【アメリカ】沖縄戦の死闘-米艦隊の損害大なり、軍では発狂する者が出現した
1945年4月1日、沖縄に進入した米軍は一週間ないし一カ月前後でで沖縄を落とすと計画していました。
しかし、いざ沖縄に上陸してみると日本軍は沖縄を死守するため決戦を準備しており、米軍の沖縄進攻作戦は二カ月と二十二日間におよぶ死闘へと変貌しました。
日本軍は一歩も退かず、四十日間休むことなく続けた特攻攻撃によって米軍では発狂する者まで出現しました。米軍兵士は特攻機の恐怖で夜も眠れなかったためです。
日本とアメリカは空、海、陸で、まさに肉を砕く血まみれ、泥まみれの戦いを展開しました。
そして二カ月と二十二日間にわたった戦いが終わった時、日本側の戦死者は約11万人にのぼり、7830機の航空機が破壊され、米軍側は戦死者約1万2000名、米海軍の損害は小型艦34隻沈没、300隻以上(台風、衝突、座礁などによるものを含む)が損傷、そのうち特攻機による被害は沈没26、損傷160隻に達し、通常の空襲による損害は沈没2、損傷61隻でした。
アメリカの従軍記者だったハンソン・W・ボールドウィンは
「沖縄では死のうとする意志と生きようとする意志が真っ向から対決し、死のうとする意志が生きようとする意志を敗北させた。日本軍の場合は特攻機は技術以上のものを意味した」
と書いています。
現在、沖縄では米軍基地辺野古移設をめぐって、共産主義者が「大東亜戦争で沖縄は捨て石にされた」、「日本は本土防衛だけを考えていた」などと日本悪宣伝を展開しています。
それと同時に「特攻隊は犬死に、ムダ死にだった」、「特攻の成果はなかった」という連合国側の終戦直後の日本悪宣伝をいまだに展開しています。
しかし事実は、スプルーアンス第五艦隊司令長官はCINPAC(ニミッツ太平洋艦隊司令長官)に「敵の特攻攻撃は熟練かつ効果的であって、艦艇の損害きわめて大なる」と報告しているのです。
もし本当に沖縄が捨て石であったなら、日本軍が二カ月も首里ラインを防衛するはずもなく、また多くの日本兵が命をなげうって米軍に戦いを挑むこともなかったはずです。
「沖縄が陥落したら次は九州」と考えるのは戦略上、ごく普通の思考の流れですし、日本軍は沖縄を捨て石になどしていません。
そして最も重要なことは沖縄戦の真実が、共産主義者の日本悪宣伝とはまったく逆であることです。共産主義者の思想的母国中国は沖縄に進攻した米軍を支援すべく、日本軍の補給を断つために日本本土の工業都市空襲に加担していました。中国の成都や重慶から発進した米軍機が日本本土を焼土にしたのです。
日本軍は文字どおりその肉体を米軍にたたきつけて、散華しました。それとは逆にいま沖縄で「平和」を訴えている人々は沖縄が戦火に見舞われていた時に、中国やソ連、アメリカに逃亡するか、日本の監獄で「日本は、われらの祖国中国を侵略するな!」と叫び続け、大東亜戦争では一滴の血も流していない、さらには米軍の沖縄進攻に加担したと断罪してもいい「平和」を語る資格のない人々です。
いま、中国は沖縄の人々を二度殺そうとしているのです。
沖縄をアメリカから守ろうとした人たちは誰なのか、それは日本の二十歳そこそこの青年たちだったのです。
【戦艦ミズーリに突入した特攻隊員の遺体】
【ミズーリの機銃に食い込んだまま離れようとしない特攻機の20ミリ機銃】
出典:1967(昭和42)年 朝日新聞社 ハンソン・W・ボールドウィン著 木村忠雄、杉辺利英訳
「勝利と敗北-第二次大戦の記録-」第十一章 史上最大の海空戦-沖縄 一九四五年四月一日~六月二十二日
ハドソン・W・ボールドウィン略歴 1903年3月、メリーランド州ボルチモア市生れ。 1924年、アナポリスのアメリカ海軍兵学校卒業。同年海軍少尉任官。戦艦、駆逐艦に乗組み、東部沿岸、カリブ海、ヨーロッパで勤務した。27年、旅行と著作に専念するため、海軍を退いた(その時は中尉になっていた)。やがてボルチモア・サン紙の記者となり、はじめ警察関係の記事、のちに一般の記事を書いたが一年でやめ、29年ニューヨーク・タイムス社に入社。37年以来軍事記者として活躍している。 大戦中の43年には北アフリカとイギリスに従軍、44年にはノルマンディー上陸作戦を報道した。戦後はビキニの第二回原爆実験とネバダ州での数多くの原爆実験に立会った。朝鮮戦争中の50年には朝鮮、日本、台湾を訪問、61年にはドイツに赴いてベルリン情勢を視察、65年には西太平洋とベトナム戦争を報道した。こうして、氏は三つの戦争(第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争)に記者として従軍した。42年には、南太平洋情勢の報道で、ピュリッツァ賞を受賞した。著書には「力の代償」「大軍備競争」「戦争の大きな過誤」「第一次世界大戦」など多数がある。 |
これは第二次大戦"最後の戦い"となった東シナ海上に浮ぶ沖縄における、"どっかりと腰を据えにやってきた艦隊"と日本の"神風特攻隊"との戦いの物語である。ウィンストン・チャーチルはこの戦いを正しくも、軍事史上もっとも苛烈でもっとも有名な戦いであると評した。 |
一九四五年四月一日は復活祭の日曜日にあたり、戦時下の世界にとって祈りと希望の時であったが、東シナ海はこの日、輝かしく晴れわたっていた。海は静かで大気は爽やか視界良好、陽光は強烈であった。まもなく米国史にその名を刻みこまれる沖縄の島影は遠く遥かな水平戦上に、おぼろにかすんでいた。
史上最大の艦隊(空母四十隻以上、戦艦十八、駆逐艦二百ほか数百隻の輸送船、巡洋艦、補給船、阻塞網敷設艦、潜水艦、掃海艇、砲艦、上陸用舟艇、哨戒艇、サルベージ船、修理艦など、総計艦船千五百隻以上、兵員十八万二千)がいま、日本の水域深く進入しつつあった。目的はアイスバーグ作戦、すなわち沖縄の攻略である。
戦いの前に常に行われる、何カ月間にもわたる精根傾けての準備と一触即発の緊張の連続であった何週間かを思うならば、この作戦の開始はまことにあっけないもののようにみえた。
沖縄沖合には、野球帽をかぶった容貌魁偉なマーク・"ビート"・ミッチャー海軍中将指揮の、かの有名な第五十八機動部隊がはしりまわっていた。その南、東シナ海のうねり波が寄せては白く砕ける岩だらけの先島群島と台湾では、初めて太平洋で作戦する英空母機動部隊が、日本軍飛行場に片っ端から攻撃を加えていた。ブルー・ビーチとパープル・ビーチ沖では輸送船、上陸用船、貨物船などが信じられないほど円滑に、海兵隊や陸軍部隊をおろしていた。部隊の分乗した小型艦船や上陸用舟艇が、白い航跡を曳いて明るい海上を進んでゆく。遠くでは戦艦の巨砲が火を吐き、咆吼する。ただし、これは米艦の巨砲である。空では飛行機が突っこみ、旋回し、投弾していた。これまたアメリカの飛行機である。
敵は奇妙にも静まりかえっていた。第七師団歩兵隊のある兵士は、沖縄特有の円丘のような丘を登りつめたところで、すっかり緊張から解放され、額を拭って言った。「寿命以上に生きたような気がするよ」
米軍は進攻第一日の午前中に、日本軍の放棄した読谷と嘉手納の飛行場を占領した。両飛行場の攻略には一週間ぐらい必要かもしれぬと、事前には考えられていた。
しかし上陸はあまりにも容易であったが、その後には、戦史上もっとも苛烈な血みどろの戦闘が控えていた。日本軍が"決戦"を準備していたのである。
九州から南方に伸びている琉球列島最大の島である沖縄はサンゴ礁脉(脈)に縁どられた、幅二ないし十六マイルのトカゲ型の島である。幅二マイルの隘部 (*1)の北は全島面積の三分の二を占め、地勢険しく深い森林に覆われた山岳地帯で、南はなだらかな丘の起伏する地域である。日本軍が主要防衛線を設定したのはこの南部地区───斜面や谷が連なり、あちこちに古代沖縄の墓や石灰岩の洞穴がみられ、耕やせる土地という土地にはサトウキビやサツマイモや稲や大豆が植えてある、この南部地区───であった。
沖縄進攻は、アメリカの戦略からみて当然の論理的発展であった。同島からすれば日本は中型爆撃機の行動半径内に入り、ここに爆撃機七百八十機ほどを置くことにより、現在マリアナ基地のB29爆撃機隊が行っている対日攻撃をいっそう強化できるとみたのである。さらに海軍と航空隊は沖縄と周辺諸島を基地として、日本の海上補給路を断ち切ることができるであろうし、また"オリンピック作戦"───一九四五年十一月一日決行予定だった、三百五十マイル北方の九州上陸作戦───支持のため沖縄が必要だった。
後になって考えれば、沖縄の戦いは最終的勝利のために必要でなかった、といえるかもしれない。沖縄失陥後、二カ月もならないうちに、敵は和平を求める用意があったからである。しかし当時においては、日本は無限に戦うだろう、という意見が軍当局者の間では支配的であった。さらに沖縄の勝利は、敵の早期降伏をもたらすのに、与(あずか)って大いに力があったのである。交渉による和平を強いるという、日本の軍国主義者らが期待した最後の望みは、沖縄で絶たれたのである。
沖縄進攻が始まったころ、ヨーロッパの戦いは終末に近づいていた。日本はレイテ湾の戦い以後、包囲され絶望的な情勢にあったが、最後の最後まで戦い抜くであろうと、どの戦略家も考えていた。多くのものが、日本本土進攻とアジア大陸の日本軍部隊掃蕩という出血の多い作戦の完了には、なお少なくも一年の時日を要するだろうと憂慮した。原爆はまだ、アラマゴードの実験も済んでいなかったし、日本国内の絶望的窮境は日本軍の戦意にいささかもひびいていなかったのである。
沖縄と琉球列島は日本本土の最後の堡塁(ほうるい) (*2)であった。何千マイルもの大洋を越えて、敵基地にとり囲まれた地域に米軍を投入するということだけでも、戦史に前例のないところである。進攻艦隊は、文字どおり世界中から艦船をかき集めて編成された。この大上陸作戦の補給計画は一九四四年夏から準備にかかった。アイスバーグ作戦の成功のカギは、海軍の輸送・補給統制システムにあった。このシステムは、多くの試練と失敗ののち、一九四五年にはほぼ完璧の域に達していた。洋上における燃料・物資の補給技術は、日常事となり、改善を重ねられていた。海軍の弾薬消費量だけとってみても、これに先立ついかなる作戦をも上廻っていた(五月二十日まで~五インチ三八口径高射砲弾・二十四万七千発、対空・艦砲弾合計二万七千トン、五インチロケット砲弾三万五千発、爆弾四万四千発)。 一国家の頭脳と肉体と、力と威厳とが、沖縄で余すところなく示されたのであった。
進攻は"短期"作戦を行い、一カ月前後で完了したいというのが、米国の希望であった。情報部の推定では、沖縄本島の敵は兵力五万五千ないし六万五千、大口径砲百九十八門を持っているとみられた。しかし推定はとんでもない誤りであることが分り、"迅速な勝利"の希望はたちまちしぼんでゆく。"最後の戦い"が終わったとき、敵軍は十一万人以上の死者を出し、七千四百人が降伏し、米側にも戦死、負傷、行方不明、病人など七万五千人の損害を出した。
なぜならば日本の大本営は、沖縄を死守し、残存海空軍力の主力をくり出し、沖縄進攻作戦のカナメとなっている米艦隊撃滅をはかる決意だった。米艦隊の撃滅が敵の主目的であった。この目的達成のため敵が大きな期待をかけたのは、爆弾を積んだ飛行機を駆って目標に体当りする自殺的パイロット、すなわち日本海軍の特別攻撃隊および志願による陸軍航空隊操縦士らであった。"神風攻撃隊"である。
沖縄を覆う恐怖の影は、すでに上陸の始る前にも進攻艦隊の上をよぎった。スプルーアンス第五艦隊司令長官の旗艦インディアナポリスは三月三十一日、左舷に特攻機の体当りをうけ、アダムスも自殺機の攻撃で損傷し、マレーは魚雷一発を被弾して航行不能となり、掃海艇スカイラークは触雷して爆砕した。四月三日ごろには、慶良間列島の泊地には、航行不能になったり、よたよたになった艦艇がどんどん入ってくるようになった。
一九四五年四月六日は晴れ、微風が東シナ海にさざ波をたてていた。陸上では───ほぼ一世紀も前にマッシュー・ペリーが星条旗を立てた丘、俗にいう"ピナクル(高峰)"の丘の周辺で死闘が戦われていた。敵の拠る強固な首里防衛線を破摧するための激闘の火蓋が切られたのである。敵軍は一歩も退かず、戦った。
海上には、大艦隊が同島周辺に広く展開していた。
第五十八機動部隊は進攻に先立ち、すでに三月、本土の軍港と九州の各飛行場に対して、広域にわたり数回の攻撃をかけていた。一方マリアナ基地の米陸軍B29爆撃機隊は敵の航空基地を破壊しさっていた。沖縄の敵陣地に対して艦砲射撃が行われるかたわら、高速空母艦隊は同島北東七十ないし百マイルの海上にあって、艦隊機を洋上に飛ばしていた。今日、またその後の来る日来る日も、第五十八機動部隊は進攻軍の上空に戦闘哨戒機隊を飛ばし、その一部は九州にまで飛んで、特攻機あるいは瀬戸内海から出撃する敵水上艦隊の捕捉に遺漏なきを期した。
南東洋上には米"ジープ"空母艦隊があり、その発進機は上陸部隊の直接掩護にあたるとともに、周辺の水上艦船のために戦闘哨戒飛行を行なっていた。戦艦と巡洋艦は沖縄のそそり立つ海岸地区をつねに射程内におきながら、進んだり退いたりしつつ、日本軍陣地に砲弾の雨をそそいだ。砂浜の沖には上陸用船、輸送船、貨物船などが雑然と集っていて、そこから部隊と資材の流れがサンゴ礁脉を渡り、波を分けて、陸上の戦闘部隊に向って伸びていった。そして島と上陸部隊をつつみこむ、半径百マイルの巨大な円周上に"ブリキ・カン"やら"スモール・ボーイ"やら"スピット・キット"などのアダ名で呼ばれた"第五上陸作戦場スクリーン"隊(公式名称)、すなわち一般にはレーダー・ピケット・ラインの名前で知られる艦艇が配置されていた。
※レーダー・ピケット・ラインに配置されていた駆逐艦ストームズ。特攻攻撃の後。
これらスモール・ボーイ(小艦艇)は十五の基幹ピケ・ステーションに配属され、最初に敵を探知する。エンジンの音がきこえてくるずっと前に、"カミカゼ"(特攻機)はレーダーのスクリーンに、まず光の点となって現れる。
四月六日、夜半当直が敵偵察機数機を探知し、夜明け前に"激しい空襲"があった。敵の九機が高射砲隊によって輸送船団水域で撃墜された。夜が明け、朝から雲があったが、午後になると雲は低く垂れこめ、四方八方から"強盗"が爆音をとどろかせて突っこんできた。日本機の攻撃とともにTBS(船舶間連絡)無線電話がしゃべりはじめ、駆逐艦上のCIC(戦闘情報センター)に、各方面からラジオ連絡が殺到した。「ペダンチック! こちらはリバーサイド。百八十度の方向に国籍不明機一機を発見。そちらからも見えるや。以上」
「こちらペダンチック。そちらのいうとおり、同機は三回攻撃……離脱した」
この陰鬱な灰色の日の午後一時から六時までの間に、敵機延べ百八十二機が沖縄地区に到達して約二十二カ所に攻撃を行なった。日本機の多くは爆弾投下ないし魚雷攻撃を行なったが、二十機以上が米艦に決死の体当り攻撃を敢行した。主としてこの攻撃の犠牲となったのは、広大な海域に展開したレーダー・ピケ・ラインについていた掃海艇、駆逐艦、護送艦、上陸用舟艇などの小型艦艇であった。
犠牲の一つに、米軍艦ロドマンがある。同日午後の七点打のころ、海は穏やかで、ロドマンの白い航跡はほとんど波立たなかったほどだった。ロドマンは僚艦の駆逐・掃海艦エモンズとともに時速八ノットでゆっくり走りながら掃海艇隊の護衛に任じていた。乗員は部署についていたがレーダーのスクリーンに敵影はなかった。突然、艦上低く垂れこめた密雲の中から三機がおどり出てきて、一斉攻撃を開始した。一機がメーン・デッキ左舷に体当りで激突したちまち巨大な炎が上部構造をなめまわしたかとみる間もなく、一瞬ののちには、右舷側の至近弾のふきあげた水柱が、滝のようにロドマンになだれ落ちてきた。艦首全体がぱっくりと口を開け、海水が侵入してきた。生死をかけた戦いが始る。ロドマンは火災を艦首部でくいとめに。上甲板ウェートを海中に捨てよ、錨を切り、バラスを排水せよ。水兵たちは燃えさかる炎をものともせず、弾薬を人力で運び出し、艦中に放りこんだ。艦を軽くせよ、艦を軽くせよ! 消火につとめよ! スキ間をつめよ!
八点打のころ、火事はようやくおさまったが、また日本機がやってきた。それはあらゆる方向から突っこんできた。天皇のため喜んで死に就く日本の若者たち、彼らの願いはかなえられ、その乗機は火を噴きながら流星のように大空をよぎっていった。戦闘哨戒機隊の撃墜した日本機の多くはロドマンにぶつかり、あるカミカゼ機は左舷吃水線の舷窓に激突し、ロドマンをほとんど真っ二つにした。裂け目は艦底に及ぶばかりに深かった。五インチ砲弾四発が爆発し、前部弾薬庫の砲弾もがらがらと崩れ落ちたが、奇蹟的にも爆発を起さなかった。
別のカミカゼ機が艦長室に飛びこんだ。このため上部構造は炎に覆われ、操舵手は後甲板から退去しなければならなくなった。
乗員のあるものは海中に吹きとばされ、あるものは自ら飛込んだ。五十八名がサルベージ要員として艦上に留った。残余の生存者は救助艇に移乗した。とっぷり日の暮れるころ火事は鎮火し、舵も修理され、速度も六ノットまで回復した。かくて惨憺たる損傷をうけたロドマンは翌四月七日午前三時二十五分、焼けただれ崩れた遺体をまだ乗せたまま、そうろうとして慶良間列島の基地にたどりついた。ロドマンは生きのこった。ロドマンは"どっかりと腰を据えにやってきた"艦隊の軍艦だった。
しかし、エモンズはそれほど運がよくなかった。同艦は、この日滅んだ艦の一つであった。スコアは不吉であった。エモンズのほか駆逐艦二隻が撃沈された。LST四四七号は"端から端まで"燃えてしまい、弾薬船ローガン・ビクトリはカミカゼ機二機の体当りをうけ、宙天に恐るべき花火を打揚げて沈んだ。もう一隻の弾薬船も撃沈され、護衛艦九隻も大損害をうけたが、その一隻は、日本兵が泳ぎながら押してきた、浮きイカダにくくりつけた水中機雷にやられたのである。
しかし、レーダーのピケ・ラインは寸分のスキ間もなくなった。兵員、物資の積みおろしは間断なく続けられた。日本軍の損害は甚大であった。四月六日と翌七日早朝に、約四百隻もが撃墜された。そのうち三百機はピケ・ラインで阻止され、これに対する米側の損害はわずか二機であった (*3)。そしてこの日、四月七日には、世界最大の戦艦であり日本海軍最後の誇りであった、一八・一インチの巨砲をもつ戦艦「大和」が、はげしいケイレンに身をよじらせつつ、ピラミッドのような煙を宙天高くふき上げて沈没していったのである。沖縄沖の米進攻艦隊に決死の絶望的攻撃をかけるため、「大和」が瀬戸内海から出撃したのは、カミカゼ特攻隊に対する犠牲の伴奏としてであった。「大和」は片道の燃料しか積んでいなかった。それに従うものわすかに軽巡一隻〔矢矧〕(やはぎ)と駆逐艦八隻であった。乗組の将校下士官兵とも、もとより天皇のために死に赴く覚悟ができていた。しかし、致命的なことに、航空隊の掩護が皆無であった。
この日本の"海上特攻隊"の出撃は早くも米潜水艦が発見しており、ミッチャー提督と第五十八機動部隊は"熱烈な"歓迎準備を進めていた。エセックス発進の艦戴機が四月七日午前八時二十三分、沖縄を遠く隔たる九州南端西方で、「大和」以下の艦隊を確認した。高速空母艦隊の日本艦隊に対する最初の大規模攻撃は午後零時三十二分ごろ決行されたが、その時から沈没の午後二時二十三分にいたるまで、「大和」は最後の苦悶にもだえた。「大和」は刀折れ矢尽きて倒れた。すでに爆弾五発、魚雷十本をうけていた。それは修羅場さながらであった。「大和」は逆立ち、乗員の大半とともに水中にのめりこんで行った。(乗員二千七百七十七名のうち生存者は士官約二十三、下士官兵約二百四十六名)。巡洋艦「矢矧」と駆逐艦八隻のうち四隻が、大和と運命をともにした。 ─── すべては、沖縄の防衛になんらの寄与もなかった。無用の犠牲であった。
十一、十二の両日、ふたたび雲の中から無数の"神兵たち"が襲いかかってきた。沖縄地区がいためつけられたのは十一日だけだった。日本軍はこの日、東方百マイルの洋上の第五十八機動部隊に攻撃を集中した。"大きなE"とよばれた、太平洋戦で"最も戦闘的だった"空母の一つであるエンタープライズは、カミカゼ機二機の至近攻撃をうけて"相当な損害"を被り、エセックスも撃破され、駆逐艦、駆逐護衛艦なども被弾した。
陸上では海兵隊が微弱な抵抗排除しつつ、同島北部地区を掃蕩中だった。しかし南に向った陸軍部隊は首里防衛線に拠る敵軍の"鉄桶の防衛"にぶつかった。
日本軍の戦略はいまや、痛ましいまでに明白である。日本陸軍部隊の任務は死ぬまで戦って、戦闘をできるかぎり引きのばし、米艦隊を上陸部隊掩護にクギ付けにしておくことであった。激しい空襲、カミカゼ攻撃、舟艇決死隊攻撃、水上艦艇および潜水艦の出撃など、まがうことなき敗北に直面した軍事国家が案出できるかぎりの、ありとあらゆる絶望的手段をもって、米援護艦艇、輸送船、軍艦に攻撃が試みられた。
これに対する米軍の防衛は、攻撃であった。第五十八機動部隊と陸軍のB29編隊が日本軍の海空軍基地を強襲、痛撃を加えた。防衛に立ったのは第五十八機動部隊の高速空母、沖縄近海のジープ空母および占領した嘉手納、読谷西飛行場などから間断なく発進した強力な戦闘哨戒機隊であった。(第五十八機動部隊は三月二十三日から四月二十七日まで、沖縄東方に常時、十三ないし十六隻の空母を展開していた。このほかに十四ないし十八隻の護衛空母と、大型空母四、改装空母六隻を擁する英第五十七機動部隊があった。日中の戦闘哨戒作戦には、少なくとも五十ないし百二十機の米機が参加した)。
防衛の一翼をになうものに、沖縄のまわりにめぐらされた広大なレーダー・ピケ・ラインがあった。初めは駆逐艦および同型艦がこれに当ったが、カミカゼ機が猛威をたくましくするにつれて、砲艦も参加した。防衛に立ったのは艦艇と陸上の、口径二十ミリのちっぽけなものから百雷の如く轟く口径五インチまでの対空火砲であった。
それは恐るべき非常線であった。日本軍は大損害を被った。それでも、かれらはやってきた。
十二日 ─── ルーズベルト大統領の死んだ日 ─── は大攻撃の日であった。故国では国民が哀悼していた。沖縄でもこのニュースはいきなり、キツネ穴からキツネ穴へ、飛行甲板から砲塔へと広がったが、哀悼する暇はなかった。祈る時間さえほとんどなかった。この日、多くのアメリカ人が死んだ。明るく晴れたこの日の午後、敵は十七回の攻撃をおこない、おそらく計百七十五機の敵機が沖縄地区に進入してきた。敵機は強力な戦闘哨戒機隊と史上最強の艦隊の砲火の洗礼をうけたが、わが方にも傷ましい犠牲を出させた。その最大の被害者はピケ・ラインの艦艇であった。
午後一時五十八分、キャッシン・ヤングは敵機四機を海中にはたきこんだが、特攻機一機の体当りを前部機関室にうけ、戦死一、負傷五十四名を出した。午後二時二分、十二号ピケ・ステーションのジェファーズは至近弾のため火災を起した。それから一時間もしないうちに新鋭駆逐艦マナート・L・アビリーは爆弾をかかえた特攻機の体当りをうけ、"背骨を折られ、息の根をとめられ"た。洋上に身動きならぬ同艦は、その数分後に飛んできた"人間誘導ミサイル"(モリソンのいう小さな恐怖)の格好の目標となった。これがいわゆる"バカ"爆弾で、爆撃機から発進した小さなグライダーに、ロケット・ブースターと二千六百四十五ポンドの爆薬を積み、特攻パイロットが約五百ノットの時速で操縦、目標に体当りするというもので、太平洋戦で使用されたのはこれが初めてである。"バカ"はアビリーに命中した。瀕死の同艦はバラバラになった。戦死六、負傷三十四、行方不明七十四名の損害であった。戦艦テネシーも被弾した。アイダホのバルジは水びたしとなった。ニュー・メキシコは陸上からの砲撃で穴をあけられた。
※戦艦アイダホに向かって急降下する特攻機。
※戦艦アイダホ。前方に墜落した特攻機の水柱が上がっている。
※戦艦アイダホ。特攻機が突入、後部艦橋付近から爆煙がのぼっている。
※九九式艦爆の突入を受けて炎上する戦艦テネシー。
この間、まだ突破できない首里ライン前面のキツネ穴では、日本軍の宣伝ビラが大見得をきっていた。
われわれはルーズベルト大統領の死に深く哀悼の意を表するものである。ここ沖縄では、大統領の死とともに"アメリカの悲劇"の幕があがった。諸君は、米空母の七十%、戦艦の七十三%が撃沈ないし撃破され、死傷十五万を出したのを見たにちがいない。かくて、この小島のまわりに五百隻からなる"米海底大艦隊"が誕生したのである。……諸君はシッポを切られたトカゲがよたよたしているのを見たことが在るだろう。諸君のおかれている状態は、まさにそれである。自分の心臓から、一点の血もやってこないのだ。…… |
四月十五日から十七日まで、これも厄日だった。十六日、一号ピケ・ステーションの駆逐艦ラッフェイは菊水特攻隊の第三回大攻撃をうけ、"比類なき恐怖"の八十分間を戦いぬいて、生残った。同艦のレーダーに、同時に五十機があらわれた。そのうち何機かは戦闘哨戒機隊に撃墜されたが、ラッフェイは四方八方から二十二回にわたって襲いかかってきた敵の攻撃を撃退したのである。同艦は特攻機六機が命中してめちゃめちゃになり、爆弾四発を被ったが、敵機九を撃墜、主として艦長の絶妙な操艦技術のおかげで撃沈を免れ、その戦闘状況を後世に伝えることができたのである。艦はよろめきつつ、曳航されて泊地に帰投、戦死三十一、負傷七十二名を出した。なお使用できる砲はわずかに二十ミリ砲四門となったが、エンジン二基とも、ボイラーは全部使用可能であった。空母イントレピッドもやられ、駆逐艦一隻が沈没、多数の"スモール・ボーイ"(小型艦)が損害をうけた。レーダー・ピケ・ラインの"ホットコーナー"は一、二、三、十四号の四ステーションだった。これらには常時、各二機からなる戦闘哨戒機隊が配属され、駆逐艦二隻をもって対空火力の強化がはかられた。
※駆逐艦ラフェイ。
しかし、スプルーアンスはCINPAC(ニミッツ太平洋艦隊司令長官)にこう報告している。
「敵の特攻攻撃は熟練かつ効果的であって、艦艇の損害きわめて大なるため、あらゆる手段をつくして、今後の特攻攻撃の阻止を計らねばならない。よって、第十二空軍をふくむ全航空兵力を動員して、九州および台湾における敵飛行場に、できるかぎりの攻撃を実施するよう進言す」
攻撃は実施された。日本軍飛行場はかたっぱしからやられ、爆弾とロケットで容赦なく粉砕された。しかし特攻機隊は広く分散し、巧妙にカモフラージュされていた。特攻攻撃はつづき慶良間列島の泊地は損傷艦でいっぱいになった。損傷艦の群れがよろめきつつ太平洋を渡っていった。第五十八機動部隊の日本本土に対する予備攻撃に参加してやられ、火災で損傷はなはだしい空母フランクリンは、ニューヨークで修理のため、パナマ運河まわりの大迂回で帰っていった。しかし、太平洋は片道航路ではない。損傷艦船は故国に帰り、部隊と艦船の新鋭交代要員が西へ西へと、たえまなく進んできた。中部太平洋の、北太平洋の、さらには大西洋の駆逐隊が沖縄に急行し、アナのあいたピケ・ラインの部署につくよう命ぜられた。
※飛行甲板後部に12機の戦闘機を載せていたため激しい誘爆に見舞われた空母フランクリン。
"迅速な勝利"の希望は、海上でも陸上でも、いまやついえ去った。首里ラインはまだ無キズであった。司令部の鐘は昼夜をわかたず鳴った。艦隊は腰をおろして、血と火の長い試練に備えた。月末までに米艦艇二十隻(うち十四は特攻攻撃により)が撃沈され、百五十七隻(うち特攻攻撃によるもの九十)が損害をうけた。
しかし、米艦隊は日本の入口に居据って (*4)いた。沈着剛毅のデヨ、ブランディ両海軍少将指揮下の戦艦、巡洋艦、駆逐艦、ジープ空母などが岸壁となってそそり立つ沖縄島沖合にあって、主たる任務、すなわち上陸部隊の掩護に任じていた。昼も夜も、夜も昼も巨砲が吼え、対地協力編隊が敵戦線に爆弾やナパーム弾を投下した。防御力の弱い輸送船がたえまなく積みおろし作業を進めている輸送・補給地区では、しばしば煙幕が張られた。ターナー提督は敵の創意にみちた、しかし絶望的な攻撃に対する防衛策として、ありとあらゆる奇手を用いた。
陸上では、上陸した海兵隊が防備手薄の北部地区を掃蕩ののち、バクナーの命令により南部地区に転進し、疲れきった陸軍部隊を助けて、血にまみれ、泥にまみれ、突破できないでいる首里ラインの洞窟、機関銃座、要塞化した丘陵を強攻することになった。海兵隊は敵陣背後あるいは側面に上陸作戦を行うことを提案し、強く主張さえしたが、陸軍の容れるところとならず、犠牲の多い、真向から相うつ激戦がつづいていった。
四月末になっても、菊水特攻隊の作戦は衰えをみせなかった。この恐るべき死闘は、なお二カ月間も続くのである。
さらに多くの小型艦がやられた。小型機雷敷設艦アーロン・ウォード、この勇敢な軍艦は三月二十五日、二十五機の日本機に攻撃され、何機かは撃墜したが、爆弾とカミカゼ機が命中、もえ上がるガソリンが甲板を焼き、弾薬が大きな花火となって爆発した。艦は力を失い、火事は手のつけようもなく荒れ狂い、左舷に傾いたが、よろめきながらもなお戦旗をひるがえしつつ、港にたどりついた。
しかし四月以後になると、これほどの艦船の沈没、損傷の危険は二度となかった。五、六両月を通じて、沖縄の戦いは徐々に爆弾対艦艇の戦闘から人間対人間の意志と耐久力の試練に変っていった。
毎日が絶え間ない警報の連続だった。ぶっつづけに四十日間も毎日毎夜、空襲があった。そのあとやっと、悪天候のおかげで、短期間ながらほっとひと息入れられたのである。ぐっすり眠る、これがだれもの憧れになり、夢となった。頭は照準器の上にいつしか垂れ、神経はすりきれ、だれもが怒りっぽくなった。艦長たちの眼はまっ赤になり、恐ろしいほど面やつれした。敵の暗号を解読し、その意図を判断する、海軍の"マジック"班の活躍によって、艦隊は敵の大規模攻撃を正確に予測することができた。時には攻撃の前夜に、乗員たちに戦闘準備の警報がラウドスピーカーで告げられた。しかし、これはやめねばならなかった。待つ間の緊張、予期する恐怖、それが過去の経験によっていっそう生々しく心に迫り、そのためヒステリー状態に陥り、発狂し、あるいは精神耕弱状態におちいったものが何人かあったからである。わずかに、あのアメリカ人的な特徴、ユーモアのセンスが救いとなって、多くのものを恐怖の瀬戸際で支えていたのである。あるピケ・ステーションのちっぽけな砲艦の乗員たちは、死とすれすれの毎日にウンザリして、矢印をつけた大きな標識を掲げた ─── 「日本の操縦士へ、第五十八機動部隊はこの方向!」
陸上では、血まみれの激戦また激戦を重ねて、米軍は少しずつ首里防衛線に食いこんでいったが、日本の防衛力はまだ無キズであった。第三上陸兵団長は五月二十二日海兵隊が、太平洋戦でこれまでなかったほどの、きわめて有効な敵砲兵隊の砲撃に遭遇していることを報告している。五月下旬の沖縄は、梅雨で水びたしとなった。野原は沼となり、戦車は泥まみれになった。泥濘が王様であった。弾薬も燃料も水陸両用車両に積んで前線に輸送された。後方では、雨漏りのするテントにスシ詰めにされた海兵隊員らが、かんビールの杯を上げて有名なマッカーサー戯歌をがなっていた。
海上でも、陸上と同じく、戦線なき戦いが続いていた。特攻機とともに、敵の潜水艦、特殊潜航艇、特攻艇などが米艦隊にうるさくつきまとった。敵潜艦と接触の報告は数多くあったが、一部は誤報だった。潜水艦探知機は魚群や潮流の"関節(ナックル)"も受信したからである。水兵たちは潜水艦との接触を"琉球の海中幽霊"とアダ名した。日本軍は、ある特攻艇攻撃では全長三十フィートのクルーザー型ヨットから丸太をくりぬいた手漕ぎカヌーにいたるまでの、ありとあらゆるものを利用した。
ついで日本軍は奇手を試みてきた。嘉手納と読谷の米軍飛行場を爆撃し、つづいて、空挺部隊を送りこもうというのである。敵は爆撃機五機をもって来襲したが、そのうち四機は空中で撃墜され、残る一機は読谷の滑走路に胴体着陸を行い、中から十名か十一名の日本兵が躍り出て、あたりをめったやたらに撃ちまくり始めた。この小部隊は、全員ハチの巣のように穴をあけられて滑走路上に全滅したが、死ぬまでに米機七を破壊、二十六機を損傷し、七万ガロンのガソリンに火をつっけ、地獄さながらの混乱をまきおこした。
二十七日には特攻機がまた群れをなして来襲したが、その百十五機が海中にはたき落され、翌二十八日の来襲敵機は前日より少なくなっていた。このため、駆逐艦ドレクスラーは海底深く眠る僚艦のもとへ赴き、美しい名前をもったゲイティ、アントニー、ブレイン、サンドバル、フォレスト、ギリガン、ロイ、メアリ・リバーモア、ブラウン・ビクトリなど多数の艦艇が損傷をうけた。
アメリカが戦った最大の陸・海・空戦をそれまで指揮していたスプルーアンス、ミッチャー両提督は、二十七日夜半をもって、イキな"野牛"ハルゼーと、口から噛みタバコを離さぬジョン・マッケイン (*5)の両提督と交代した。
五月末、日本第三十二軍の精鋭部隊五千名は石だらけ、砲弾のアナだらけの陣地に死体となって横たわっていた。軍司令官牛島満中将は、南方に最後の"背水の陣"をしくため、残存部隊を後退させた。
いまや米国旗は、日本軍防衛線の要衝であった首里城趾に、翻っている。すでに久しく忘れられた古代の王の建てたこの城は幅二十フィートの城壁で囲まれていた。城壁は崩れ落ちて瓦礫の山となった。海兵隊員が中から二つの古代の鐘を掘出した。砲弾で疵がついていたが、中国語の銘が読みとれる。意訳は次のとおりである。「この鐘はどのように鳴るであろうか。鐘は雷鳴の如くしかも最も清らかに遠く広く鳴り渡るであろう。そして、心邪(よこ)しまなる者どもの、この鐘を聴けば、すなわち救われるであろう」
日本軍兵士たちがいた大きなアナの壁面いたるところに、忘れ難き悪臭を放つ、腐ってゆく人肉の破片がぶらさがっていた。
しかし、まだ終りではない。しばらくして第三艦隊の戦闘日誌は「レーダー・ピケ・ラインにおける、おどろくべき艦艇の喪失」を記録にとどめている。
沖縄では、疲れはて、欠乏に悩む第三十二軍の残存部隊が、糸満から波名城に至る、絶壁と丘陵の連なる岩だらけの防衛線に布陣していた。六月三日、特攻機計七十五機が十八回にわたって来襲。翌四日には、自然が敵に味方して猛威をふるった、台風が巨大な波浪をまき起して、米艦隊を木の葉のようにほんろうし、巡洋艦ピッツバーグの艦首をもぎとり、空母ホーネット以下多数の艦艇に損害を与えたのである。六月五日、ミシシッピ、ルイビル両艦が特攻機にやられ、翌六日に北から大編隊の空襲があった。敵は頑強に抵抗し、容易に音をあげなかった。
勝利は確かであった。が、多くのものは勝利を味わうことなく死んでいった。陸上では、彼我両軍とも主だった指揮官たちが戦死した。第十軍司令官サイモン・ボリバー・バクナー陸軍中将 ─── 体躯雄偉、名門の出で高名なこの将軍 ─── は六月十八日、戦死した。日本軍の砲弾が海兵隊観測所の頭上で炸裂し、その爆発で吹飛んだサンゴ礁の塊りが中将の胸を抉(えぐ)ったのである。
六月二十二日早朝、第三十二軍司令官牛島中将と軍参謀長の長勇中将は断崖の洞窟の外に出て、ともに割腹、自決した(この断崖はのちに、米軍によって第八十九号丘陵と呼ばれる)。押収した日本兵の日誌はその情景を次のように伝えている。
炊事係は、夜半ちょっと前に両将軍に供する特別食を調えた。食事の後、両将軍と幕僚たちは、首里から持ってきたスコッチ・ウイスキーの何本かが残ったので、何回も何回も別れの盃を汲みかわした…… ああ、摩文仁岳に落ちる月とともに、両将軍の星も墜ちた…… |
この夜、沖縄で組織的抵抗の終ったことが全世界に知らされた。翌朝、軍楽隊が"星条旗"を吹奏するなかに、軍旗衛兵は血に洗われたこの島に米国旗を上げた。突然、微風が起り、米国旗は紺青の空に、大きく開いてはためいた。
後になって考えてみれば、沖縄の戦いはなにもかも悪い意味で最上級だったといえよう。これに較べれば、"イギリスの戦闘"などは規模と範囲と激烈さにおいて足もとにも及ばなかった。飛行機対艦艇、飛行機対飛行機のこれほどの苛烈な戦いは、今までもなかったし、これからも二度とないだろう。米海軍が、これほどの短期間にこれほど多くの艦艇を失ったことは、かつてなかった。かつて地上戦で、これほどの短期間に、こんなに狭少な地域で、これほど多くのアメリカ人の血が流れたことも、一度もなかった。三カ月間の戦いで敵がこれほどの大損害をうけたこともおそらく、これが初めてであったであろうが、「米軍死傷者の最終集計は、日本との他のいかなる戦いよりも高かった」のである。もっと大規模の陸戦、もっと長期間の航空戦はあったが、沖縄は陸海空合同作戦としては最大規模のものであり、空中、海上、海中、陸上のいたるところで戦われたのである。
数字は"最後の戦闘"がいかに高価であったかを示している。日本は戦死者十一万のほか「大和」をふくむ軍艦十六隻を失い、慶良間列島基地の戦闘哨戒機隊のため商船数万トンを撃沈された。また大砲二百八十七門を破壊された。米軍の戦死一万二千名のうち、四千名以上が海軍関係であった。米海軍の損害は小型艦三十四隻沈没、三百隻以上(台風、衝突、座礁などによるものを含む)が損傷を被ったが、そのうち特攻機による被害は、沈没二十六、損傷百六十四隻に達した。通常の空襲による損害は沈没二、損傷六十一隻である。
しかし沖縄戦の三カ月間に日本軍の航空機七千八百三十機が破壊されたが、うち約三千四十七機は海軍機と海兵隊機によって撃墜され、四百九機は米艦隊の対空火器で撃ち落されたものである。ほかに二千六百五十五機が事故で失われ、数百機が地上にあって破壊された。陸軍航空隊のB29編隊は五百五十八機破壊の戦果を上げた。ほかに数百機が体当り特攻機となって自爆した。
米軍の損害は、日本軍飛行場を粉砕した空軍の大型爆撃機のそれをふくめて、七百六十八機であり、そのうち敵の対空火器ないし空中戦によって撃墜されたものは僅か四百五十八機である。残りは事故によるものである。また駆逐艦以上の大型艦は一隻も撃沈されず、損傷した大型艦はみな、護衛空母一隻の例外を除いて、結局は迅速に修理された。日本軍はただの一隻の戦艦、巡洋艦、空母あるいは輸送船をも撃沈できなかった。
腰を据えにやってきた米艦隊は、沖縄の征服を可能にし、受けたものよりはるかに大きなものを返した。"彼らは武勇を発揮し、任務を完了した"という、小型艦の勇敢な水兵たちに与えられた賞辞は、沖縄のすべてのもの ─── 死守し、戦い、この偉大な戦いに耐えぬいたもの、生残ったものにも、死んだものにも ─── にあてはまるものである。しかし、"スモール・ボーイ"や"スピット・キット"や"ブリキ・カン"などとアダ名された、レーダー・ピケ・ラインの小型艦艇の頭上には、特別の栄光が輝く。これら小艦艇は、ほかのだれよりも圧倒的に大きな死と破壊の危険をおかして戦った。彼らこそは"神兵"らの前に立ちはだかって東シナ海地域を護った、血にまみれた細い防衛線だったのである。 |
沖縄は人間の忍耐力と勇気の叙事詩であった。日本軍の攻撃は創意に満ち、決死的であった。これに対し米軍が防衛に成功し、沖縄攻略に成功したのは卓越した補給、作戦計画およびその断固たる実施によるものである。
多くの教訓が学ばれた。英空母の装甲した飛行甲板は、それだけ重量がふえただけの値うちのあることを実証した。英空母は特攻機の体当りをうけても、装甲があるためさしたる損傷を被らなかったのに対し、米空母はフランクリンのように、爆弾が飛行甲板をつきぬけ、甲板下に火災が起ると、ひどい損害をうけた。死を決して突っこんでくる特攻機に対して、小口径砲はあまり効果がなかった。レーダーにも限界があることが分った。多数の敵攻撃機が発見できなかったり、レーダー・スクリーンが用をなさなくなったりしたのである。損害をうけた場合の応急修復技術と操縦技術の重要性が強調され、前進基地における艦船修理技術が目ざましく進歩した。
沖縄の米艦隊に対する特攻攻撃は、ミサイル時代の序言をなすものとも言えよう。特攻機、とくに"バカ"爆弾は人間が誘導装置になった、ある意味では、誘導ミサイルであった。これは、こんにちミサイルの完成によって現実化した。水上艦艇に対する新しい脅威を予見したものであった。
米海軍は第二次大戦中から、この脅威を的確に理解していた。沖縄の戦いが終り、日本本土の進攻が計画されていたとき、見通しは暗いものであった。ウィリス・リー海軍中将は、戦艦艦隊指揮の任を解かれ、特攻隊対策を確立する研究班の編成方を命ぜられた。リー中将は終戦をまたずに死去し、原爆と八月の予期せざる日本の降伏によって、問題の緊急性はなくなった。しかし米海軍は戦後、二十ミリ機関砲と大部分の四十ミリ砲をとり外し、代りに、カミカゼ特攻隊の攻撃がきっかけとなって開発された高速・自動三インチ砲を装備するようになったのである。小口径砲弾は決死の覚悟で突入してくる特攻機を阻止するに十分な爆発力がないのである。
もし戦いが続き、日本本土の進攻が実施されたなら、どうなっただろうかということは、歴史の大きなナゾである。しかし次の事ははっきり言えるようである。すなわち
一、輸送船および補給船若干とともに、レーダー・ピケ・ラインと小型艦が大きな損害を被ることは確かであろう。これら小型艦船は空母や大型艦とちがって、橋頭堡(きょうとうほ)および上陸部隊を支持・掩護のため、比較的小さな沿岸沖合地域にしばりつけられるであろうし、したがって、海軍の最大の特性である機動性が大幅に制限をうけるだろうからである。
二、特攻機の攻撃を阻止するために、なんらかの新しい方法、新しい兵器、おそらく新しい型の艦船が開発されたであろう。三インチ自動砲は間に合わなかったであろうが、戦闘哨戒作戦がいっそう強化されたことであろう。
三、戦争において人間の意志がしめる地位は、この機械の時代においてなお、勝利と敗北を決定する。目に見えない基本的要素の一つ、いなおそらくは、決定的要素そのものである。日本軍は高い戦意をもっていた。がそれは否定的哲学 ─── 宿命論的な死への意志の上に築かれていた。沖縄では死のうとする意志と生きようとする意志が真向から激突したのである。この場合は生きようとする意志が、圧倒的な物量に支えられて勝った。しかし、戦争において、生きようとする意志は利己心から発したのであってはならないこと、あるいは大義のため喜んで死ぬものが、大義よりも生命を優先させるものを敗北させることを、心に銘記せねばならない。日本軍の場合は、特攻機は技術以上のものを意味した。それは自己破壊の欲求、死への願望と呼んでさしつかえないだろう。悠久の歴史を顧みるとき、人類がこれまで続いてきた唯一の理由は、あらゆる時代を通じて、生きる意志が死の意志に勝ってきたからである。(後略)
補足:中国から飛来したアメリカ軍爆撃機
( )内は管理人による読みがなです。
出典:1996(平成8)年 光人社 大谷内一夫訳編
「ジャパニーズ・エア・パワー ─── 米国戦略爆撃調査団報告/日本空軍の興亡」付録Ⅰ "日本焼尽"作戦の全貌
まえぶれ
〔一九四三年二月二十一日、リスボン発同盟電〕米陸軍航空部隊総司令官アーノルド中将が二月二十日、中国から米国に帰り「中国を基地とする対日空襲計画を重慶で協議した」と発表。
〔一九四三年十月十三日、サンフランシスコ放送〕アーノルド大将は「B29は近く大量生産に入る見込み。過去においてB17が対独戦で果たした役割を、対日戦ではB29が果たすだろう」と語った。
〔一九四三年十一月四日、発ブエノスアイレス特電〕ワシントン発UP通信によれば、米陸軍航空部隊司令官アーノルドは「有力なる武装を持ち、高々度飛行用に建造された新大型超重爆撃機は、遠からず対日空襲に乗り出すべく準備されるであろう」と発表した。かかる正式発表を行った魂胆は、新爆撃機の主目的が東京その他日本の重要諸都市を爆撃することにあるのを誇示して、対日威嚇をねらったものと考えられる。
同機はB29として設計され、アーノルドによれば、同機の実現によって現在長距離ないしは重爆撃機と目されるものは、すべて中型機に格下げされるだろうといわれる。また新機は一〇トンないし一五トンの積載能力を持ち、大西洋を無着陸で往復することが出来るものと見られる。
(註 右の三つのニュース記事は、いずれも朝日新聞掲載のもの。戦時中の敵国関係ニュースについては、一九四三年十一月四日のブエノスアイレス特電記事のように「かかる正式発表を……対日威嚇をねらったものと考えられる」というような記者の批判を加えないと、日本軍部の検閲をパスしにくかったという事情が反映されている。一方、カッコ内に引用した週刊誌タイム、ニューズウィーク他アメリカ側の資料は、筆者が原文をフルに、忠実に翻訳したものである)
はじまり
「日本の悪夢は、突如として、無情で不吉な現実となった。本土が空襲されたのだ。アメリカの最新で秘密とされていたB29『超空の要塞』(スーパー・フォートレス)爆撃機が、先週中国から出撃し、帝国の中心地にある重要な工業目標 ─── 『日本のピッツバーグ』 ─── 八幡にある製鉄所を爆撃した。二年前の航空母艦から行われたドゥーリットル空襲と異なり、これは日本に対する単発的な攻撃にとどまるものではない。
攻撃をかけたのは、新たに編成された、全世界に作戦行動が出来る、アメリカ第二〇航空軍だった。これが第二〇航空軍の日本本土への最初の攻撃であり、最後の攻撃にはならないことを日本は分かっていたはずだ。
この攻撃および将来の攻撃のために、B29が直面している最悪の問題は補給である。爆弾、ガソリン、技術装備品のすべては、インドからヒマラヤ山脈を横断して空輸されなければならないからである」(週刊誌タイム、一九四四年六月二十六日号)
大本営発表(昭和十九年六月十六日八時)
「本十六日二時頃支那方面よりB29及びB24二〇機内外北九州地方に来襲せり。我(わが)制空部隊は直ちに進撃しその数機を撃墜之(これ)を撃退せり。我方の損害極めて軽微なり」
大本営発表(同日十四時)
「本十六日早朝北九州地方に於(おけ)る戦況現在迄に判明せる主要事項次の如し
一、敵機に与えたる損害 撃墜七機、撃破三機
二、我(わが)地上部隊に数名の戦死者ありたる外(ほか)制空部隊及び地上軍事施設に殆(ほとん)ど損害なし
三、被爆により数箇所に生じたる火災は十六日朝五時迄に悉(ことごと)く鎮火せり」
出撃した七五機のうち、八幡上空に到達して投弾できたB29(一機あたり爆弾二トン)は四七機だった。損失機は七機。(後略)
【資料出典】
・1997(平成9)年 KKベストセラーズ 「写真集カミカゼ 陸・海軍特別攻撃隊」
- 【*1】 隘(あい)は土地がせまい、道がくびれて細まっているの意。
- 【*2】 敵の襲撃を防ぐため、石、土、砂、コンクリートなどで固めた堅固な構築物。とりで。
- 【*3】 帝国海軍を心から愛した新聞記者伊藤正徳は「大海軍の遺産」の中で、当時の日本にもアメリカと同等のレーダーが存在したと述べている。~「(海軍)艦政本部の電気部門は敗戦の責任者のように責められた。電波探知機の発明がアメリカよりも一年以上後れたために敗けたという意味であった。ところが、戦後明らかになった驚くべき秘史は、日本とアメリカのレーダー研究がほとんど同一程度に進行中であったという事実を証明したことだ。昭和十七年十月十一日、米海軍はガダルカナル島沖の夜戦で初めてレーダー射撃を試み、日本海軍の「眼に頼る夜戦」を打ち敗かしてわれわれを戦慄させた。しかるに当夜のレーダーはまだ不完全であり、それとおなじ程度のものなら、日本にも実在したのを、海軍が採用を躊躇していたのだ。もしそれを試験的に用いていたら、ガ島夜戦は対等に戦い得たという結論になるのだ。ただ、日本の工業基盤が劣り、製作力がアメリカの十分ノ一に過ぎなかったので、レーダーを全艦に取り附けるのが一年以上後れたという敗因は致し方がなかった。」(出典:1957(昭和32年)「文藝春秋」五月号)
- 【*4】 原文ママ
- 【*5】 現アメリカ合衆国連邦上院議員ジョン・マケインの祖父ジョン・S・マケイン・シニア。
- 最終更新:2015-12-28 03:16:50