【八紘隊第十一隊皇魂隊】三浦恭一 八紘に輝く光茫の一閃として

三浦恭一少佐は1923(大正12)年8月10日、愛媛県宇和島市にて出生、1945(昭和20)年1月8日にフィリピンリンガエン湾にて敵艦に突入、22歳という若さで散華しました。

もの心ついた時には満州事変、そして支那事変と想像してみれば、平和な時代を知らずに散っていかれた生涯だったと思います。

戦後日本ではG.H.Qの日本弱体化政策によって、特攻隊は「犬死にした」、「大した戦果はなかった」というデマが流布されました。

けれども真実は、特攻隊は連合軍の価値観をこっぱみじんに破壊するほどの衝撃を彼らに与えていたのです。


19450105護衛空母ナトマ・ベイに突入する特攻機4.jpg

戦前日本人は大東亜戦争のことを「精神の日本と物質の西洋との戦い」と言っていますが、まさにその通りで連合軍の兵士は生きて祖国に帰ることが大前提でした。

そんな今まさに戦闘中の艦に乗っていながら、神や故郷の母親に「生還」を祈る連中のど真ん中に、特攻機は突っ込んで行ったのです。

「日本人を追いつめると何をしでかすかわからない」

米軍兵士を日の丸恐怖症にするほど、敵艦に降りそそぎ続けた特攻隊、英霊の勇気が戦後日本を守り続けているのです。


【三浦恭一少佐】
戦死と同時に二階級特進。
三浦恭一少佐.jpg



出典:1996(平成8)年 白帝社 八牧美喜子 「いのち-戦時下の一少女の日記-」 第四章 昭和20年 飛燕



三浦恭一の遺書

御両親様 誕生して二十一歳四か月の今日まで 御養育賜はりまして お蔭様で 今日一人前になりましたことを 有難く厚く御礼申上げます ただただ 感謝で一杯であります

 子として 何一つ孝養も出来ませず 若くして武窓に入りたるがために さまざまな御心配 気苦労もおかけいたしました

 さらに さらに 私は 一族の相続となるべき身でありましたことを考へ その責に当らずして行くは また なんとも申訳なく思ひます

 しかし 五年前に私を軍人にさしていただきましたのは 今日のためでありましたね

 日本男児として 戦さの庭に出るほど 本懐とするところはなく しかも 僅か二十二歳の若武者にして中隊長として散りゆくことは また なんと光栄なことでせう

 国民学校のころから 長を重ねてきましたが いまこの世を別れんとするときまで 部下に長として臨むこと 非常に満足を覚えます

 しかも 部下は多くて二十五 若くて十九 まことに花のやうな若武者揃ひ 世の俗塵を知らず 濁りを知らず ただ思ふは国家のみ 皇国の安泰のみ希(ねが)う同志と 翼を並べて決戦場へ行く なんと 欣快とするところでせう

 途中 敵戦闘機に喰はれざる限り 必ずや恥しからぬ死所を得しものと信じて下さい

 開戦劈頭 真珠湾の勇士に比せば まだまだ航空部隊の死に曝される時間が少ないかも知れませんが 落着くところは時間の問題であります 若き部下こそ 大いに讃えてやっていただきたい

 第五十六期士官候補生のころより 決戦要員だといはれましたが 同志は先に進み 後を継ぎ 大いにやってくれるでせう

 最後の刹那まで 御両親の愛に生き 御写真とともにゆきます

 上からも下からも 異状の大期待をかけられ 見送りにはわざわざ航空総監閣下の壮行の辞に励まされました

 われら八紘隊十一隊(皇魂隊)その任務達成をこそ 希(ねがわ)くばお祈り下さい

 私の征きし後 永遠に生きし後 宜(よろ)しく処置せられまして 一族のこと お願ひいたします

 さらば 末長く御機嫌よろしく 永遠にさようなら

 児(子)は絶対に死んでいません
 
 八紘に輝く光茫の一閃として


  昭和十九年十一月末
  
          児  恭一

御両親様











  • 最終更新:2016-03-14 08:58:50

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