【特攻隊とマスコミ】朝日新聞|昭和20年6月12日掲載

出典:1977(昭和52)年 原書房 寺井俊一編 「航空基地 都城疾風特攻振武隊」 都城特攻隊取材録


母の願ひは敵艦轟沈
 神鷲は困る、神鷲扱ひ

 「いいか、艦種は相当な高度でも落着いてよくみれば見分けがつくものだ、空母は艦尾の幅広い航跡だけがよくみえるし、駆逐艦の航跡は細長くて艦首にもチョンチョンとはねたやうな波がみえる、輸送船は船の周囲全体が白い、わかったな。」

 説明してゐるのは去る三月末沖縄北飛行場沖の制空で単機よく放胆極まる銃撃により同飛行場を艦砲射撃中 (*1)だった敵駆逐艦一隻を撃破炎上、他の一隻を遁走せしめ武功章を授与された宮本中尉(愛媛県)。食ひ入るやうな眼附(めつき)で聴いてゐるのは第〇振武隊(第五九振武隊)の特攻隊勇士達、宮本中尉はときをり特攻隊兵舎に来ては豊富な体験を語るのだ。

 一死必沈、征きて還らぬ若桜勇士の神髄に触れんと記者が某基地の壕舎式兵舎を訪ねたのは初夏の或る日、食後団欒のひと時だった。隊長ノ少尉・佐賀県(野口少尉)の二十四歳を上に最年少のマ伍長・岡山県(増岡伍長)まで、いづれも若く明朗そのもの。毎日の猛訓練が済めばあとは冗談ばかり。他愛ない夢の話、あちこちで贈られたマスコットの話、学校運動部の合宿のやうになんの屈託もなくときどき爆発するやうな哄笑(こうしょう) (*2)が湧く。

 狭い兵舎の一隅に棚を吊り二柱の遺骨が安置されてあった。訓練の前後に「おい行ってくるぞ」「けふはとても快調で飛べたよ」同宿の第〇振武隊(第二六振武隊)員ナ少尉・岡山県(中村少尉)は朝夕欠かさず生けるものに対するごとく英霊に話しては兵舎を出入りした。この英霊はともに特攻出撃の直前、さきのグラマン大挙来襲 (*3)で愛機を待避させんとして惜しくも兇弾にたふれたコ少尉・福島県(小林少尉)、ア少尉・群馬県(青木少尉)で、近く同少尉がこの遺骨とともに突込むといふ。

振武隊遺骨とともに.jpg

 隊長のノ少尉をはじめこの隊には長男、あるひは一人息子といふ人も多かった。ノ少尉はさきに某日、マ伍長らとともに出撃したのだが途中天候悪化、誘導機、直掩機が引返したため心ならずも再挙を期して海中に不時着、生還したもので、マ伍長ともども「あんなに残念なことは、生れてからかつてなかった。命令でなければいま少し頑張って燃料の続く限り艦船が発見できなければせめて敵陣にでも突込むのだった。部下や戦友であのとき突込んだものもゐたし本当に済まぬと思ひます。いかに天候のためとはいへ今度こそは必ず成功します。」と述懐し一段と凄烈な訓練に励むのだった。

 このマ伍長は郷里に老母一人在るだけだがその母から伍長に宛てた最近の手紙には「重いつとめを果す特攻隊に参加できた由、母は喜びをります。お父さんが亡(な)いのにといってお前は心配してくれましたがなんのなんのそんなことはどうでもよいのです。あと取りがなくなっても絹子(伍長の姉)が片附いてゐるから子供がたくさんできたらそのうちに貰ふこともできます。もし貰へないときはそのままでも構ひませんよ。私は元気です、しっかり大きな軍艦を沈めておくれ。」と認(したた)めてあり「自分はこんな母を持って幸せですよ。もう別に会はなくともなんともありません。」とつぶやくのだった。

 またア少尉・福岡県(芦刈少尉)は「われわれはただやっつけるだけです。世間でよく神鷲だ、特攻隊だなどとやかましくいはれますが正直なところちょっとくすぐったくて困ります。他の基地にゐたときから現在までいろいろ地方の皆さんに一方(ひとかた)ならぬもてなしを受けましたが勿体(もったい)なくてなりません われわれ空中勤務者 (*4)はつまらぬことは考へてる暇がないし、ただどてっ腹にデーンとぶっつけるだけ、それだけなんですよ……さあ諦め? そんなことは考へたこともないが強ひていふなら普通の諦めはマイナス、諦めた瞬間から前進もなければなにもない。われわれには大きな任務がある。願望がある。いはばプラスですな。」

 基地は溢れる闘魂に燃えたち必沈必勝の信念以外はなにもないのだ。物量、理屈を超越した特攻戦法この勇士達のある限り、わが日本は必ず勝つ。


【ウェーキ(波状)による艦船識別表】
脚注に「当時われわれ陸軍では海軍のことがさっぱりわからなかったから、艦船の識別もしたことがないので偵察員に航行中の艦船の写真を撮らせ、その航跡の波状ウェーキで識別する必要があった」とある。
ウェーキによる艦船識別表.jpeg


【画像出典】
・1976(昭和51)年 現代評論社 苗村七郎 「万世特攻隊員の遺書」

  • 最終更新:2018-08-14 18:12:05

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