【特攻隊とマスコミ】大阪毎日新聞|昭和20年4月10日掲載

出典:1977(昭和52)年 原書房 寺井俊一編 「航空基地 都城疾風特攻振武隊」 都城特攻隊取材録


振武隊沖縄ヘ征ク
 頸(クビ)ニハ真紅ノ練絹
  還ラヌ基地、爛漫ノ桜

「某基地ニテ伊藤本社特派員発」 けふも振武隊の若い陸軍特攻隊員は沖縄本島へ一撃必殺の爆弾を抱へて飛んで行った。基地の桜は満開である。飛行帽の下に日の丸の鉢巻をきりりと結んだこの若桜達は基地の桜より一足先きに莞爾(かんじ) (*1)として大国難の前に散って行ったのである。

 沖縄本島とここ振武隊基地とは〇〇キロを距(へだ)ててゐるに過ぎない。記者は特に許されて「〇〇戦闘指揮所」と記されたバラックの中の特攻隊員らの憩ひの部屋で出撃命令を待ってゐる若い神鷲達と、ほんの僅かな時間ではあったが親しく語ることが出来た。幾時間の後には一機一艦と刺違へて散り行くこれらの特攻隊員にとって私は最後の一人の面会人であったわけである。しばらくはなんと言葉をかけていいか挨拶(あいさつ)に困った。

 みんな廿(二十)歳を超えたばかりの紅顔の若鷲である。真紅のマフラーを頸にまいて真新しい日の丸の鉢巻を真一文字に結んでゐる。この真紅の練絹のマフラーが特攻隊員に選ばれた誉れの象徴なのである。この若鷲たちは申合せたようにみな飛行服の後襟にマスコットの吊人形を提げてゐた。姉(あね)さんかぶりをして絣の前掛をかけた東北のオバコ人形が多かった。この人形たちは若鷲たちが互(たがい)に肩を叩いて笑ふ度毎に前を向いたり後を向いたり若鷲の肩中で踊ってゐた。そのあどけない恰好でこの人形も敵艦に突っ込んで行くのかと思ふとたまらなく、いとほしいものに見えた。ぐっとこみあげて来る熱い感情を押へて私はしばらく目を閉ぢた。窓外には雲雀(ひばり)が無心に鳴いてゐた。

 ふとわれにかへって傍の若鷲をふり返へると、この若鷲(注、友枝少尉)はいま一心に真新しい千人針の胴巻きをつけてゐるところであった。中ほどにたった一つの五銭玉のついた千人針だった。「どなたの贈物ですか」と尋ねたら、即座に「母が贈ってくれました」と答へた。そしてこの若鷲は独りごとのやうに「私の母はからだが弱くて」と付け加へた。必死必中の出撃の前にすでに生死を超越した神の化身だが、やはり母のことは忘れてゐなかった。この若鷲はこの日のためにとっておいたこの千人針を取り出してふと病身の母のことを想ひ出したのであらう。この神鷲は真珠湾の九軍神の一人古野少佐と同窓の東筑中学第卅(三十)九回卒業生だと語った。

【友枝幹太郎少尉】
第一特別振武隊友枝少尉.jpeg

 この時すでに準備線に就いてゐた特攻機は砂塵をあげてプロペラの始動を開始してゐた。出撃にあと十分の基地であった。

【出撃する第一特別振武隊】
第一特別振武隊1_2.jpg

  • 最終更新:2018-08-14 12:53:23

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