【特攻隊とマスコミ】読売報知新聞|昭和20年6月12日掲載(2)

出典:1977(昭和52)年 原書房 寺井俊一編 「航空基地 都城疾風特攻振武隊」 都城特攻隊取材録


"神鷲振武隊最後の文字"

 再び還らぬ特攻隊はけふも翼を揃へ敵艦索(もと)めて南の洋上に飛びたってゆく。これら還らぬ特攻隊員は出撃直前祖国の人々へと書き遺してゆく凛冽な文字や歌はいづれも至高至純を鴻毛の軽き (*1)に比して尽忠の大義に生きる神鷲の真面目を伝へるものとして世の人の襟を正さしめずにはおかない。

 以下某基地を発進した第〇〇振武隊勇士をかうした最後の文字から偲(しの)ぼう。

 魁(さきがけ)て嵐に桜散りぬともやがて秋咲く菊もありなん 野口少尉 葉隠の佐賀に育って予科士 (*2)、航士 (*3)と進んだ隊長野口少尉は廿(二十)三歳の若年とは思へぬ沈着な態度のなかに火のやうな闘魂を秘めた典型的な戦闘機乗りだった。第一回の出撃には天候悪化のため途中から引返し闇夜の鹿児島湾に不時着したが奇跡的に助かり、その代り愛機を大破した。「貴重な兵器をこはし申訳ありません」と何時(いつ)も口癖のやうに語ってゐたが、愈々(いよいよ)出撃の前夜記者が訪ねると「どうか後を頼みます。国民のみんながほんたうに死ぬ気で頑張ったらこの戦争は必ず勝ちます。英国では僅々四十キロのドーヴァー海峡まで追ひつめられながら結局最後にドイツを打ちまかしてゐるではありませんか。それに比べたらまだ沖縄から九州まで六百キロもあるのです。要は"必勝の信念"これだけですよ。」と固く手を握りしめてこの歌を示したのだった。

 大空の醜(しこ)の御盾(みたて) (*4)と征で立つわれは大和男の子(おのこ)の幸をしるなり 田中少尉 日大専門部から特別操縦見習士官を志望したといふ眉清らかな廿四歳の学鷲 (*5)。「自分の家は東京の四谷ですが四月廿日の空襲で焼かれてしまいました。愛知県に親戚があるので皆そちらに避難してゐるでせう。しかしそんなことは小さなことです。今は個人の問題等いってゐる時ではありませんよ。それにしても選ばれて特攻隊となりつくづく特操 (*6)を志望してよかったと考へてゐます。」と明日の出撃が如何にも嬉しくてたまらないやうだった。

 黒潮の護りと消えんこの五体いや栄えます御代を祈りて 芦刈少尉 幹候 (*7)から航空兵科に転じた同少尉は同じく廿四歳、中学時代既に剣道二段の腕前だった。福岡高商ではラグビーをやった。見るからに精悍で明朗な九州男子で、出撃のその朝まで隊中の人気者としてみんなを笑はせてゐたが祖国に残す言葉でもといふと「改って感想等といったものは何もありません。弟が二人残ってをりますので安心して征けます。明日の今頃は沖縄の黒潮に揉まれながら大東亜の眠りに入ってゐることでせう。」
と淡々たるものであった。

 爆弾を抱き南の海にわれ征かん必死必殺一兵余さず 御宮司少尉 中央大学の学生から特操志望した御宮司少尉はその名が思はせるやうに何んとなく上品な感じのする人だったが、皆からも「御宮司郷」「公郷 (*8)さん」等と呼ばれてゐた。日頃口数の少ない方だったらしいが、出撃の前夜は僅かばかりの元気酒に真赤に頬を染め「自分の名前はよいですよ。しかられる時でも部隊長は「御」の字を付けて呉(く)れるんですからね。」と軽口を叩いてゐた。そして出撃の朝「やァゆうべはどうも」といふといきなり「日本人は人がよすぎるですよ。もっと、もっと敵を憎まねば駄目です。全大和民族が不動明王となってアングロサクソンの野郎に憎悪の焔(ほのお)を叩き付けねばならない。」と口早に語ってこの一首を詠んで呉れたのだ。

 身はたとへ夷(い) (*9)の艦に砕くとも護らでやまじ秋津島根(あきずしまね) (*10)を 近藤伍長 童顔を抜け切れぬ少年飛行兵上りの若鷲だったが、その徹し切った心境は到底我々の及ぶ所ではなかった。出撃前夜宿舎の床に端坐(たんざ) (*11)して淋漓(りんり) (*12)と揮(ふる)った筆は「皇国必勝を信ず」濃紺のマフラーを風に靡(なび)かせて莞爾(かんじ) (*13)と征で立ったその姿は丁度(ちょうど)昔の若武者の出陣を思はせた。

  • 最終更新:2018-08-14 18:30:46

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