【アメリカ】キャプテン、日の丸を見ると落ちてくるような気がして、ぞっとするんだ

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出典:1960(昭和35)年 自由アジア社 元海軍航空艦隊参謀 安延多計夫著「南溟の果てに」 まえがき 



 昭和十九年十月二十五日のことであった。当時フィリッピン、レイテ湾口の東三〇哩(マイル)附近を遊戈(ゆうか)しつつ、レイテに上陸した陸軍部隊を支援していた、アメリカ第51機動部隊の護衛空母群は、突如として空から降ってきた日本海軍機の体当りをくらった。


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 そして、その被害は、世界最大の戦艦大和以下数十隻の栗田艦隊が二十五日の攻撃であげた戦果にも匹敵するものであった。米軍は戦いの前途に一抹の不安を感じた。問題はこの大損害が、僅か十数機の体当りによって与えられた点であった。



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 米海軍は想像もしなかったこの新手の攻撃法には、身の毛のよだつ程の恐怖を感じ、一時は全軍が右往左往するばかりで、なんらなすところを知らず、といった状態に陥った。

 この時から終戦に至るまで、神風特別攻撃隊はマッカーサー元帥、ニミッツ元帥、ハルゼー海軍大将を始めとして、アメリカ全太平洋艦隊の将兵を悩しつづけ、米軍の頭痛の種となった。

 この果敢な神風特別攻撃隊の攻撃を目撃した米軍の将兵の殆ど全部が、われとわが身を飛行機もろともに艦にたたきつけてくる物凄い攻撃の威力にのまれて、しばしその場に釘付けにされたと語っている。


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 戦も終って八年たった昭和二十八年四月二十九日のことであった。

 天皇誕生日に敬意を表して、アメリカ海軍航空基地である追浜でも、日の丸の国旗が本部庁舎の前に掲揚された。その日、私はちょうど本部の前で、兵器主任の某米海軍大尉に出会った。すると彼はとつぜん

「キャプテン、この日の丸を見ると、僕はいつも身の毛のよだつほどぞっとするんだ」(私の姓がいいにくいのか、基地の米兵たちはいつも私のことを昔の階級で「大佐殿(キャプテン)」と呼んでいた)と妙なことを言いだすので、

「どうしてなんだ」

と聞きかえすと、

「この日の丸をつけた飛行機、カミカゼだ。あれがまっすぐに飛行甲板に向ってダイブしてきて、僕のいた処(ところ)から十米(メートル)ぐらい離れた甲板に突込んだんだ。驚いたね、まったく胆(きも)をつぶしたよ。その時、僕は破片で脚をやられた。それからというものは日の丸を見ると落ちてくるような気がして、ぞっとするんだ」

と神風特攻機の攻撃を受けた時を思い出したように、日の丸のひるがえる空の一角を仰ぎながら語った。

 まったく神風特攻隊に悩まされ通した敵は、これを恐れたと同時に、また癪(しゃく)にも障ったにちがいない。だからこそ神風特攻機を「シューサイド・プレィン」(自殺機)と呼んでおり、また沖縄戦に出た「桜花」に対しては「バカ・ボンブ」(馬鹿爆弾)あるいは単に「バカ」と呼び、共にありがたくない不愉快な名称をつけた。おたがいに国民の敵愾心をあふりたてて、国運を屠して戦かっていたのであるから、アメリカ人がどのようにいおうと勝手である。

 しかし戦後マッカーサー元帥の日本弱体化政策に便乗した心なき日本人や、浮草のようにその時々の風潮にてらって、飯を食う為にはどんなことでも書く厚顔無恥の人々によって"神風特攻隊員は、無駄死した""軍閥が純真な青年たちを馳(ママ)って、無理に死地に投じた"と見当ちがいも甚だしい批判を下し、これを書きたて、言いふらして、遂にはけっぱちな、無鉄砲な行為を「カミカゼ」の形容詞で表して、「カミカゼタクシー」「カミカゼ族」などというようになったことは、世の移り変りとはいいながら、実に残念なことであって、祖国日本の為に散華した数千の英霊に対して、実に申し訳ない次第である。

「このままにしてよいのか」と、訴えたい気持になるのは、私一人だけであろうか。世界中日本以外のどの独立国をみても、すべて国家の防衛を国民の崇高なる義務とし、この任務に掌ることを至上の栄誉としている。従って国家防衛の任務に斃(たお)れた人々に対しては、国家が之(これ)を顕彰してその英霊を慰め、或(あるい)はその偉勲を語り伝えて永く国民の儀表とし、又模範として仰いでいるのである。

 ソ連の圧迫に耐えかねたハンガリー市民は十二歳の少女まで、銃をとって強暴なソ連兵と戦った。そうして今になって、はじめて日本の神風特別攻撃隊員の気持が解かったと言っている。

 数年前のことである。ある日私は一人のアメリカの士官に、

「君はカミカゼをどう思うか」

と質問した。彼は、

「十人のうち七人は、涙をもってカミカゼの攻撃を見た。しかし残りの三人はむしろ憎しみをもってこれを見た」

と答えた。敵味方と別れても同じく祖国のために砲煙弾雨に身を曝(さら)して戦かっている身である。心あるアメリカの士官は、悲壮な神風特攻隊員の最後の突撃ぶりを見ては、涙なしではおられなかったのかも知れない。

 このような外国の例を見るにつけ、聞くにつけて思うことは、戦争に敗れたからといって、われわれ日本人だけが、国のために散った神風特攻隊員の愛国の熱情を、その崇高な殉国の偉業を、忘れてよいものだろうか、われわれの祖先たちも、国のために身を棄て、大義のために殉じた多くの例を残してくれたではないか。

 この気魄、この殉国の精神があったればこそ、この狭い小さい国土にありながら、日本民族として祖国を維持し、日本独特の文化を栄えさしてきたのではあるまいか。私は、神風特攻隊員の精神と、その偉大な業績とは、日本が敗れたけれども、特筆大書して、後世に残し、子孫に伝うべきものであると信ずるのである。これは私の頑迷な独断であろうか。







  • 最終更新:2016-03-14 09:11:09

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