【特攻隊とマスコミ】日向日々新聞|昭和20年4月22日掲載

出典:1977(昭和52)年 原書房 寺井俊一編 「航空基地 都城疾風特攻振武隊」 都城特攻隊取材録


無邪気に躁(さわ)ぐ若桜
 お母さん泣かないで下さい

 振武隊の特攻隊勇士は実に若い。隊長のオ少尉・和歌山県(岡本勇)、ワ少尉・長崎県(若杉潤二郎)、ハ少尉・兵庫県(橋本初由)の幹部を除くと、あとはすべて少年飛行兵出身の紅顔の若武者ぞろひである。恐らく一番若い特攻隊であらう。二十歳が大部分で二十一歳が数名、十九歳という若桜も二名ある。

 丸い顔、紅い頬、美しい眉、その眼は黒く清らかに光ってゐる。真新しい飛行帽、飛行服、藍色の縛帯が神々しいまでにその若武者を彩ってゐる。清純無垢、武者絵から脱け出したやうな美しさだ。国家の興廃を双肩に担ひ、明日にも死地に赴く人々とはどうしても思はれぬ。

 航空部隊指揮官は日の丸に"国宝神鷲"と大書して一人々々に贈った。この若武者は全部が初陣でしかもそれが最後の体当り攻撃である。しかし若武者にはそれはこよなく清々しい出陣である。「散るを知り咲くを知らぬ若桜 浮世の花もなんのその」タ伍長・新潟県(田中英男)はその心境を歌ってゐる。

 基地に推進したその日から若き神鷲には学科があり、また訓練が続けられた。学科は「艦舶攻撃」宿舎でも学科は続行された。任務の「必達」と操縦者としての研磨は、死の瞬間までゆるめられない。「どうせ死ぬから」若き隊員はこの言葉を強く戒めてゐる。「この秋は風か雨かは知らねどもけふの勤めに田草とるなり を肝に銘じ心を冷静に摂生に努め死の直前まで精神修養を怠るべからず。神聖なる身体は絶対に汚すべからず。」タ伍長(田中英男)は厳しくかうつけ加へてゐる。崇高極りなき若き神鷲の姿である。

 「君のためゆくてふ道をゆき極む我が若鷲の誉ぞ高し」重大使命をこの若いわれわれに担はされたことを隊員は非常な誇りと闘魂に燃えてかう歌ってゐる。「君がため散れといはれし喜びを胸にぞ秘めて吾(われ)は征くなり」シ伍長・佐賀県(篠原穂津美)「すめろぎの栄あれかしと若人は南の空に花と咲くらん」ウ伍長・北海道(請川房夫)「南海を墓場となせし兄鷲の影を尋ねて吾も征くなり」 タ伍長・(高野博)宮城県 (*1)「白雪のさむさにたへて咲く梅の匂ふ姿ぞわが心ともせん」オ伍長・東京(沖山富士雄)「君が世を安に置かん我が務め身を敵艦に砕け散らして」 ヤ伍長・北海道(山本隆幸)

 拙くとも三十一文字の道を忘れぬ若き神鷲の床しさを讃へたい。

 出撃を前にした若武者の心境は一様に"平常心"と答へる。「いまさら何もいふことはない。われわれの花嫁は空母です。自分たちはアメリカの艦隊をひきつれて三途の川を渡るのです。」「おい、昨夕俺に電報が三本も来てなあー急いで来い来いといふのだ。」「どこから来たんだ」「やあそれがあの世からだったよ」若い人の無邪気さといふかこんな戯言(ざれごと)をこともなげに吐き出す勇士たちである。

 振武隊のマークをつくらうといふ提議があった。よからうと隊員は一生懸命に頭をひねった。もう桜の花も面白くないといふので将棋の飛車をとってはどうだと誰かいった。スーと飛んでいいぞといふ。すると傍らからいや"香車"がいいこれなら突込んだら還らぬ俺たちと一緒じゃわい。マークは結局"香車"と決りかけた。だが「おい香車も"成金"になっては困るぞ」といふのでたうとうマークは暫くお預けとなった。なんと淡々たるあまりに高い若人の心境であらうか。

 「我十七歳にして少年飛行兵となり、いま宿望の特攻隊に選ばる。男子の本懐これに過ぎるものなし。親に愛のみ求めて孝を尽し得ず死す。しかれどもこれ忠、大孝を尽し得ると思はば莞爾(かんじ) (*2)なり。お母さん泣かないで下さい」これはカ伍長・香川県(香川俊一)の最後の手記の一節である。

【第六十一振武隊】
第61振武隊2.jpg

  • 最終更新:2018-08-14 16:02:32

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