【万朶特別攻撃隊】暁に散る! 万朶特別攻撃隊
出典:1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本」第一巻第四号所収
万朶隊飛行隊員 元海軍少尉 湯川清司 「-特攻垂直急降下隊- 万朶特別攻撃隊」
散りてこそ浮ぶ瀬もあれ櫻花
けふの訪れ長しと待ちし
この歌は隊長機同乗通信士生田留夫曹長が出撃前夜に記した歌である。
昭和十九年も後半ともなると、戦局は日々に不利となって来ていた。
七月にはインパール撤退作戦、サイパン島玉砕あり、八月にはテニアン島玉砕、十月には台湾沖航空戦に次いで米軍レイテ上陸となりついには捷一号作戦の発令となっている。
既に海軍では敷島隊が発進して、大戦果を挙げていた。
海軍特攻に相呼応して陸軍特攻が生れたのだが、海軍機が零戦であって、陸の特攻万朶(ばんだ)隊は軽爆撃機だった。この軽爆に二〇〇キロ爆弾を搭載して、身は万朶の桜と薫り、花と散っていった陸軍特別攻撃隊の人々の凛々(りり)しい勇姿は、私があの世で彼等(かれら)に逢える日が来るまで人にも語り、自らの生きる師表(しひょう)ともしたいと思う。
「万朶飛行隊」の万朶は、敵艦船目指して"万朶"の桜と散るという意味で、あの幕末の頃の勤皇の志士、水戸の藤田東湖の歌からとられたとも言われている。
天地正大の気、粋然として神洲に鐺(あつま)る
秀でては不二の嶽となり……
から続いて、
発しては万朶の桜となり衆芳(しゅうほう)ともに
類(たぐい)なし 凝っては百錬の鉄となり……
というあの詩句なのだ。
われわれの猛訓練は、勿論(もちろん)熊谷陸軍飛行場で行われた。そして、昭和十九年十月に熊谷を飛立って比島 (*1)前線に行った。
澄み切った秋晴れの大空軍編隊を組んで、飛翔間もなく東京上空に至ると、遥(はる)かに宮城(きゅうじょう) (*2)の青々とした樹木、眼に光るのはお濠(ほり)だったろうか、私はそれを見下(おろ)しながら身内のひきしまる感激に涙さえ流れてきた。
やがて浜松から南下、比島クラーク・フィールドに着いて、すぐさま熊谷同様の猛訓練だった。
万朶隊指揮官の岩本隊長は、普段は温厚な方だったが、訓練となると厳格極りない方だった。
隊長はみな真黒(まっくろ)な汗まみれの顔になりながら何回でもやり直しをさせられた。だが、隊員にとってはその方が有難(ありがた)かった。隊長の御気持も充分判(わか)り過ぎるほど判っていたからだ。
それは戦闘ことに特別攻撃にとってはやり直しがきかないからだ。
失敗した時は、自分がやられている時だし大切な機もなくなってしまう。一発必中あるのみだからだ。
そのため急降下爆撃法と水平跳飛爆撃法を修得させられた。
急降下爆撃法とは高々度から敵艦へ向って一気に急降下するもので、加速度の加わるため爆弾の爆発力は増大せられ、その上に敵対空砲火により撃墜される比率は非常に少ない。だが、低空に来る頃に敵艦が回避行動を起した場合は、急激垂直は降下速度のために機首をたて直すという事が出来ず、海中に突入してしまう難点があった。
また水平跳飛爆撃法は、敵艦船前方、約二〇〇〇米(メートル)位から急降下して、海面上二〇米程度の低空をとりそのまま直進、敵艦の吃水に体当りするもっとも確実な攻撃法だが、目標突入前の一定時間は集中攻撃を浴びるものと計算されねばならぬので撃墜される公算も大となってくる。
そして急降下、水平跳飛は共に目測を少しでも誤れば完全な失敗となるのだが、この二方法が最も確実とされた。
どちらの方法によるかは、攻撃時の天候及び目標位置により撰定されることになった。
要は必殺にありで、厳格を通り越した神経質なまでの指示を与えられたものだった。
【万朶隊隊長 岩本益臣大尉】
突入角度を錬(ね)るための烈(はげ)しい訓練が連日続けられた。そして岩本隊長はいつでも地上に仁王立(だち)になって絶えず手まねで方向を訂正する。
われわれはすっかりクラーク・フィールド基地の風向きと地形まで呑(のみ)込んでしまった。
ピスト周辺にはどんな起伏があり、どの辺りの土質が柔(やわら)かいか硬いかまで知悉(ちしつ)した。
われわれは相当に自信を持ったのだが、隊長はもっと先のことを懸念されていたらしい。
それはクラークでは万全と思われるが、全然未知の地形または海上に出た場合、万が一にも目測を誤ることがないだろうかと、周辺の条件が変った場合を心配されていたようだ。
園田中尉殿にだったか、
「海上までうまくやってくれればいいが……」
と洩らされたとか聞いている。
隊長は福岡県築上郡岩屋村出身の方で、航空士官学校卒業後、支那大陸を歴戦されてからわれわれの訓育に当られた優しい武人だった。比島出撃の前年、十八年暮(くれ)に結婚なさっていた。戦歴、略歴、人格総(すべ)て、隊員たちの父とも兄とも仰ぐべき空の勇士だったのに、残念な事だが、万朶隊出撃の迫った或(あ)る日──
攻撃の日程等の連絡でマニラに向われ、途中でグラマン編隊に遭遇、戦死を遂げられていた。同行の園田芳己中尉(佐賀県)安藤浩中尉(京都府)川島登中尉(横須賀)中川勝己少尉(和歌山県)も共に、壮途を前にして空戦死された。
既にレイテ島上陸軍を掩護(えんご)のために敵艦船はその物量に物を言わせようと続々湾内の波を蹴(け)立てて進入を試みていた。何時(いつ)何処(どこ)で敵艦戴機群に邀撃(ようげき)されるかは計り知れなかった時とは言えこの事は悔(くや)んでも悔み切れない痛恨事だった。
このため万朶飛行隊の指揮は先任下士の田中逸夫曹長がとられることとなった。岩本隊長以下四名の幹部将校のなくなられた現在、その霊を慰めるためにも必殺を期さなければならないのだ。
新たな攻撃隊長田中曹長の胸には必殺の二字あるのみだった。
田中曹長は福岡県京都郡出身、どちらかと言えば科目で勤直な方で岩本隊長の信任も厚かった。隊長と同じく北中支に転戦した空戦の古強者(ふるつわもの)だし新攻撃隊長としてうってつけの人といえた。
生田曹長は兵庫県多可郡沖津村出身、酒豪で、酔うと実直な普段の感じと違って、良い声で磯節などをうたった。
酔余(すいよ)、
「内地を出るとき校長閣下(熊谷飛行学校長)に酒は呑んでも呑まれるなよ。と言われたぞ」
と如何(いか)にも楽しそうに酒を味わっていたようだ。また嗜(たしな)みも深く冒頭の歌を作った。
久保昌昭軍曹は大分県中津市出身、第一次万朶攻撃隊員中ただ一人の少年航空兵出身者で非常な熱血漢だった。郷党(きょうとう)から贈られた日の丸の国旗を鉢巻の代りに頭に巻いて出発したが、それには「万夷必らず一殺を期す」と大書されていた。
「轟沈した敵空母の連中を極楽だか地獄だかに引率する時の指揮をとるには、日の丸でなけりゃァいかんです」
と張り切っていた。
佐々木友治伍長は北海道石狩郡当別村出身色白紅顔の美青年で、北国人特有のあくまでやり抜くというすばらしい粘り強さを持っていた。何と言ったらよいか屯田兵の子孫だけあって烈しさと着実さを兼ねそなえた人で第一次隊員中、最後まで生き残って奮戦した勇士だった。
「親友でボロのシャツを着ているのがいるから、このシャツは出発のときにやるんです。自分はどうせ死ぬんだから、飛行服をじかに身につけるからいい」
と恬淡(てんたん)たる心境だった。
第一次攻撃隊員の人柄は以上述べたとおりだが、報国と将校搭乗員たちの敵討ちのため、先任下士官田中曹長を主体に訓練は続行された。十一月になると訓練場外はクラーク・フィールド基地からカービカン基地(マニラ市南方郊外)に移され、其処(そこ)で仕上げとも言うべき仮想訓練が実施された。
「今暁。四三〇──有力なる敵機動部隊はマニラ湾東南方一五度、三〇〇キロの地点を航行中。よって本隊は直ちに発進、すみやかに敵機動部隊を撃滅せんとするものなり。敵発見までは一切無電管制とし厳重に禁止する──」
田中隊長の指示のもと、隊員は瞬時に方位を計り、編隊調正 (*3)、燃料消費等を計算して航空図に確認するや、次々と離陸、上空で編隊を組み、目標地点に到達、急降下並びに跳飛訓練を実際に行ってみるわけだ。
総仕上げが終ればあとは出撃を待つのみである。
「必殺」を心に刻み込んだ四隊員は朝と夜、必らず隊長室を訪れる。
岩本隊長以下の遺骨を納めた白木の箱が飾られてあるからだ。訓練とは言えやり直しのきかない特攻攻撃の任務を、残るわれわれでやり抜きます。どうぞ見ていて下さい────
と闘魂をじっと湛(たた)え、息をつめて祈りを捧げてかえるのだ。
敵艦船は比島奪回のためにマニラ湾内に遮二無二(しゃにむに)突入し始めた。
比島の危機だった。
当時の米側ハルゼー大将の記録を読んでも、
"われわれはこの攻撃の結果、中部フィリッピンが、隙だらけであることに気付いた。マニラを叩けるだけではなく、もっと大きな攻勢がとれるかも知れない。そこで私は、マッカーサーが計画していたミンダナオの攻略をレイテに変え、その日取りも予定の十一月五日よりも、ずっと早めてはどうかと考え出し、幕僚達と協議の末戦果や、友軍の協力を検討した上「出来る」という結論を得た……さて、いよいよ九月二十一日には北西に進撃して約束通りマニラを襲ったが、われわれは完全に敵の虚(きょ)を突いた────"
とあり、いかに当時の米軍の反攻が相当な強力機動部隊によって行われていたかがわかるわけだ。
敵が行った何度目かのレイテ湾突入の十一月十一日午後四時。
比島方面陸軍航空部隊指揮官富永中将は万朶隊全員を集合、首途(かどで)の激励の訓示があった。
整列した隊員たちの横顔を四時とは言え南国の空から烈日の太陽が照りつける。
快晴だったが、流れる薄雲が、ときどき地上に大きな影を落して動き去っていった。
同じこの比島の地上では、米軍の砲火と共に上陸部隊の軍靴の響きが、そして湾内突入艦船の姿が隊員全員の耳に眼に、まざまざと感じられる緊張しきった訓示の場だった。
田中新攻撃隊長の眉が心なしか小刻みにゆれているように思えた。
富永中将閣下の声が隊員の上を渡っていった。
「陛下の忠勇無比なる諸子、神州日本の正義、神国日本の正気発して、万朶の桜となる。その名も床(ゆか)しき万朶の諸子である。諸子は今将(まさ)に
陛下のために身命をなげうたんとす (*4)。一身は鴻毛(こうもう)よりも軽く (*5)敵艦船必殺の使命は富嶽よりも重い。諸子は先般敬愛する上官を失ったが、撓(たゆ)むことなく上官の分まで任務達成に努力されよ、その成功を指揮官は心から祈る」
といったような意味のことを云(い)ったと憶(おぼ)えている。
訣別(けつべつ)の辞は終った。
カローカン基地の空気がそのまま凍りついてしまったような一瞬で、「心尽くしの別盃(さかづき)を下さる (*6)」という声が掛(かか)るまで隊員は、富永長官の下りられた場所をみつめたきりだった。
テーブルを繋(つな)ぎ合せて、純白なシーツのかけられた別盃の席には、中央に富永中将が立たれた。
「諸子の成功を祈る」
富永中将は目許(めもと)に慈父のような温かみを滲ませて隊員の一人一人に握手を求めてから、各自のさかずきにお神酒を注いだ。
田中曹長の頬にキラッと光るものが流れていた。居揃(いそろ)う誰の目にも熱いものがこみあげていた。嬉しかったのだ。ただただ皇国のために飛立てるという純一無雑な澄み切った晴れがましさだった。
式終了後、富永中将は純白の絹に「万朶神兵のために」と題した七言絶句を贈られた。
いまその記憶をたどってみる────。
為万朶神兵
神国精気万朶桜 将兵姿今燦然輝
一身軽然大任重 不怖死徒不求死
隊員の心がそのまま写し出された如き詩句だった。
今は出撃の下命を待つ許(ばか)りだ。
岩本隊長の弔合戦への何よりの贈り物だった。万朶第一次攻撃隊は田中曹長のもとに立派な戦果をあげてくれるだろう事は、誰もが確信していた。
俺達もあとから行くんだ。教導役を頼んだぜと心の内で呟(つぶや)いていたのは私ばかりではなかったろう。
カローガン基地の空は暮れ始めていた。忍びよる薄闇のなかに粗末な宿舎の中にも明りがともる。
黒板には岩本益臣大尉の作った短歌が達筆に記されてあった。
大君のみこと畏(かしこ)み 賤が民は
なりゆく儘(まま)に任せこそすれ
田中隊長、生田曹長、久保軍曹、佐々木伍長と黒板の前に坐った。
四人の眼が黒板をみつめる。
シーンと静んだ薄闇の宿舎のなかには、黒い影がぼんやり四つ黙然と動かなかった。
田中隊長がいま一度、黒板を見上げて、
「大君の……」
と低唱し始めた。
夕食を知らせに来た当番兵は出撃前の神鷲たちの後姿にハタと足を止めていた。
晩飯も済んだ。
一九時、明早暁零時攻撃準備の命令が下った隊長の顔はさっと明るくなった。
誰の胸にも岩本隊長の仇(あだ)が討てるという喜びで一ぱいに拡がったからだ。
整備員は搭乗機整備のために暗闇の中を飛行場に向った。
明日の出撃に空中勤務者 (*7)四名と通信一名が選ばれた。その後でカローカン本部では内輪だけの壮行会が開かれた。万朶隊員を真中(まんなか)にすえて、各戦隊の搭乗員たちが居並び、それを取(とり)囲むように各報道班員たちが立った。
「長いこと娑婆(しゃば)に置いて貰(もら)ったなあ、これで思いのこすことはないよ」
田中逸夫曹長が誰にともなくポツリと言った。
「曹長殿」
と呼びかけたものがあった。鵜沢嘉夫軍曹だった。
「自分も是非(ぜひ)一緒に搭(の)せていって下さい。お願いします」
少年飛行兵出身で、まだ童顔といえる鵜沢軍曹が泣きだしそうな顔で頼んでいたが、
「うん、お前の気持は判っている。だが今回は俺達が行く──── 一人でも残って次の攻撃に参加して呉(く)れ」
田中曹長が静かに訓(さと)すように言った。鵜沢軍曹はいきなり顔を覆(おお)ったが、肩を顫(ふる)わせて坐り込んでしまった。背中が大きく揺れていた。彼はせき上げる涙を押え切れなかったのだ。
田中曹長が近寄って肩を軽く叩いてやっていた。
誰かが静かに詩吟を朗詠し始めた。
"風しょうしょうとして易水(えきすい)寒し
壮士一度び去ってまた還らず"
声は低唱ながらしっかりした音声だった。
勿論(もちろん)、出撃前の壮行会だから酒気は形ばかりだ。
最初は不吉な詩句と少し気にしていた私も、その悲壮感のある易水の句にひきこまれていった。
涼風が立っている夜といっても比島は暑いが、時は十一月だ。内地なら初冬の寒気が空を流れる頃だ。そう思うと、内地の観音山の山脈や空の風が耳に聞えてくるのだった。
自動車のエンヂンの音が近付いて来て、本部の前で止(とま)った。
連絡のために志村参謀殿が静かに中に入って来られた。
カチッと礼をするわれわれに挙礼されるや、
「乾坤一擲(けんこんいってき)の作戦に従事するこの秋、団結の中心たる隊長を失ったことは甚(はなは)だ遺憾であるが、敵撃砕のため敢然攻撃に参加して欲しい。もう会も終った頃と思う。只今(ただいま)より打合せをしたい」
と言葉を切った。
更けてゆく夜の静けさを破って虫の声が聞えた。
机上に拡げられた地図には、いろいろな線がひかれてゆく。ランプの灯(ひ)がヂヂッと揺れる。何という虫か、また虫の音が夜気に響いて来た。
「攻撃は各自が最も効果を生ずると思う方法でやるのだ。自分の乗る隊長機は最初に突込む。敵艦を海の底に沈めるのではなく、自分らと一緒に空中分解させるつもりでやるのだ」
田中曹長の言葉にじっと聞きいる隊員たち二番機久保昌昭軍曹、四番機佐々木友治伍長の真剣な横顔はランプの灯に照らされて神々しい美しさだった。
隊長機同乗通信士の生田軍曹が残留する後藤兵長と無電の打合せをやっている。
じっと頭を垂れて、時々軽くこっくりしながら兵長は聞いている。
「よいな、無電が切れたその瞬間に俺の機が命中するのだから最後の無電をよく聞いてくれよ。そして今度お前が攻撃するときもこの要領でやるんだ」
淡々とした伝達ぶりだ。
私の胸にさっきの"壮士一度び去って"という詩句が判った。そうだ少しも不吉ではないんだ。死を度外視した男の爽(さわ)やかな心を謳(うた)った詩句だと考えていた。
最後の打合せが済んだ。
田中曹長が静かに言った。
「明日は隊長の弔合戦だ、敵の奴に俺達の死際(しにぎわ)を立派に見せてやれよ」
田中曹長の左後方にいた当番の兵が聞いた。
「朝飯はどう致しましょうか」
「持ってゆくかな。閻魔(えんま)の庁(ちょう)ですぐに給与を貰(もら)うのも何だから持ってゆこか」
田中曹長の言葉に皆が笑い出した。
生田曹長が傍(そば)からニコニコ笑いながら、
「その方がええでしょう」
と言った。
壮行会も終り打合せも済んだ。
隊員たちは静かに私物の整理を始めた。すでに大部分は整理済みだが、身の廻(まわ)りの僅かな下着や洗面具、日記帳を片ずける (*8)だけだ。
田中曹長が墨をすり始めた。
たっぷりと墨を含ませて、
「必殺」と大書した。
生田曹長が
「隊長、儂(わし)にも貸して下さい」
と白紙を拡げた。
「書き納めだから良う書かにゃア」
と言って、
散りてこそ浮ぶ瀬もあれ桜花
けふの訪れ長しと待ちし
達筆な文字だった。
久保軍曹は、
万夷必らず一殺を期す
「やるぞ!」
如何にも熱血漢らしい墨痕淋離(ぼっこんりんり)とした筆跡だった。
「良い字を書くなア、俺はこれだ」
と佐々木伍長は、
必中撃沈
と大書してから、
「うん」と独(ひと)りで頷(うなず)いていた。
出撃時刻も近い。
気温が下った十二日未明は、内地の秋を忍ばせる程の冷気が立ちこめていた。
飛行機の草がしっとりと夜露に濡れていた晴れ渡った大空には星がキラキラとまたたいて、中天には、鋭い三日月が輝いていた。基地の夜空がこんなに澄んだ美しさを見せたのも久し振りだろう。
機関、爆弾装備の整備は完了したのだろう飛行場中央の万朶特別攻撃機から轟々(ごうごう)たる始動音が夜気を揺すぶる。
列後に整備した田中曹長以下四名の隊員に参謀から最後の訓示が伝えられた。
隊員の胸に夜眼にも白く抱かれているのは岩本隊長以下、出撃前に惜しくもグラマン機に散った五名の将校搭乗員の方達の遺髪の箱だ。
「目標はレイテ湾内にある敵の空母戦艦である。一度出撃したからといって決して小型艦などに体当りをしてはならない。戦闘および戦果確認には戦闘機隊がついて行くから安心して成果を挙げることを祈る」
決死の眼光を光らせ乍(なが)ら、直立不動の姿勢で聞く隊員たちを、中天の三日月の光りが照らしていた。
僅か数百マイルのこの同じ夜空の下には米艦艇がいるのだ。そのうごめきの音さえ聞えて来そうな澄み切った夜空だった。
レイテ湾に進入した敵艦艇は戦艦又(また)は巡洋艦十隻内外、輸送艦五六〇隻、駆逐艦数隻に上る大艦艇群が碇泊、遊弋(ゆうよく)中なのだ。軍需機の揚陸に必死の米艦艇に対しては、わが軍は航空部隊地上部隊の連携のもとにタクロバン、ブラウエン、サンパラロなどの敵基地を攻撃すると共にモロタイ、ペリリューなどの補給中継基地及び長駆してはアドミラルテーなどの敵後方基地を奇襲する等、レイテ島に対する敵の補給路破壊に全力をあげているときなのだ。
やがて一同は飛行場一隅に作られたささやかな壮行式場に臨んだ。
参謀長は隊員の一人一人をかき抱くようにしてその盃にお神酒をついで廻った。
「天佑神助のもとに諸子の成功を祈る」
と最後の杯(さかずき)も乾された。隊員は参謀長に対し挙手の礼をして、
「田中曹長以下四名只今出発致します」
という一言を最後に静かに愛機に向う。
「おい、隊長殿の仇(あだ)を必らずとるんだぞ」
田中曹長の誓いと共に機上に上った万朶隊員の胸にさっきの白木の小箱が結びつけられていた。
万朶隊の還らざる出撃行は五名ではなく十名なのだ。小箱に入った岩本、窪田、安藤、川島、中川の霊と一緒だったから。それがこの出発を一層神々(こうごう)しいものにしていた。
「曹長殿ーッ」
と駆けよった吉江軍曹が機上に手をのばした。田中曹長が身を乗り出して握ったのは岩本大尉の遺影だった。
「お前もすぐ後から来いよ」
と言われてうなずいた軍曹の頭には白布が痛々しく巻かれていた。一週間前の空戦で負った爆傷(ばくしょう)の痕(あと)なのだ。
整備員も機の周囲から離れた。
やがて一きわ強い爆音共に隊長機が発進、続いて二番機が、四番機が、明けやらぬ基地の星空を上昇する。
尾燈(びとう)の光りも鮮(あざや)かに各機は飛行場上空を一周、見事な編隊を組んで東の空遠く消えて行く。尾燈がだんだんに小さく空にちりばめられた小さな星影の中にまぎれるようになって残るのはかすかな爆音のみだ。
暁暗(ぎょうあん)の飛行場には手に手に帽子を打ち振る整備員と、凝然(ぎぜん)と立ちつくす飛行隊員の姿が黒々と、祈るが如き塑像となっていた。
レイテ湾上に。〇八三〇到達────
田中曹長、生田曹長搭乗の一番機が、軽くバンク (*9)した。目標確認だった。
下方湾内には、子供の玩具(おもちゃ)位の大きさに敵艦船が白いウェーキを曳(ひ)いて走り廻っている。我が物顔の大艦船群だった。
十二月九日十日と続いた嵐も凪(な)いで、湾内は嵐のあとの美しさだった。
一〇〇〇乃至(ないし)二〇〇〇米(メートル)には断雲が、ところどころに浮んでいた。
激しい対空砲火の弾幕が打上げられた。
敵艦隊は戦艦又は巡洋艦を戦闘に三隻ずつ二列に隊形を組み、後尾には多数の輸送船が随伴、一路トラック目ざしてレイテ湾口ホルホル島西方を西北に急進していた。
速力は二〇~二三、四ノット位だったか?
敵艦も上陸部隊直掩に必死なのだ。
獲物は右の艦船だ。機首を右に旋回して五分。高度三〇〇〇米。
戦艦から艦砲を始めとして広角砲機銃の対空砲火が炎々(えんえん)黒煙としぶきのように集中し始めた。
この頃敵P38が出現、グラマン以上の高性能を誇るこの双発機っが二〇粍(ミリ)砲をバリバリと特攻機に浴せかけてきた。
隼直掩隊が鷹に立向かう雀のように突進する。
田中、生田両曹長機が垂直急降下に移った。だが、またすぐ途中で機首を上に向けた。
目標が病院船だったからだ。
対空砲火が狂気のように一番機の後を追って白昼に白い焔(ほのお)の痕を曳いていった。
と、隊長機三度目のバンク。
機首がグーッと、まるで飛込みのダイヴイングさながらに真直(まっす)ぐになった。垂直急降下だ。
上空を直掩の隼が飛び交う。
だが、一番機直掩の渡辺機がこの時グラッとかしいだ。被弾だ。
みるみるうちに渡辺伍長機までが一番機の後を追って急降下し始めた。私がハッと息を呑(の)んだ瞬間には、対空砲火の渦の中にグングン高度を下げて突入中だった。
敵一番艦炎上。轟然(ごうぜん)たる閃光と同時に二度目の焔が吹き上った。
渡辺機が続いて同船に突込んだのだ。
敵艦列が四分五裂に乱れるなか久保二番機が矢の如く降下して戦艦の舷側すれすれに命中、海中に大きな水柱を上げた(以上は直掩隊長菊地大尉が確認)。
佐々木四番機は戦艦に向って同じく矢の如き垂直急降下だった。後からグラマン一機追尾して曳痕弾(えいこんだん)を浴せかけた。畜生ッ! と成功を祈るのみだったが同機が轟爆音と共に爆発を発した。あっと言う間に四番機は艦の向う側に出て急上昇していた(この時の戦艦轟沈は生井、作見両大尉機が確認している)。敵一番艦は炎上、二番艦は物凄(ものすご)い水煙と共に海中に姿を没し去りあとの敵艦列は特攻々撃がまだ続行と思ったのか、てんでんばらばらに航跡を乱していた。
すでに戦艦一隻、輸送船一隻は波間に姿を消し去り、戦艦または大型巡洋艦とみえる一隻が、水煙を艦尾に湧き立たせながら遁走中だった(これは久保二番機による被害だったかも知れない)
そして上空にはPの姿もすでになかった。攻撃開始後約十五分満を持したわが陸軍特別攻撃隊第一陣万朶飛行隊は、訓練通りの見事な垂直急降下をやって確実に戦果を挙げ、第一撃はかくして終ったのだった。
あの生田曹長の歌と正気の歌は、今でも何か迷いが出るごとに私の胸に浮んでくる。十二年の歳月、いまは私の心の御手本、いや生きて行く上の指針でさえあるのだ。
最後にあの時の大本営発表と賞詞(しょうじ)を付けてこの原稿を終らせたいと思う。
大本営発表
(昭和十九年十一月三十日十四時)
一、わが特別攻撃隊万朶飛行隊は戦闘機隊掩護の下に十一月十二日レイテ湾内の敵艦船を攻撃し必死必殺の体当りを以て戦艦一隻、輸送船一隻を轟沈せり。
本攻撃に参加せる万朶飛行隊員左の如し。
陸軍曹長 田中逸夫 陸軍軍曹 久保昌昭
同 生田留夫 同 伍長 佐々木友治
右攻撃に置いて掩護戦闘機隊員陸軍伍長渡辺史郎亦(また)敵艦船に体当りを敢行せり。
二、万朶飛行隊々長陸軍大尉岩本益臣、同隊員陸軍中尉園田芳己、同安藤浩、川島登、同少尉中川勝己は攻撃実施数日前、敵機と交戦戦死し本攻撃に参加する能(あた)わず。
また十二日十六時、宮永比島方面陸軍航空部隊指揮官は直衛の隼戦闘機隊の基地帰還をまって、菊地、生井両大尉ならびに作見中尉を部隊本部に招かれ、万朶隊攻撃詳報を聴かれたのち隼戦闘機隊に対して即日賞詞を授けられている。
賞詞
戦闘隊
陸軍大尉 生井 清
陸軍軍曹 佐藤秀夫
陸軍曹長 藤原豊吉
陸軍曹長 森屋武次
陸軍曹長 浅田順一
陸軍曹長 山登光雄
戦闘隊
陸軍中尉 作見作一郎
陸軍少尉 永井隆夫
戦闘隊
陸軍大尉 菊地幹二
陸軍曹長 深見 勇
陸軍伍長 渡辺史郎
右は菊地大尉式の下十一日、十二日万朶特別攻撃隊必中の壮挙掩護の任を受け自ら真に必死報国を期してレイテ湾頭敵艦船に迫りよく同隊を掩護して十分にその目的を達成せしめたるのみならずその収めたる戦果をも確認して渡辺機一機自爆他は天佑にも危険を突破して悉(ことごと)く基地に帰還意気正(まさ)に天を衝くの慨あり 本職深くその忠烈偉功を賞す
昭和十九年十一月十二日
比島方面軍航空部隊指揮官
陸軍中将 富永恭次
(このときの直掩全機帰還もたしかに天佑とも言える現象だったろう。なお三番機のみは発進後約三〇分にして機関に故障のため、第一次攻撃より離脱帰投している筈(はず)です。
また大本営発表には戦死となった佐々木隊長は十二月九日にも出撃、レイテ湾内の大型艦を一隻大破炎上せしめています。
位階勲等は当時のままにしました。 (完)
【写真出典】
- 最終更新:2016-03-14 08:52:15