【江田島海軍兵学校】日本海軍の礎 江田島を懐(おも)う

出典:1957(昭和32)年 日本文芸社 「現代読本 われら学徒かく戦えり」第二巻第六号所収
     海軍大佐 古橋才次郎 「日本海軍の礎 江田島を懐(おも)う」


江田島といえば兵学校と、世界に冠たる海軍の逸才を数多く生み出したところである。その昔を偲び筆者の能裡には当時の"棒倒し"がまざまざと浮んでくる。

ふたたび日章旗翻える

 戦後米軍に占拠されていた、江田島の旧海軍兵学校の施設が、昨年我が方に返還されて海上自衛隊の術科学校がその後に入った。あの風光明媚な古鷹山下に再び日章旗が掲げられたことは、我々卒業生にとって、また海国日本の再建という考え方からしても、まことに喜びに堪(た)えないところである。


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☞江田島海軍兵学校全景


 戦後の反動として、ややもすれば戦前のことは何事も一切抹殺しようとする、軽薄過激な風潮が流れた。ことに、日本海軍の伝統に関することなどは、これに触れることすら避け、これを惜しむが如き意見は、政界はもちろん、言論界の何処(どこ)にもその片鱗すら見せなかった。

 ところがこの間に、敵勝国である米国では、日本海軍の伝統を深く研究し、ことにその精神教育の面においては、相当に取入れ、もって自分のものとしているのである。このことは戦前戦後を通して、彼(か)のアナポリス海軍兵学校を視察したものが、ひとしく認めているところなのである。

 このように、旧日本海軍の良さを推奨しているのは、敵国であったアメリカの人達であり、これを軽侮して顧みようともしないのは、日本人そのものなのである。何という皮肉であろう。

 たとえ、戦に敗れたといっても、それによって考えが混乱し、物事を正しく認識出来ないようなことでは、再び団結して祖国の発展を企図することは、容易なことではないであろう。

 終戦後十二年を経過し、世論は既に「戦後」ではないといっている。しからば国家の前途に対して、物事を正しく見るということからまず我々は入らなければならない。

 そして、占領軍が日本の弱体化政策としてとった総(すべ)ての事象を、独立国家本来のあり方に、まず戻さなければならないと思うのである。彼等(かれら)から与えられた制度を第一に改正して、日本の防衛に必要な政策を、堅実に実施させなければならない。

 共産圏の諸国が、盛んに平和をとなえながら、その陰では大軍備を擁し、対ハンガリーのように、自分の利益のためには理不尽なく兵を進めていることは何を語るか。平和とは力のバランス点にのみ在るものであることを、我々は知らなければならない。

 自己防衛の力も持たず、ただ平和を唱えこれを念願したところで、そこには平和の一時も存在しないことは明(あきら)かなことであろう。

 世の中に生存競争がある間は、個人の争もまた国家間の紛争も、これを回避することは出来ない。またこれを解決するに、言論のみによっては達し得られないことも事実であろう。

 このような意味から、江田島の昔を回顧し、その良い伝統を読者に伝え、次の時代の人達が再びそれを引続(つ)いでいって頂くように願いたいのである。


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☞江田島海軍兵学校門標


骨身にしみる躾(しつけ)

「一、至誠に悖(もと)るなかりしか」

 後方から伍長の凛然たる声がひびくと、生徒達は一斉に粛然と姿勢正し、目をとじて、じっとその日の反省に沈んで行く。

「一、言行に恥ずるなかりしか」

 やるぞっと、強いものが胸の底からはね上る。

「一、努力に憾(うら)みなりしか」

「一、不精に亘(わた)るなかりしか」

 息づまるような一ときである。秋霜烈日、厳として犯すべからざる自律のきびしさである。修道院も、禅房も、この場の森厳(しんげん)さには遥かに及ばないのだ。

「休め」

 始めて自省の瞑想から解けた生徒達の顔は、いずれも澄(すみ)きって、どこか悟道の人の聖(とうと)さを思わせるのである。

 これは一日の日課を終えた夜の自習時間の最後の場面である。これを五省と言って、毎日寝室に行く前に、その日のことを反省し、修養に努め、明日への奮闘を誓うのである。生徒の生活は分隊をもって単位とし、それが一つの家族となっている。


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☞自習時間


 分隊は各学年の生徒が十数名ずつ集って編成され、この最上級生徒の中から、人格学術ともに優良なる者を選んで、伍長および伍長補とし、それが隊務を処理している。

 各分隊には大尉もしくは少佐の教官が一人ずつ附き、分隊監事として直接その指導監督に当るが、概ね上級生が協力して下級生の面倒をみている。

 分隊監事には「おやじ」の尊称が奉られ、上級生は兄貴、下級生は弟として、厳格の中にも和気藹々(わきあいあい)として勉学と訓育にいそしむやり方は、兵学校生活の基本であり、兵学校の誇るべき伝統なのである。

 入校当時はかなり緊張していても、知らず知らずに規則違反をやってしまうことがある。

 自習時間の中休みに、伍長からちょっと練兵場のマストの下に行っておれと言われる。

「はっ」

 私は急いで生徒館から駈けだして行った。

 二三分すると、後から伍長が靴音高くやって来た。あたりは月が出始めたがぼうっと薄暗く、すでに虫も鳴いていた。

 伍長はきっとして私の前に立っている。

「貴様は今日通ってはならない講堂の前の芝生を横切ったな」


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☞扶桑講堂。戦艦扶桑の模型で船の構造を学ぶ


 伍長のふるえを帯びた声が凛と響き渡った。

「はい、……」

 私は始めて規則違反をやったことを思い出し、しまったと思って観念した。

「軍紀を破ったな」

「はい」

 深く頭(こうべ)を垂れた。

 今にも伍長が持っている鞭(むち)が鳴るかと思って待った。とその瞬間。鞭が宙を切ったとみる間に、伍長はわれとわれが腕を砕けよとばかり叩いたのである。

「あっ」

 私は驚いて顔をあげた。

 ピシーリ、ピシーリ、伍長は自らの腕を烈しく叩きつづける。

「おれが悪いのだ、この俺のしつけが足らなかったのだ」

 伍長は泣いていた。私はどうしてよいか解らず

「ゆ、ゆるして下さい」

 私はそう言うなり、電流に触れたように跳(とび)さがって、思わず大地に両手をついた。

「二度とやるな」

「はい」

「起きろ、立て」

 伍長の腕が私の腕をとった。

「お前も立派な生徒になれ、俺も立派な自己を完成したい、お互(たがい)に頑張ろう」

 伍長は私の腕を引き、

「さあ帰ろう」

 と言って歩き出した。後につづきながら私の胸はつぶれそうだった。


剛毅(ごうき)不屈な棒倒し精神

 兵学校の伝統と言えば、何といっても棒倒しのことがすぐ頭に浮んでくる。


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☞棒倒し


 土曜日の午後大掃除が終ると、総員の棒倒し競技が行われる。全生徒が奇数分隊と偶数分隊に分れてやる対抗競技で、競技の方法はごく簡単である。唯(ただ)敵方の棒を早く倒した方が勝というだけなのだが、その間、なぐる、蹴る、突く、投げる、何でもおかまいなしという決死の猛闘であって、全く竜虎の争闘を髣髴(ほうふつ)せしめるものがあるのである。

 一方が、先週は負けたからこんどはどうしても勝たねばならんと雪辱を期せば、一方はまた、なあに返り討(うち)だと力むと言った具合で両軍とも金曜日の晩あたりになると、上級生はこの作戦に相当苦心を重ねる。

「別科はじめ五分前」

の号令で、生徒達は飛鳥の様に各室から飛び出して行く。軽い運動服に素面素足の勇ましいいでたちで、両軍は必勝の念に燃え、練兵場の真中に約百米(メートル)をへだてて対陣する。そして赤旗と白旗を頭上につけた長さ約二米の丸太棒が、一本ずつ両軍の真中に据えつけられる。

 両軍は手兵をどう使ってもさしつかえなく、それを攻撃軍と防禦(ぼうぎょ)軍の二手に分けるのだが、その比率をどうするかは、なかなか研究を要するところなのである。

「戦闘開始」の号令とともに、攻撃軍はお互に連絡を保持しながら、喚声を挙げて遮二無二突撃を敢行するが、敵の守りが堅いと、なかなか棒の所へ到達することさえ容易でなく、皆個々に叩き伏せられて仕舞う。そこで敵の虚点を見つけたら、攻撃力をそこに集中し、倒れたものを踏み越え踏み越え突進するのである。

 防禦はどんな風にやるかと言うと、防禦軍として与えられた軍勢を、専守防禦に当るものと、遊撃防禦に当るものの二手に分ける。専守防禦と言うとえらそうだが、一口に言えば之(これ)に棒持ちである。

 まず棒の根本(ねもと)に四人ばかりどっかとあぐらを組んで、棒の根本を固定し、その上にかぶさる様にまた四人ばかりが、互に四方から棒を肩で支え、手を組合って棒を固める。この固めが出来ると、その周囲に、幾重となくみな中向きに輪をつくり、互にしっかりと腕を組合ってがっちりとかためる。そして一番外輪の一列は外向きに腕を組合っていて、これが飛込んでくる敵の胸倉(むなぐら)を蹴飛ばす役を努めるのである。

 このかためが出来上ると、遊撃防禦に当る者の一部のものが、この人垣の上にみな外向きに乗り、足を下の人と人との間にさしこみ、腰は誰かの肩に乗っている形となる。残りの遊撃隊は、円陣の周囲に自由な体で隙間なく待機する。

 これに当る者は、みな柔道部の猛者で、敵の攻撃部隊を待ち受け、これを投げ飛ばし叩き伏せて、味方の陣に近づけない様にするのである。

 それでも勇猛果敢な敵は、この遊撃隊をはね飛ばして飛込んでくる。そして外輪の一列とわたり合い、蹴飛ばされても蹴飛ばされてもまた起上って、執拗に味方の陣の上に飛上って来る。これを円陣の上に乗って待機している味方の遊撃が、拳固(げんこ)をまるめて敵を叩き落す。だがあべこべに上の遊撃も次第に叩き落され、敵は漸次味方円陣の上を踏み越えて棒に迫って来るのである。

 私は在学中敵の棒にしがみつくことが出来たのは、後にも先にも唯の一回丈(だ)けとであった。

 このように必死の乱闘が続けられるうちに、さしもの堅陣も次第に崩れて、審判官が勝負あったと見ると、

「待て」

 の喇叭(らっぱ)を鳴らす。

 この「待て」の喇叭は「そのまま待て」の厳命である。どんな形になっていても、この喇叭が鳴ったならば、ぴたっとそのままの姿勢で絶対に動いてはいけない。敵を蹴りかけていた者は片足を上げたまま、敵をなぐりつけていた者は、その手を振上げたままで居なければならぬ。

 みなが一斉に静止したところで、

「奇数分隊の勝」

 と勝負が宣告されるのである。

 戦がすんで解散になると、びりびりに裂けた運動服の肩を悠然とゆすぶって、みな風呂に行くのだが、頭に瘤(こぶ)をつくったり、顔面を紫色にふくらましている様な勇士は先に這(は)入って、風呂場の真中で泰然と腕を組んで構えているが、何も誇るべき戦績の無い者は、隅の方でごそごそと二三杯浴びて出ざるを得ない恰好になる。

 烈しい乱闘もその時だけで、戦が終れば釈然として、戦の後を楽しく語り合うばかりか、

「貴様には見事に叩きつけられたよ」

 と投げ飛ばされた相手の腕前に互に賞揚するのである。

 まったく棒倒しこそは、剛毅不屈、協同一致、犠牲の精神など、あらゆる精神的鍛練をこの中から汲(くみ)取り、自己完成への道程とするのである。江田島精神はこの棒倒しにあり、と言っても過言ではなかろう。


峻峰(しゅんほう)古鷹山に学びて

 現在の防衛大学は四年制だし、それに高校を卒業して行くので、普通学も昔より進んでいるだろうが、兵学校時代は、中学から入って三カ年だったので、勉学の方は随分急ピッチで忙(いそ)がしかった。

 数学は微積分から球面三角天体観測の計算までやらねばならぬし、力学は流体力学から熱力学までの知識を収得し、語学軍制兵学と、実際頭に熱を持つほど詰込まれたものである。


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☞天体観測。わが艦の位置を知る


 授業は各学年毎に三コ分隊を一学級とし、之(これ)を第何学年第何部と言い、その部毎に一つ宛講堂を持ってやっている。

 午前の授業が終って、昼食のため生徒館に帰って来ると、いきなり

「濡れもの乾せ」

 などと言う号令が掛ることがある。これは午前中雨だったのが急に霽(は)れて来た様な場合だ。

 この号令を聞くが早いか、生徒は我先にと自分の分隊の雨衣(あまい)掛けの所へ飛んで行く。そして誰れのということなしに、担げるだけ担いで物干場へ走る。物干場も各分隊の場所がきまっているので、おくれて人に先を越されたものは、其処(そこ)へ飛んで行って、一つでも自分の手で乾(ほ)さねばならぬ。ぼやぼやしていると他の人に干されてしまう。自分の物まで人にやられてしまうほど具合の悪いものはない。

 午後の授業が終ってから、夕食の時間をはさんで夜の自習時間迄は、生徒達にとっては自由な時間である。

 この間に靴を磨くもの、床屋へ行くもの、洗濯をするもの、図書室へ行って新聞や雑誌を読むもの、風呂に這入るもの、散歩するものと、皆朗らかに娯(たの)しい一時をすごす。

 しかし練兵場を散歩するにしても、海岸線に平行に、二人以上で歩く時は必ず足を合わせて歩くこと、と決っているが、慣れる迄は少し面倒なようだが、見るからに整然として実に気持がよい。

 庭のは誰もさわる者が無いので、枝の先が芝生に迄伸びて咲いている。こんなところは他の公園などに行っても見られない光景だし、入ってはならない所には決して足を踏み入れないので、芝生の角々もきちんとしていて、まことに聖園(せいえん)といった感じである。


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☞江田島海軍兵学校の桜


 何処(どこ)から何処まで、清潔と整頓が行き届いているので、自習室に這入って各自の机を開いて見ても、寝室の衣料箱を開けて見ても、皆同じようにきちんと整頓されて、塵一つ落ちていない。

 日曜祭日には外出を許されるが、皆古鷹山へ登ったり、島めぐりをしたりして帰る。

「広瀬中佐が在学中古鷹山へ六十回登ったそうだから、俺はそれ以上登る」

と言って毎日曜必ず登っている者もいる。古鷹山に登ると、内海の島々が眼下に展(ひら)け、有名な安芸の宮島も、手に取る様に見えるのである。登りは苦しいが、上って (*1)見ると流石(さすが)に浩然 (*2)の気が胸に充満して来るのを覚える。この頂上から、あるだけの声を張り上げて号令をかけて見ると、身は既に艦長になったような気がするのであった。

 この様にして江田島三年の生活は、生徒達をして、身心ともに立派な将校の卵たらしめ嘗(かつ)ての百姓の二男坊も、或(あるい)は学習院出の公達も、全然区別のつかぬ立派な少尉候補生となって遠洋航海の途にのぼって行くのである。(終り)


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☞いよいよ練習艦隊へ


【写真出典】
・1983(昭和58)年 講談社 「写真図説 帝国連合艦隊-日本海軍100年史-」

  • 最終更新:2017-08-02 11:07:05

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