールやラッタル (*15)の下を幾つもくぐり抜け、艦橋エレベーターで機銃台まで届けるのであるが、この猛訓練が約一ト月(ひとつき)も続いた。
全員どんなに早く到着しても最後のビリは必らず懲罰を受けた。その懲罰は大概弾薬箱を両手でさし上げるのが多かった。途中で落とせば大爆発の危険があり、中止すればバッターの洗礼である。何の訓練にでもきつい懲罰はついてまわったが、艦上で華々しく戦闘をする機銃員にひきかえ、弾薬員は艦の底深くもぐって叩かれ続けながらも黙々と作業しているのであるから、誰にも好かれない配置は当然であった。
その後まもなく私は、左二番として配置変更された。二番手というのは銃身に弾倉を装塡する役目であった。
時々、機銃故障の仮定のもとに訓練が行われた。また或るときは、各指揮系統破壊されたりという想定のもとに、防毒面をつけて、手先信号の唖(おし)の戦闘法が訓練されたりした。
夕食後の軍艦旗下ろせの号令。この軍艦旗下ろせが済むと、その日一日の反省の時間がある。これが有名な、あの恐怖の甲板整列である。艦内の日本精神注入棒は樫の棒を五角か六角にけずったヤツに握り柄の個所に大概朱房(しゅぶさ)がたれ下っていた。中型、大型、特大型に各号数が附してあり、各分隊とも毎晩のようにこれが振りまわされた。若いわれわれは皆、尻にタコが出来ており、二本や三本はなれていてたいして苦痛とも思わなかったが、応召(おうしょう) (*16)の老兵など必死に歯を食いしばってこらえている情景は見るに忍びないものがあった。
やがて二〇四五、
「巡検十五分前──」
と、艦内スピーカーからの声が流れる。
火の元点検、その他異状の有無を確かめるといわれる『巡検』が午後九時きっかりに全艦内くまなく行われた。
どの居住区もシーンと寝静まってしわぶき (*17)の音ひとつきこえない。時々、どうどうと舷側に砕け散る波浪の音だけが遠雷のようにとどろいているのみだ。
その中を先任衛兵伍長の先導で当直士官の巡検使(じゅんけんし)一行が、デッキからデッキ、居住区から次の居住区へと、懐中電灯で点検してゆくのだ。
「じゅんけーんッ」
いまでも私は懐しく想い出す。重々しいその声は、暗闇の広い艦内にこだまし、遠く近く一種悽愴(せいそう) (*18)なひびきをもって通過してゆくのだった──。
「巡検おわり。煙草盆だせ」
まもなくこのスピーカーからの号令とともに、いったんは寝についた筈(はず)の者も、またぞろ、モソモソとハンモックからずり下りて、何やらごそごそやりはじめる奴もあった。それからの睡眠時間だけが、わずかに若い兵達に与えられたつつましい範囲内での自由の時間だったわけだから。
煙草盆(たばこぼん)とは タバコに火をつける道具。准士官以上用はピカピカに磨いた真鍮(しんちゅう)製、下士官兵のものは、とくに決まった規格はなかった。タバコの銘柄は兵隊専用として酒保(しゅほ)で売っていた「ほまれ」が主であった。煙草盆が出される場所は、いつも決まっておらず、晴天ならば上甲板、雨天や航海中は中甲板の便所付近が喫煙所にあてられた。煙草盆のまわりですごす自由時間は下士官兵は夏季は午後10時30分、冬季は同10時まで、准士官以上は夏冬とも午後11時までだった。 |
わが翔鶴は、ミッドウェーの激戦で最後まで戦いながら遂に沈没した優秀空母『飛竜(ひりゅう)』と同じ艦型だったが、それをずっと大きくしたようなもので、航空母艦群中最も攻撃力が大と云われていた。
【空母「飛竜」】
快速空母『飛竜』は一万七千トン。そして翔鶴は二万六千トンの巨軀(きょく)をもって、太平洋戦争のほとんど全期にわたって、機動部隊の主力として縦横無尽にあばれまわったのである。
そのうちでいまだに一番印象に残っているのは昭和十七年の珊瑚海々戦のときのもようだ。
ハッキリと瞼(まぶた)に浮んでくるあの五月七日の朝。
真っ赤に充血した眼に、夜の明けたばかりの水の色がしみ透(とお)るように美しかった。
激戦は前の日の未明から間断なくくりかえされていた。
この時の機動部隊指揮官はスラバヤ沖海戦で勇名をはせた高木中将だった。
あとから考えるとこの時の戦闘は、空母対空母の戦いだったらしい。
米側はその時、巨大空母三万三千トンのレキシントンと二万トンのヨークタウンを押し立ててきていた。こっちは翔鶴とそれに姉妹空母瑞鶴(ずいかく)、改装軽空母祥鳳(しょうほう)だった。どちらも実力は殆(ほと)んど伯仲(はくちゅう) (*19)しているようだった。
戦端の火ぶたを切った前日の六日は、遂に正午ごろ僚艦(りょうかん) (*20)の軽空母祥鳳が多数の五百キロ爆弾と魚雷を蒙むり、敢えなく南海の底深く沈んだ。
【空母「祥鳳」沈没】 1942(昭和17)年5月7日午前11時 レキシントン、ヨークタウンの艦載機93機は激しい攻撃を祥鳳1隻に集中した。多勢に無勢、魚雷9、爆弾5を受けついに沈没した。 魚雷発射の水煙。 動けぬ祥鳳に突っ込む米急降下爆撃機。 沈没直前の祥鳳。 |
【珊瑚海海戦で空母から発進する艦上爆撃機】
そうこうしているうちに夜は更け、そして明け初めて (*23)いった。
丁度(ちょうど)その朝、私は当直見張員として対空監視に当っていたが、フト、積乱雲の間から見えかくれに北方を目指して襲ってくる数十機の機影を発見した。
「あッ、敵艦攻!」
私の報告は伝声管を伝って直ちに当直士官室に、そして次の瞬間、電流のように全艦内の対空戦闘指揮所に伝令された。
時計を見たらまだ七時一寸(ちょっと)前だった。対空戦闘ラッパは鳴りひびいた。機銃も高角砲も始動し出した。準備はOK。
「くそッ、来い!」
と、誰かが叫んだ。
高度八千。やがて七、八十機もあるかと思われたその編隊が、雲の隙間からキラキラと翼を輝かせて突込んできた。まるで獲物を狙うコンドルの姿そのものだ。
「射撃始めッ」
右舷側機銃高角砲が一斉に火を噴いた。あるものは急降下爆撃で突込んでくる。あるものは水平爆撃でくる。目のまわるほどに、目標があり過ぎた。全部の機銃、高角砲が火を噴きうちまくっている。敵の掃射してくる弾とこっちの撃ち上げる弾とが空中で交叉しあってまるで弾と弾との豪雨だ。海面は一面の敵機の連続爆弾投下で水柱の林だ。そのため視界が全然きかず、僚艦の様子は少しもわからない。弾雨の中で、私の隣りにいた吉岡上水が急にばったり倒れた。咽喉(のど)からひどく血を吐いている。名誉の戦死だった。
攻撃は約二十分ぐらい続いた。
潮の引くように第一波が引き揚げたあと、三十分おいてまた第二波がおそってきた。攻撃するとなると、幾度でも反覆してくりかえし繰り返えしして、徹底的に叩き潰すというのが、米の最初からの戦法だった。第二波、この時は約九十機に近い大編隊だった。
「畜生ッ、今度こそは海に叩きこんでやるからッ!」
指揮官をつとめる山口上曹 (*24)が、双眼鏡をつぶれんばかりに握りしめて叫んだ。
「よオしッ、こうなったら、一機銃一機づつ撃墜だッ」
みんな眼を血走らせ、必殺の気合で身構えているうちに、敵機は徐々に艦の前方に旋回してきた。と見るまに、急転、くるッと方向を変え、いきなり艦首目がけて突込んできた。
「野郎ッ!」
前部両舷の高角砲機銃が一斉に狂ったように火蓋を切った。
その弾幕が空いちめんを蔽(おお)っていった。空中で炸裂した無数の黒煙の斑点を鮮やかに潜(くぐ)りぬけて、艦首より直上に入ってくる敵機、それは、ギラギラと強烈に輝やく南海の太陽を背にした巧妙なる突入法であった。射撃の死角とされている艦首から、しかも絶好の天象を利用して突っ込んでくる──あくまでも合理的に精密に計算された攻撃法だった。
ダーンッ!
一弾が遂に左舷中央に命中した。続いてまた一弾。今度は艦首だ。
耳をろうする強烈な炸裂音のあと、火焔がメラメラと立ちのぼった。十糎(センチ)高角砲座二基が粉々になって吹っとんだ。
「やられたかッ」
傍(かたわら)の箕浦水長が無念そうに歯がみをした。そこには、付いていた数名の砲手の姿は一片の肉切れすら止(とど)めていなかった。
滅茶苦茶に射ち上げる機銃の曳痕と、空中で交錯する落下弾道、他艦へ行くと見せかけて、ひらりと反転急降下する敵艦載機の精悍な姿、檣頭(しょうとう) (*25)すれすれにまで突っ込んできて、銃撃するグラマン機、翔鶴の高角砲や機銃はただもう射ちに射ちまくった。高角砲は上を、水平を、前をと既に固定射撃になっていた。もう回転して狙う余裕などないのだ。弾薬を装塡し、引き金を引くだけの機械的な操作だけである。ただ弾丸さえ出していれば、射ってさえいれば、いつかは当るかも知れないのだという気持。文字どおりの盲滅法、乱射乱撃の連続であった。
その機銃も次第に衰えはじめてきた。もう弾薬供給員も途中で斃(たお)れた者が多く、運ぶ弾丸が間に合わなくなってきたのだ。
その対空火力の弱まるのを待っていたかの如く、敵機の攻撃はますます烈(はげ)しさがつのっていった。
「艦首、上甲板(じょうかんぱん)破損ッ!」
誰かが上ずった声で絶叫するように報告していた。機銃手はただもう必死に銃身にしがみつき射撃しつづけている。その機銃台からの連絡は既にもう絶たれてしまって、防空指揮所からの手先信号などは、何の用もなさなくなっていたのである。
こうした猛烈な第二波も、まもなく翼をひるがえして潮の引くように去った。
漸く砲声のやんだ上甲板は、眼もあてられない惨状だった。一面血の海で、ぬるぬるして歩けないので砂をいっぱいにまいた。そのなかに誰のものとも知れない片腕だけがころがっていたのも悽愴な光景だった。
【空母「翔鶴」中破】 搭載機を米空母攻撃に出した後5月8日午前11時 3万トンの大型空母「翔鶴」は米艦載機に攻撃された。 急降下中の至近弾。 右舷の至近弾。 艦首に命中、火災発生。だが全力を挙げ危地を脱した翔鶴は無事内地に帰った。 |
【出典】
・1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編「大東亜戦争写真史 開戦進攻篇」
・1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編「大東亜戦争写真史 太平洋攻防篇」
・1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第七号 陸海軍航空肉迫決戦総集版
・1970(昭和45)年 株式会社ベストセラーズ 福井静夫「写真集日本の軍艦 ありし日のわが海軍艦艇」
・1983(昭和58)年 講談社 千早正隆「写真図説 帝国連合艦隊-日本海軍100年史-」
・1983(昭和58)年 光人社 瀬間喬 「海軍用語おもしろ辞典」
- 【*1】 海軍一等兵曹の略。配属先によって一等飛行兵曹、一等整備兵曹、一等機関兵曹などがあった。
- 【*2】 海軍軍人により編成された陸上戦闘用部隊。
- 【*3】 甲板士官。艦船の内務全般の監督、取締をするために命じられた主として若い中尉、少尉、分隊長。二等兵曹、一等兵曹、上等兵曹は下士官、中尉、少尉は士官。
- 【*4】 二等水兵の略。海軍では陸軍のように兵を呼ぶ時に「殿」を付けたりせず官職で呼んだ。たとえば〇〇二兵(二等水兵)が△△一水(一等水兵)を呼ぶ場合「△△さん」と呼んだ。兵曹長以上のお偉方に対しては「艦長」「飛行長」と官職で呼んだ。しかし補充兵が召集され始めてからは、兵隊同士の間では「〇〇二水(二等水兵)」とか「△△上水(上等水兵)」と呼び合うようになっていた。これは年とって入ってきた補充兵たちが、急いで軍隊の階級に馴れるためには大いに役立つことになったが、海軍の伝統からはなんとなく堅苦しく、おたがいが他人行儀に見えるようになってしまった。
- 【*5】 水兵の進路。海兵団入団と同時に二等水兵→練習部で新兵教育(3ヶ月間)卒業と同時に一等水兵→試験に合格したら諸学校へ(海軍砲術学校、海軍対潜学校など)→諸学校卒業後、艦船部隊へ配属→艦船部隊で高等科練習生採用試験に合格した場合はふたたび元の学校へ入って高等科練習生になる。または艦船部隊で一定期間を経て一定階級内に達した場合は元の学校の特修科練習生となり、卒業後また元の艦船部隊にもどる、というシステムになっていた。基本は普通科→高等科→特修科というステップアップを踏むようになっていた。海軍諸学校の所在地は海軍砲術学校(横須賀、館山)、海軍航海学校・海軍水雷学校・海軍対潜学校・海軍通信学校は横須賀だった。
- 【*6】 軍隊で衣服を入れておく袋
- 【*7】 ランチ。艦載または港内などで使用される小型艇。
- 【*8】 貫は重さの単位。一貫は千匁(もんめ)、三・七五キログラム。五貫は18.75キログラム。)
- 【*9】 顔面
- 【*10】 上等機関兵曹の略
- 【*11】 時刻。午前六時。
- 【*12】 水兵長の略。陸軍の兵長と同じ
- 【*13】 音が明るくひびきわたるさま。
- 【*14】 長さの単位。一尺は十寸。曲尺(かねじゃく)で約30.3センチ、鯨尺(くじらしゃく)で約37.8センチ。
- 【*15】 最下甲板以上の甲板、艦橋などをつなぐ鉄の階段。傾斜が急で駆けのぼるときは手すりをにぎって上ればよいが、降りるときは、右手は親指を上にして右の手すりを、左手は親指を下にして左の手すりをにぎり、体をななめ右に向け、靴のかかとだけを使わずに、靴と鉄板の接触面をできるだけ多くして、駆けおりるのがコツであったという。
- 【*16】 在郷軍人が召集に応じて指定の地に参集すること。戦前は三十歳になると老兵と呼ばれた。
- 【*17】 咳(せき)のこと。
- 【*18】 すさまじくいたましいこと。
- 【*19】 きわめてよく似ていて優劣のないこと。
- 【*20】 味方の艦。
- 【*21】 艦上爆撃機
- 【*22】 艦上攻撃機
- 【*23】 原文ママ。
- 【*24】 上等兵曹の略
- 【*25】 マストの先端。
- 最終更新:2018-03-09 17:57:03