【江田島海軍兵学校】 拳骨の嵐

出典:1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第四号所収
     元海軍中尉 中山平臣 「江田島海軍兵学校 拳骨の嵐」


日本の誇った海軍の殿堂、世界の三大兵学校と謳われた江田島に乱れとぶ鉄拳の嵐。往時を懐古して感慨にむせぶ筆者は元海軍中尉。

 敗戦後十年、アメリカのアナポリス、イギリスのダートマスと共に三大兵学校と謳われた日本が世界に誇った江田島も、いまは有為転変の言葉をそのまま、世人の記憶から、その姿を没してしまった。しかし、かつてこの兵学校に学んだ私たちにとって、江田島の名は限りなくなつかしい。紅顔の青年時代と共に、そこに秘められている数知れぬ思い出をたどりつつ、江田島の生活を語ってみたい。


殿下も拳骨ふるう

 当時、もし江田島を訪れる者にして、その校庭にたとえ一つの紙屑(かみくず)でも発見した者があったとすれば、その一枚に十円札を賭けてもよいと豪語されたものである。そのくらい徹底した清掃整頓ぶりで、塵(ちり)ひとつ止(とど)めぬ白砂と青松のあいだにくっきり屹(そそ)り立つ白亜の生徒館は、江田島精神を象徴するかの如くであった。

 波乱にとんだ江田島の一日は、まず朝の起床ラッパではじまることは、他の海軍々隊生活の場合と同じであるが、冬は六時半、他の季節では六時の"総員起し"のラッパについては、めんどうな規定があった。つまりラッパの鳴りはじめではまだ起きてはならない。鳴り終りの最後の音、これをラストサンド (*1) と呼ぶのであった。このラストサンドの鳴りはじめで、はじめて床(とこ)を蹴っていっせいに起き出すのである。

 これに関連して、兵学校特有の起床動作というものがあるのであるが、起床動作と特に固有名詞的な呼称を冠してあるのを見ても判(わか)るように、これこそ兵学校名物の一つだった。

 起床動作というのは、ラストサンドで一斉にとび起き、支度をして室外にとび出し整列するまでのわずか二分余りの間の動作を呼ぶのである。

 僅々二分余のその間にやりとげなければならないその動作は、じつに全身全霊の努力を投入して、なお足りぬほどのものであった。たたんだ毛布に、むろん皺(しわ)一つあってはならず、また傾いていることも許されず、室の端からみて、整頓されて毛布のはしが、定規でもあてたように一直線になっていなければパスしなかった。それを終り、間髪を容(い)れず身仕度にかかるが、靴下ひとつはくのにもマゴマゴしていると、仕度が一番ビリになって、寝室にはもう人影がなかった。その時の不安心細さは筆舌につくし難いものがあった。そればかりではない。ビリにでもなろうものなら、出口に待構えた上級生から、いきなりビンタを浴せられた。毛布の整頓が悪ければ悪いで、江田島地震と称して、たたんだ毛布はひっくり返され、はては窓から外へ投げ出されるという始末だった。上級生になり訓練がつんでくると、ひとりでに手足が動いて、この起床動作も機械的に寸秒の狂いもなく進んでゆくが、下級生にとっては、苦しい訓練の一つだったのである。

 この起床動作に関して、こんなエピソードがある。兵学校には、宮殿下がよく生徒として入学され、クラスメートとして共に生活されるのであるが、ただ寝室だけが別になっていた。したがって、ラッパの鳴る前に起きることも出来たわけで、そのせいか宮殿下は何時(いつ)も起床動作が早く、上級生になると、いち早く仕度をして分隊の前に頑張ると、おくれて駈け出してくる下級生に気合をかけ、時に拳骨をふるうこともあった。しかし、そのやり方は活発でさっぱりしていたので、下級生の中には、一度殿下になぐられてみたい、と思ったのかどうか、わざとおくれて出ていった者もあったなどと伝えられていた。

 寝室から出るとすぐに洗面して校庭にとび出す。それから定められた自分の場所に、大体徒手(としゅ)体操のできる間隔を取って並び、やがて拡声器から流れ出す次のラッパで当番の上級生(一号) (*2)を号令官とし、分隊毎に体操が行われるのであった。

 海軍体操と呼ばれるこの徒手体操は、体操としてはきわめてすぐれたものであったと思う。時と場合に応じ取捨選択ができ、しかもいくらでも高度なものに変化できた。もし、かつての海軍で行われたもので、いまもその価値のあるものは何かと問われれば、私は躊躇せずこの海軍体操をあげるだろう。


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☞燦たり菊花御紋(生徒館正面)


統制美の極致

 この朝の体操が行われている十五分くらいの間に、当番の生徒は自習室や洗面所を大急ぎで掃除する。これが終ると朝食までちょっと自由な時間があり、よく八方園神社に散歩に行ったものである。(もっとも、入校当時はその暇もなかった)八方園神社は小高い丘の上の木立の中にあって、御神体は何であったか記憶がないが、そこには全国の都市や県の方角を示した石の円(まる)い台があり、参拝の終ったあとは、めいめい故郷の方に向って挨拶(あいさつ)することになっていた。


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 そのうち、朝食の時間になる。朝食の五分前に食堂の前に整列しなければならない。海軍はなんでも五分前なのである。朝から晩まで駈足(かけあし)で暮しているような海軍では、時間が充分に活用され、むだというものがまったくなかった。

 朝食はパン半斤 (*3)と砂糖に味噌汁ときまっていた。食堂の前に待機するうち、食事ラッパがスピーカーから流れてくる。三号(一年生)を先に、二号(二年生)一号(最上級生)といった順序で食堂に入る。先に入った三号達は、食卓の傍(そば)で不動の姿勢を取っている。あとから入ってきた一号が、ゆっくり点検するようにその前を通り、

「姿勢が悪いぞッ」

 などとやった。冬など指がかじかんでよく伸びないのであるが、それを発見した一号たちは、

「なんだッ。そのざまは!」

 とばかり、指の上から平手打ちを喰わせるので、 バシン! と音がしたが、なぐられたお蔭(かげ)で血のめぐりがよくなり、指が伸びるということもあった。


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 そうこうするうち、当直の教官の、

「開ケ!」

 の号令ではじめられる。そして食事の終った者から食堂外に出てゆく。さて、それからいよいよ一日の日課がはじまるのであるが、学課は午前と午後に二時間ずつ行われた。学課のある時は、教科書をバックと称する厚い帆布製の袋に入れ、それを抱えて、やがて始まる定時点検五分前に、各分隊毎に定位置に待つ。この定時点検が終ると、今まで分隊毎に整列していたものが分れて各分隊毎に並び変ると、これが課業整列になり、生徒館に向って一号、二号、三号の順に二列横隊にならぶ。やがてラッパの音と共に講堂に向って行動を起すのであるが、非常にゼスチュアの大きなこの行進ぶりは、純白の覆いをつけた軍帽や白の服と共にハチ切れる若さと統制美の極致だったのである。


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 学課の内容は下級では数学とか物理とかの一般学課が多く、上級にすすむにつれて軍事専門の課目が増すことになっていた。そしてここでは自由な復習時間というようなものは許されず、講義の時間内にその講じられるところを全部理解消化してしまえというのが建前で、授業中は、一般学校では見られない真剣さがあふれていた。

 課業が終ると一時間ほどの訓練時間となるが、この時は体操、銃剣道、或(あるい)は海上訓練が主として行われた。ラグビーなどで熱戦を展開するのもこの時間である。また、われわれには不得手な陸戦も月に一度くらいの割合で行われたが、戦争末期は本土決戦呼号と相(あい)俟(ま)って、その回数も増え、草色の陸戦服も黒の脚絆(きゃはん)も編上靴(へんじょうか)も泥にまみれ、訓練の烈しさを物語っていたのである。


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☞陸戦射撃演習

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☞海軍陸戦隊


海軍の競技は命がけ

 やはり兵学校に於ける訓練の華は海上のそれで、その頃の娑婆(しゃば)への紹介記事には必ずカッター(ボート)を漕いでいる写真が掲げられていたものである。そして海上訓練は三号生徒は橈漕、二号は帆走、一号生徒は機動艇の練習が主であった。とくに記憶に生々しいのは、一、二号も三号もひっくるめた短艇週間の行事で、この時はオール持つ手は豆がつぶれて血が滲み、尻は尻で騎兵のそれのようにスリむけて、血のついた褌(ふんどし)を洗うのに忙しかった。また、短艇で思い出すのは総短艇と称する抜打ち訓練で、何時(いつ)どこで、いきなりこの合図のラッパが鳴るかわからない。


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☞カッター


 たとえば、食事の時に食堂の前で腹をへらして待っていると、いきなりラッパが鳴り出す。

「さあ、食事ラッパだ」

 と喜ぶのも束(つか)の間、あにはからんやそれは青天のヘキレキの総短艇のラッパで、それと気がついたとたん、全員は何もかもなげうって、岸壁の自分のカッターへむかって駆け出す。この競技のときは、予(あらかじ)め定めてあった上下級生混成のベストメンバーで漕ぐのであるが、海軍のカッターは十二人のクリュー (*4) と、艇指揮、艇長(ていちょう)を以って定員としている。これが、ラッパのラストサウンドと共に競争を開始するのである。ラッパと共に、生徒たちはいっせいに岸壁のラビット(カッターを吊したアーム状の設備)に向って走る。むろんカッターは一人や二人では動かせない。だから分隊員のクリュー外のものも懸命である。そして、一号の短艇係の命令で、艇は海上に下され、のり込んだクリューによって漕ぎ出される。そして、沖に浮んでいる艦船繋甲のブイを回って帰ってくるのである。その間、岸に残った者は帰ってくる艇の引揚げ準備に忙しい。競技とは言っても、この競技は民間のそれのように声援とてなく、さながら実戦の気分をもって粛々と進行されるのだ。そして、競争は漕ぎだけでなくカッターを吊りあげ整備を終って全員整列することによってはじめて終る、しかもカッターの吊り方整頓の仕方にも厳密な検査が行われたから、文字通り漕ぐ者も地上の者も、一体となっての必死の戦いであった。その他押しの一手しか教えない相撲とか、あるいは毎週土曜に行われる棒倒し等、往年幾多の提督や軍神を世に送り出したその揺籃(ようらん) (*5)の地として、あらゆる情況下に於て沈着果断に行動できる習性を身につけさせるべく、あらゆる訓練は集中されていたのである。

 訓練が終れば夕食までの小暇を利用して、入浴にゆく者、そうかと思うと東郷元帥の遺髪をはじめ、先輩たちの遺業を物語るにふさわしい遺品の数々をおさめた参考館を訪れて往時を追懐する者、あるいは図書館にゆく者などさまざまである。これは余談だが、参考館には英国海軍の偶像たるネルソンの遺髪が収められてあり、ちょうど東郷元帥の遺髪室へ上る階段の下の入口のところにセロファンに包んだ二三本の金髪が入っていたものである。夕食までの小暇はこうして過されるのであるが、入浴に関しては、私は消し難い一つの思い出がある。それは兵学校に入学して間もない頃のことであった。訓練を終った私は四五名のクラスメートと共にバス (*6)へ行った。

 脱衣所にはボックスがならんでいて、この中に脱いだ衣服をたたんでいれるのであるがこの衣服の整頓がまたなかなかやかましい。

 脱ぎ放しで乱雑に突込んで置きでもしようものなら、たちまち上級生に見つかって、やり直しをさせられたり、ビンタを取られたりしたものである。


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☞参考館東郷元帥遺髪室。上の動画の2分17秒あたりから


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☞ネルソン提督:Wikipedia


息の根止る階段の昇降

 ある時、私は脱衣場のボックスにユニフォームを脱ぎ、クラス・メートと一緒にまっ裸で浴場内に一歩入ったとたん、

「待てッ!」

 という大喝(だいかつ)一声で、ギクリとして立ち止った。

 他にもクラス・メートが大勢いたので、どうか呼び止められたのがわれわれでない様、心の中で念じたのだがその甲斐もなかった。

「いま入って来た三号。貴様たちだッ!」

 はっきり指名されて、われわれは慌てて不動の姿勢をとった。それにしても、何故とがめられたのだろう? 不審に思いながら、一号の言うことをきいていて、はじめて納得がいった。娑婆で銭湯に入る時は普通、手拭(てぬぐい)で前を覆って入る。ところが、兵学校ではそれが娑婆気(しゃばっけ)が脱けないという理由で、叱責の対象になるのだ。つまり、世間では極て自然であることが、ここではいけないのである。とどのつまり、裸のまま一列に並ばせられ、右向け右ッ! 前へ進めッ! の号令がかかる。やむなく一列縦隊で歩調を取り、他の者が気の毒そうに見ている中を三周四周する。フリ金を恥(はずか)しがるゆとりもなく、まったく情けない次第であった。

 兵学校では、講堂で学課を受ける時を除いては、ほとんど上級生と一緒で常住坐臥(じょうじゅざが) (*7)、厳重なカン視の下に置かれる。その間、上級が下級生にあたえる影響は非常に大きい。指導される方はもとよりそうだが、指導する方にも、重大な責任が負わされているのだった。

 私は一号になってはじめて、指導することの難しさを身に泌(し)みて感じた。すでに訓練を経た一号から見ると、新入生の存在の、なんとなく頼りなく見えたことだろう。その時になってはじめて、いままで受けてきた訓練の意味が判ったような気がしたのであった。早い話が、遠くから歩き方を見ても上級生と下級生の区別が判るくらい、教育の力というものは、恐ろしいものだった。たとえば、訓練の成果はいたる所にあらわれていた。

 夕食は午後五時(一七◎◎〔ヒトナナマルマル〕と呼ぶ。〇の中に点をうつのは、アルファベットのOと区別するため)にはじまる。そして夕食が終って六時から自習が二時間ほどつづく。この自習の始め方がちがっていた。自習五分前になると各自の机の後方に待機するのは、例の通りであるが、自習はじめのラッパが鳴ると、伍長(一号生徒で、分隊の長)の、

「付ケ!」

 の号令で全員一斉に椅子を引きよせ、腰を下して椅子に向うのだが、その時の椅子を出す、腰を下す、椅子を押して適位置に位置する、の動作が、機械人形のそれのように寸分の狂いもなく、音も立てずで、はじめて見た時は度胆(どぎも)を抜かれるくらいだった。そして、三号だけは揃わず、何度でもやり直しさせられたものである。

 自習時間も中休と云(い)うのがあって、生徒達は皆校庭へ散歩に出掛けた。この時は校庭を南北にしか歩くことが許されていなかった。夜ではあるし混雑を防ぐためであったかも知れない。理由は今もって判らないが、とに角号令練習をやるもの、詩吟をうなるもの、やかましい一刻であったが、完全な気分転換ともなった。

 自習止(や)めのラッパが鳴る五分前。一日の反省を静かに黙想して、伍長の粛然と誦(しょう)する五省(ごせい)(校訓とも云うべきもの)に寄って行れた。疑って批判することを知らぬ純真な生徒達はこの時は心から軍人としての反省をしたものであった。


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☞自習時間


 寝室は、生徒館の二、三階がこれに当てられてあった。自習室は全部一階であったから、自習が終ると二、三階の夫々(それぞれ)の寝室に駈上がる。階段の上りはここでは、すべて二段とびの駈足だ。これが少しでも元気がないと、忽(たちま)ちやり直しをさせられた。特にこの自習止め後の場合は、階段の上に待ち構えていた先に上った一号によって折角(せっかく)上った出鼻を

「待テ! 元気が無イッ! やり直し」

と来た。三階に寝室のあるものは一階からやり直しであったから、何度も何度も上ったり下りたりしたものだった。


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☞東生徒館


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☞西生徒館


国家の前途に瞑想す

 面白半分に下級生いじめにやっている時もあったが、三号達にはそれ処(どころ)ではなかったのである。はじめは何だこれ位の階段二度や三度。上り下りした処でと、思ったものであったが、そして、骨身にしみて階段のポテンシャルエネルギーの大きいことに初めて気が付いてアゴを出したものである。有難くないものの一つであった。

 就寝の前には矢張り起床動作と同じ就寝動作とあえて記さなければならぬ態(てい)の一仕事に馴れるまで、寝たり起きたりの練習が毎夜あきずに繰り返えされた。従って下級生にとっては厳冬といえども寒いと感じた事もなし、その暇もなかった。

 階段の上り下りに一汗、「就寝動作」で一汗しぼられて寝る訳(わけ)だったから、就寝ラッパが鳴って週番生徒が当直の監事と共に巡検に来る頃は、体はホカホカと暖いと云う次第だったのである。

 又時には総員集合で何とかかんとか云って殴られるのも就寝前が多かったから、頬も殴られた後は血のめぐりが盛んとなり、ポカポカ暖いと云った次第だった。但し殴られた翌朝のみそ汁が、頬の内側の切り傷にしみて、熱い痛い思いで再三ではなかったが───

 就寝はベットであった。寝室には各自のベットと衣服箱(チェスト)があり、これに軍装からアクセサリーの短剣やら、その他下着類まで納めて衣食住の衣がこのチェストに一括されていたのである。就寝後は私語は一切許されない。便所以外は何処(どこ)へ行く事も禁ぜられた。


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☞就寝前の楽しいひととき


 この外(ほか)特殊行事として、厳冬訓令だとか、原村演習、厳島にある弥山(みやま)登山、古鷹山登山、或は土曜の午後から日曜にかけて許される短艇巡航等、私の思い出はすこぶる多い。

 いまや終戦となり、軍備を放棄して十年、今私の胸中にあるものは思い出多き学校としての懐かしさだけである。

 この学校が果した功罪は知らない。とも角其処(そこ)に流れた生活原理が、生活様式が「知らしむべからず依らしむべし」として、考えることを一切与えられず、馬車馬の如く走らされ、繰り返し繰り返し、一つの信仰を叩き込んだ狂信的な教育であったことは違いなかった。

 天皇の為に、一死報国、と教えた信念は絶対のものとして批判を許さなかったかも知れないが───

 悲惨と荒廃と、屈辱に身を置いたわれわれは、論ずるまでもなく、戦争が大きな罪悪であることに疑を持つものでない、そして、それを救えるものが軍隊でもないことも知っている。砲火のひびきがなくなり、軍隊が解散したことのみで平和な世界が確立されるとは云い切れないであろう。われわれが嘗(か)つて歩んだ道の善悪を今ここで批判するいとまはないが、すくなくともこんにち、同じ年齢の若人達が、十数年前のわれわれの故国に賭けた烈々の気魄、憂国の至情を果して安価なミリタリズムだとして、語り捨てられるものであろうか。

 とも角われわれは精一杯に、この全身全霊をブッつけてあの時代にやってきた事は間違いもない事実であるのだ。


【写真出典】

  • 最終更新:2017-07-11 13:56:46

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