【江田島海軍兵学校・案内篇】烈々の気魄に満ちた「江田島」



一、烈々の気魄に満ちた「江田島」

 日本三景で有名な安芸の宮島の東方約八浬(カイリ) (*1)は、呉軍港から船で渡れば約三十分のところ、白砂青松の絶景に囲まれた一小島、それが江田島である。島には標高数千尺の峻峰古鷹山があるが、その山の麓青々とした波も静かな江田内に臨んで、海軍兵学校の校舎は建てられている。

 ひと度兵学校の門を潜(くぐ)り、菊花の御紋章が燦として輝く生徒館を仰ぎ見る時、誰が帝国海軍の歩み来った偉大な姿に、無限の感激を覚えない者があらうか。

 遠くは日清日露の戦役から、近くは大東亜戦争に至るまでの帝国海軍の赫々(かっかく) (*2)たる武勲は、この学校に基礎を培ったのである。かつては旅順閉塞隊に軍神と称へられた広瀬中佐も、支那大陸に海鷲の親と謳はれた南郷少佐も、あるひは真珠湾頭に護国の花と散って世界を震駭(しんがい) (*3)させた若い軍神たちも、そして現在の海軍兵科将校のすべては、この古鷹の松嶺の下、江田内の波濤を耳にしながら、修養研鑽を積んだのである。


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☞広瀬中佐銅像。東京神田須田町大通り。中佐の足下に杉野兵曹長が腰掛けている


 先輩の数々の武勲を物語る遺品に、日夕物云(い)はぬ教訓と薫陶を受けながら、これら先輩の起居した同じ温習室に、寝室に、教室に、日夜を過し、勉学修養することが、いかに後進の生徒たちを感奮興起させるか、敢て記すまでもあるまい。

 およそ世界中のどこの学校にも、その比を見ないやうな烈々たる気魄が、江田島に満ちてゐるのも決して偶然ではないのである。


二、すぐれた編制

 兵学校の教育は、訓育と学術教育とが不離一体をなしてゐて、清浄な環境と卓越した伝統の中に、この二つが厳正に行はれている。

 生徒が新しく入校すると第何期生───例へば昭和十九年の入校者ならば第七十五期生徒──として、所謂(いわゆる)級友となる。この「旧友」の団結は、海軍士官のまことに麗しい伝統であって、第何期といふ名称は、卒業すればそのまゝ第何期候補生となり、昇進して佐官 (*4)となり将官 (*5)となっても変らず、終生絶ち切ることのできない深い因縁で結ばれるばかりでなく、その強い団結は家族同士にまで及ぶ。

 各期にはそれぞれ期指導官があり、その期全体の横の教育に当るが、これと同時に、生徒はまた各分隊に配属される。そしてこの分隊は各学年生徒を含み、武官教官一名がこれを統率し、あらゆる責任を負って指導に当る。この教官を分隊監事と呼ぶが、分隊監事は殆(ほとん)ど生々しい実戦を経た歴戦の勇士である。

 分隊監事が父であれば上級生徒は兄、そして下級生徒は弟といったやうな、家族的な美しいつながりによって、分隊は結合されてゐるが、各分隊では最上級生徒中、人格学術共に優秀な者が選ばれて伍長、伍長補に任命され、すべての隊務を処理し、分隊監事の指導の下に、専(もっぱ)ら分隊員の指導誘掖(ゆうえき) (*6)に当ってゐる。

 学年混合の分隊制度は、実に江田島生活の基本をなすもので、訓育の単位である。この分隊が数個集って一つの部を編成し、部が数個で生徒隊となってゐる。そして生徒隊には別に週番生徒なるものが置かれてあって、最上級生徒の中から毎週輪番で数名が指名され、生徒隊全般の隊務を処理する。これはちゃうど軍艦の甲板士官や副直将校のやうな勤務をするもので、生徒隊の軍紀風紀を維持し、士気を振作(しんさく) (*7)し、校風の発揚に任ずるものである。そして週番生徒と各分隊伍長とは、互ひに縦横の連絡を密接にして、自律的の訓練を積ませるやうに始動されてゐる。

 この縦と横との編制教育法は海軍独特のものであって、これこそ一絲(糸)紊(みだ)れぬ帝国海軍統制の一要素をなしてゐるものである。


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☞相撲。準備運動で四股をふんでいる


 また学術教育は、学年を必要な教務班に分け、その教務班を一単位として実施されてゐる。一箇班の員数は、各学年共約五十名であって、教育実施上更に小さく分けることがある。各学年班毎にはそれぞれ班長を選任し、班務の処理に当らせてゐる。

 生徒隊の編成は以上のやうであるが、訓育の徹底を期し、実施上の統制に遺憾のないやうに、次のやうな役員が置かれてある。

生徒隊監事 監事長を補佐して直接訓育の任に当る
部監事 生徒隊監事に属し部の訓育に当る
分隊監事 部監事に直属し、分隊員の人事その他万般の世話をする
期指導官 担任期生徒の教育全般に注意し、その統一向上を計る


三、日課と生活

 兵学校の学術教育は、将来海軍兵科将校たるの基礎を作ると共に、中正円満な教養の基礎を確立することが眼目であって、実施上これを軍事学と普通学とに区分し、低学年の間は普通学が多く、学年が進むに従って軍事学術方面が多くなってゐる。

 軍事学としては砲術、水雷、運用、航海、通信、航空、機関等を修得し、実習として魚雷発射や、対空射撃の訓練や、練習艦の航海または飛行機の操縦等を行ひ、普通学としては、精神科学、歴史、地理、国語、漢文、外国語、数学(代数、微積分、平面及び球面三角法、平面及び立体幾何、解析幾何)理化学(物理学、化学、力学)等である。

 本校は軍人養成の学校であるから、軍事学が大部分であって、普通学方面は殆ど見るに足るまいと考へてゐる人が、教育専門家の中にさへ往々あるやうであるが、実際は将来統率者となり、近代科学の粋を集めた海軍の諸兵器を扱ふ者を養成するのであるから、相当程度の高い教育を必要とする。即ち文科方面の諸学によって、崇高にして潤ひのある精神教養を高め、或ひは理科方面の諸学によって、日進月歩の科学的知識を修得する。

 修業年限は三年であるが、それを三学年に区分してある。

 第一学年(最初六箇月)は、普通学方面では主として既習知識の整頓をやる。それは本校は就業年限にくらべて、学習事項が頗(すこぶ)る広汎で、中学校の既習課程を十分消化してゐなければ、到底これを修めて行くことはできない。それで入校試験は特に慎重に行ってゐるが、その上にもかうした方法をとってゐるのである。第二学年、第三学年は兵学校教育の本体であって、高等普通学及び兵科将校として必要な軍事学の教育に充てゝゐる。

 日課は季節によって左の六期に分けられる。

夏季前期 四月一日より六月三十一日まで (*8)
酷  暑 七月一日より九月上旬まで
夏季後期 九月上旬より九月三十日まで
冬季前期 九月上旬より一月上旬まで (*9)
厳  冬 一月上旬より一月下旬まで
冬季後期 一月下旬より三月三十一日まで

 この日課の状況を順序を追って略述してみると、毎朝五時三十分(冬季は六時)に床を離れ、全員体操または剣道、柔道、銃剣術をやり。体操が終れば当番は室内掃除に、他の有志者は八方園神社参拝、皇居遥拝をなし、教育参考館で修養に努める。夏季には約半時間の余裕を利用して定時自習を行ふことになってゐる。


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☞八方園神社。小さな丘の上にある神社に参拝して生徒たちはこの丘から故郷をしのんだ


 朝食は午前七時で、八時から十四時四十五分までの間に学術授業を受け、後約一時間諸訓練を行ふ。夕食は十七時三十分で、十八時三十分から二十一時(冬季は二十一時半)まで定時自習をやり、二十一時半(冬季は二十二時)に就寝することになってゐる。

 日課中の特殊な事項について、次に少し説明することにしよう。

 定時点検──毎朝授業の始まる前、約五分間生徒の態度・容儀・姿勢等を検査したり、または分隊監事の訓話などを行ふもので、毎週月曜日には監事長臨席の下に行ふ。

 精神教育──毎週月曜日の夜間に、分隊監事、部監事または期指導官が、担任分隊または期生徒に対して訓示訓話等を行ふ。

 自習──毎日朝食後(夏季のみ)及び夕食後定時、各分隊毎に自習室に於て行ふ。

 日曜の朝食前には、各自で勅諭 (*10)奉読をしたり、修養書を読んだりして、専ら精神の修養に資してゐる。

 土曜日には午後棒倒し、総短艇橈漕(どうそう)教練等が行はれ、日曜には大掃除後十時三十分から夕食まで外出が許される。時には土曜から日曜にかけて、近海、島嶼に短艇巡航、キャンピング等を行ひ休養の傍ら心身の鍛練に努める。

 祝祭日、記念日、卒業式等には、午前八時練兵場に立てられてある高松宮殿下の御下賜檣(しょう) (*11)に、特別軍艦旗を掲揚し、日没時にこれを降下することになってゐる。軍艦旗の掲揚降下は週番生徒の号令によって行はれ、生徒によって編成される衛兵の礼式と共に、総員これに向って敬礼を行ふのである。


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☞遠洋航海における軍艦旗掲揚。こちらも毎朝八時に行われる。


 生徒の慰安、娯楽場所としては、構内に養浩館があり、校外には生徒倶楽部がある。これは村の主だった人々が生徒のために奉仕的に部屋を提供してくれてゐるもので、生徒は山登りや島廻りの疲れを青畳の上で癒すこともできる。倶楽部の人に対しては老若の区別なく「オバサン」と呼ぶのも、江田島の慎しいほゝゑましい伝統的特色である。「オバサン」たちは全く例外なしに親切で、村の人たちは心から生徒を尊敬してゐる。


四、訓育──躾け教育

 訓育は兵学校で最も力を入れてゐるところで、実施の便宜上これを精神教育、訓練、勤務及び体育の四つに分けてゐる。

 精神教育は特に軍人精神の発揮を目標とし、勤務は日常生活を指導して軍人たるの特性を養ひ、軍隊としての修錬を積ませるものであり、訓練は戦闘の要求に適する如く各種の作業に熟練させようとするものであり、体育は体力気力の養成を目的としてゐる。

 精神教育の源泉は軍人に賜りたる勅諭にある。故に職員生徒共に常に聖旨を奉戴して、聖明(せいめい) (*12) に対(こた)へ奉らんことに努めてゐる。

 日常生活の指導は質実剛健、清浄潔白、端正厳粛を旨とし、まづ早朝起床の号音によって迅速に床を離れて我執を去り、洗面は洗心と心得、食事には恭敬を念とし、服装容儀は清潔にして齋整(せいせい) (*13) 、態度動作は沈着、確実、活発にして気品高く、敬礼は敬愛の念より発して端正厳粛に、言語文章は簡潔正確にして明快荘重を尊び、諸事整然として規矩 (*14) に合し、しかも機械的に流れないやうに期してゐる。これが世人によく云はれる兵学校の「躾け教育」で、訓育の重要な一項目となってゐる。


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☞起床動作。寝具は早くきちんと整頓しなければならない


 訓練は武道(剣道、柔道、銃剣術、水泳)体操、相撲、登山等を行ひ、特に武道を重んじ、且つその鍛錬過程を術力に求めずして主として気力に求めてゐる。

 兵学校には「道場十訓」といふものがある。

 一、武技を錬(ね)るとともに気力体力の鍛錬に努むべし

 二、礼節を重んじ規律を守るべし

 三、試合中は真剣対抗と心得、寸時も油断あるべからず

 四、常に気力を充実し、敵の肝を奪ふの気勢あるべし

 五、常に攻勢をとり守勢に陥るべからず

 六、機を見ること敏にして常に機先を制すべし

 七、攻撃は勇猛果敢にして躊躇逡巡すべからず

 八、敵の攻撃に動ぜざる胆力と屈せざる忍耐沈毅(ちんき) (*15)の気象 (*16)を養ふべし

 九、態度、姿勢に注意し、高潔なる気品の養成に努むべし

 十、武技の練達及び心的鍛錬は、実習の裡(うち)自得(じとく) (*17)により達成せらる。専念工夫を要す

「道場十訓」こそは、そのまゝ海軍の見敵必殺の攻撃精神である。



五、江田島精神の錬成

『棒倒し』は、江田島の名と共に天下に有名なものである。これは全生徒が奇数分隊と偶数分隊とに分れてやる対抗競技で、練兵場の真中に五六十米(メートル)隔てゝ両軍が対陣し、赤旗と白旗とをそれぞれ頭につけた長さ約二米、径約十糎(センチ)の丸太棒を両軍の真中に据ゑつける。両軍は手兵数百名づゝを互ひに攻撃軍と防禦軍とに分け、攻撃軍を敵陣に突入させて敵の棒を倒すと共に、防禦軍で敵の攻撃を撃退して味方の棒を守る。

 競技の方法は簡単であるが、その両軍の猛闘ぶりたるや、全く死物狂ひの有様で、殴る、蹴る、突く、投げる、文字通りの肉弾相搏(う)つ光景に、新入生は一度で肝をつぶしてしまふ。

 短艇橈漕競技は短距離競技及び遠漕の二種類に分れ、遠漕ではコースは江田島湾内から宮島までゝその距離は八浬(カイリ)に達する。ボートは十二艇立のカッターと称するもので、普通一般のレース・ボートのやうな軽舟ではない。短距離競技は湾内千八百米コース(往復)のもので、一般ボートレースと大差はないが、両方共分隊競技として優勝旗の争奪を行ふので、いづれも火の出るやうな猛烈極まるものである。

 なほ時々不意打的に短距離競技を行ふことがある。これは総短艇橈漕教練と称して、全分隊が一斉に発動するやり方で、発音の号音によりダビット(ボートを釣り揚げて置く装置)からボートを下し機を逸せず短艇員は乗り組み、予定のコースを力漕し、再び自分のダビット下に到着の上、出発前の状態にボートを釣り揚げるまでが競争である。時には帆走を交へて行ふことがある。


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 遠距離遊泳は、酷暑の季節に生徒総員の訓練として、それぞれ技術に応じ、六浬乃至十浬の遠泳を行ふのである。海軍ではプール内で行はれるスピード本意の短コース競泳のみで事足るものとせず、むしろ長時間水中に遊泳することが要望されるので、この種の競泳が行はれるのである。

 そのほかにも毎年一週間、四国その他に於て幕営して、簡素な生活環境裡に、徹底的遊泳訓練を行ってゐる。


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☞幕営を終わって機動艇に曳航されて江田島へ


 彌山登山競技は、秋季に於て生徒総員が行ふもので、宮島の厳島神社から彌山の頂上まで、二十四町(ちょう) (*18)余の石の階段の坂道がコースで、やはり分隊の競技になってゐる。

 武道は前述したやうに、特に柔道、剣道、銃剣術に重点を置き、猛烈果敢な訓練を行ってゐる。従って在校中に二段、三段に昇進する者もあり、卒業時には大部分の者が有段者となる実状である。

 これらの武道、競技は、いづれも実戦的といふ点に特色をもち、真に不撓不屈(ふとうふくつ) (*19)の気魄、烈々たる闘志、旺盛な攻撃精神が、不知不識(しらずしらず)のうちに錬成されて行く。そしてこの気魄、この闘志、この攻撃精神が、やがて真珠湾頭に散る花となり、ソロモンの空に飛ぶ電火となり、レンドバ沖で決行する壮烈な体当りとなるのである。

 
六、卒業の教育過程

 海軍兵学校を卒業すれば海軍少尉候補生を命ぜられ、直ちに練習艦隊に乗組み、内地及び外国航海につき、続いて聯合艦隊各艦に配乗して、それぞれ実務の練習に従事し、一ヶ年で海軍少尉に任官する。(戦時中多少の変更あり)


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☞ハドソン河にひるがえる軍艦旗


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☞赤道祭。赤道を通過する時は神様に報告して無事を祈る


 以後は海上勤務または航空隊勤務を本領とし、時には陸上に勤務することもあが、その間、官階学識経験等に応じて、それぞれ各種の教育を受け、実務と研究とを適当に按配して、技能識見の向上を図り、軍隊実力の完備を期してゐる。

 任官後受け得る主な教程は、海軍中尉の初期に普通科学生として約一ヶ年海軍砲術、水雷、通信、航海学校に入り、海軍中尉の末期または大尉の初期に砲術、水雷、通信、航海、運用等の各高等科学生となり、海軍大尉または少佐時代に若干名が選抜されて、海軍大学甲種学生に進む。

 飛行将校となる者は、海軍少尉または中尉時代に航空隊の飛行学生となり、また大尉の初期に同隊の高等科学生となる。

 潜水艦勤務の者にも、乙種学生及び甲種学生教程があり、潜水学校に入る。

 その他海軍中尉または大尉時代に、専攻科学生或ひは特修科学生教程があり、海軍大学校選科学生として帝国大学或ひは外国語学校(昭和十九年春、外事専門学校と改称)に入って修学する者もある。(了)


【写真出典】
・1983(昭和58)年 講談社 「写真図説 帝国連合艦隊-日本海軍100年史-」

  • 最終更新:2017-08-02 15:58:11

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