【海軍機関学校】壮烈なり海軍機関学校魂

出典:1957(昭和32)年 日本文芸社 「現代読本」第二巻第六号所収
   元海軍大尉 太田善文 「壮烈なり海軍機関学校魂」


厳しい訓練は逞しい海軍将校を養成する。江田島の海兵と共に日本海軍の大きな原動力となった海軍機関学校は、真珠湾の花と散った幾多の軍神を生み出した。

海軍航空技術に貢献

 舞鶴はつい最近迄、ソ連や中国からの帰国者多数を迎えたところ。その舞鶴といえば海軍機関学校。江田島といえば海軍兵学校として米国のアナポリス海軍兵学校と並び称せられたが、「海軍機関学校」が、当時舞鶴の愛宕山麓に、菊の御紋章を燦然と、玄関上に輝かせて建っていたことは、兵学校ほど一般の人々には知られてはいなかった。

 江田島の兵学校は海外にも良くその名前は喧伝されているが、大きな功績を残しながらも、地味な仕事故に余りその内容が知られていない。「海軍機関学校」とは如何なる所であったろうか。


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☞教務


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☞ディーゼルエンジンの学習

 私は昭和十七年に武徳教官としてこの機関学校に派遣され、自分の卒業した母校の教官として、昔の訓練を新たに、若い生徒と共にその訓練にいそしんだのであった。

「将来国軍の槇幹として護国の重責に任ずべき生徒学生は、自己の本務遂行に邁進するとともに、武人の嗜(たしなみ)として善良なる躾(しつけ)を養い以て高潔なる風格を保ち、一般国民の儀表たる所がなければならない。躾は形から精神に入るものであるから些細なことにしても形式の実行を強要せらるる等の心情は毫末も持つことなく、克(よ)くその精神を汲み積極的に自ら進んで実行せんとする熱意を以て行住座臥反覆実施の裡(うち)に習性となし、躾の本義に徹すべきである」

 これは海軍機関学校の、A6版白表紙の「躾要綱」の最初の一部である。

 一般に、海軍機関学校といえば、蒸気機関や、内火機関、電力機関としてが、主なる訓練ではないかと想像されるだろう。

 だが、実際には、この機関学校は、海軍々人として将来指導的な立場に立とうとする優秀な海軍将校の養成学校であり、江田島の海兵と少しも異っては居(お)らず、その根本精神と訓練の実際は全く同じで共に兵科の将校を養成する学校であった。

 そして、それだけではなく海軍機関学校は日本海軍航空空戦の力に、殊に航空技術に、一(ひと)かたならぬ大きな貢献を残していることは、余り知られてはいない。

 例えば。、戦争当時日本最大の飛行機製作所である中島飛行機株式会社(現在でも自衛隊の航空機を製作している)の創始者である、中島知久平氏は、この海軍機関学校の出身であったのだ。

 話は横道にそれるが、明治四十四年七月二十八日始めて日本で作られた飛行船は、その全部が国産であり、当時三十二粁(キロ)の距離を一時間四十分で飛行した。これは、日本製の飛行船が、日本の空を飛行した嚆矢であり、その操縦者は当時の機関中尉中島知久平氏その人であった。

 航空機が将来の日本にどのような意義をもつかをいち夙(はや)く看破した中島中尉は、大尉になると米国に留学、帰朝後は軍籍をしりぞき専(もっぱ)ら飛行機の製作に従事、中島飛行機株式会社を創立し、太平洋戦争に数々の功をたて米、英にゼロ戦として恐れられた優秀な戦闘機をも製作したのであった。


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 機関学校の航空科は、毎年陸上機の操縦整備のために、三学年生徒が岩国海軍航空隊で、江田島の兵学校生徒と同様に実習訓練を行い、水上機についてもやはり三・二学年生徒は近くの舞鶴航空隊に出向いて実習を行うことになっていた。

 又良く知られる所では、昭和十七年五月三十一日、特殊潜航艇に乗りこみ第二次特別攻撃を敢行、長駆マダガスカル・デイエゴ、スワレス湾及びシドニー湾に突入した攻撃隊の十勇士の大半の将校は機関学校の出身であった。

 その攻撃魂は、この舞鶴での日々の訓練から次第に培かわれていったのだということは当時でさえ余り知られてはいなかった。


血のにじむ短艇訓練

 裏日本にあったこの海軍将校養成学校の煉瓦(れんが)造りの建物は、赤松の丘を背景にして立ち並んで居る。その丘を生徒達は愛宕山と呼んでいた。頂上から、眼下に東舞鶴の軍港が展開し、岸ぞいの工廠の屋根が並び、その向(むかい)の高台に舞鶴鎮守府の屋根がその輪廓を見せ港内には軍艦が碇舶 (*1)しているのが見える。

 機関学校には、神明社(しんめいしゃ)と称する、神明造りの小さな御社があった。この神明社には、歴代の校長以下全ての文武教官、生徒学生、教員の敬神崇祖の対象となっていた。少尉候補生として卒業する時、機関学校で教鞭をとりその指導の任に当っていた教官が転、退職をする場合には必らずこの小さな社殿に敬虔な告別をして後、全員の挙手礼に送られて校門を去って行くのだった。

 この神明社のほんの数歩離れた所に、等身大の胸像があった。これは、当時機関学校第一学年の生徒大久保虎雄の像なのである。昭和十二年七月二十七日遠泳訓練中、逆流にのまれ奮闘力泳も空しく波には勝てなく応急処置も駄目で遂に「斃(たお)れてのち止む」の精神を発揮して舞鶴湾頭の華と散った生徒なのである。

 愛宕山、神明社、そして大久保生徒の胸像と、春四月ともなれば淡紅色の躑躅(つつじ)が咲誇り躑躅の丘が海軍機関学校の表玄関を彩る。

 山陰の冬はひしひしと一層身に沁みて寒く生徒館の外は深夜の如く暗い、五時四十分になると総員起しになるのだ。スピーカーから、総員起しのラッパが生徒館の隅々迄鳴り渡ると、全生徒の動作がそれを合図に一瞬にして始る。分隊寝室は、たくましい素裸の若者が素早く筒になった毛布を迅速に解いては折りたたんでいる。

 五枚の毛布を奇麗(きれい)にたたんで重ね、一枚でそれを丸く包み、その毛布の上に枕を置き、全員同じ形でなければいけないのだ。少しでも崩れた形になっていると、上級生の命令のもとにやり直しをさせられる。

 毛布をたたみ終った者は、チェストの上に準備されてある稽古着をきる。柔道に行くものは汗と脂のついた稽古着を身につけ、剣道の者は下着をぬぎ袴をはき、胴と垂(たれ)をつけて一目散に道場に向って駈(か)け出して行く。短艇に行く者は白の事業服に、日覆のかかった帽子をかむって校庭に駈けだして行くのだ。


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☞遠洋航海で艦上の武道試合(剣道)

 起床ラッパが鳴ってから僅か二分間の間というものでよくこんな仕事が出来ると思う程次々と順序よく片付けて行く。

 海岸にはカッターダビットから全部降してそれぞれ、一名の班長の外(ほか)十二名の漕手(こぎて)と一名の艇首灯を持った見張(みはり)を加えた合計十四名の生徒に一名の教官が乗り込む。

「おもてかまへ!」

 と、艇長は元気な声で号令をかける。短艇は、沖合に向って漕出しの用意をするのだ。

「橈(かい)そなへ!」

 号令に抑揚をつけた艇長の怒鳴る声で、艇内の中で立てられていた樫(かし)の棒の太い橈が、一斉に艇の両側に翼のように広がりでて、

「用意!」

 の号令で漕手の上体が手と共に前の方に、突きだされた。

「前へ!」

 一斉に全員の上体は後方に動き、短艇は、湾をすべり始める。前の方には低学年が乗り後(うしろ)の方には高学年が乗って漕いでいるが、低学年はオールが浮き上り流すことさえ時にあるのだった。

 舞鶴港内は霧が刻々と濃くなり、頬のあたりが冷めたく感じられる。

「五番、オールをもっとかえせ!」

 と、注意する声が他の艇からも聞えてくる。霧が濃くなるにつれて、ランタン片手の見張は仲々(なかなか)大変になってくる。

 素足でカッターを漕いでいる生徒達が漸く疲れをみせてくると、艇長は、

「これくらいで疲れるのはまだ早い!」

 と怒鳴りながら、カッターをダビットの所へ到着させた。

 三号生の中には、腰部の辺の事業服の所に血をにじませていた。尻の皮膚がすりむけて出血したのだ。その傷が癒(なお)りきらぬ間にまた漕ぐので傷口は益々(ますます)ひどくなるのだ。

 尻だけではない、橈を握る手の平には水ぶくれの豆がつぶれて、ろくに手を握ることさえ出来ないのだがそれでも生徒は苦痛らしい顔を見せたことはなかった。


【参考:カッター(短艇)】
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自らの容儀を直す鏡

 機関学校には、廊下の途中に人間より大きい、姿見のための鏡が置いてある。その鏡の右側に鏡面に平行に立てられてある鉄の棒は、更にその棒から横斜上方にむかって出てをり、鏡面に平行に上下に移動して鏡に写る自分の室内敬礼をみては正しい姿にするのであった。

 大きな姿見はこの廊下だけではない、剣道場にも柔道場にもそれぞれしつらえてある。

 生徒館の階段の踊り場に又 廊下の曲り角に、ホールの壁にと、到る所に取り付けられて、一寸(ちょっと)女学校のようだと、見学者がいうことさえあった。

 私が二階から階段を下りようとしていると、不作法な恰好(かっこう)で駈け登っていく三号生に行き当った。

「おい水野! 今の登り方ではいかん、もう一度やり直しだ」

 と注意すると、水野生徒は、一寸面喰った様子であったが、

「ハイ!」

 と叫んで、踊り場まで奇麗な駈足の姿勢でかけ上って行った。これが上級生に見付かろうものならそれこそ大変である。

「歯を喰いしばれ」と言うが早いか上級生の鉄拳は"がん"と顎に飛んで行くのである。

 海軍は身の容儀態度を非常に重要視する。端正なる容儀こそ、相手に対し礼をつくす基礎であるとされ、又その容儀は人格の現れであるといわれ非常にやかましかった。ことに海軍将校を養成する機関学校であってみれば、これは当然のことで、軍服を着用した場合にはズボンの折目は正しく際立っていなければならないのである。


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☞参考:江田島海軍兵学校東郷元帥遺髪室前で礼をする兵学校生徒

 
 分隊毎の容儀点検(服装検査)が済むと、課業始めのラッパが高らかに鳴り響き、学年各部毎に、授業整列に入る。学年の部長が指揮をとり当直将校に届ける。そして当直将校の「掛レ」の号令で、信号兵の吹く行進曲のラッパで生徒隊の最高学年から課業のために教室や実習室に向い、堂々と隊伍を整えて行進して行くのだ。


【課業整列】
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 これは、さながら分列式のように見るからに厳格に行われる。生徒隊の後には、学生隊、その殿(しんがり)に信号兵の一隊が行進をし、毎朝八時二十分と十二時(午後一時)との二回にわたり、この課業整列は行れた。分隊監事は勿論(もちろん)、監事長以下生徒隊、学生隊監事、学年監事その他の教官も校庭に出て生徒と行動をともにする日課である。

 こうして一日の課業は続けられ、毎年十二月一日に全国から選抜されて機関学校の門を潜(くぐ)った生徒達は三週間も過ぎた頃には、一応生徒らしく威厳を保つようになる程訓練は厳しく又激しい日々が続いた。

 だが入校して三週間目と簡単にはいえても生徒達にとっては全く、火の出る心も身も摧(くじ)けよとばかりの猛訓練の連続である。栄誉ある海軍将校の重責を荷(にな)うとすれば、この修練場に前途三ヶ年以上の訓練は生優しい (*2)決意や決心では仲々(なかなか)耐え得るものではない。体力が訓練と併行してゆくだけの耐久力を有しているか否かが問題となるのである。

 その試練とでもいうべきものが、入校した十二月一日から二十一日までの三週間を通じて行われる特別教育である。くる日もくる日も陸戦、短艇の訓練、柔道、剣道、銃剣術に海軍体操とやらされると初めの間は誰しも体の節々が痛むが、それもなれるに従って次第に痛みも取れてくる。

 この期間は日曜日は勿論(もちろん)自由外出は許されずに、港内見学や登山が行われるなぞ、全く煉獄そのものであった。だからこの期間を無事終了した時の一年生の面目は確かに輝かしいものがある。だがこの期間が過ぎたからといって安堵の胸を撫でおろしてはいられないのだ。今までにも増して多忙な日課が彼等(かれら)を待ち構えている。座学に実習に海軍将校としての教育は武道によっても激しく鍛えられた。

 厳寒には生徒達の苦手の寒稽古が行われる。愛宕山麓の暗さにひきかえ、道場内の電燈は真昼の如く輝いていた。午前五時四十分の総員起しから数分を経った剣道場である。

 二百数十畳はあろう板の間、天井は全部が防音装置が施されている。正面には神棚が設けられ右側には東郷元帥肉筆の額がかけられてある。


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☞参考:東郷元帥書 明治天皇が示された聖訓5ヶ条

 白い稽古着の生徒達が、三段の階段を登って道場に入るとまづ正面の神棚に向って不動の姿勢をとって敬礼する。週番生徒が入口に立って突入する生徒達に、

「一番! 二番! 三番!」

 と、いって順位を決める。袴を穿き、胴と垂をつけた剣士の群である。暫(しば)しの間は生徒が崩(なだ)れ (*3)をうって躍りこんでくる。まさに獲物を求める勇しさだ、七、八人の一群が一列にならび神前に礼をしたと思うとさっと白虎は右に、朱雀は左に入る。

 剣道場は三十名近くの指導教官と教員が生徒を待ち構えて、最初は教官対の切返しの稽古が行われる。さしもの広い道場も丁々発止の音で耳も聾せんばかりの声で一杯となった。

 私に打込む生徒達も真剣そのもの、上段の構えから打込む生徒を、胸元めがけ竹刀の柄で猛烈と突き返えす。さしもの生徒も姿勢が崩れて板間に転倒し、二間(にけん) (*4)ばかり転ってしまう。これの起き上りを、再び打込むが、私は、生徒の一撃をひらりと身をかわして空を打たせ生徒を前のめりにさせ脳天をポンと一撃くらわせては、又新らたな生徒の打込みに応える。

 一通りの教官対生徒の鍛練がすむと、次は生徒同志の各個試合となる。大抵の場合三本勝負で、生徒達の攻撃は全く猛く道場の床も破れんばかりに動き廻って、生徒達の攻撃精神は頗(すこぶ)る旺盛で私達教官もたじたじとなることさえあった。

 次々に個人試合が行れ、全員が終ると、こんどは輪陣(わじん)試合がやられる。これは二十数名位の生徒が輪形に並び、初めその中の一人が中央に来て剣を構える。教官の一人が審判としてその中に立ち、「始め」の号令と共に中央の生徒に向い、輪陣からの一人が出てその中央にいる生徒に立ち向うわけである。

 審判の教官は眼を見張って一本の勝負の判定をして、勝った者を残し、敗けた生徒は輪陣の外に送るのだ。その瞬間新手(しんて)の剣士は、勝った者に遠慮会釈なく打ち込んでいくのである。

 これが順に繰り返えされて全部の生徒に行渡り、ある者は最初の立合に負け、又或る者は、五六回まで残るものもいる。これは全く剣そのものの訓練でさえあるのだ。輪陣試合で一応訓練は終り、「訓練止(や)め」の号令と共に、全員整列して解散、冷水摩擦に急ぎ冷水で汗ばんだ体を拭うのであった。


火花ちらす「仕合い口」

 この外(ほか)、剣道には特別な訓練として「仕合い口」という勝負があった。これは現在でも見られぬ珍らしい試合である。生徒の中から、柔道、剣道、銃剣術の強者を選び、剣道でも長剣の得意の者と短剣の得意の者とに更にわけられる。

 私達教官が指導を行い、先(ま)づ五名づつ敵味方に分れて広い道場を対角線に陣どる。

 教官の試合「始め」の号令が下ると共に、第一の試合が火ぶたを切っておとされる。「剣道対銃剣術」という奇妙な組合せである。片や銃剣術の身構え、片や剣を正段に構えている。竹刀と木銃は互(たがい)に右に廻り出した。一瞬竹刀は電光石火の如く閃いたかと思うと、相手の胴に見事に切り込み、教官の手が上りサッとあがり (*5)勝が宣せられた。

 次は柔道対剣者の試合である。柔道の生徒は、柔道着姿に竹刀を持ち面をつけ構える。剣道は普通の装に一本の竹刀を持っている。両者は暫(しばら)く相対峙して互にきわめて慎重に相手をうかがっていたが、一閃、柔道の生徒は相手の剣を払ったかと思うが早いか、その剣を捨てて猛然と組みついてゆくと同時に、奇麗な大腰を食わせられて勝利を逸してしまった。

 剣と鎗(やり)を持った生徒同志の試合は全く複雑である。この両者の場合には、相手の何処(どこ)でもよいから、ともかく切るか突くかしなければ勝は得られない。猛然と鎗で切りかけても短い竹刀で軽くはねのけられて終(しま)う、その都度切迫した空気が道場内に漲(みなぎ)り、全く手に汗を握る試合であった。

 機関学校にはこの学校独特の「軍刀術」が生徒達に教えられていた。これは、実際に白兵戦 (*6)などに遭遇した場合敵を切りたおす為のもので、力学的にも生理学的にもその原理に合うように作られており、剣道の新しい面への一歩前進であると云(い)われたものであった。

 剣道で着用する下衣(したぎ)に袴をつけ腰に日本刀を差した生徒達は、二十名位が、道場の中央で充分な間をおいて居並ぶ中を、教官は彼等の真正面に立ち、気合を見計って、

「気をツケ!」

 の号令が口を切った。教官の声は連日の猛訓に依って声がかれているのだ。再び教官からでる

「抜刀用意!」

 の号令に、生徒達は頭の中に敵を想像しながら、上体を下げて前に及び腰になる。この時既に、刀の柄にそえてある右手によって鯉口(こいぐち)は切られている (*7)

「右一歩前、抜刀」

「左一歩前、上段!」

 合(あい)つぐ凄まじい号令と共に生徒達の持つ白刃が林立して、異様な光景が展開し始める。

 眼は前方に居るかの如き敵をグッと睨みつけ、刀身を高く頭上にあげて、ぐっと身体の背後に垂れる。状態をそり身にしたその姿から、

「正面を斬れ」

 との号令で「エイッ」とばかり掛声諸共、大きく宙に円を描いて振りおろされた。ヒュッと空気を裂いた刀身の先が下ると同時に、鐺(こじり (*8))は地面と平行になる。「血振上(ちぶりあげ)!」で提げ刀で血のしたたるのを待ちながらも、その眼は常に前方の敵を見つめて動かない。

「納め、刀!」

 で、人差し指で納刀の準備から、最後の刀の号令で刀はすらりと鞘(さや)におさまる迄、息をつかせぬ緊迫した空気が道場の中に漲って、すざましさを感ぜずにはいられない。

「後敵袈裟斬(けさぎり)……右敵胴斬(どうぎり)……左敵刺突………」

 との号令もあり、全く刀と人体とが一つになっての素晴らしい訓練である。

 然(しか)も一度戦場に出て、軍刀を腰にすれば将校である限り、抜刀術はいや応なしに利用されなければならなくなってくる。

 人殺しの訓練と一口に云ってしまえばそれまでであるが……


猛訓練終りて

 一日の猛訓練が終っての就寝ラッパは、訓練でヘトヘトに疲れた生徒達にとっては天の恵みの音に聞えるかも知れない。

 私は当直将校として巡検のため生徒館を一巡しなければならなかった。廊下には週番生徒と週番下士官が、当直将校の私を待っていた。生徒達の寝室は全く静かに、物音一つ聞えなかった。

 ベットに寝ながらも不動の姿勢をとっているような生徒達に、私は巡検しながらも痛々しさを感ずることもある。

 寝台の枕もとには明日への寒稽古の用意の具足がきちんと用意されている。一様な毛布で同じ様に静かに臥(ふせ)っている、この無数の青年達を見ると、聖(とうと)い顔の如く感じられてならなかった。


立派な士官になれ

 温習室は昼と変った静かさである。逆さにされた椅子は卓子(たくし) (*9)の上に置かれて、机の上の本や書見台は全部棚にしまわれ、きちんと一分の隙もなく整頓されていた。

 図書閲覧室、食堂、洗面場、浴室を一巡して監事部に帰った時は早、二十時三十分近くなっていた。

「一日は短いな……」

 と、それでも思うぐらいであった。

 娑婆(しゃば)を捨て、肉親に別れて一意専心、尽忠報国の一念に燃えた生徒達の心構えは全くその寝顔にみられるといっても過言ではない。

「安らかに寝てくれ」

「早く立派な士官になってくれ」

 純潔な紅い顔と唇から流れる寝息の姿……僅かな期間で軍人らしくなった生徒達の間を通ってきて、ほっとした私は巡検終りを、告げさせるのであった。(終)


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☞海軍機関学校の卒業式

  • 最終更新:2017-08-02 15:36:55

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