【ジャワ沖・バタビヤ沖海戦|第三八一空九〇二飛行隊員】スラバヤ沖上空血の復讐戦
出典:1956(昭和31)年 日本文芸社 「現代読本 第一巻第七号 陸海軍航空肉迫決戦総集版」所収
当時三八一空夜間戦闘機操縦隊員 元飛曹長 原道夫
「──怨敵魔の大型潜水艦への復仇──スラバヤ沖上空血の復讐戦」
水青き海峡の底深く恨みを呑んで沈んだ敷設艦『沖島(おきのしま)』の復仇を、はしなくも (*1)成しとげた筆者の感銘溢れる一篇!
考えて見れば、こうして私がいま生きているのが不思議なくらいである。人間の生死などというものは、その当時は無我夢中だが、後から振りかえって思わずゾッとする事が幾度(いくたび)もある。昭和十七年五月八日の出来事など私にとって生涯拭い切れない記憶だ。
私はその当時井上中将の率いる第四艦隊の『沖島(おきのしま)』に乗り組んでいた。第四艦隊はトラックを基地として南洋諸島方面 (*2)の作戦に従事していたが、七日の夜遅く急に命令が出てカボールの港を出港した。目的はナウル島、オーシャン島の完全攻略だった。
戦局はその一週間ほど前から異常な興奮状態に蔽(おお)われていた。ツラギでもラボールでも間断ない大編隊の空襲で、正直なところみんなネをあげていた。工作艦の『明石(あかし)』など、そんな空襲で被害を受けた飛行機や艦の修理でラボールの港に釘づけのままだった。
そのようなひどく緊迫した情勢の中をわれわれの艦隊は、こっそり出港していたのだ (*3)。
【敷設艦「沖島」】
真っ暗なソロモン群島中の海峡だった。
へんに生温(ぬる)い、しめっぽい風が一晩中吹いていた。
予感──いま考えて見てもどうも私にはその時そんな気がしてならなかった。確かに妙な不安が理由もなくつきまとっていつまでも眼が冴えてなかなか寝つかれなかった。
私達の搭乗員室は中甲板兵員居住区の一番奥にあった。その隣りに先任下士官室がある士官一次室、二次室などが続いていた。病室も右舷中甲板の奥にあった。
寝苦(ぐ)るしい夜を、それでも二、三時間もまどろんだろうか、まだ薄暗い暁の五時頃だったと記憶している。いきなり、まったく驚天動地の大爆音と振動で毛布ごと床へハジキ飛ばされたのだ。
「畜生ッ」
艦内灯(かんないとう)は全部停電。真ッ黒 (*4)な中で誰かが叫んでいた。
私は夢中で枕元の懐中電灯とタオルを手さぐりで探した。この二つは常時手の届く所から離したことがなかった。だが、あのひどい大動揺だ、どこへフッ飛ばされたのか皆目見当がつかない。
「対潜警戒ッ!」
とうとう敵潜水艦の大型魚雷をくらったものだった。
【参考:米潜水艦「サーモン」】
暗黒の艦内に忽(たちま)ち火薬のガスが充満して、呼吸が猛烈に苦るしくなってきた。私は口を押さえるタオルを探がすことを断念して、褌(ふんどし)一本のまま非常通路へとび出した。パッと急に明るくなったので振り返(か)えると、いまとび出したわれわれ搭乗員室の入口が真っ赤な焔(ほのお)に包まれている。一瞬の間だった。焔のかげに右往左往している戦友の姿が幾人か見えたようだった。
私はそのまま隣りの先任下士官室を駈(か)けぬけると、弾薬通路にそって伸びているラッタル (*5)へ出た。そしてそこから砲塔へ一気に駈け上(あが)ったのだ。
駈け上りしなに私は後ろへ向って大声に怒鳴っていった。
「弾薬通路へ出ろッ! 他へゆくなッ、弾薬通路だッ」
赤、白と入りまじった紅蓮(ぐれん) (*6)の焔をくぐってそれでも四、五人は駈け出して来る姿が見えた。この者だけは完全に助かったに違いない。
そのうち二度目の魚雷の攻撃を受けた。敵の攻撃はその後も三次四次と執拗に繰り返えされた。
その一発でも、艦のドテッ腹へまともに蒙っていたら、やっと助かった私なども恐らくその場でどこかへケシ飛んでいたかも判(わか)らないのだ。
だが最初の一撃以外はみな急所を外(はず)れていた。多くが不発と小爆発で終ったのはなんとしても、不幸中のさいわいだったろう。
被害個所の中心圏にあった病室附近はいちばん惨鼻(さんび) (*7)を極めていた。病人はほとんど即死、六、七人いた看護兵も全滅だった。
そのうちでたった一人生き残った軍医長の軍医中尉が、眼鏡を飛ばされてウロウロしていた。
艦内数ヶ所から発した火は瞬時に猛烈な勢いで拡がっていった。
「弾庫へ火を飛ばすなッ」
もう艦内拡声器も全然駄目になっていた。当直士官は声をからして狂気のように怒鳴っていた。
われわれは火災の注水作業に全員動員された。浸水への応急作業も死物狂いだった。
だが何といっても不意の第一撃の痛手(いたで)は大きかった。それは艦中央の中甲板の丁度(ちょうど)真ン中を貫いたかたちだった。太い一本の棒を真ッ二つに折った、と思えば間違いない。
よくあんな状態で兎も角(ともかく)も持ちこたえられたものだと感心する。二つにたち折られてブラブラになりながらも、いつまでも浪間にヂッと停止していた『沖島』の姿。
もう陽は高く昇っていた。
ギラギラと容赦なく照りつける南国の太陽の下で、われわれは眼を血走らせて、コマ鼠(ねずみ)のように必死に火焔に立ち向っていた。
だが悪魔の舌のような焔は、人間の小さな努力を嘲笑(あざわら)うように余計に拡がっていった。放水する水が反(かえ)って火を呼ぶように、大紅蓮がいっそう勢いを増してゆくのだ。
応援の駆逐艦も接舷して必死の注水作業が続行された。
だが、そうしたすべての努力も一切むなしかった。
急激な浸水のために、徐々に、徐々に、艦は沈下していったのだ。
すでに前甲板も後甲板も濛々(もうもう)たる黒煙と白煙のねじり合うような渦巻きで、その場所より他は何処(どこ)も見えない。
するとそのときだ。それまでとは違う激しいわけのわからない大震動が全艦をゆさぶった。誘爆──おそらく弾庫へ火が入ったものだったろう。
いよいよ最後の時が近くなってきたと私は思った。
「総員甲板集合」
の声が何処からか聞えてきた。
集った士官下士官兵の数は思ったよりも多かった。しかしそのなかに混って負傷した者も可成(かな)りいたようだ。
何分隊だったか、ひどく人数の少ない列がみんなの眼を引いていた。整列している者もほとんど何処かしら負傷していて、ドス黒い血のりの飛散した作業衣に身を包んでいる者が多かった。恐らく被害個所の中心近くにいた分隊だったのだろう。
もう正午に近かったろうか。
──総員退艦命令──
が遂に云(い)い渡されて、軍艦旗がマストからするすると下ろされた。艦長以下、副長航海長が挙手の姿勢のまま身じろぎもしない。
【軍艦旗(旭日旗)】
これが艦との訣別(けつべつ) (*8)──万感胸に迫ってすすり泣く者もいた。みんな充血した眼にいっぱい涙をためていた。
乗艦以来一年有余の勝手知った全艦内だった。いまそれを捨ててゆくかと思えば、ひとりでに溢れてくる涙をどうする事も出来なかった。
艦が幾度目かの誘爆の後、急に左舷に傾いた。いまは一刻の裕余(ゆうよ) (*9)もならなかった。
輸送船が既に『沖島』に横づけになっていた。
われわれは名残り惜しくも次々と移乗を完了した。
輸送船のハッチから眺めると、『沖島』は今しも駆逐艦に曳航されてゆくところだった。もう左舷がひどく傾いて中甲板は完全に浪に洗われているもようだった。
重傷を負い、海峡を曳(ひ)かれてゆく『沖島』の姿は、その乗員だったわれわれの見るに忍びないものがあった。かと云って眼も離せない掻きむしられるようなわれわれの胸のうちだったのだ。やがて輸送船は海峡を通過した。そして一路第四艦隊の根拠地トラックへ向けて急行した。
夕方時分だったと思う──ケビン (*10)にいたわれわれの許(もと)へさらに悲報がもたらされた。
それは、駆逐艦に曳航されていった『沖島』が、附近の浅瀬にのしあげた途端、遂に幾度目かの誘爆を起して真ン中から二つにぽっきり割れた、という。そしてそのまま南溟(なんめい) (*11)の海の底深く、吸い込まれるように没し去ったのだった──。
われわれはその報告をきき、一様に声を呑んで瞑目(めいもく) (*12)した。恐らく多くの戦死者の遺体などあのままだったに違いない。艦長や副長はどうしたろうか?退艦後誰もその姿を見かけた者はないと云っていたが──。
私達を乗せた輸送船は一旦トラックへ帰ると、そこで一週間ほど過ごしすぐ内地横須賀へ帰投した。
風薫る六月の初旬だった。
私はそこで十月までおり、その下旬館山航空隊へ転勤、翌十八年五月までいた。そして五月の末、第四艦隊の十九戦隊に配属され、(司令官志摩清英少将)航空巡洋艦「最上」へ配乗させられたのはもう初夏のむんむんする季節だった。
【第四艦隊司令官志摩清英少将】
【重巡洋艦「最上(もがみ)」】
五月の末に北方の要地キスカ、アッツが危機に陥り、私達は宇品から陸軍の精鋭部隊を乗せてアリューシャンへ向うべく命令を受けたが、用意万端ととのった出航の数日前、当のアッツ、キスカ玉砕の悲報が伝った。
止(や)むなくそのまま陸軍を乗せて一路ソロモンへ南下、ラボールへ上陸させると、私達は再びトラックへと投錨した。
そして暑いさなかを九月の末までトラックにくすぶっていたが、翌十月の中旬、急に命令が出て、夜間戦闘機の講習を受けることになり、急遽内地の厚木へもどってきたのは秋も半ばを過ぎた十一月ま近だったと記憶している。
私はここで十九年の一月一杯まで猛訓練をほどこされた。
【厚木基地エプロンでエンジン始動した夜間戦闘機「月光」|手前から5機】
講習が終ると即日実施部隊への派遣が令せられ、私は九〇二飛行隊(バリックパパンの派遣隊=三八一空=で本隊はセレベスのケンダリーにあった)へと決った。
その当時バリックパパンには毎日のように夜間空襲があった。
いつも八機位できて散々(さんざん)に荒らして帰るのだ。
【南方地図】
此方(こちら)も探照灯の一斉射 (*13)と、高射砲の集中攻撃を浴びせるのだが、一寸(ちょっと)でも攻撃が弱まると、すぐ高度千五百位から三百米(メートル)位まで下りてきて、機銃掃射を浴びせかけてゆくといった大胆さだった。
「しゃらくせえ野郎だなッ!」
私達は地団駄(じだんだ)踏んで口惜(くや)しがった。
バリックパパンには当時邀撃(ようげき) (*14)出来る優秀な夜間戦闘機は、全部かり集めても二十機ぐらいしかなかった。
その全部が海軍機の『月光』だったが、『月光』には夜戦の秘密兵器たる二十五ミリ機関砲(二連装)が装備されていた。これが上方へ一基、下方へ一基とりつけられ、威力を発揮していたが、われわれは遂にこの虎の子の『月光』三機ぐらいで、毎晩交替に邀撃をやることになった。
【第381海軍航空隊戦闘第902飛行隊の「月光」|1944(昭和19)年12月】
敵襲のない晩でも哨戒おさおさ (*15)おこたりなかった。
それは丁度四月の六日だった。
その晩はキレイな星空だったが、私は二番機で上空を哨戒していた。
そうすると真夜中の一時頃でもあったろうか、またまた敵編隊が夜間攻撃をかけてきたのだ。
最初それは千米くらいの高度で、陸地へは近付かずに沖合はるか上空を飛翔している様子だったが、(敵機は海上へ機雷を敷設していたのだ)そのうち陸地へ向って真っすぐに近寄ってきた。
陸上の探照灯がいち早くその機影をとらえた。
此方は三機、二千米の高度で待機していたが、先(ま)づ一番機が猛烈な勢いで敵編隊群へおそいかかっていった。続く三番機も急激に下降して反転、敵機の下にもぐり込むと死物狂いの撃ち合いがはじまった。
私の操縦していた後部座席には、偵察の井戸中尉(予備学生 (*16)出身、和歌山県田辺市)がいた。
私は伝声管で、
「突込むぞッ」
と怒鳴ると一気に急降下肉迫していった。射(う)ち出される全弾ことごとく、気持よく敵機に吸い込まれるように飛んでゆくのがよくわかった。
敵はわれわれの待ち構えていたのを予測しなかったのか、或(ある)いは、なあにたいした事はないと高(たか)をくくっていたのか判らないが、とにかく不意の日本機の襲撃に、びっくり仰天、忽ち編隊は型を乱して遁走にかかった。
だが此方は当時世界第一級を誇っていた夜戦の最優秀機月光だ。その『月光』に見込まれた敵も運のつきだったろう。
敵一機に追尾し、猛烈に二十五ミリを浴びせかけて反転、高度を取って避退しながら見ていると、急にその機が機首を急角度に下げた。そして陸地目がけて突込みはじめた。
見る見る黒い煙りを噴き出して、矢のように糸を引いて墜ちてゆくのが夜目にもハッキリとわかった。
もう一機は、高空に避退していたわれわれの面前に何を間違えたか飛びだしてきた敵機があった。
しかし、ハッと気がついたらしい。いきなり全速で暗い西方海上へ向って遁走をこころみたものだ。
しかし小癪(こしゃく)にも逃げる途端パッパッパッと射っていった。
ガーンッ!
不意にひどい衝撃を受けた。
「大丈夫かッ」
と私は怒鳴った。
「尾翼先端に被弾ッ!」
井戸中尉の大声が伝声管の中をはね返ってきた。
「よしッ、航行に支障なし!」
私はそう叫ぶや怒り心頭に発して全速力で追跡した。距離が忽ちせばまった。
敵機の排気管から出る炎が青く見えた。
急にグッと下降してその下にもぐり込むと二五ミリ機関砲がガッと火を吐いた。
ダダダダダダ……………
射ち上げておいて反転、また追尾に移った。敵機も気狂いのように射ってきた。
星空のもと、交叉する彼我(ひが) (*17)の曳光弾だけが細く矢のように飛び交っていた。
いつのまにか敵味方とも沖合はるかの上空にきていた。
「野郎ッ!」
私は焦って、再びその下腹へもぐり込もうとした瞬間、突然、敵B24のガソリンタンクのあたりから細い煙りが糸のように噴き出した。
そして見る見るその黒煙は大きくなっていった。
(しめた! 遂にやったッ)
私は心の中で快哉を叫んだ。もうその撃墜も数刻の後だったろう。
だがこの時、急に巨大なスコール雲が、不意に海岸線をおそってきたのだ。敵機にとって何んという幸運だったろうか。それは瀕死の彼等(かれら)に取って、絶好の『隠れ場』だった。
「畜生ッ」
口惜しがったが仕方がない。われわれは忽ち視界をさえぎられて、密雲の中へまぎれ込んだ敵機を見失ってしまった。
とうとうこの一機だけは、最後の止(とど)めを刺す瞬前 (*18)とり逃がしてしまい、墜落を確認出来なかったわけだ。
私は流石(さすが)に全身汗でびっしょりになっていた。
私はその後航空病にかかり(一種の神経痛で熱が出る)一ヶ月ほど病室に入っていたことがある。脊髄が次第に曲るという奇病だった。
その間に本隊ではモロタイへの殴り込み航空戦を連日の如くしかけていた。
忘れもしない丁度十二月二十五日のクリスマスの日だった(昭和十九年)。
当時ジャワのスラバヤ飛行場は機も少なく空襲もなく、比較的閑散だった。
正午近く、暑いもので私は防暑服一枚になって、乗機の手入れに余念がなかった。強い南国の陽ざしをわずかに火焔樹 (*21)で遮った下で、整備員と一緒になってやっていた。
【火焔樹(ホウオウボク)】
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その時だ。
突然急な出動命令が出てみんな総立ちになった。目標はスラバヤ基地より三三〇度、三二マイルの地点で味方の機帆船(陸軍の沿岸輸送に従事していた)が二隻、敵潜水艦から攻撃を受けているから、至急撃滅せよというのだった。
私は飛行服を着換えるひまもなく、半ズボン姿の防暑服の上へ、ジャケットと救命胴衣をつけ、操縦席へ躍りこむなりすぐ飛び上った。
偵察員は山田南八飛曹長(久留米市)だった。
爆弾は対潜攻撃用の大型弾(6番2号) (*22)二個を翼下に抱き、高度六〇〇-七〇〇をとって一路現場へ急航。
現場までは三〇マイルほどしかなかった。すぐその上空についた。
見ると成程(なるほど)大型潜水艦が、市街とその対岸マズラ島との間の水道附近で遊弋(ゆうよく) (*23)しているのが望見された。
ところがどうもおかしい。艦に国籍の標識がないのだ。
日本潜水艦ならば大概(たいがい)その胴体に白線を巻いてあるとか、何かの眼じるしがなければならなかったがそれがない。とすれば何国のものだ?
その前後、その附近へよく同盟国の独潜水艦が来たことがあった。艦型からして或いはそうではないか?
【ドイツ潜水艦「Uボート」】
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フト私はそう見誤った。
近付いたので艦にバンク (*24)して合図したが、更に気がつかない。
そのうち真上近くまできた。
と、いきなり後座席の山田飛曹長のガナリ立てる声が伝声管いっぱいに拡(ひろが)った。
「沈下はじめたッ、敵潜だッ!」
私は吃驚(びっくり)して下界をのぞき込んだ。果して山田偵察員の言う通り、漸やく気のついた敵は、あわてて急速に沈下をはじめようとしているではないか。
いけない!
しまったッと心の中に叫ぶと、もう考えている余裕はない、いきなり恐ろしい勢いで急降下をやった。そして高度一〇〇くらいの処で第一弾をブッ放したものだ。
普通こうした場合は緩降下で投弾するのが常識で、目標物の真上から急降下で突込みながらの投弾は、特攻自爆機と違わぬ同じやり方だ。今考えると全く肌に粟を生ずる (*25)の冒険だった。
その時敵潜は早くも艦橋の一部を波間に没し去ろうとする瞬間だった。急降下しながらブッ放した対潜攻撃用の大型爆弾は、その艦橋中央をわずかに外(そ)れて、右舷側前方三米の海面に落ちた。
物凄い海水の水柱が噴き上った。
機は水面三〇米ぐらいの処で危うく機首を立て直すと、必死に急上昇したが、夜間戦闘機は機体が非常に重いので、そうした芸当はたいへんな困難が伴うのだ。
上昇途中も山田飛曹長が、刻々の状況を伝えてくれた。
上から見ると沈下した潜水艦でも、水面下十五米位までならハッキリと見えるのだ。
いま手許にあるその時の私の戦闘記録には次のように書かれている。
──海面上に多量の重油噴出、同時に潜航中の目標艦は、極めて不規則な運動をなし居(お)れり──
二回目の攻撃のときは、その大型敵潜は水面下五米くらいの沈下状態だった。
「よしッ」
止(とど)めの一撃を神に祈って必中の一弾。
今度は、
「機首左舷側の四米附近へ落下」
した。おびただしい油が海面一帯に流れていた。
確認も出来ぬまま機首をめぐらして基地へいったん引き返えし、ありのままを私は報告したのだった。
果して敵潜艦 (*26)は沈んだのか?
誰の胸にもその疑問はぬぐい切れなかったのだろう。私の報告が終るやすぐに、上平飛曹長が零戦に飛び乗った。そして同じ6番の2号(六〇キロ)の対潜爆弾を一発つけると、再び確認の為に現地に急行したのだ。
【豊橋基地でいっせいにエンジン始動した第381空のゼロ戦52型群|1944(昭和19)年3月】
上平飛曹長の帰ってきてからの報告によると、現場にはその地点を中心にして、広範囲にわたって重油が漂っており、水面下五、六米の辺に確かに大型潜水艦が一隻沈んでいるのを認めてきたという。なお念を入れて、その標的に携行の爆弾を投下してきた、ということだった。
なお海岸線近くにあった水上機隊にもその状況が入り、偵察機が爆弾を持って見張り、確認に出かけたが、報告は誰がいっても同じものだった。
【参考:95式水上偵察機】
ところが、スラバヤ根拠地隊の司令がみんなの確認を否定した。
「潜水艦は、そんな簡単には沈むものではない。まして大型潜水艦撃沈などと云うことは信じられないことだ」
という。三八一空の飛行長黒沢少佐は私の前で、顔面を紅潮させてフンガイした。
私も内心いささか忿懣(ふんまん) (*27)を押えきれないものがあった。
遂に飛行長より掃海艇を出すことを司令に要請、現場へ急行した。
南国のギラつく太陽の下、間もなく掃海艇の網に引っかかって引き揚げられたのは、まさしく連合軍側の大型潜水艦の全容だった。
司令が吃驚(びっくり)して喜んだのも無理はない。
その夕方、われわれの許にビールが三箱届けられた。
他の戦友は歓呼をあげて私を取りかこんだ。久し振りの戦果だったから無理はなかった。 「よくやった、よくやった」 そう云って小供(こども)のようにはしゃぎまわるのだった。そこへ黒沢少佐が入ってきた。大柄な体躯(たいく)に赫顔(あからがお)をにこにことさせて大股にやってきた。兵隊達が急いで立上がって、道を開けたりした。 「構うな、構うな、ゆっくりやれ」 そう云ってずんずん入ってきた。
飛行長黒沢少佐は、その日偶然にも朝から用務で飛行場へ来ていたのだ。
私のそばへ近寄ってくると両肩に手をかけて、
「原、お前は病み上りで駄目かと思っていたが、えらい戦果をあげてくれたなァ」
とたいへんな喜びようだった。
私も嬉しかった。
何も云えずに照れて顔がほてった。
いまその日の私の記録には、
──時あたかもクリスマスの晩だ。わが九〇二飛行隊が、ルーズベルトに送る最大のプレゼント──
とある。
想い起せばその二年半前、私が六千トンの敷設艦『沖島』に乗り組んでいた当時、共に語らった戦友はいま幾たり生き残っているだろう。おそらくあのソロモン群島の海峡で、非業の戦死を遂げた人の数の方が多いのではあるまいかと思う。
いかに戦争とは云え、むざむざとうばい去られた戦友の命……
そしてその戦友の屍(しかばね)もろともわが『沖島』を一挙に海底に葬り去った憎い敵潜水艦!
ああ私はこの腕で、確かにその潜水艦の片割れを轟沈してやったのだ──。
仇(かたき)をとってやったのだ、みんなの代りに…
私は寄贈のビールを飲みながら、やたらに瞼(まぶた)をゴシゴシこすった。涙が溢れてどうしようもなかった。
「嬉し泣きか、泣け、泣け」
何も訳(わけ)を知らずにそんな私をからかう者もいた。
『沖島』と運命を共にした戦友よ、どうか安らかに眠ってくれ。またその遺族の方々も、わずかにこの拙(つたな)い私の手記で、いささかなりとも慰められたら、望外のしあわせだと思います。 ──おわり──
【出典】
・1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編「大東亜戦争写真史 南方攻守篇」
・1970(昭和45)年 株式会社ベストセラーズ 福井静夫「写真集日本の軍艦 ありし日のわが海軍艦艇」
・1983(昭和58)年 講談社 千早正隆「写真図説 帝国連合艦隊-日本海軍100年史-」
・1995(平成7)年 光人社 雑誌「丸」編集部編「日本軍用機写真総集」
・1983(昭和58)年 光人社 瀬間喬 「海軍用語おもしろ辞典」
- 【*1】 端無くも。これといったきっかけなく。思いがけず。はからずも。
- 【*2】 南洋委任統治領はわが国が第一次世界大戦戦勝により敗戦国ドイツから委譲された正当な領土。
- 【*3】 連合国は日本が日露戦争、第一次世界大戦で得た領土(満洲、南洋委任統治領)を手放さないため、不当な対日経済封鎖、対日禁輸を制裁として課した。これによりわが国はアメリカ、イギリス、オランダに宣戦布告した時、この戦争を遂行する上に欠くことのできない石油資源の確保をオランダ領インドシナに求めた。そして、そのためには石油資源が破壊される前に、これを急襲攻略する必要があった。
- 【*4】 原文ママ
- 【*5】 最下甲板以上の甲板、艦橋などをつなぐ鉄の階段。
- 【*6】 紅色の蓮花れんげ。猛火の炎の色にたとえる。
- 【*7】 原文ママ
- 【*8】 きっぱりと別れること。いとまごい。
- 【*9】 原文ママ
- 【*10】 キャビン。船の客室。船室。軍艦の士官室。
- 【*11】 南の方にある大海。
- 【*12】 目を閉じること。
- 【*13】 原文ママ
- 【*14】 むかえ撃つこと。
- 【*15】 きちんと。ちゃんと。
- 【*16】 海軍飛行予備学生のこと。一般にいう学徒兵。
- 【*17】 あちらとこちら。
- 【*18】 原文ママ
- 【*19】 [三国志](蜀の劉備が、馬に乗って戦場に赴くことのない日がつづき、ももの肉が肥え太ったのをなげいた故事から)功名を立てたり力量を発揮したりする機会にめぐまれない無念さをいう。「―をかこつ」。
- 【*20】 旬:物事を行うに適した時期。1カ月を10日ずつに三分した称。
- 【*21】 ホウオウボク。 カエンボク(火焔木) ジャカランダとならんで、 熱帯三大花木のひとつ。
- 【*22】 60キロ爆弾。
- 【*23】 艦船が海上を往復して待機すること。
- 【*24】 翼を上下に振ること。
- 【*25】 はだにあわをしょうずる。鳥肌が立つこと。
- 【*26】 原文ママ
- 【*27】 いきどおりもだえること。発散できずに、心中にわだかまる怒り。
- 最終更新:2018-03-25 13:05:45