【振天隊】古川正崇

古川正崇

大阪外語大学
神風特別攻撃隊振天隊、昭和二十年五月二十九日沖縄にて戦死 二十三歳


 随想

 出發(発)の朝 (入隊に際して)

 二十二年の生

 全て個人の力に非ず

 母の恩偉大なり

 而(しか)もその母の恩の中に

 又亡き父の魂魄は宿せり

 我が平安の二十二年

 祖国の無形の力に依る

 今にして国家の危機に殉ぜざれば

 我が愛する平和は来る事なし

 我は此(こ)の上もなく平和を愛するなり

 平和を愛するが故に

 戦争に参加せんとする

 我等(われら)若き者の純真なる気持を

 知る人の多きを祈る

 二十二年の生

 只(ただ)感謝の一言に盡(尽)きる

 全ては自然のまヽに動く

 全ては必然なり


 死の覚悟

 人間の迷ひは實(実)にたくさんありますが、死に対する程、それが深刻で悟り切れないものはないと思ひます。之(これ)だけは幾ら他人の話を聞いても、本を読んでも、結局自分一人の胸に起る感情だからです。

 私も軍隊に入る時は、それは決死の覚悟で航空隊を志願したのですが、日と共にその悲壮な謂(い)はば自分で自分の興奮に溺れてゐるやうな、そんな感情がなくなって来て、はやり生きてゐるのは何にも増して換へ難いものと思ふやうになって来たのです。その半面、死ぬ時が来たなら、それや誰だって死ねるさ、と云(い)ふ気持を心の奥に常に持つようになります。然(しか)し本当に死ねる死ねると云ってゐても、いざそれに直面すると心の動揺はどうしてもまぬがれる事は出来ません。

 私の今の立場を偽りなく申せば、此(こ)の事なのです。私達は台湾進出の命を受けてジャガルタを出ました。いよいよ死なねばならぬ、さう思ふと戦にのぞむ湧き上る心より、何か、死に度(た)くない気持の方が強かったりするのです。わざわざジャワから沖縄まで死ぬ為の旅を続けねばならぬ、その事が苦痛にも思へるのです。自分の前面に敵が見えるならとも角、南の端から死出の旅に毎日をあくせくすると云ふ事は何か嫌な気もします。然し之(これ)は地上の話で、飛行機の上では人間の頭は所謂(いわゆる)下界と異って、只(ただ)無心に自分の任務だけが心を支配するやうになります。

 不思議なものです。兎(と)も角(かく)、私は海南島まで来ました。死の覺(覚)悟と云ふやうな悟りは私には出来ません。地上では、生きてゐたい、生きてゐたいと云ふ気持が私の心の全体です。然し、私は死を覺悟して、今出発するのです。
          (昭和二十年四月八日、海南島海口にて)


 求道

 戦死する日も迫って、私の短い半生を振り返ると、やはり何か寂しさを禁じ得ない。

 死と云ふ事は日本人にとってはさう大した問題ではない。その場に直面すると誰もがそこには不平もなしに飛び込んでゆけるのだ。

 然し私は、私の生の短かさをやはり寂しむ。

 生きると云(い)ふ事は、何の気なしに生きてゐる事が多いが、やはり尊い。何時(いつ)かは死ぬに決まってゐる人間が、常に生に執着を持つと云ふ事は所謂(いわゆる)自然の妙理である。神の大きい御恵みが其処(そこ)にあらはされてゐる。

 子供の無邪気さ、それは知らない無邪気さである。哲人の無邪気さ、それは悟り切った無邪気さである。そして道を求める者は惱(悩)んでゐる。死ぬ為に指揮所から出て行く若い搭乗員、それは実際神の無邪気さである。然し、私は私自身の気持に比べて、それはやはり子供の無邪気さであると思ふ。死と云ふものは勿論(もちろん)、生についても深く考へない者の無邪気さである。

 それは勿論尊い。然(しか)し私のやうに道を求めて迷ふものは今更そんな無邪気さを願ふ事は出来ぬ。私の願ふのは哲人の無邪気さである。それは餘(余)りに大きな理想ではある。

 然し、私は苦しみながらもその道を求めるものだ、死を問題外として…………。

 書を読むと云う事は私にとっては人生の一目的でもある。読書は目的ではなく手段であると云ふのが常識だ。然し私にとっては目的である。私にとってそれは運命的なつながりでさへある。それは求道そのものである。軍隊に入って以来、私は哲学の書をひもといた事はない。然し、私の書齋(斎)には数多い書物が私を待ってゐる。私は常にそれを思ふ。死に直面してゐる今もそれら書物の数々を思うと、溢れるやうな歓びが湧く。読書と人生、そんな言葉がよくあったが、私にはそれは切実なものの一つであった。

     二十年四月二十三日(台湾新竹基地戦闘指揮所にて)


 赤道を越ゆ

 今ぞわれ赤道を

 南より北にむかひて

 大いなる地球の道を

 遥けくも下に見つめつ

 今ぞわれ赤道を越ゆ


 出で立ちしジャガルタの街

 あの運河、あの並木道

 人々のざわめきの声

 今は只(ただ)その思ひ出も

 振りすてヽ想ふ事なし


 わが征くは台湾の基地

 沖縄に醜虜(しゅうりょ) (*1)つどふを

 体当り撃ちてし止(や)まむ

 我が命すでにかろきも

 我が務め重きを知りて


 今ぞわれ赤道を過ぐ

 湧き上る雲をはらひて

 島々の緑の上を

 わだつみ (*2)の濃藍の上を

 今ぞわれ赤道を越ゆ


 雲切れし島の入口に

 軍ぶねうかぶ見えつヽ

 淡霧のかぎらふ上に

 うす月のほのかに細し

 今漠々の雲海をすぐ


 大空は遥けく廣(広)し

 エンヂンの高き轟き

 早や月に飽きはすれども

 昭南もあとは間近ぞ

 機は徐々にスコールを避く


 今ぞわれ赤道を過ぐ

 大いなる決意のもとに

 大空の中にありては

 土の上の思念の事も

 何一つ想ふ事なし


 遥けくもわれは征くなり

 ふるさとの老ひし母上

 わが散るを嘆き給ふな

 大君の命のまにまに

 われは今雲を渡りて

 赤道を越えゆく


 大いなる地球の道を覆ふ雲

 その上遥か我は征くなり

 ゆきゆきて南の国にありし身も

 再びは越ゆ赤道の上

     (二十年四月二四日 台湾新竹基地)


 雲湧きて流るるはて

 出征の日に私は友の前で、「大空の彼方へ我が二十二歳の生命を散華せん」と詠った。さうして今その二十四歳の生命をぶち投げる時が来た。

 出征の日に私は机に「雲湧きて流るヽはての青空の、その青の上わが死に所」と書いて来た。さうして今その青空の上でなくして、敵艦群がる大海原の青に向って私の死に所を定めようとしてゐる。

 而(しか)も人生そのものにやはり大きな懐疑を持ってゐる。生きてゐると云ふ事、死ぬと云ふ事も考へれば考へるだけ分らない。只(ただ)分ってゐる事は、今、日本は大戦争を行ってゐると云ふ事、神州不滅と云ふ事、その渦中に在る日本人としての私の答は只、死なねばならぬ、と云ふ事だけである。

 絶対に死なねばならぬ。我が身が死してこそ国に対する憂ひも、人間に対する愛着も、社会に対する憤懣も云ふ事が出来るのだ。死せずしては、何事も為(な)し得ないのだ。

 今、絶体絶命の立場に私は居る。

 死ぬのだ。潔く死ぬ事に依ってこのわだかまった気持のむすび目が解けると云ふものだ。
     
     (二〇年四月二十五日、新竹基地)


 出撃を前にして詠ふ(抄)

 二十四の我が命絶つ日なり

 雨あがりつヽ青空の見ゆ


 特攻を待ちつヽ日々の雨なれば

 生きる事にも飽きたる心地


 マフラーを結べば何か暖かく

 今日のかどでを楽しむ気持


 あと三時間のわが命なり

 只(ただ)一人歌を作りて心を静む


 トランプの一人占ひなどしつヽ

 出撃までの時を過しつ


 下着よりすべて換ゆれば新らしき

 我が命も生れ出づるか


 ふるさとの母の便りに強き事

 云ひてはをれど老ひし母はも


 死ぬ前のゆふべのんびり湯にひたり

 たんねんに垢を洗ひ落す我


 死ぬ時の延び延びになりてをれば

 日々あきて遊ぶすべもなし


 海の上を泳ぎおりつヽ

 どうともなれと思ひし事も二三度


 島民に助けられつヽ燈台を

 仰ぎし時の心たひうよ


 服ぬぎてたらひに坐り熱き湯を

 かけて貰(もら)ひい生きたる心地


 我が命十日の雨に長びけば

 暮しにあきて晝(昼)寝などする


 爆音の高き機上の人となり

 帽子を固く締むるたしかさ


 ふるさとの我を慕ひし子供との事

 今にして思ひ出づるあはれさ


 ペンとりて歌しるしつヽこの夕

 我は新らしき命を得るか


 死といふは怖し事とは今も思へど

 命のまにまに安んじてゆく


 我が命今日にせまりし朝の眼覚め

 日はうらうらと既に照りたり


 人はつひに死ぬものなれば二十四の

 我が命のありがたきかな


 花一つ手(た)折らむ事もなきまヽに

 櫻は春の風に散るなり


【出典】1953(昭和28)年 白鷗遺族会編 「雲ながるる果てに-戦没飛行予備学生の手記-」


  • 最終更新:2015-11-30 06:49:37

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