【乙種予科練・三重海軍航空隊】16歳の予科練

出典:1956(昭和31)年 「現代読本」第一巻第四号所収 「16歳の予科練」 元・乙種予科練 第二十期生 竹村由三


吊床(つりどこ)に偲(しの)ぶ母の面影

「お母さん!」

 呼んだ自分の声で、ハッと眼がさめた。頬が涙でぐっしょりぬれている。家郷(かきょう)の夢を見たらしい。

──お母さんだなんて、女々(めめ)しい言葉を誰かにきかれなかったろうか?──

 私は吊床の中でソッと首を擡(もた)げると、あたりの様子をうかがった。きこえるのは、戦友たちのスヤスヤという寝息だけだ。

──よく、寝てるなァ──

 と思った。無理もない。早朝の、

「総員起し五分前ッ!」

 の号令ではじまる猛訓練は、夜になって吊床にもぐりこむまで、息をつくまもないほどつづく。長い一日が終わって吊床にもぐりこんだ時は心身とも綿のように疲れ切っていた。そしてむさぼる夢の中から、また若い精気をとり戻して、予科練生たちは明日の猛訓練に体当りしてゆくのだ。

 私は、ねむっている戦友たちに心の中であいさつをおくると、そっと毛布に頤(おとがい)を埋めた。毛布のやわらかい感触は、なんとなく母の愛撫を思わせる。私は、その感触をむさぼりながら、ふたたび眠りにつこうと努めた。しかし、一度眼をさましたとなると、今度はなかなか寝つかれないものだ。その冴えた意識に今日の分隊長の精神講話が、こびりついてはなれない。分隊長はこう言った。

「この三重海軍航空隊を巣立ったお前たちの先輩、第十六、七期生はすでに、一人前の海鷲として第一線で活躍している。とくに、去る十月○日の戦闘では、お前たちが入隊当時指導に当った十七期の河井、古川、吉成らの一飛曹が、銀河特攻隊員として攻撃に参加、赫々(かくかく)の武勲を建てた後、沖縄のはてで壮烈な散華をとげられたのだ! 次はお前たちの番であるから、せっかく訓練にはげんで、何時(いつ)なんどきなりと出撃の命令に応(こた)えられるようにしていてもらいたい!」

 キューッと全身のひきしまるような瞬間だった。戦局の急迫が、犇(ひし)と感じられた。

 沖縄に散った三人の勇士は、いずれも私たちの先輩として、親しく教えてもらった人たちだったが、なかでも河井一飛曹には、私は特別の親しみを感じていた。いざ出動というその前夜、当時兵長だった彼は、

「竹村。これは俺が肌身はなさず持っていた郷里山形のコケシ人形だ。これをお前にやろう。マスコットにしてくれ!」

 といってちいさな、コケシ人形をくれた。そして、

「じゃあ、元気でな。一足先にゆくぞ。靖国でまた逢おう

 その時の、ニッコリ笑った彼の歯の白さが私は今でも鮮かに眼に残っているのだった。

 こうして先輩は征き、そうして散った。それはまた、私たち二十期生に、やがて訪れるべき運命でもあった。それを思うと、私はなぜか不安で心が波立った。命が惜しいのではない。十六歳という未熟さ。それに、訓練もなかばに、何時なんどき実戦の空へとび立つかも知れぬ昨今の情勢を思うと、

──はたして、先輩たちの後につづけるだろうか──

という不安だった。

 あれこれ、思いめぐらすうちに、ひるの疲れで私は何時かまたねむりかけたらしい。と夜の静寂をぬって、喨々(りょうりょう)と巡検ラッパが鳴りだした。しずかな、澄んだ音いろだ。やがて番兵も遠ざかるコツコツという靴音。

「巡検終り。明日の日課、予定表通り」

 拡声器が報ずるのをききながら、私はふたたびねむりにおちていったのだった。



【予科練の吊り床】
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火花散る最初の洗礼

 私たちが、七つボタンの予科練に入隊したのは、忘れもしない昭和十九年五月三日のことだった。毎日毎日苛烈な戦局を反映して、銃後もまた凄(すご)いばかりに緊張し殺気だったあけくれをおくり迎えていた。その中を、銃後の与望 (*1)を双肩に担う意気込みで、予科練に合格した私たちは、三重空の門を潜(くぐ)ったのである。

  雲津の川瀬月澄みて、
  太平洋の波寄する
  神風伊勢の加良州浜
  雄叫(おたけ)びあぐる高らかに
  我等(われら)は空の少年兵

 の隊歌そのままに、三重空は津と松阪の中間を流れる雲出川のデルタに位置し、伊勢の海から吹き上げる潮風の中に横たわっていた。

冬ともなれば、遠い山脈から吹きおろす鈴鹿おろしが、凛烈(りんれつ)に肌をつんざく環境だった。

──ここが、いくたの荒鷲を産んだ揺籃(ようらん) (*2)の地なのだ──

 そう思うと、思わず武者ぶるいを禁ずることができなかった。

 私たちは、入隊したその瞬間から、世間では想像もつかないような猛訓練の中に叩(たた)きこまれた。

 入隊したそのあくる日、まず、度肝(どぎも)をぬかれるようなことが起った。夜もまだあけやらぬ午前四時、私たちは、

「総員起床ッ」

 という班長の声で、ねむりを破られ、そのまま舎外に整列させられると、時を移さず駈足(かけあし)行進に移った。

 四時に叩き起されただけでも度肝をぬかれた私たちは、駈足、ときいてオヤオヤと思った。せいぜい整列して点呼が終れば、洗面、それから食事くらいに考えていたのである。

「駈足イ進めっ!」

 の号令で、班長の後から走りはじめる。一隊は、暁闇(ぎょうあん)の中にどつどつという靴音をひびかせながら、隊内を海岸へと向った。十分、二十分、三十分……駈足はまだ続いている。一時間経っても、まだ走りつづけた。この時分になって、私たちはようやく事態の容易ならぬことに気がついた。はじめは、せいぜい朝食前の軽い運動くらいに考えていたのだがとても、そんな生やさしい駈足でないことが判(わか)ったのだ。このころになると、眼に見えて落伍者が増えはじめた。

 私は、砂浜の砂に取られる足を踏みしめ踏みしめ、夢中で走りつづけた。眼がくらくらして、前方もよく見えない。ただ落伍すまいと、器械的に足を交互に前へ出すのが、やっとだった。

 やがて、練兵場へ出た。夜明けの潮風が、汗にまみれた顔をひんやり撫でる。が、それを快く感じるゆとりなど全くなかった。もうぶっ倒れんばかりになって、辛(かろ)うじて走りつづけるのみだった。

 こうして、早朝からはじまった駈足は、ものの三時間もつづいた。駈足が終った時、班長の後にしたがっていたのは、数えるほどのわずかな人数で、大半は途中で落伍していた。そうかと思うと駈足が終ったとたんに、くずれるように砂の上にブッ倒れたまま起上らない者もいた。

 こうして一隊は、ほとんど全滅にちかい恰好(かっこう)で兵舎に帰ったが、帰るなり、班長は重ねて全員集合をかけた。そしていきなり、

「貴様たちはいったい何処(どこ)の国の兵隊だッ。そんな者は役に立たんから、役に立つようにしてやる。いまから貴様たちの身体に残っている娑婆(しゃば)ッ気(け)を叩き出してやるッ!」

 それが何を意味するかは判らなかった。私たちは、だがやがて、班長の意図を、イヤというほど骨身に沁みて知らされた。骨も砕けよと振りおろされるバッターを臀部に受けて私たちは眼から火の出る痛さというものを、生れてはじめて現実に知った。

 それが、入隊のあくる日にはやくも経験した、予科練精神の最初の洗礼だったのだ。


血を吐く思いの猛訓練

 朝の起床、吊り床おさめからはじまって夜の就寝まで、びっしりつまった日課は、文字通り実戦のきびしさにつながっていた。

「ヨーイテ!」

 の号令で、ソーフと呼ぶ太いマニラ麻を押して甲板を何度も往復する朝の甲板掃除。酷寒の海に肩までつかったまま、十分間は身動きひとつできない寒水泳。そうした訓練は、常識で考えられる人間の体力の限界を超えていた。

 しかも、その合間あいまには、全体責任による罰直、制衣、そして海軍精神注入棒と呼ぶバッターの苛借(かしゃく)ない洗礼──。

「あー辛(つら)い。死にそうだ。もう俺はだめだ」

 いくたび絶望的な苦悶の声をあげたことだろう。

 しかし、予科練の猛訓練は、ついに体力を超えた体力、精神力を超えた精神力を強引につくり出さずにはおかないのだった。乱れとぶビンタ、バッターとび散る血しぶき、きしる骨、破れる肉──その猛訓練の中から、世界にも類のない特攻精神が生れていったのであろう。

 こうして、入隊して二ヶ月も経ったころには、私といっしょに入隊した者たちも、身体はみちがえる程頑健になり、動作にも、眼のひかりにも、きびきびと無駄のないものがみなぎるようになった。

 しかし、このころになると、

「いったい何時(いつ)、飛行機に乗れるのだろう」

 という不満を抱くようになった。七つボタンに憧れる私達の夢は、荒鷲として大空に羽搏(はばた)くことだった。しかし、訓練は相変らず直接には航空機の搭乗に必要ないと思われる地上の鍛練を繰り返えしている。

 そんな不満がつもったのだろうか。それとも、予科練生活にもようやくなれて、横着さが生じてきたのだろうか。ある時、こんな出来事があった。

 その日、私はバス(入浴)当番に当っていた。バス当番は各分隊から二名ずつ出て、夕食後バスを湧かさねばならない。

 ところが、その夕方は、物凄(ものすご)い吹き降りだった。伊勢湾から吹きつける強風に流され、横なぐりの雨が滝のようにゆくてを閉(とざ)しているのだ。一歩戸外に出た私は、その凄さに、思わず、

「あっ!」

 とさけんだ。歩行、呼吸すら困難なのだ。

「こんな日に、一体バスを立てられるだろうか?」

 私は今夜の掃除は多分中止ではないかと思いながらも、とにかく、幾棟かの兵舎のあいだを脱けて、入浴場に馳(か)けつけた。全身ぐしょぬれの始末をする間もなく、入口を見るとすでに当番長になっている古参兵の一人が、棍棒(こんぼう)を握って凄い形相で立っている。ほかの当番兵は、まだ来ていないらしい。

 私は、

「第二十分隊バス当番おくれましたッ!」

 気合をこめて敬礼した。私がおそらくいちばん早いだろうとは思ったものの、もし先着がいた場合には大変なので、わざと「おくれましたッ!」と挨拶(あいさつ)したのである。少しおくれて、二名ほどやってきた。しかし、他の当番はついに来なかった。この風雨で、参集を断念したと見える。掃除が終ると当番長は、

「貴様たちはよく来た! しかし、他の者はいったいどうしたのだ! タルみやがって」

 それから、私たちに向って、

「今日は御苦労だったから、湯に入って、帰れ」

 バス当番が、先に入浴することは禁じられていたのだが、当番長の許しが出たので、私たちは入浴して帰ったのである。その晩はそれで済んだ。ところが、あくる日が大変だった。甲板掃除に出るや否(いな)や、

「昨日のバス当番集合ッ!」

 と声がかかった。

───来たナ……───

 と思った。昨日、風雨をついてバス当番に参集した者も、今日の集合に例外はない。私たちを集めた先輩は、

「なぜ集合させたか判るか、判らなければ今判るようにしてやるぞッ!」

 凄(すさま)じい全員罰直がはじまった。まず、ひとわたりに鉄拳の洗礼がすむと、次は、

「腕を前に支えッ!」

 それを何十回繰返したろうか。ヘバって腹を甲板につける者があれば、その臀(しり)をねらって、バッターは苛借なく力一杯ふりおろされる。ガッという、骨と肉の鳴る音。うーん、といううめき声。ぼーっ、とかすんだ眼に汗は流れこみ、甲板の木目も、かすんで見えなくなった。それが終ると、今度は水をいっぱいにみたしたオスタップ(大きなタライのようなもの)を両手で持上げさせ、両脚(りょうあし)を半ば屈させたままの姿勢で、いつまでも何時(いつ)までも立たされた。腕はしびれ、オスタップは傾いて水は頭から肩を、容赦もなく濡らす。

「なんだ、そのざまわッ。ソラ、腕が下(さが)るぞッ!」

 バッターは狂ったように、みんなの臀をなぐりつけた。それが終って、やっと甲板掃除にかかったが、すでに体力の限界を絞った後のこととて、ただでさえ思いソーフが、さっぱり前にすすまない。

「何しとるかッ!」

 バッターに臀を追われ追われ、からだごとのめるようにソーフを押してゆく辛(つら)さ! 歯を喰いしばり、甲板に血の涙をしたたせながら、私たちは、祈るように、

「常ニ純真ナレ、常ニ真剣ナレ、常ニ攻撃セヨ」

 分隊長の言葉を口の中でくりかえした。前日バス当番に出た者も出ない者もない。全員罰直こそ、一艦に生命を托(託)する海軍精神のきびしいあらわれだった。


無念! 適性飛行の失敗

 そのうち、三カ月を過ぎて、いよいよ待望の適性飛行のテストが行われた。その結果、おのおのの適性にしたがって、操縦と偵察の二つの部署に分れる運命の分岐点だった。操縦員として不適格と認められた者は偵察員として同乗することになる。かねて訓練をかさねたモールスにものを言わせるわけだ。しかし、地味な偵察の任務より、操縦桿を握るを志す者が圧倒的に多いのは、若い予科練生として当然のことには違いなかった。

 いよいよその当日がきた。場所は鈴鹿航空隊だ。赤トンボと呼ばれる練習機にはじめて乗れる期待で、みんな朝からワクワクしていた。鈴鹿部隊に到着すると、すでに実施部隊に派遣された先輩たちが、飛行服も凛々(りり)しい搭乗員姿で我々をむかえてくれた。

「しっかりやれよ」

 とはげましてくれた。はじめて身に着ける飛行服に固くなりながら、教員と共にいよいよ私たちは機に乗り込むのだ。練習生は前坐席、教員は後方坐席。出発に先立って、正面の指揮官に向い一人づつ出発報告をした。

 いよいよ私の番がきた。

「竹村練習生、空中操作同乗出発します」

 祈るように、じっと力をこめて操縦桿をにぎる。夢中のうちに、どうやら片手両脚を基本通りに操作して機はふわりと宙に浮いたのだ。嬉しかった。だがそのとたんだ! 機は大きく左右に振れ、地と空が、かわるがわる視野に入ってきた。ひどく不安定な気持だ。そのうち、機首がガクンと下ったと思うと、身体が機外に投げ出されそうなショックを受ける。

「いけない!」

 私は慌(あわ)てて操縦桿を引いた。と、今度は逆に機は急角度で下昇を開始するではないか。そのあおりで、私のからだも気持も、ますます安定を失った。そうした私を奔弄(ほんろう)するように、機は私の意志を無視して、勝手気ままな不安定飛行をつづけるのだった。

 すると機体がぶざまに揺れるたびに、

「バカヤロー。何をしとるかッ!」

 目を光らせていた教員が後方でいきなり怒鳴るのだ。私は泡を喰って、いよいよ処置の適切を欠いた。

 こうした悪戦苦闘のすえ、やっと試験飛行を終って着陸したのである。

 飛行機を操縦したというよりも、勝手に動く機にほん弄(ろう)されたという感じだった。着陸した時は、全身にぐっしょり冷汗をかいていた。

 そして、やがて、その適性飛行の結果、私は操縦士として不適格と定まり、偵察分隊に所属することになったのだった。

 これはあとで知ったのだが、練習生が、機上で何か操作するたびに、教員が後方で、

「バカヤロー、何しとるかッ!」

 などと怒鳴るのは、一種のテストで、必ずしも練習生の措置が適切を欠いていたせいではないらしかった。つまり、自信があって、そうした教員の怒鳴り声に惑わされることなく、平静に行動すればよかったのである。ところがたいがいのものは怒鳴られるとアガってしまって、ますます処置を誤ってしまうものだ。私もその手に乗ったのだ。後でそうと判って口惜(くや)しがったが、もうそれは後の祭だった。しかし、分隊の編成がきまると、操縦分隊は操縦術に、偵察分隊はモールスにと、いよいよ訓練は本格化していったのである。



【飛行兵としての基礎ができると予科練に別れを告げ、飛行練習生となる】
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羽搏(はばた)けど巣立たぬ雛鷲(ひなわし)

 予科練の教程を半ば終えたころ、待ちに待った野外演習が行われた。陸戦教育を目的に三日間の猛練習が行われるのだが、その練習の辛(つら)さを補って余りあるのは、ひさびさに隊外の空気を味(あじわ)えることだった。はてもなく鈴鹿山麓に展(ひら)けた緑の田園。そうして夜になると十名くらいづつに分れて附近の民家に宿営するのだった。久々に畳(たたみ)の上に寝られると言って、練習生たちは喜んだ。

 私たちの宿舎に充(あ)てられたのは、貧しげな老夫婦と子供二人の農家だった。しかし、待遇はじつによかった。とっときの鶏(とり)をつぶして鶏飯(とりめし)を作ってくれたり、なけなしの砂糖をつかってボタ餅を作ってくれたりした。

「兵隊さん、うちではロクなこともできねえだが、どうか遠慮なくやっておくんなさい。じつは、この子らの父も、昨年ニューギニアで戦死しましてな。嫁は嫁で病気で亡くなるし、としよりと子供で、なんにも出来ねえでほんとに申訳(もうしわ)けねえけんど、ゆっくりくつろいで下されや」

 孫のような私たちに向って、老百姓は涙さえ浮べて語るのだった。

 そうだったのか此(こ)の家もまた戦没者の家だったのか。我々は、黙って暗然と顔を見合せた。

 その夜、便所へ立った私は、まだ起きているらしい家人(かじん)の気配に、何気なく勝手のほうを窺(うかが)った。家族四人が、向い合っておそい夕食をとっているところらしかった。フト、その膳部に眼をとめた私は、

「ああ、そうだったのか!」

 とこころの中で呟(つぶや)いた。なんとも言えないすまないような気持におそわれた。あれほど我々をもてなしておきながら、家族の夕食はあまりにも貧しいものだった。まっ黒なムギ飯と、一菜もない、ただの一汁だけ───。それを、ちいさい孫たちも、文句も言わずに黙って喰(た)べているのだ。

 私は暗い灯の下にうずくまって、黙々と箸を使っている家族の姿が、世にも美しいものに見えたのだった。

 私は部屋に戻ると、戦友たちにその事を話した。みんな、暗然として言葉もなかった。やがて誰が言い出すともなく、

「せめてもの恩返しに、我々の持っている食糧を出し合ってやったら……」

 と言うことになった。むろん、異論のあろうはずはなかった。各自の携帯食糧や菓子類が集められ、さらに特別配給のカン詰(づめ)を出し合った。

 あくる朝、いよいよ別れを告げる前に我々はそれを夫婦の前にさし出した。夫婦はびっくりしたような顔をして、それを辞退するのだったが我々が熱心にすすめるので、それを有難(ありがた)くおしいただいた。

 有難うよ予科練さん─── その目の中には、そう言っているような光りが宿っていた。そして二人の子供は見た事もないような菓子を両手に持って大はしゃぎだった。かくて露営の夢ならぬ民家の一夜はあけて、我々は去り難い思いに惹(ひ)かれつつも、一家の人たちに見送られて元気に出発していった。



 
 戦局はいよいよ決定的な最後の段階に近づきつつあった。さきに、十六、七期を一線に送った三重空は、さらに十八、九期生をも激戦の空へとび立たせた。次はいよいよ我々二十期の番だ。このころになると、すでに我々の後輩である二十一、二期の練習生も入隊していた。しかし、訓練の様相は一変していた。いまでは、彼らの主要な仕事はモッコ (*3)担ぎや防空壕堀りだった。七つボタンに憧れて三重空にやってきた彼らはいったいどんな気持でそうした作業に従事していたことだろう。ここにも一変しつつある戦局の様相があった。

 二十年の三月だった。突然命令が下った。

「いよいよ、俺たちの番だぞ!」

 果せるかなそれは私たちへの待望の出撃命令だった。

 隊内は急に騒然となった。待ちに待っていた前線への出撃。誰の顔を見ても双頬(そうぼう)を感激に紅潮させて眼が緊張にキラキラと光っていた。

「遂に来たナ」

 押えても押え切れない嬉しさがこみ上げてきた。みんな先輩達は勇躍して飛び立ってゆくのに、いつまでも取り残されていたことの辛(つら)さ。

 だがその辛さとも別れるときがきたのだ。

 三重空を退隊するに先立ち、私たちは最後の外出をした。街に出ると、思い出の一杯三十銭のカレーうどんを喰べ、指定写真館である松阪のライオン館で、最後の記念写真を撮った。この写真が出来る頃は、もういずこの空に果てているやら判らぬこの身であった。写真屋に郷里への託送をたのんだ。そして思い出の城跡を三々五々逍遥(しょうよう) (*4)しながら、予科練生活への別れを惜しんだ。

 翌日はいよいよ七つボタンを脱いで、死地へ赴く秋がきたのだ。

 だが、しかし、私たちの決意をよそに、歴史の巨大な歯車は、この時すでに廻りつつあったのだ。

 終戦───。

 私たちは、ついにとび立とうとして、とに立てぬヒナ鷲だった。私たちを待っていたもの───それは、栄光への死ではなくて敗残の生きたむくろだった。これが幸であったか不幸であったかは判らない。

 いまは、軍服を脱ぎ、荒れ果てた故郷の山河に静かに往時を偲ぶ私たちの感情には複雑なものがある。 (完)




【写真出典】

  • 最終更新:2017-07-11 14:05:13

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