【マリアナ沖海戦|一航戦翔鶴戦闘機隊】痛恨!マリアナ沖血の決戦
出典:1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本 陸海軍航空肉迫決戦総集版」第一巻第七号所収
当時一航戦翔鶴戦闘機隊 元海軍上飛曹 神尾豊治 「-日米運命の大会戦- 痛恨!マリアナ沖血の決戦」
激突した運命の大会戦劈頭、轟然火を吐いた翔鶴と大鳳! 無念! 荒れ狂う渦潮の底深く瞬時に没し去ったあとには、虚しい影がいつまでも漂っていた。
あのとき(昭和十九年六月)サイパン方面は、十四、十五日と引き続き敵の機動部隊の大空襲や艦砲射撃を滅茶苦茶に受けていた。とうとう十五日の朝には敵はなだれをうって上陸を開始したと聞かされた私達だった。
参考: グアム島に艦砲射撃する米軍。米軍は国際条約を無視して日本の民間人のいる所ことごとく艦砲射撃で攻撃した。艦砲射撃は爆弾よりも爆発力が強く徹底的に日本人を虐殺した。米軍が猛撃しているのは戦艦の14インチ主砲。この艦砲射撃は沖縄および沖縄陥落後の日本の太平洋側の都市でも行われた (*1)。 1944(昭和19)年6月15日早朝、サイパン島に押し寄せる米軍。日本がマリアナを失陥すれば米軍がサイパン島を足場に本土空襲をかけてくることはわかりきっていた。 アンガウルに上陸しようとする米軍の水陸両用車。 |
その日連合艦隊司令長官は、遂に「あ号作戦決戦開始」を発令していた。
私は当時、第一航空戦隊の翔鶴に配乗(はいじょう)していた戦闘機隊だったが、十五日の敵海兵師団のサイパン上陸強行とともに、各所から入ってくる情報で、近く一大決戦が起ることは誰もが予期していた。
参考: 航空母艦「翔鶴」 2万5675排水トン。搭載機数84機。1941(昭和16)年8月、横須賀海軍工廠にて竣工。本艦型は用兵者の要望を満たした初めての空母といえる艦で、その性能が優れていた。 |
十七日になった。
わが偵察機の報告によると、敵の機動部隊は二群に別れて行動しており、その一群は空母四隻、他の一群は空母二隻を有しているということだった。その位置も大体ハッキリしてきた。
【参考:マリアナ沖海戦|日米戦力比較】
【米軍】マリアナ進攻部隊(中将 R・A・スプルアンス)
第58機動部隊 (艦上機 475機▲飛行機損失 艦上機 126機) |
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隊 | 第1群 | 第2群 | 第3群 | 第4群 | 戦列第7群 |
指揮官 | 少将 J・J・クラーク |
少将 A・E・モンゴメリ |
少将 J・W・リーヴス |
少将 W・K・ハリル |
中将 W・A・リー |
兵 力 | 空母2 軽空母2 重巡3 防空巡1 駆逐艦14 |
空母2 軽空母2 軽巡3 駆逐艦12 |
空母2 軽空母2 重巡1 軽巡3 駆逐艦13 |
空母1 軽空母2 軽巡3 駆逐艦11 |
戦艦7 駆逐艦14 |
隻 数 | 22 | 19 | 21 | 17 | 25 |
フーバー少将 | 中部太平洋前進基地航空部隊 | (基地機879機) 内訳: 陸軍 269機 海軍 258機 海兵隊 352機 |
潜水艦 | 約10隻 |
【日本軍】第一機動艦隊(中将 小沢治三郎)
艦 隊 | 第三艦隊 | 第二艦隊 | 附 属 | |
部 隊 | 本 隊 | 前 衛 | 補給部隊 | |
甲部隊 | 乙部隊 | 第三航空戦隊(三航戦) 第一戦隊 第三戦隊 第四戦隊 第七戦隊 第二水雷部隊 |
- | |
第一航空戦隊(一航戦) 第五戦隊 第十部隊 |
第二航空戦隊(二航戦) | |||
指揮官 | 中将 小沢治三郎 |
少将 城島高次 |
中将 栗田健男 |
- |
兵 力 | 空母3 大鳳(たいほう) 翔鶴(しょうかく) 瑞鶴(ずいかく) 重巡2 妙高(みょうこう) 羽黒(はぐろ) 軽巡1 矢矧(やはぎ) 駆逐艦10 |
改装空母1 龍鳳(りゅうほう) 補空母2 隼鷹(じゅんよう) 飛鷹(ひよう) 駆逐艦8 |
改装空母3 千歳(ちとせ) 千代田(ちよだ) 瑞鳳(ずいほう) 戦艦3 大和(やまと) 武蔵(むさし) 長門(ながと) 戦艦2 金剛(こんごう) 榛名(はるな) 重巡4 愛宕(あたご) 高雄(たかお) 摩耶(まや) 鳥海(ちょうかい) 重巡4 熊野(くまの) 鈴谷(すずや) 利根(とね) 筑摩(ちくま) 軽巡1 能代(のしろ) 駆逐艦8 |
駆逐艦6 タンカー6 交洋丸 清洋丸 速吸 |
隻 数 | 16 | 12 | 25 | 12 |
計 | |||
空母 | 3 | 7 | 艦上機 328機 ▲飛行機損失 艦上機 293機/陸上機 137機/合計 430機 |
改装空母 | 4 | ||
補助空母 | 2 | ||
戦艦 | 5 | ||
重巡洋艦 | 11 | ||
軽巡洋艦 | 2 | ||
駆逐艦 | 32 | ||
タンカー | 6 | ||
合 計 | 65 |
第一航空艦隊(角田中将) | 基地機 250機 |
潜水艦部隊 | 15隻 |
「いよいよ決戦の日は近ずいたぞ」
誰の顔にも一様にそうした決意が流れていた。
私は二中隊の三区隊として出撃することになっていた。一番機は森飛曹長(福井)、二番機は私、三番機が高村一飛曹(島根)で四番機が梶原二飛曹(兵庫)だった。
その夕方から私たちはいよいよ身の廻りの整理をはじめた。思い思いに親しい人達への最後の便りを書きしるした。私も故郷に一人しかいない母や妹にあてて何か書こうとペンを持ったが、考えるとあまりに書くことが多いのでかえって一行も書けなかった。やっとのことで簡単に、
「お母様、お身体を大切にねがいます。みち子は一生懸命勉強するように。栄光につつまれた死への首途(かどで)にて。どうぞ靖国の社での再会をたのしみに。さようなら」
そう云(い)った意味のことをしるし、白封筒に入れてアルバムにはさんだ。
もう思い残すことは何もなかった。もう誰の顔にもあの人を射(う)つきびしさはなかった。
やわらかいおだやかな微笑が溢れていた。だがそこには一抹の淋しい影も見のがせなかった。
十六、十七、十八日はほとんど索敵行動だけで終始した。マリアナ列島の友軍機が、その附近で再三敵の艦上機を目撃しているので、必らず敵機動部隊はその近海にいるに違いなかった。
十八日は朝の暗いうちから、扇形の索敵コースは幾重にも張られたようだった。敵の方もこっちの機動部隊の大攻勢を察知して、盛んに偵察機を放って所在をつきとめんとあせっているようだった。
こうした場合、どっちか先に相手を発見した方が先制の勝利を博することは自明の理だった。
午後になった。
漸く敵発見の第一報がもたらされた。続いてその他の偵察機からも次々と報告がはいり全軍緊張の空気に包まれた。
それによると、敵空母は三群あり、その距離はわが方からおよそ三八〇浬(カイリ)前後との事であった。
しかし各艦偵察機の綜合報告の結論が出たのはもう夕方に近かったから、当然それから攻撃したのでは夜にかかる危険があるので、万全を期して明早朝出撃ということになった。
夕食後三室大尉よりしらせがあり、
「敵部隊遂に捕捉、明朝〇七〇〇 (*2)発進」
とのことだった。
続いて作戦及び戦闘に関する訓示、進撃の細部にわたる注意事項などがあり、あらゆる準備は全く完了した。
【マリアナ沖航空戦図|1944(昭和19)年6月19日】
戦闘機搭乗員室は飛行発着甲板のすぐ下になっていた。甲板に飛び出すには近くて一番都合がよかった。上下二段に寝台が二列にならんでいて、二つの通風筒からは風が絶えずはいって来た。それでも室内はやり切れない暑さだった。拭っても汗が流れ出てきてこまった。
私は寝台のそばまでいったが、フト気がついて引き返えした。愛機をいち度みておこうと思ったのだ。タラップを下り小さなマンホールを潜(くぐ)り抜けると、前部格納庫に入っていった。
整備員がまだ大勢で点検に忙しかった。私は両翼端を折りたたんで、所せましと並ぶ零戦の中をくぐり抜け、自分の愛機を探がすのが一苦労だった。
【ゼロ戦を整備する整備員】
やっと探しあてて、近寄っていった。最後の整備は整備分隊のよりぬきの下士官ばかりだった。その時はすでに準備万端整って、胴体、座席内等を綺麗(きれい)に磨き上げ、点検も全部すんだところだった。
近付いていった私を早くもみとめて、にっこり笑って迎えてくれた。
「神尾兵曹、絶対に心配いらねえよ、太鼓判だ」
大きな声でそうどなって操縦席への道をあけてくれた。
私はその席へ飛び乗って見た。風防ガラスの前に可愛らしいお守りが下がっていた。整備員の心づくしだった。私は胸が熱くなった。そして私もそのそばに、故郷の母から送ってきてくれた氏神様のお守りを袋から取り出してブラ下げた。
「よーし、やるぞ」
この日あるを期して、激しい訓練を重ねてきたその愛機だった。私はその翼を心から愛撫してやった。
(どうか明日はこの私を乗せて思い切り大空を飛んでくれ。弾雨も一緒に浴びようじゃないか)
不覚にも私は熱いものを頬に流していた。
明くればいよいよ運命の六月十九日、〇五三〇勢いよくベットを跳ね下りた。
用意の靴下から上着類一切、全部新しいのと取りかえた。そして大事にしていた香水も数滴マフラーなどに泌(し)み込ませることを忘れなかった。死にに行く身の万全の身だしなみであった。
気持がキリキリと引き締まった。もう念頭には何もなかった。澄み切った静かな心境──あれが生死を超越した心境というものであろうか。
「見ておれ、この腕(かいな)で、蹴散らしてやるのだ、敵機群」
りんりんたる勇気にこみ上げてくる微笑を禁じ得なかったあの日の私だった。
発着甲板にはもう戦闘機をはじめ、雷撃機、彗星艦爆機など、びっしり運び出されていた。艦首の方から零戦、彗星、天山雷撃の順に目白押しに並べられ、その間を整備員が、あごひもをかけ、キビキビと動きまわっていた。
【艦上爆撃機「彗星」】
【艦上攻撃機「天山」】
〇六〇〇。攻撃隊集合。指揮官より攻撃命令が発せられた。次いで一同名ばかりの乾杯があり、私の区隊は打(うち)揃って翔鶴神社に参拝した。
この日の天候はあまりよくなかった。暗雲が重くたれこめて、戦局の容易ならざるを示しているかのようだった。
雷撃隊の周囲には鉢巻をしめた整備員が必殺の魚雷を装備し、真剣な面持(おももち)でエンジンの調子を見ていた。必中の爆弾──何か祈りたい気持だった。どうかその一弾で、敵機動部隊の大型空母をマリアナの海底深く葬ってくれ──。
しかし敵機動部隊には雲霞(うんか) (*3)の如き戦闘機がついているのだ。必らず猛烈な勢いで邀撃(ようげき) (*4)に出て来るだろう。われわれはその攻撃を一身に引き受け攻撃隊の身代りとならなければいけないのだ。
翔鶴の右前方が遥かな地点を瑞鶴(ずいかく)が航進して居(お)り、そのまた左前方に肉眼では見えなかったが大鳳(たいほう)が驀進(ばくしん) (*5)している筈(はず)であった。それら各空母の後方三〇〇米(メートル)位には一隻ずつの駆逐艦がついていた。前後左右には、戦艦、巡洋艦が護っていた。
いまやまったく出撃体制はととのったのだ。警戒機が上空を勢いよく通過した。
〇六五〇、搭乗の合図と共に私は日の丸の鉢巻をぐっと締め直した。そして、翼に足をかけるとひらりと操縦席に飛びこんだ。
その附近の艦橋やポケットには発艦するわれわれを見送らんとする乗組員の真剣な顔が大勢見える。そのどの顔も、
「頑張ってくれよ!」
「たのんだぞ!」
と力強く、祈るようなまなざしだ。
整備員がチョーク (*6)を握って、車輪のすぐわきの甲板に身を伏せ、発艦を今やおそしと待ち構えていた。甲板の上は風が相当に強かった。
【参考:発艦を見守る空母千代田の整備員】
私の機の担当である整備下士がエンジンの調子をしばらく見ていたが、私が乗ると同時に身を引いて、プロペラの回転を絞り、風防の曇ったところを急いで拭った。そして、
「調子は上々、絶対大丈夫だ」
と、にっこり笑った。
私も微笑を返えしながらその整備兵曹に軽く一礼した。彼は手を挙げて翼から飛下り、強い風の飛行甲板を匍(は)うようにしてポケットに飛び込み、いつまでもジッと私の機の調子を見ている。
〇七〇〇、高々と揚ったZ旗──
祖国の興廃はかかってわれわれにあるのだという実感が犇々(ひしひし)ときた。
前々日に発したわが小沢中将の訓辞、
──機動部隊は今より進撃、敵を求めて之(これ)を撃滅せんとす。天佑を確信し、各員奮励努力せよ──
の烈々たる訓辞を改めて胸によび起したのである。命を皇国に捧げる、これ男子の本懐(ほんかい)でなくてなんであろう。正しきものは必らず勝つ、身を挺して祖国を安泰にみちびき悠久の大義に生きるのだ。そう思った。
「やるぞ、きっとやって見せる」
感激に鼻の奥がジーンと痛くなった。
いよいよ発艦。一番機森機が勢いよくエンジンを入れ飛鳥(ひちょう)の如く全速で突進した。次いで私の番。発艦合図の旗がサッと目に入った。千切れるばかりに打振る帽子 (*7)がチラチラと後方へ飛んでゆく。機はすぐに浮き上った。
高度一〇〇〇米。左に大きく旋回して堂々の大編隊を組んだ。
視界はゼロ。
だが敵の所在は判明している。われわれは体の重い雷撃機、艦爆機を、厳重に護りながら、一路目的地に向って進撃を開始したのであった。
四十分ほど飛翔した。
どこまでも続く雲また雲のはてしない空だった。
遥か彼方、雲の薄くなった切れまから、一大機動部隊の海上を航行している姿が眼に映ってきた。時間、位置などからしてこれが味方の第三航空戦隊であることがすぐにわかった。
瑞鳳、千歳、千代田の三空母の姿も見えた。少し離れて、巨大戦艦大和、武蔵も相当な速力で航進していた。頼母(たのも)しかった。
われわれの編隊はその上空を通り過ぎようとした。
と、いきなり後方でグワッグワッ、とした音が炸裂、三航戦がわれわれ目がけて火を吐いたのである。
だがそれも瞬時の出来ごとで、砲声はすぐにぴたりと止んだ。味方と気がついたらしい。
(驚かせやがる)
ほんとに吃驚(びっくり)した。
まさか味方艦隊に射たれようとは思いもよらなかっただけに、私は全くキモを潰したのだった。
(もし不幸にしてその味方の艦砲に被弾し、撃ち墜(おと)されでもしたらどうなるか)
考えるとゾッとした。死んでもこれじゃ浮ばれないだろう。
幸(さいわい)にすぐに気がついたからよかったのだ。
乱れた編隊をまた整えてなおも前進を続けていった。
【海空呼応して南太平洋に出撃する日本艦隊】
左より金剛(こんごう)、榛名(はるな)、利根(とね)、摩耶(まや)、鳥海(ちょうかい)。
高度四〇〇〇──
編隊は徐々にぐんぐん高度をとりはじめた。戦闘機隊は遂に七千米になった。そして戦闘体制になった。
時速百五十節(ノット)としてもう大体その見当だった。誤差等を入れても所要時間一時間半。
フト前方に敵機らしい一機を発見した。
しかしこれは偵察機だった。
われわれは相手にせず、なおも高度をとりつつ、三段になって進んでいった。
敵の気配は近かった。
(いよいよ来たぞ、決戦場だ)
私は自分の胸にそう云いきかせて唇を噛みしめた。
天山雷撃、彗星艦爆隊は翼下五千から六千を保っていた。
私は思う存分空戦が出来るよう、腰バンドをややゆるめて、座席のまわりを調節した。
照準器と機銃にもスイッチを入れた。
〇八五〇。
雲が大分この頃から薄らいでいていた。見透(みとお)しもいくらか良くなった。私は遥かな海上にばかり気をとられ、機動部隊の影をさがしもとめた。その時だ。
いきなり前方にキラキラと光った曳痕弾(えいこんだん)を見た。
「畜生ッ、来やがった!」
ハッと息をのみ込むと、もう一番機の機銃が火を吐いていた。
私は前後左右に油断なく眼をくばった。気を落付けようと大きく深呼吸をすると、機銃レバーをしっかりと握った。
敵は数百機の大群だった。
【マリアナ沖航空戦は11時間にわたって戦われ悽愴を極めた。落されてなお日本は進んだ】
遥か前方、矢張り八千から九千に高度をとって、点々と見えていた敵の大編隊。その影は忽(たちま)ち大きくなって、数十段にかまえているのがハッキリわかった。
戦闘機グラマン、シコルスキーなど。まさに雲霞の如き大群だった。しかも戦闘機だけが──。
【参考:ヴォート・シコルスキー社製F4U】
味方はその何分の一かに過ぎない戦闘機数──私はジッと心を押し静めて一念神に祈っていた。
この頃から戦場の空はすっかり晴れ上っていた。時に千切れ雲が遥かな下方を流れてゆくのみで、明るい真夏の太陽がギラギラとまぶしかった。
だが目ざす敵機動部隊は一体何処(どこ)にいるのだろう。その海上部隊にわが雷撃機、艦爆機を送り込んでのちの空戦ならば、どんなにか気が楽であったか知れなかった。
しかし敵もやすやすとそうさせる訳(わけ)がない。情況を事前に察知した敵側は、はやくもその前面に大挙戦闘機を押し出してきて、わが戦闘機諸共(もろとも)、全部洗いざらい押し包み、葬り去ろうとしてきたのだ。
今はもうこれまでだった。
何が何でも撃ちまくり、弾のつづく限り命の続くかぎり闘い抜いて死ぬばかりだと思った。
──全軍突入せよ──
総指揮官の電波が悲愴に耳に入る。
忽(たちま)ち起った乱戦状態。
われわれは雷撃隊に覆いかぶさったまま眼を鷹のように光らせた。
不意に曳痕弾がキラリと目に入った、と思った瞬間、敵シコルスキーが一団となって上空からおそいかかってきた。
「くそッ!」
私は力一杯、右に急旋回した。旋回しながらそのうちの一機に猛射を浴びせかけてやった。
と、運よく命中したらしい。その敵機は私の弾をまともに受けて、キリキリと急回転したと見るまに胴体の白い腹を見せつつ、白いガソリンの尾を引き、続いて黒煙を吹き、忽ち翼を急角度におし立てて、真逆さまに墜ちていった。
「よしッ、やったッ」
と思わず歓声をあげた。
あの日の空戦は、いま思い出しても無我夢中の連続だった。ひどく長いようでもあり、わずか数分たらずの出来ごとだったという気もする。しかしどっちにしても生きて今日こうしているのが全く不思議だと思う。
【米軽空母を反撃して避退する日本機が写真の右に低く見える】
敵味方入り乱れてまんじともえのさなかを、煙りを噴いて次々と墜ちてゆく敵機や僚機(りょうき) (*8)──私の機も尾部に被弾した。ガタガタと気味悪い激しい震動を続けて飛びまわった。
高度が急に保てなくなった。次第に低空に下降していったとき、気がつくと敵戦闘機も味方機も一機もまわりにいなくなっていた。
私はとうとう決戦場からはぐれてただ一機になってしまっていたのだ。
あとで知ったところによると、この日のマリアナ上空の激闘は、完全に味方の大敗北だった。
私はそれでも傷ついた愛機をいたわりながら、
「頼むぞ、とんでくれよ」
と祈っていた。
漸(ようや)くの思いで味方機動部隊の所在までどうやらこうやらたどりつくことが出来た。ところが私の目ざす『翔鶴』の姿が見当らないのだ。私は幾度も眼をこすって探し求めた。遥か彼方に姉妹艦『瑞鶴』の姿を認めた。
【空母「瑞鶴(ずいかく)」】
「助かった……よく飛んでくれたなア」
思わず桿にポロリと熱いものを落した。しかしまだ、着艦するまでは気が許せない。
「機から降りて報告が終るまでは戦闘の連続であると思えよ……」
という、常日頃の隊長の言葉を思いだし少しでも愛機を慰めたい気持で、速力をグンと落して飛んだ。
瑞鶴の容姿がぐんぐん近くなる。急に他の艦に着艦するのだと思うと、また、にわかに緊張を覚えてきた。
そのうちに被弾した機体の調子も大分怪しくなってきたし、仕方なくぐんぐん高度を下げて合図をすると、「着艦せよ」の信号がすぐにするすると上った。
私はかくて危ういところで無事に着艦することが出来たのである。
着艦してのち私は直ぐに意外な事を知らされ気が動転した。それは私の乗艦空母翔鶴がわれわれが飛び立つとまもなく敵魚雷のために轟沈されてしまったことだ。しかもそれと前後して同じ一航戦の空母旗艦『大鳳(たいほう)』までがマリアナの海の底深く葬られたという──私はいまも眼をつむるとその日のことがありありと胸底に浮んでくる。(終り)
【出典】
・アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C13071319700:陸軍省「昭和16年~20年 太平洋戦争歴日表」(20コマ)1945年7月15日「室蘭砲撃ヲ受ク」以降参照
・1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編「大東亜戦争写真史 特攻決戦篇」
・1967(昭和42)年 朝日新聞社 ハンソン・W・ボールドウィン「勝利と敗北-第二次大戦の記録-」
・1971(昭和46)年 朝雲新聞社 防衛庁防衛研修所戦史室「戦史叢書比島捷号陸軍航空作戦」
・1983(昭和58)年 講談社 千早正隆編「写真図説帝国連合艦隊-日本海軍100年史-」
・1995(平成7)年 光人社 「日本軍用機写真総集」
・1996(平成8)年 光人社 大谷内一夫訳編「ジャパニーズ・エア・パワー-米国戦略爆撃調査団報告/日本空軍の興亡」
- 最終更新:2018-03-05 05:26:19