【海軍機関学校】海軍兵学校舞鶴分校になった海軍機関学校



一、日本海の汐風

 京都から山陰路を汽車で北走すること三時間、秀峰青葉山が屹然として聳(そび)えるところ、日本海の怒濤を越える男性的な汐風が朝夕吹き渡るあたりに、軍港舞鶴を一望の裡(うち)に収める景勝、躑躅(つつじ)ヶ丘がある。そこに海軍兵学校舞鶴分校はある。


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☞海軍機関学校(海軍兵学校舞鶴分校)全景

 明治二年、東京築地に海軍操練所が設けられ、海軍士官が養成されることゝとなったが、その頃は機関科といふ特別なものはなかった。

 明治三年、海軍操練所は海軍兵学寮と改称され、同六年、兵学寮中に機関科を置き、翌年横須賀造船所に兵学寮分校が設けられた。次いで十四年、横須賀に海軍機関学校が特設されたが、二十年には廃されて兵学寮の後身たる兵学校に合併された。二十六年になって、再びこれを横須賀に設置し、翌年より機関学校生徒を独立に募集採用することゝなり、爾来横須賀白浜の地で機関科将校の養成を続けると共に、また大正九年からは選修学生の教育をも開始したのである。

 ところが、大正十二年の関東大震災で校舎が全焼したので、一時江田島の兵学校内に移った。次いで十四年、京都府舞鶴市に移設され、昭和五年四月、東舞鶴駅より徒歩約三十分の現在の場所に、校舎の新築が成り、海軍機関学校として機関科士官の養成に当ってゐたが、昭和十九年十月一日を期して兵学校舞鶴分校として新発足することになった。

 学校の敷地は約二十万平方米(メートル)、外に約五万平方米の練兵場があり、校舎は本部、生徒館、大講堂、学術講堂、実験室、道場等を合せて八十余棟、建坪約二万七千平方米である。なほ練習艦として巡洋艦、駆逐艦、潜水艦等が配され、その外(ほか)に約千噸(トン)の附属艦由良川及び多数の小型舟艇がある。

 学校は舞鶴湾の一角、小高い愛宕山の麓に俗塵を隔てゝ建てられてゐる。眼下には艨艟(もうどう) (*1)儼として碇泊し、そゞろに若人の雄心をそゝる。

 愛宕山麓が海岸に延びて尽きるところ、赤松疎(まば)らに生える小丘があり、躑躅(つつじ)ヶ丘と呼ばれてゐる。丘には皇大神宮の特別大麻を奉戴した神明社を齋(いつ)き (*2)奉り、また本校出身者で過去幾度の戦役事変に殉ぜられた、先輩忠勇の神霊が鎮座まします招魂社を奉祀する。生徒は朝夕に参拝して神明照鑑(しょうかん) (*3)の下、いよいよ操守(そうしゅ) (*4)を固くせんことを誓ふのである。


二、重要な任務

 本校出身の海軍士官は、第一線でいかなる任務に服するかといふと、

 第一は、軍艦や潜水艦の心臓部である機関を整備操縦して、戦闘力の重大要素である運動力を最大に発揮し、いはゆる七つの海を縦横無尽に馳駆(ちく) (*5)することである。

 第二は、大砲を射ったり、魚雷を発射する時なくてはならぬ水圧力、電力、圧搾空気などの原動力を供給することである。

 第三は、戦闘中受けた故障を自分の力で修理して、あくまでも戦闘力を持ち続けるやうに、艦内の工作力を掌(つかさど)ることである。

 第四は、燃料や軍需品などの補給、運搬の計画を立て、または飛行基地や兵站基地を造るといったやうなことである。

 第五は、第一線で現在最も目ざましく活躍してゐる航空機を整備し、或ひはその操縦者にもなるといふことなどである。物量を世界に誇る米英二国の大海軍力を向ふに廻して、必死の激闘を続ける帝国海軍は今後いよいよその内容充実上、科学技術の進歩向上に期待するところは絶大なものがあり、戦闘兵器、航空機燃料に関する科学技術の躍進を図ることは、極めて緊急のことに属する。従って本校出身兵科将校の任務は、ますます重要性を加へつゝあるのである。


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☞機関装置の実習


三、精神教育と学術教育

 国家が生徒たちに期待するところが多ければ多い程、その教育も亦(また)厳格を極める。本校教育の基調が訓育に置かれ、日常生活も、体育も、学術習得も、すべてが訓育即ち人間を造ること、軍人精神のこもった士官を仕立て上げることを、主眼とするのも当然である。

 訓育の主核をなすものは、軍人に賜りたる勅諭を中心とする軍人精神の涵養(かんよう) (*6)であり、自恃(じじ) (*7)自律の精神、頑張りの精神、必勝の信念である。

 従って精神教育は本校教育の主体であるわけであるが、そのため特に時間を定めて精神教育の講義をするわけではない。生徒たちが入校と同時に配属される分隊の教育主核となる分隊監事や、級の指導に当る学年監事、及びこれらを統率する生徒隊監事は、校長教頭の命を受けて訓育に従事するのであって、行住(ぎょうじゅう) (*8)座臥(ざが) (*9)、生徒に接触しつゝ、その豊富な経験と実戦の体験とを活かして、日常の間、個人的に或ひは全般的に心魂を打ち込むのである。

 生徒たちもこの真剣味溢れる教官の懐(ふところ)に、全身を擲(なげう)って飛び込んで来るのであって、こゝに初めて魂と魂の接触によって生きた教育ができ、精神教育の徹底が期し得るのである。

 学術教育は本校教育の大半を占めてゐる。近代科学の粋を集めてその威力を発揮する軍艦、潜水艦、航空機を操縦して、海上第一線に奮闘する海軍将校に、科学的頭脳は緊要不可欠のものである。殊に本校出身の兵科将校が担当すべき軍艦、潜水艦の機関、兵器、燃料、航空機に関する現下の要求は、殊の外(ことのほか)切実である。従って学術教育は広く各方面に亙(わた)ってゐるものゝ、特に数学、物理学、力学、工学等に重点が置かれ、これと密接な関連を保ちつゝ、軍事学の教授が進められて行く。

 その内容は次の如くである。

第一科 哲学、真理、歴史、国語、漢文
第二科 代数、三角法、幾何、微分積分、図学
第三科 物理、熱力、燃焼及び伝熱理論
第四科 力学、流体力学、航空理論、材料構造強弱、機構学、機械力学
第五科 電磁気学、直流電気工学、交流電気工学、通信工学
第六科 基礎化学、工用化学
第七科 英語
統率科 軍制、法制、経済、衛生、要務、軍隊教育学
兵術科 兵術、砲術、航海術、水雷術、通信術
飛行科 航空術、航空機
機関科 鑵、蒸気主機械、内火機関、補助機械、機関一般
内務科 運用術、艦内防禦、工作電力機関、造船学
この外(ほか)乗艦実習、自動車実習、滑空機実習等を実施する。

 乗艦実習は軍事学課の総合的演練を主とするものであって、航海実習及び碇泊実習に分ける。航海実習は各学年毎に練習艦艇で洋上遠く出動、艦船勤務作業の一般を会得せしめてゐる。航空実習は、練習航空隊で飛行機の操縦、整備を実地に行ひ、将来大空に雄飛する基礎を培ふものである。自動車、滑空機実習はそれぞれの取扱ひ、操縦、整備を実地に行ひ、将来の基礎の確立に資せしめてゐる。


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☞遠洋航海における魚雷発射管操法訓練


四、校歌と気風

一、暁(あかつき)映ゆる青葉山
  野は紫に山青く
  綾羅(りょうら) (*10)の色に染めなして
  天地こむる朝ぼらけ
  見よ舞鶴の湾頭に
  吾等(われら)が根城はそそり立つ

 青葉山が暁に映える頃、喨々(りょうりょう) (*11)起床喇叭(らっぱ)がまどかな夢を結ぶ生徒館に響き渡れば、生徒たちの修練の一日が始まる。

 将来海上へ乗り出した時に備へて、迅速、確実、静粛を標語として強調する生活は、まづ寝具の整頓に始まる。生徒たちが寸秒を争ってぴちぴちと躍動する様は、見てゐるだけでも気持がよい。純白の事業服に身を引きしめた若者たちは、数分後には怒濤の如く洗面所へ流れ込む。厳寒の候も一日として欠かすことのない冷水摩擦と洗面が、生々(いきいき)とした息吹きの中に迅速に行はれる。

二、真理の光、義の力
  清き自然の揺籃(ようらん) (*12)
  高き理想を胸にしめ
  雄々しく集ふ五百人
  戸島の沖の碧瀾(へきらん) (*13)
  若き雄図に湧きかへる

 やがて、舞鶴の朝ぼらけの空気をつんざいて、のども破れよとばかりに、号令練習と体操の掛声が聞えて来る。かくて始められる生徒の一日は、巡検の喇叭と共に寝台に入るまで、一刻の心の弛緩も許されない緊張の生活である。いはゞ生活それ自身が教育なのである。厳格な規律と節度、一絲(糸)乱れぬ統制の中に、生徒たちは日一日と舞鶴魂を吹き込まれ、伝統の気風を感得して行く。


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☞体操

三、躑躅ヶ丘に春たけて
  ゆかしく匂ふ桜花
  太鼓が原に踏みしだく
  小草の露の光にも
  男の子(おのこ)の幸を思ひては
  護国の鬼と誓ふ哉(かな)

 躑躅ヶ丘神明社の玉垣の外に、等身大の一基の生徒胸像が、生徒館に向って建てられてゐる。これは昭和十二年七月二十七日、遠泳訓練中、本校教育精神の真髄を身を以て顕現し、奮闘力泳、遂に舞鶴湾頭の華と散った大久保虎雄生徒の記念像であるが、生徒たちは神明社に参拝した後、この像を仰いでは、学校の伝統精神たる頑張りの精神、即ち「斃而後己矣(死してのちやむ) (*14)」の敢闘精神を誓ふのである。

 春秋の好季には、日頃鍛へた生徒たちの意気は、福知山近郊の長田野演習場太鼓ヶ原に爆発する。見渡す限り広漠たる太鼓ヶ原に、わづか一二年前までは伝令列兵を勤めた生徒たちも、上級学年となっては指揮力勇ましく、堂々たる部隊長となり、作戦計画を練るのである。

四、それ寂寞の夜は更けて
  北斗の星のさゆる時
  燈下静かに書を繙(ひもと)き
  皇国の使命思ひては
  やがて馳駆せむ艨艟(いくさぶね)
  機関の圧か血は躍る

 生徒たちは一日の授業と訓練が終ると、ほっとした気持で楽しい夕食の卓に就く。そして入浴に一日の疲れをいやし、おちついた気持で、塵(ちり)一つ留めない明るい温習室の机に向ふ。


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☞入浴

五、あゝ南溟(なんめい) (*15)の空の涯(はて)
  狂瀾(きょうらん) (*16)吠ゆる北の海
  吾等(われら)が春は遠くとも
  渾身血あり生気あり
  図南(となん) (*17)の意気は大鵬の
  羽風に搏(う)たむ三千里

 わが軍艦、潜水艦、航空機等の進歩発達のために払われた、本校出身者の偉大な蔭(かげ)の努力は、いかばかりであったらう。この先輩に続く生徒たちの宏大な気宇と、熱烈な尽忠の精神は、彼等(かれら)があらゆる機会に、齋々(せいせい) (*18)と足並揃へて、力強く大地を踏み鳴らしながら、声高らかに歌ふ校歌の中に示されてゐる。


五、日課と生活

 厳重な身体検査と学術試験の健闘を、見事突破した若人たちが、冬漸く訪れようとする頃、全国津々浦々から、この躑躅ヶ丘に、尽忠の血を胸にたぎらせながら集って来るが、若人たちは入校の日から、海軍軍人として兵籍に編入され、身分は准士官の下、上等下士官の上を以て待遇される。そしてその日から規律ある日課と生活が始まる。

 日課の状況を略述すれば、夏季(四月一日より九月三十日まで)は毎朝五時三十分、冬季(十月一日より三月三十一日まで)は六時起床。総員体操が終ると室内点検が行はれ、総員起床一時間後には朝食となる。この間の生徒の動作は敏捷活発そのもので、こゝに生気満ち満ちた一日の生活が始まる。

 朝食後自習、八時十五分校庭に整列、五分間容儀点検の後、課業整列があり、各学年毎に隊伍を整へて教室に向ひ、十四時四十五分まで学術授業をし、十五時より一時間教練及び体育を行ふ。


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☞課業整列。毎朝このように整列してから学習場へ行く


 夕食は十七時で、十八時三十分から夏季は二十一時十分、冬季は二十一時四十分まで自習、これが終って約十分間総員号令練習を行ふが、この号令は学校から四粁(キロ)位遠方まで聞える程元気さかんなものである。号令練習が終ると、夏季は二十一時三十分、冬季は二十二時に就寝、巡検喇叭と共に一日の日課を終るのである。

 日曜日及び公暇日には、朝食後約一時間武道、闘球 (*19)等の有志訓練や、或ひは自動車実習、滑空機実習等を行ひ、終って夕食まで外出を許可される。


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☞ラグビー。機関学校ではラグビーが特に盛んであった


 生徒倶楽部として、各学年毎に東舞鶴市内の民家が指定してあるが、外出時には生徒は、この倶楽部を利用して、室内娯楽や読書を楽しみ、或ひは近郊の青葉山、大江山に登り、金剛院、松尾寺、天の橋立等を尋ね、或ひは湾内に短艇やヨットを浮べて、大いに浩然(こうぜん)の気 (*20)を養ふのである。

 また春先から秋にかけては、時に土曜日から日曜日に亙り、学年或ひは分隊毎に舞鶴湾外の景勝の地を選んで短艇、機動艇の巡航または幕営等を行ひ、休養親睦を計ると共に心身の鍛錬に努める。

 厳冬の頃には、寒稽古として約二週間、総員起床後約一時間武道及び短艇訓練を行ひ、酷暑の候には午前のみ学術授業、午後は湾内の遊泳場及び校内遊泳場で遊泳術の訓練を行ふ。

 祝祭日、記念日、卒業式当日等には、八時に校庭の記念檣(しょう) (*21)(日露戦役当時奮戦した軍艦日進の檣)に軍艦旗を掲揚し、日没時にこれを降下する。この輝かしい軍艦旗の掲揚降下は、厳粛な君ヶ代吹奏裡に、生徒よりなる衛兵隊の手によって行はれる。

 この外(ほか)諸点検、作業等もしばしば実施されるが、かうした厳粛明朗な生活の裡に、自ら海軍の伝統精神が養はれて行くのである。


六、卒業後の教育課程

 卒業後は海軍少尉候補生として、平時は練習艦隊に乗組を命ぜられ、内地航海及び外国航海を経た後、更に聯合艦隊に配乗を命ぜられ、実務の練習に従事する。


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☞バンクーバー付近フレザー河における日系漁船の歓迎


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☞ホワイトハウス南庭における候補生

 任官後は主として艦船部隊に於て軍務に服する外(ほか)、各種の教育を受けることは、兵学校出身兵科将校と全く同様であって、その大要は次の通りである。

 少中尉時代に普通科学生として、大尉の初期に高等科学生として、いづれも海軍工機学校及び海軍工作学校に入り、また潜水艦及び航空方面に志す者は、それぞれ潜水学校または航空隊に入って専門の教育を受ける。更に大尉または少佐の時期に機関学生として、海軍大学校に入学できる。

 右の外、選科学生として東京外事専門学校で語学を、また海軍大学校、帝国大学で、航空学、機械力学、電気工学、冶金学、地質学、採鉱学、化学、教育学、労働問題、造船学、船用機関学等の専門教育を受けることもでき、更にまた海外に留学を命ぜられ、その他の大学で前述の如き専門の教育を受ける者もある。


【写真出典】1983(昭和58)年 講談社 「写真図説 帝国連合艦隊-日本海軍100年史-」

  • 最終更新:2017-08-02 14:09:38

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