【修武台陸軍航空士官学校】若鷲"修武台(しゅうぶだい)"に羽摶(はばた)く

出典:1957(昭和32)年 日本文芸社 「現代読本 われら学徒かく戦えり」第二巻第六号所収
     元陸軍航空少尉 梅川 真 「若鷲"修武台"に羽摶く」

筆者略歴
仙台陸軍幼年学校、陸軍予科士官学校を経て陸軍航空士官学校卒業寸前満洲で終戦を迎える


軍人街道を唯一すじに幼年学校から航空士官学校に入学、本土空襲の難を逃れて満洲での飛行訓練は日々すさまじいの一言に尽きる、若鷲の訓練記

待望の航空士官学校へ

 仙台陸軍幼年学校、陸軍予科士官学校を終えた私は、いよいよ希望の陸軍航空士官学校にすすむことになった。大東亜戦争たけなわの昭和十九年三月である。

 まだ母親の暖かい、ふところが恋しいような十五の年から軍人になるべく叩きこまれた私は、一ずに空への希望をもやしていた。

……それはたしかに新時代の花形であった。

 私は、もうそろそろつぶれかかってはいたが市では名の通った旧家の末っ子に生れた。父親は三代目だった。昔から、

「三代は続かない」

と云(い)われる通り、父は財産をもらったまま、何も仕事はせずに好きな写真をうつしに全国を歩き廻り、沢山(たくさん)あった土地も少しづつ手離していた (*1)

……庭が学校の運動場のように広かった……

とかすかに覚えていた古いヤシキが人手に渡ったのが小学校の二年の時だった。

「家が貧乏になる」

と幼い心にも小さな家に移ったかなしみが強くやきついた。それ以来子供心にも「金がなくても偉くなるには」と考えはじめた。そして軍人になるのが一番いいと深く思うようになっていた。こうして仙台陸軍幼年学校の門をくぐった。


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☞仙台陸軍幼年学校


 一身を国に捧げるべく教育を受けてみると、あらゆる者が同じ条件のもとに訓練され平等そのものだった。

 幼年学校、士官学校……と進んだ者は大過なく生きてさえいれば大将までなれる、という事も知っていたが、最も死ぬ確率の多い、否むしろ必ず死ぬとされた飛行機乗り、しかも戦斗機 (*2)を私はえらんだ。いまの時代ならさしずめ、太陽族の仲間に入る年ごろに、私たちは、ただ一筋に憂国の情熱に燃え、自ら進んで空の楯たらん事を心から願った。

 航空士官学校は埼玉県入間川のほとりにあった。秩父の連山をのぞみ、武蔵野の面影を残している高台である。ここに飛行場の付属した広大な学校があった。


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☞1942(昭和17)年大元帥陛下修武台飛行場に臨御
☞畏くも大元帥陛下には三月二十七日埼玉県豊岡町の陸軍航空士官学校第五十五期生徒卒業式に行幸あらせられた


 天皇は"修武台"と命名した。現在の米空軍ジョンソン基地である。


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 将来陸軍の高級幹部となるに必要な教養の習得、基礎軍事訓練はすでに終っていた。あとは第一線航空指揮官としての操縦技術を体得するだけだった。


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神経の休めぬ訓練

 校長は日本航空界草ワケの、徳川好敏中将だ。


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☞徳川好敏中将


 最初の一年間は、航空力学、航法、気象、射撃学、通信学をはじめ、師団長として航空地上両部隊を統轄して行う用兵作戦を研究する"戦術"など学業に重点がおかれた。合間にグライダー操縦、航空部隊と関連した地上部隊の演習、飛行場に敵落下傘部隊が降下したとの仮想の元に実際に落下傘部隊を降下させ、これとの対抗演習などがくりかえされた。

 入校したその日から一寸の間も神経を休めることの出来ない緊張の連続だった。生徒は士官候補生(軍曹の階級)だったが訓練は厳しかった。

 広々とした武蔵野の地平線に真赤な太陽が昇り始めるころ、起床ラッパと共に私たちの一日が始まる、美くしい朝日が地上に光をなげかける中で上半身裸体のままで体操をして、点呼を受ける。

 夏の起床は爽快だったが、冬は真暗なうちに起床しなければならない。裸体でも当時は寒さも感じなかった。

 寝室、自習室があり、一室に二十人ぐらいづつ入る。一人おきに古兵(一年先輩)がいる。つまり両隣りに上官がいるわけ、敬礼のうるさいのは軍隊の常で、朝起きてから寝るまで、便所へいくにも敬礼のしつづけだ。右手を防止のひさしにあげたまま、歩かなければならない。うっかりおろすと、とたんに、

「ナゼ! 敬礼せんか!」

となぐられる始末、ときには百メートルも先にいる古兵に気付かなかったと、どやされることもあって、これには全く閉口したが、私たちは、毎日上空をとぶ飛行機をながめながら、

「あとしばらくで飛行機に乗れる」

としんぼうしたものだ。


規則違反の外出作戦

 日曜日には外出が許される。だが東京は外出区域で特別の許可を受けなければならない。所沢、田無、川越付近までであった。無断でこの区域を越えると勿論(もちろん)処罰もの。しかしこの区域を突破する者がいた。

 休日の二、三日前から地図を出して検討、見廻り士官の手薄なところをねらって、馬車かトラックをつかまえて中央線の小金井か国立付近に出て中央線で都内に出るのだ。私と同じ仙台の幼年学校からこの航空士官学校に来た者もいた。

 電柱のようにひょろ長い長岡、演習の時いつも野グソをたれて、ヤブからガサガサと出て来る鈴木、顔はブサイクだが頭のとびぬけていい立野、柔、剣道が強くケンカの仲裁にいつも一役買う鎌田など、お互(たがい)に気心の知れている仲間で心のはげみにもなった。この仲間とはかつて、巡回士官の目を盗んで東京へ出たこともあった。

 耐熱行軍耐寒訓練というのがあった。耐熱行軍とは真夏に、真冬の軍装をして六貫目 (*3)もの装備をにない、水をのまずに日中行軍するのだ。

 とくにはげしかったのは飛行訓練に入る直前に実施した、地上部隊としての最後の演習で言語に絶するものだった。この演習は、"修武台"から熊谷飛行場まで百キロ以上を三日二晩、一てきの水ものまず、一食もたべず、一すいもせず演習をしながら往復行軍するのだ。極寒の時期だった。

 朝のスガスガしい空気の中で、「前進」の号令がかかる。背のうには辞書や石をいれて六貫目以上の重さにする。休憩は一時間に五分ぐらいしかない。

 隊伍を整えて歩き出すが、やがて汗が流れ出し、背のうと銃の重みが、ぬれた肩にめり込んでくる。この汗が夜になると冷え、手はかじかみ感覚がなくなってくる。歩くだけでなく、対抗部隊の敵があらわれると、走ったり山地を迂回したりもする。

 偵察のために斥候 (*4)に、連絡のために伝令にも出なければならない。暮色のただようころ、もうれつな空腹感がおそって来る。胃のふが空っぽになり、ツバをのみ込みたいが、そのツバさえ、もはや出ない。ノドはカラカラにかわいて痛みをおぼえる。

「畜生! まだ半分も来ないぜ───」

と言葉がもれる。夜空に星が輝き出すころにはその上睡魔がおそってくる。

"はりつめている気持ちを一寸(ちょっと)ゆるめればガックリと足もとにうずくまり、そのまま深いねむりにおちていってしまうだろう"

やがて、夜が明け始めるころには歩きながらねむる者も出てくる。

 山あいの狭い道にさしかかると突然両側から敵の機関銃が火を吐く、 "ダッダッダッ……" 敵襲の合図で部隊は散開、すぐさま斥候が派遣される。

「ヤレ、ヤレ有難い敵襲だ」

 と溝にとび込んで二、三分の睡みんをむさぼる。

 夢もみた。 "真暗な山道を一人で歩いている、とても疲れた。ノドがかわいた。ふとみると目の前のガケの間からきれいな清水が流れている" はっと思って目をさますと前の者の雑のうが見える。ああ行軍中だ、ガンバルンだ。と頭のすみで意識しながらまたねむりにおちていく。

"思わず清水のところにかけていく、両手にとって、ガブガブのむ、冷たい水で顔を洗う、「おい、立野 水だそ」と叫ぶ"

とまた目がさめる、前にのめって思わず銃を握りしめた。中には、よろよろと部隊から離れてひっくりかえった者もいた。

 やがて、朝日が顔を出すころ、熊谷飛行場に、トキの声とともに突入した。三十分の休憩のあと、別コースで帰途についたが、帰りはさすがに、話をする者もいない、声が出ないのだ。ただ黙々と前の人間を見ているだけだ。

 峠にさしかかる、一本道で部隊は一列縦隊になった。動けずに倒れている者もいるが助けるわけにもいかない。うっかり立止まると自分も倒れるからだ。 "天皇陛下……" と叫んでそのまま、気絶した者がいた。 "天皇陛下万才" と叫んだのだろうが、"万才" まで聞きとれない。日ごろ死ぬ時は "天皇陛下万才" を三唱しようと思いつめていたのが、とんだ演習で口をついてとび出したわけである。

 二晩目の夜に入ると、僅かな休憩で、畠(はたけ)にとび込んで、ナマの大根をかじる者、汚れた溝に顔を突込む者も出て来た。 "品性高潔" をうたい文句にしていた士官候補生として、恥ずべき行為だったろうが、それにもまして、ノドのかわきと、空腹は知性をこえた本能だった。

 いま話題になっている、自衛隊の「死の行軍」よりもはるかに厳しいものだった。


夢見る戦斗機乗り

 航空士官学校に入るには、厳重な適性検査と身体検査があった。狭き門である。その上さらに審査の結果、操縦、整備、通信の分科に分かれた。私は初めから戦斗機操縦を志望した。検査には、どれにも自信のあった私は身長の欄ではたと当惑した。操縦を志望するには規定に何と僅か一センチ足りないではないか。こんなところで長年の希望をくじかれてはたまらない。私はとうとう最後の手段だ、身長をはかる若い気の弱そうな衛生兵を

「貴様! 規定より少しでも低く書いたら、しょうちせんぞ……」

 とおどした。兵隊にとって軍曹の階級は絶対だった。無事狭き門は通過した。一年間の地上訓練をへていよいよ飛行訓練に入ることになった。軍服を着はじめてから五年目である。

 操縦を選らんだ者は、さらに「戦斗機」、「爆撃機」、「偵察機」に分かれた。航空士官学校には"修武台"を中心に、狭山、館林、所沢、高萩、坂戸に飛行場がありそれぞれに配属された。

 戦斗機を志望した者のうち私たち六十名は狭山飛行場で訓練を受けることになった。ここの飛行場の猛訓練ぶりはなりひびいていた。だが訓練の厳しさをさけるより、戦斗機に乗れるという希望の方が大きかった。

「さあ今日から飛行場だぞ」

 と張り切った日の朝、二月末の寒い日だった。各飛行場ごとに整列した、それぞれの飛行場から迎えのトラックが並んでいた。やがてみな車にのりこんだが、我々狭山飛行場組には迎えの車はなかった。この飛行場の中隊長は日本最初の落下傘部隊の連隊長だったI中佐(士官学校では連隊長、大隊長クラスが中隊長をしていた)で、ワンマンそのものである。迎えに来た将校は修武台から一里余の道を駈(かけ)あしを命じた。飛行場に着いてさらに驚ろいた。I中佐はいきなり、

「着ているものを全部ぬげ!」

 と命じた。

「バカ! フンドシもとるんだ」

 五年も軍隊生活をしてきた私は、大がいのことには驚ろかなくなっていたが、これにはドギモをぬかれた。

 オールストリップのまま、雪のつもった広い飛行場をハダシで一周駈あしだ。

 駈あしが終ると、

「地上のアカを全部洗いおとせ!」

 と薄氷のはった防火用水池につけられた。こんな調子で訓練がはじまった。当時士官学校では、なぐる事を禁じるようになっていたが、狭山の飛行場だけは"無法地帯"で公然とそれが認められていた。

 なぐるのはよい方で、

 マグロ(氷をわって池に入ること)

 ニワトリ(雪の上にハダシで立つこと)

 乾燥マグロ(雪の上をハダカでころがること)

などの制裁が、四、六時中くりかえされていた。

 このような制裁を受ける理由は、

 ①時間に一秒でもおくれたとき

 ②いわれたことが出来なかったり、間違ったり忘れたとき、 などだが、ときには

「寝相が悪いから起きてマグロだ!」

「背をのばせといったのに、のびていないから、ニワトリをやれ」

 に至っては、あきれて笑うことも出来なかった。

 ……飛行機は一分違っても見えなくなる…

 ……飛行機で間違いはみとめられない、その時は墜落しているのだ……

 ということをたたき込むための仕打ちではあった。

 荒鷲を目ざす若者たちは皆意外に強じんだった。弱音を吐く者もなく、裸で"マグロ"を命ぜられても、風邪をひく者もいなかった。心の中で、戦斗機に乗って活躍することを夢見ていた。


厳寒を衝いての飛行訓練

 そのころになると東京周辺は空襲に見舞われ始めた。航空士官学校の上空にも、しばしばB29が偵察にあらわれた。B29の姿をみてハギシリしてくやしがった。だがこのような状況では落着いて訓練が出来ないので、満洲に渡ることになった。

 富山県の伏木港から出帆、北鮮の清津(せいしん)に上陸、西北満、白城子の北"鎮西"に移った。


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☞満洲地図。清津-白城子-新京(長春)


 ここ鎮西の飛行場は関東軍が、北満の守りにそなえ、金、資材、日数をかけて作り上げたものだった。暖房設備の完備したコンクリートの立派な兵舎が立ならび、今さらながら日本軍の威容を感じたものだ。

 滑走路はよくなかったが、誘導路を通じて地下格納庫の完備していた。

 倉庫には数年分の食糧が確保され、米は勿論(もちろん)のこと、洋カン (*5)、罐詰、航空食糧などがギッシリつまっていた。

 内地 (*6)で高粱(コウリャン) (*7)を食っていた我々は高粱の産地満洲に来て、まじりけのない銀メシに毎日ありつくことになった。


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☞コーリャン:Wikipedia


 前にいた部隊は全部沖縄決戦に突入していた。町には日本人は一人もいなく、なんとなく心細かったが、かえって腹は決った。

 ここでの訓練はまだ狭山以上の制裁につぐ制裁で始められた。

 最初に乗った飛行機は「ユングマン」といって自動車に翼をつけたようなシロモノ。


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☞陸軍がドイツのビュッカーBü131ユングマンを国産化させた四式基本練習機(キ86)

 
 だが、いまのジェット機には到底出来ない曲芸飛行の醍醐味は味(あじわ)えた。元はドイツ製で空冷、倒立八気筒、九十九馬力、翼長八メートル、複葉、巡航速度時速百二十キロ、という超小型これでも二人乗りである。

 逆ちゅうがえり以外の特殊飛行は全部出来た。どんなに訓練がきびしくとも、飛行機に乗れるというそれだけで充分うれしかった。一日も早く、一分でも早く技術を身につけたいと、どんよくなまでにひとみをもやした。

 横転、逆転、ちゅうがえり、急旋回、キリモミなど、二、三回習っただけで出来るようになった。教わる時は教官が後部座席に乗り、伝声管を通じて、

「右足をふめ!」

「機体が傾いている!」

 などと指図した。だがときには木の長い棒を持って乗り、空中でいきなり立上って後ろからなぐりつけることもあった。身長をごまかした私は、ただ一人ガクッと小さく、

「方向舵を動かす踏板に足がとどかないだろう」

 とひやかされたものだが、このオモチャのような飛行機は全く手ごろだった。ノッポの長岡候補生は座席に坐(すわ)って操縦桿を握ると、ひざ頭の間に燃料コックにふれる始末、燃料コックが閉になるとエンジンは止ってしまうわけ、エンジンが止まると、墜落は必定。ビクビクしているさまはハタで見ているのも気の毒だった。

 或(ある)日S候補生は着陸操作を誤り、着陸して停止する寸前に飛行機が前のめりになって逆立ちしてしまった。幸いS候補生はひたいをうっただけで無事だった。飛行機はこわれてあとが大変、死ななかったのを確認した区隊長のC大尉は、

「貴様! 地上で逆立ちも出来んのに飛行機で逆立ちするとは生意気だ、逆立ちをしておれ!」

 と命じた。S候補生は兵舎の壁に足をたてかけて逆立ちを続けたが、鼻、口からは血をふき出し、顔は無ざんにふくれあがった。飛行場には約三百本のガソリンのドラムカンがあった、だがこのガソリンは対ソ戦にそなえて使わなかった。ガソリンの一滴は血の一滴 (*8)というわけ。そこで我々はアルコールで飛んだ。アルコールは気化性が強く、すぐ点火栓が故障して飛行中エンジンが停止、不時着が続出した。このような危険の中でも、一秒でも多く飛行機に乗りたかった。


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☞逆立ちの見本。第321海軍航空隊の二式陸上偵察機


 飛行時間はそのまま伎倆の優越を示したからだ。一回の飛行時間は三十分ときめられていた。時間の観念をうえつけるためと、燃料節約のためか、三十一分飛んだために三十一発ブンなぐられたことがあった。歯がぐらつき、口の中が切れ、一週間以上も食事が出来なかった。

 雨の日は厄日だ。区隊長はひまつぶしに内務検査というのをやる。靴の底を検査、目に見えないくらいのゴミをみつけ、底をナメさせるのだ。男性のシンボルにことさら煙草の灰をおとす、という変態的な制裁まで行われた。

 中隊長のI中佐をはじめ、区隊長のO大尉、K大尉などがこれをやった。むずかしい着陸操作でも三、四回でおぼえなければムチがとんだ。剣術に使うシナイの竹でなぐりつけられ、体中に真赤なヘビが、幾匹もはったようなあとがつき、血がにじみ出たことがあった。このあとはその後二年間も消えなかった。

 歯をくいしばってこらえた。このごろには人間としての感情は消え失せていた。

 ただ、一ときも早く完全に飛行機の操縦をおぼえようということだけに集中していた。

 満洲は六月になると木の芽がふき出し、草花が一せいに咲きこぼれる。技術の進歩とともに飛行場の緑も一日一日、目にはっきりとわかるように濃くなっていった。訓練はユングマンから高等練習へと移った。

 八月九日ソ連が参戦した。ソ連戦車部隊は国境を越えて侵入して来た。我々は覚悟を決めた。中央からは何の命令もない。飛行場周囲にざんごうを掘り準備を進めたが、勝算はなかった。私たち士官候補生六十名をのぞいて飛行場にいた警備大隊約四百名は小銃さへ射ったことのないという老兵ばかりだった。


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☞新京の関東軍司令部


 玉砕のホゾをかためた。だが十一日夜、新京に連絡にいった飛行機が深夜、"撤退命令"をもって舞い戻った。飛べる飛行機はとび、残りは汽車で撤退をはじめた。対ソ戦にそなえた三百本のドラムカンには火をはなった。この燃える煙は遠く白城子からも見えた。暴民は掠奪のため飛行場に乱入した (*9)


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☞満洲の広野を驀進する最新流線型列車アジア号


 飲まず、食わず、ヤセ衰え困難な敵中突破のすえ我々は八月末鳥取県のS港にたどりついた。私が身につけていたのは拳銃一丁と備前長船祐定(おさふねすけさだ)の軍刀だけだった。ここではじめてはっきりと終戦を知った。内地を出帆する時は国防婦人会がお茶のサービスをしてくれたものだが、上陸した内地で待っていたのは冷たい眼だった。内地上陸第一夜は星をながめながら、石を枕に溝にねた。住民は一杯の水もくれなかった。二、三年先輩の名簿を見ると三分の二以上は戦死している。我々は 「国のために命を捨てるのだ」 と信じていた。悪いことをしたというおぼえは何もなかった。内地上陸第一夜に受けたこの仕打ちは、一生忘れることの出来ない印象となっていまでも心にきざみついている。

 ここから全員"修武台"に集った。接収部隊が入っていて、"修武台"と書いた碑の文字はけずりとられていた。

 心のふるさとと思っていた"修武台"はすっかり面影を変えていた。私たちは涙を流しながら、

「十年しんぼうしよう、キット、国軍が再建され、我々の必要なときがくるだろう」

 と故郷へ散っていったものだ。

 それから十有余年はすぎさった。(終り)



【写真・資料出典】
1937(昭和12)年 松村好文堂編 「全満洲名勝写真帖」アジア号(8コマ目)関東軍司令部(21コマ目)
・1995(平成7)年 光人社 雑誌「丸」編集部編 「日本軍用機写真総集」

  • 最終更新:2017-07-11 14:12:07

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