【捷号作戦】艦隊特攻-レイテ沖海戦-(前編)

出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 海軍篇」所収
   毎日新聞社報道部副部長 中島 誠「艦隊特攻-レイテ沖海戦-」


昭和十九年十月十七日、米軍レイテに上陸、同日捷一号作戦発令され聯合艦隊は大和、武蔵以下六十六隻、遊撃・機動全艦隊を挙げてレイテ湾に突入した。戦史空前の艦隊特攻「レイテ殴り込み」の全貌!

ぬか喜びの大戦果発表

 艦隊乗組の人々は、明(あけ)っ放(ぱな)しの、海のように明るい性格の、軍人が多かった。海戦の二カ月前、艦隊附(づき)報道班員の身分証明書を持って、呉鎮守府の別館に仮の司令部を置いた第一機動艦隊司令部を訪ねた際、初対面でみんな好意に満ちた人々であるのに、私はほっとした。

 これから生死をともにする人々が、階級とか職業を考えて別々の心で暮すことは、堪えられないことだ。

 私はひそかに、これから幾月かを送る艦隊生活を思って、心が躍った。

 定められた日、海軍第一波止場に行くと、ランチ (*1)が私を待っていた。油でどす黒く汚れた港の中を、艦船の間を縫うようにして横ぎり、狭い水道を幾つも通って、広い海に出た。そこには十数隻の巨艦が、黒々と巨体を横たえていた。

 内海西部の、聯合艦隊の秘密基地、"桂島湾"であった。

 ランチはその中の最も大きな、奇妙な型をした戦艦の舷側に横づけになった。それが、私が乗艦を指定された戦艦「日向」であった。

【戦艦 日向】
戦艦日向改装後.jpg

 艦長野村留三少将は、私の母の郷里に近い出身だというので、特別な好意を感じた。

 この、一見朴訥(ぼくとつ) (*2) でにぶそうな士官があの海戦の際、みごとな操舵の手際を見せ、数十の魚雷をかわして巨艦を沈没から護った、底の知れぬ肝っ玉を持った軍人だったのだ。

 こうして私は軍艦という大きな家族の一員に加わったのだ。

 焼けつくように暑い八月の半ばであった。

 乗艦した翌日からはじまった猛訓練は、配置もなくぶらぶらしている私の無聊(ぶりょう) (*3) を吹きとばした。

 月月火水…… (*4)という言葉が当時流行していたが、文字通り血の滲むようなはげしい訓練の日日であった。

 しかし、一方戦局の悪化は、艦隊の訓練にも影響して、艦隊の命とたのむ燃料が底をつきはじめ (*5)、油を喰う移動訓練は出来るだけ制限され、泊地の中で働かざる艦隊訓練が行われる日が多くなっていた。

 そして忘れもしない十月十日、米機動部隊の大部隊が大挙して沖縄、台湾に来襲してきたのだった。

 これを迎えて、南九州に展開していたT部隊を中心としたわが航空隊は全力をあげてたたかった。大戦果がつぎつぎに報ぜられてきた。ついで軍艦マーチとともにラジオに乗った大本営の大戦果発表──轟撃沈空母十一隻、戦艦二隻、巡洋艦三隻。撃破空母七隻、戦艦三隻、累計四十一隻──

 敵艦隊遂に潰滅す! 誰も、神風の再現を信じた (*6)

 戦果を祝って飲めや歌えの底抜け騒ぎ、──しかしこれがいかに罪なよろこびにすぎなかったことか。艦隊運命の日はこの時を契機として、速度を早め近づいていたのだ。

捷一号作戦発動さる

 ピーピーピー……全艦隊のアンテナには、あわただしく無電が飛交(とびか)っていた。十月十七日、神嘗祭 (*7) の日であった。

「敵は比島 (*8) ミンダナオ附近の一カ所に上陸の模様なり」

 この朝七時、比島スルアン見張所(みはりしょ)は緊急平文(ひらぶん)で、戦艦、空母各二隻を含む敵艦隊が近接したことを報告し、その一時間後、米軍の上陸開始を速報したのであった。

 大本営は当時すでに比島決戦に備え細密な作戦要綱を樹(た)てていた。すなわち比島、台湾、南西諸島および日本本土を絶対の防衛線として、このいずれかの地点に敵が来襲した場合、直ちに総力をあげて決戦を挑み、これを撃滅する大方針が決定していた。

 この要綱に基き聯合艦隊は比島決戦に即応する「捷一号作戦」を準備していた。このスルアン見張所の緊急電をうけて聯合艦隊は直ちに全海軍部隊に対し「捷一号作戦」の警戒発令!

 それからあわただしい臨戦準備、艦隊集結、一刻も余裕のない目の廻るような二十四時間であった。

 十九日、機動艦隊は内海八島沖に集結。

 朝おそく甲板にあがってパッと目にとびこんできた艦隊の威容。紺青の海と空の間を占めて揺(ゆる)ぎなく巨体をうかべる戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦の勇姿。旗艦「瑞鶴(ずいかく)」のマストには小沢中将の将官旗(しょうかんき)が朝風にへんぽんとしてひるがえっていた。

【航空母艦 瑞鶴】
瑞鶴.jpg

 午後二時半、旗艦に各艦指揮官が集って、はじめて捷一号作戦の全容が明らかにされた。


一、森厳なる統帥、必勝不敗の信念に徹し、敵艦隊の撃滅を期す。

二、基地航空部隊
  第一航空艦隊は比島にあって、第二航空艦隊は南九州から急速に比島に展開、航空戦力の一切をあげて敵空母を撃滅する。

三、水上部隊
  第一遊撃部隊(栗田第二艦隊)はリンガ泊地からボルネオ、ブルネー前進基地に進出、サンベルナジオ海峡を通過して決戦の日二十五日(X日)未明、その巨砲をもってレイテ上陸地点に突入敵を殲滅する。

  第二遊撃部隊(志摩第五艦隊)は内海西部から馬公(マコウー)を経てマニラに前進、スルー海を経て二十五日未明スリガオ海峡を通過、第一遊撃部隊に呼応してレイテに突入。

  第一機動部隊(小沢第三艦隊)は南海西部から比島東方に進出、第一、第二遊撃部隊の突入をたすけ陽動、機を見て敵を撃滅する。

四、レイテ突入の日を二十五日としこれをX日と呼称。

【レイテ海戦概要図|1944(昭和19)年10月23日~25日】
レイテ海戦概要図_2.jpg

 わが小沢艦隊の任務は、友軍部隊の行動を容易ならしむるため、犠牲をいとうことなく、いわゆる「おとり艦隊」として使命を果すことにあった。

 第二艦隊は、世界最大の巨艦としてはじめて、ベールを脱ぐ七万トン戦艦「大和」「武蔵」はじめ「長門」「金剛」「榛名」「山城」「扶桑」の七戦艦を中心とした艦隊であったが、この巨砲群が戦史空前のなぐり込みをかけるのだ。

 飛行機の援護もなく果してこの作戦が成功するかどうか──始めから成算があるわけではなかった。

 今でも艦隊の燃料補給は充分でなかった。

 比島が敵手に委ねられ南方補給路を寸断されれば、近代戦の遂行はまったく不可能となる。

 成算あるなしに拘(かかわ)らず、艦隊はこの時を期して起(た)たねば再び起つ日は巡ってこない──こういうせっぱつまったきびしい戦局であったのである。

出撃、最後の晩さん

 八島湾──ここはかつて、日本海々戦で東郷元帥の聯合艦隊出陣の日に、最後の艦隊泊地となった思い出深い内海の小さな湾であった。

 八島湾は真っ赤な夕焼けで染まっていた。

 いますべての臨戦準備を終った艦隊は、出撃最後の夜を迎えて、静かに眠りにつこうとしている。

 突然、薄暮の海をついて耳をつんざく砲声が、いんいんと轟きはじめ、つづいてけたたましい機銃声。

 運命の艦隊の最後の猛訓練だった。砲声とともにすさまじい光(こう)ぼうを描いて遥か海上に巨大な水柱があがる。

 あの艦が火の柱のようなすさまじい怒りの形相をもって、敵艦の頭上に鉄火の雨を浴びせる時は、果たしていつくるであろうか。

 訓練がすみ、士官室では必勝を祝う最後の晩餐がはじまった。

 かち栗、鯛、するめ、テーブルの上を盃が廻る。

 一次、二次のガンルーム (*9)では、若い士官たちが元気一ぱいに放歌高吟、兵員室でもさかんにやっている。

 何か祈りたい気持だ。

 いつも艦内で、兵隊や若い士官から"苦手"組の一人として恐れられ親しまれていた、剣道四段という、色の白い、唇が赤い副長の阿部大佐が、自室で独り静かに茶をたてていた。

 燈火管制でまっくらな甲板に、杉本という老大尉が立っていた。

「机の中を整理すると、こんなに不要なものがありましてね」

 彼は手紙や紙片の束を見て、一枚一枚たん念に破りながら海中に投じていた。

 可燃物は一切、出撃前に整理する命令が出されていた。

「あんたも子供さんがありましたね。これは末っ子の坊主が書いてよこした手紙ですよ」

 その手紙はたどたどしい筆蹟で書いてあった。この老大尉も、衛兵長としていつも戒心棒(かいしんぼう)をふり廻す、これは、"強手組(こわてぐみ)"の一人であったが、出撃前夜の老大尉の顔には、なにか淋しいかげが宿っていた。

 白い紙片が、ひらひらと、黒い海の中に吸込まれるように舞落ちる。

戦機迫る

 全海軍はすでに隠密のうちに展開をはじめていた。

 第六艦隊に所属する潜水艦六十余隻は、全力をあげて比島海面に進出、基地航空隊も第一航空艦隊についで二十二日福留中将指揮する第二航空艦隊が戦爆三百余機の翼(よく)を連ね、悪天候を冒して比島に集中、一方海上部隊も予定通り展開をはじめていた。

 ──わが「おとり艦隊」小沢機動艦隊も、二十日午後六時半一気に豊後水道を突破して一路決戦の海へつき進んでいた。戦闘艦艇戦艦二隻、空母四隻、巡洋艦三隻、駆逐艦八隻の堂々たる単従陣型だ。

 二十一日夜以来崩れかけた空は、遂に二十二日にいたって雨となり、冷雨が艦橋の窓をたたく。密雲が低くたれこめ、艦隊は霧雨のベールに包まれている。

 濛気(もうき) (*10)の中を、空母から索敵機がつぎつぎに飛出して行った。飛行甲板は大きくかぶり (*11)なかには、バウンドしながら着艦するのもあり、その度に肝を冷やさせる。艦隊のレーダーはたえず回転し続ける。

 すでに出港以来何回となく「配置につけ」の急速ブザーが鳴りひびいた。こんどはほんものらしいと、全身の神経を目と耳に集中しているうちに、艦隊は急速に展開をはじめ、空母護衛の駆逐艦が怒濤を蹴って散ると見る間に、身体の浮くようなズシンズシンという爆雷投射の音。それも事なく終ると、急速に南の陽(ひ)が沈みはじめる。

【爆雷投射|対潜攻撃兵器概念図】 (*12)
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【爆雷投射|船団護衛図(欧州戦線)】
捷号船団護衛図(欧州戦線).jpg

 燈火管制下の戦闘指揮所には、司令官、艦長以下の指揮関係者が、漆黒の海上をにらんで立ちつくし、各種の計器が燐光を放って不気味に闇の中に浮いている。

 砲身の側(そば)でごろ寝している砲員の中で、まだうら若い水兵の一人がハーモニカを吹いている。きびしい戦場で、少年水兵の能裡に去来するのは故郷の山河か、あるいは母の俤(おもかげ)か?

 出動三日目、すでに燃料のきれた駆逐艦に対し、最後の敵前洋上補給が行われる。

 この日、出動以来はじめての好天で舷側にくだける波の色は透明なコバルト色に変り、刻々と迫る決戦の時間を知らせる。

 このころから艦隊の周辺の海には、さかんに米潜水艦の動きがキャッチされはじめた。わが小沢艦隊の全容は、ようやく霧のベールを脱いで敵前に露呈したのだ。

 この日、豊田聯合艦隊司令長官から全部隊に対し、捷号作戦完遂の激励と訓示があった。

 いよいよ明(みょう) 二十三日から、基地航空隊の総攻撃についで、決戦の火蓋が切られるわけだ。

【栗田中将の将旗を翻しパラワン島西岸を航進する一等巡洋艦(重巡洋艦)愛宕】
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【第二艦隊司令長官栗田健男海軍中将】
捷号第二艦隊司令長官栗田健男中将.jpg

潜撃! 愛宕忽(たちま)ち沈む

 しかし、全艦隊にとって、二十三日はなんという、悪日(あくにち)であったことだろう。この日の作戦のつまづきは、捷号作戦の最後まで暗い不安な印象を与える最初のきっかけとなったのである。

【ブルネイを出撃する栗田部隊】
左から妙高、羽黒(第五戦隊)、愛宕、高雄、鳥海、摩耶(第四戦隊)、大和、武蔵、長門(第一戦隊)。
捷号栗田部隊のブルネイ出撃.jpg

 この朝、比島に展開した第一、第二航空艦隊によってまず総攻撃の火蓋が切られたが、折悪しく比島附近は雨のため断念、ついに作戦計画の歯車の一つが狂ってしまったのだ。

 全海上部隊は息をのんで最初の大戦果を待ったが吉報はついに来ないばかりか、さらに凶報が相つぎ、全艦隊を失意の淵に落としこんだ。

 それは、レイテなぐり込みの主力部隊、栗田艦隊本隊が二十三日未明ブルネー錨地の暁をついて出港、一路レイテへ向う途中、待伏せていた米潜水艦の魚雷によって艦隊旗艦の「愛宕」はたちまち沈没、つづいて「摩耶(まや)」も沈没、「高雄」は大破して空しくブルネーに引返したのだ。栗田中将は坐(座)乗の旗艦を失い辛うじて司令部とともに駆逐艦「岸波」に収容され、その後戦艦「大和」に将旗(しょうき)を移したが、一時は全軍の指揮を第一戦隊司令官宇垣中将に譲るという悲劇もあった。この悲報は必勝を信じて出陣した全軍にとって出鼻をいきなりたたきつけられたような痛手だった。

【駆逐艦「岸波(きしなみ)】
駆逐艦藤波岸波_早波.jpg

 参謀室に刻々の情報によると、米機動部隊は依然として比島東南海面に数群に分れて行動、主力空母兵力は十数隻、台湾沖航空戦で潰滅したはずのハルゼー第三十八機動艦隊は依然として健在であり、レイテ湾の橋頭堡(きょうとうほ)には、キンケードの第七艦隊の戦艦八隻以上に護られた強力な陸上部隊が続々と上陸しているという。

【第58機動部隊指揮を継承したW・ハルゼー中将】
硫黄島を地獄にしたスプルアンス中将から指揮を継承すると狂ったように日本船を撃沈、罪のない民間人を虐殺した。
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【日本商船沈没地点概図|1941(昭和16)年12月~1944(昭和19)年10月】
白人にとって有色人種の命はモノ(資源)や金(マネー)よりも軽い。
日本商船沈没地点概図.jpg

 戦闘指揮所でこれらの情報を手にする松田司令官や、参謀たちの眉がくもり、不眠不休の汗ばんだ顔にはかくしきれない焦燥の色が深いしわの中に刻まれていた。

 敵前の対空訓練もいよいよはげしさを加え、対空機銃指揮官は声をからして指揮棒をふっていた。

 正午ちょっと前、いきなりブザーが鳴りひびいた。

「電探 (*13)右九〇度、百五十キロに敵編隊」

 伝声管がどなる。戦闘員は砲座にしがみつく。

 やがて、五分たち、十分すぎて、

「ただいまの警報はかもめの間違い」

「馬鹿っ! 間違える奴があるか! 注意しろ!」

 通信長為安大尉の怒声がとんだ。

 油を流したような不気味な海、じっとりと肌着をぬらす南海の濛気をふくんだ暑さに、神経はイライラと狂いそうだ。

 全艦隊は出港以来すでに四日の緊張と不眠から、誰でも、知性やユーモアを忘れ、荒っぽい潜在本能だけが頭をもたげてくるものだ。

 みな、充血した目だけを光らせ口を利くことも億劫(おっくう)らしい。

瑞兆? ふくろう舞いおりる

 X-1日(決戦の前日)は、わが機動艦隊が敵前に奇襲を敢行、「おとり艦隊」として身を挺して牽制作戦を行い、この間隙を縫って再び基地航空隊が総攻撃をかける日だ。

 たたかいのきびしさを予測するように、この日、未明から幾度もブザーが鳴り渡った。

 強力な敵の機動艦隊近接すという情報に、まだ明けやらぬ朝六時、対空警戒配備が命ぜられ、従兵(じゅうへい) (*14) まで狩り出されて、見張りに総動員された。

 空母艦上から索敵機が相ついで飛立ち、そのたび毎に空母は風向(かざむき)に対して全速航行に移り、護衛の駆逐艦が女王蜂を守る働き蜂のように機敏に走り廻る。

 すでに征旅五日、小(ち)っぽけな駆逐艦は潮を頭からかぶり、煙突の上まで真白い塩の粉をふいている。緊張のひととき、艦橋の下から先任下士官がなにかを腕にかかえて、指揮所にかけ上ってくるのが見えた。

 指揮所にいた松田司令官や野村艦長の顔がにわかに綻(ほころ)んだ。

 日本海々戦で三笠艦橋に舞降りた瑞鳥の話 (*15)など、縁起をかつぐのは船乗り共通の心理だ。先任下士が、さも手柄顔に抱いてきた小鳥を見て主計長は、

「こりゃ、ふくろうの子供ですたい」

 と、博多弁まる出しで言った。

「なんだ、ふくろうの子か」

 松田司令官もちょっと不興げに、投出すような調子でそっぽを向いてしまった。しょげかえった下士官を見て野村艦長は、当意即妙なユーモアを含めて、

「こりゃあめでたいぞ、敵艦隊はふくろうのねずみだからね……ハハ……」

 爆笑が渦巻いた。面目をほどこした下士官は頭をかきながら、艦橋を降りて行った。

 ──正(しょう)八時、司令部の無電がけたたましく鳴った。機動艦隊から放った索敵機から、敵機動部隊発見の無電が入ったのだ。

「機動部隊の位置、本隊の南方二百浬(カイリ)空母四、戦艦二をふくむ有力部隊……」

 艦内は急に色めき立った。比島北端の東方二百五十浬の海上であった。

「瑞鶴」の小沢司令部からただちに発火信号で命令が各艦に伝達される。

「本隊は全航空兵力をあげてこれを撃滅せんとす」

 ついにチャンスはきた。

機動艦隊の攻撃隊発進

 午前十時四十五分──Z旗が、旗艦「瑞鶴」のマスト高くひるがえった。

 艦隊は早くも隊型を崩し、一斉変針して攻撃隊型に移り、空母甲板では翼を連ねた攻撃機が轟然とプロペラを廻転、南海の朝の陽をうけてまぶしく光っている。

 空母は大きくゆれながら速力を増し一機さらに一機と飛立って行った。

 天気晴朗なれど浪(なみ)高し……日本海々戦のあの日の形容詞が、あまりにもぴったりと当てはまるこの日の空だ。

 無念にも一機が発艦とともに大きくバウンドしたかと思うと、白煙をあげて海中に突っ込んだ。肝を冷やすような危う気な離艦だ。搭乗員の質の低下はあらそえない。

 飛立った飛行機は、艦隊上空で戦闘編隊を組み、轟々とうなりを立てて艦隊輪形陣の真上を旋回、見送る各艦の"帽振れ"に翼をふって応えながら、やがて南の空に機影を没した。

 ──攻撃隊の飛立ってしまった後の艦隊の空白、それは無限の時間を感ずる長さであった。

 攻撃隊の成果判明まであと三時間、レイテ海戦のヤマはここに決するかも知れない……期待と希望でうずくような時の長さである。

 艦攻、爆撃合せてわずか七十余機、しかも最初にして最後の、ただ一回限りの攻撃であった。

 全海軍の運命を双肩に担い、必殺の信念に燃え固く唇を結んで出撃したろう若い航空兵たち、予科練を出たばかりの、少年がほとんどであった。

 彼らの大部分は訓練も不充分、飛行時間もせいぜい二、三十時間程度という未熟に拘(かかわ)らず、狩り出されたのだった。

 これはいかに近代戦が苛借 (*16) ない航空消耗戦に終始するかを如実に示すものであったが、彼らのほとんどは出撃寸前まで真白い歯並を見せてよく笑い、無邪気にはしゃぎ、友達同志いたずらしあってみんなを笑わせたり、いかにも屈托 (*17) のなさそうな姿であった。

 この可憐な若い生命に運命の神のほおえみよあれと、誰か祈らずにいられようか。

【飛行服を着た予科練(海軍飛行予科練習生)たち】
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祈り空し全機還らず

 ──この日、攻撃隊はまっしぐらに敵艦隊の頭上に向って殺到した。ところがなんという武運に恵まれなかったことであろう。よもや目標を逸することはあるまいと思っていた敵機動部隊は、折悪しく襲ってきた猛烈なスコールの中に巧みに姿を晦(くら)ましてしまった。

 攻撃隊は焦った。そして全機は艦影を索(もと)めて燃料のつきるまで附近海上を隈なくさがしたが、ついに目指す敵艦隊の姿は見えない。運命の神はアメリカ艦隊にほおえんだのだ。油も残りすくない。攻撃隊は無念の涙をのんで帰途についたが、その時はあまりに深く突っ込み過ぎていた。

 猛烈なスコールのために編隊は崩れバラバラになって、海上すれすれに飛んだ。かくて一部は比島基地に辛ろうじて帰投し、一部は母艦に向ったが、母艦の懐ろにたどりついたものはわずか三機のみ、比島に帰投したものを合せて出発当時の兵力の半ばにも達しなかった。

 最初のしかも最後のチャンス、全軍の期待と祈りをこめた機動艦隊の攻撃もついに水泡に帰した。

 暮色迫る海上に、帰らぬ機を待って虚しく遊弋(ゆうよく) (*18)をつづける母艦の姿もいたましいものであった。

 全機はほとんど還らぬ機動部隊には、すでに攻撃に役立つ一機の飛行機もなかった。

 索敵も思うに任せぬ状態となり、盲目となった艦隊は刻々と迫る敵機動艦隊の位置すらわからなくなったわけだ。

 飛行機さえあれば、偉大な攻撃力を発揮する空母も、一機の戦闘機すらない今日、いたずらに艦隊の厄介ものとなるに過ぎない。

 暗澹として絶望の中にも「裸の艦隊」の上にはなお重大な任務があった。レイテなぐり込み部隊の援護と、敵部隊を誘い込むために身体をはって牽制することだ。

栗田艦隊大空襲をうく

 悲劇はさらに、頼みとする第一遊撃部隊の頭上にも降りかかっていた。

 二十二日未明、ボルネオの前進基地を発進した栗田艦隊は、初陣の鼻っぱしらをたたかれ、前途あんたんたるものがあったが、不幸はただそれだけではなかった。

 二十四日朝、比島ミンドロ島南を過ぎて一路レイテへ、針路三五度タブラス島北方水路にさしかかったころ、ついに敵艦上機の触接をうけ、ついで殺到した五次にわたる米艦上機の集中攻撃をうけるに至ったのだ。

 この朝、触接機の執ような追随を受けていた栗田艦隊は、直ちに戦闘態勢に移った。

 栗田中将自ら率いる第一部隊は、旗艦「大和」を守るように右前方二千メートルに姉妹艦「武蔵」左前方二千メートルに「長門」これを誘導するように第四戦隊重巡「鳥海」と四隻の駆逐艦が先導、「妙高」「羽黒」「能代(のしろ)」の重巡と駆逐艦三隻がこれに従った。

【シブヤン海における栗田部隊|1944(昭和19)年10月24日】
捷号シブヤン海におる栗田部隊19441024.jpg

 この主力とやや離れて鈴木中将を司令官とする、第二次夜戦部隊の第三戦隊「金剛」「榛名」の二戦艦に加えて、第七戦隊「熊野」「鈴谷(すずや)」「利根」「筑摩」「矢矧(やはぎ)」を旗艦とする第十水雷戦隊の駆逐艦六隻、いずれも巨砲に守られて二十二ノットの戦速で一挙に、水道突破を試みる。

【米軍の爆撃を受ける栗田部隊】
第三戦隊の金剛、榛名、左は利根型。
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 午前十時半、果して第一波の来襲、雷爆を中心とした艦載機二十五機だ。

 巨砲は一斉に火を噴き、敵の編隊は紙のように四散する。第一波で「妙高」と「武蔵」がまず魚雷各一発を受けたが、「武蔵」は微動だにしない。

 ついで正午すぎ、第二波来襲、こんどは二十四機で雷、爆の雨を「武蔵」に集中する。この攻撃で「武蔵」は左舷にさらに三発の魚雷をうけ、速力も二十二ノットに落ちてしまう。

【シブヤン海で空襲を受ける戦艦武蔵】
捷号シブヤン海で空襲を受ける武蔵.jpg

 つづいて午後一時三十分息もつかせぬ第三波の来襲。

 「武蔵」はさらに左舷に一本の魚雷をうけて今や万身創痍 (*19) 。速力は急に低下してついに脱落する「大和」も又艦首に爆弾が一発命中したがなお微動だにしない。

巨艦「武蔵」ついに沈没す

 米機は相ついで攻撃をかけてくる。

 二時二十六分第四波、続いて午後三時第五波、こんどは百機にのぼる大編隊だ。

 前後を通じて攻撃を集中された「武蔵」は、二十一発の魚雷と十七発の直爆弾をうけ、すでに左舷に十度傾斜して艦首は深く海中に突っ込んでいる。ほとんど停止のままだ。

 このほか「妙高」はすでに落伍し、「大和」「長門」「金剛」も被弾、死傷者多数を出したが、幸い戦闘航海には支障がない。

 犠牲のうえに犠牲、すでに戦力の大半を目的地に到着する以前に失った栗田艦隊は、疲労困ぱいの極にあり、「武蔵」を戦場に残してやむなく西方に避退をはじめた。

 栗田長官は、駆逐艦「清霜(きよしも)」を「武蔵」の護衛とし、「全力を尽して艦体の保全につとめよ」との命令を与えて戦場に残したのだ。

【駆逐艦清霜】
駆逐艦清霜.jpg

 「武蔵」は最後まで艦体の保全につとめた。

 最悪の場合には浅瀬に乗り上げて陸上の砲台として使命を果たすことも考えられたが、浸水は刻々と機関部を浸し、ついに大傾斜をはじめた。

 猪口艦長はやむなく生存者を「清霜」に移したが、午後七時三十七分、力尽きて沈みはじめ、やがて艦首を空高く持上げスルスルと海中に呑(の)まれた。

 「武蔵」艦長猪口大佐は乗組員全員の切なる勧告にもかかわらず、自ら戦闘艦橋の扉を堅く閉ざしたまま艦と運命をともにした。

「絶大なる期待をかけられた本艦を失うこと小官の不徳のいたすところざん慚愧(ざんき)に堪えず、最後の戦勝を確信してお先に参ります」

 これが副長に托した最後の遺言であった。壮烈極まりない武人の最期であった。   (後編につづく)


【出典】
・1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編 「大東亜戦争写真史 特攻決戦篇」
・1983(昭和58)年 講談社 千早正隆編 「写真図説 帝国連合艦隊-日本海軍100年史-」
・1970(昭和45)年 株式会社ベストセラーズ 福井静夫 「写真集|日本の軍艦 ありし日のわが海軍艦艇」
・1956(昭和31)年 鱒書房 佐藤太郎 「戦艦武蔵の死闘」

  • 最終更新:2018-02-19 14:50:10

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