【大西瀧治郎中将】平時に処しなおよく特攻精神を堅持せよ
明治維新後、日本は近代化を急ぎすぎたあまり、海外から流入する思想を理解する時間がありませんでした。
その結果、青年将校らは中国共産党や上海仮政府と関係があった北一輝に心酔して二・二六事件を起こし、天皇に忠実であった皇道派が排除され、革新的な統制派がのちの大本営を組織するに至りました。
※北輝次郎は北一輝の本名。
戦前の日本人は大東亜戦争のことを「精神の日本と物質の西洋との戦い」と言っていましたが、戦後日本人はG.H.Qの日本弱体化政策によって日本精神を忘れ、金権に目がくらみ、物質におぼれるようになりました。
いま、共産勢力が約40年ぶりに活動を活発化させ、多くの若者が古い思想に飛びついて、第二次世界大戦を工作した勢力に加わり、戦前のように「平和」、「戦争法案反対!」と叫んでいます。
大東亜戦争は「日本の侵略戦争」などという単純なものではなく、西洋列国とアジアの領土戦、経済戦、思想戦でした。
受け売りの思想で何も考えずに行動する若者の姿は、日本が大東亜戦争に敗北した理由でもあります。
一般青壮年に告ぐ。平時に処しなおよく特攻精神を堅持せよ
…平時にありてこそ、国を思え。
海軍特攻隊を編成した大西瀧治郎中将が遺書に記した言葉です。
【大西瀧治郎中将】
出典:1967(昭和42)年 河出書房 猪口力平/中島正 「太平洋戦記 神風特別攻撃隊」
八月一六日未明
八月一五日の晩、大西次長は若手部員を次長官室に招いた。話が深更にまでおよんだ。
大西次長が官舎で自決したのは、その翌一六日の夜明けであった。すぐ副官がかけつけると、まだ意識があった。日本刀で腹一文字にかき切っていたが、とどめがうまくいかなかったらしい。
中将は、
「なおるようには、してくれるな」
といっただけであったという。そしてその晩の午後六時についに絶命したのであった。あとには遺書がのこされていた。
特攻隊の英霊に曰(もう)す、善く戦いたり、深謝す。
最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。
しかれどもその信念はついに達成し得ざるに到れり。
われ死をもって旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす。
つぎに一般青壮年に告ぐ。
わが死にして、軽挙は利敵行為なると思い、聖旨に添い奉り、自重忍苦するいましめとならば幸なり。
隠忍するとも日本人たるの矜持を失なうなかれ。
諸子は国の宝なり。平時に処しなおよく特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平のため最善をつくせよ。
かくて特別攻撃隊の父、大西滝治郎中将は戦争の終結した日の夜、みずからの刃に伏した。彼の指揮下で、特攻隊となって祖国のために散華した多くの部下将兵の英霊と、その遺族に謝するために……。
【資料出典】
- 最終更新:2016-03-14 08:34:52