【あ号作戦・渾作戦】Z旗ふたたび-マリアナ海空戦-(後編)

出典:1953(昭和28)年 富士書苑 森高繁雄編 「秘録大東亜戦史 海軍篇」所収
   毎日新聞社報道部副部長 中島 誠 「Z旗ふたたび-マリアナ海空戦-」


モッコ担ぎの飛行場建設

 サイパンの陸海軍部隊も熱帯地方の退屈極まりないあけくれに士気の沈滞は蔽うべくもなかった。

 毎日なすことのない日々、戦局の大きな動きは司令部の一部で神経をいたずらにいらだたせるだけで、下部の各部隊は毎日の様に防空壕掘りと陣地構築、航空部隊も幾度か転進、移動をくりかえすうちに、消耗だけは多くなり実際の戦闘に役立ったものはほとんどないといってよい。

 サイパンにあった中部太平洋方面艦隊司令長官南雲中将は、ハワイ急襲の指揮官として勇名をとどろかせた猛将であったが、真珠湾の大戦果にいつまでも酔っている様な恰好(かっこう)だった。


  みくにの興廃、翼にかけて
  あがる勝どき真珠湾、
  ああ偲ぶ永禄桶狭間


 猛将は酔えば、この自作の白頭山節をよく口ずさんだ。

 斎藤中将の指揮する陸軍兵力は一万、五月に至って急速に増援されたものであったが、その大半は増援の途中輸送船が沈められ小銃さえ持たぬ丸腰の兵隊が多かった。

 海軍警備隊は連日敵上陸の危険のある地点に速成の陣地構築に一生懸命であったが一線二線三線という縦深(じゅうしん)陣地も艦砲の一撃で吹き飛んでしまうほんの急場凌(しの)ぎに過ぎない。

「この一線で必ず敵を水際にたたいて追い返して見せますよ」

 陸戦隊の若い将校は軍刀のつかをたたいてこう言っていた。この陸戦隊は内地から増援されたばかりの落下傘部隊であった。

 余りにも常識を逸した敵の過少評価水際に敷かれた鉄条網の杭棒や、地中に埋められるという地雷もチャチなもので、驚いたことには後であわてて取換えられたが、陸上の要塞砲は大正時代のオモチャの様な砲でさびついたままでんと海上をにらんでいたことだ。

 ガラパンの西方の山に、この当時から不時着用の飛行場が急造されていた山を切り拓いて珪土質の砂をかためるだけの仕事であったが興発 (*1)などの民間人が多数、軍の強制労働に動員され、燃えるような太陽の下で真黒になってモッコ (*2)担ぎをやっていた。

【南洋興発会社】
主として製糖業を営んでいた会社。
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 一ぱいの砂を運ぶにも、木や石を取り除くのも、すべて人力を頼った原始的な作業であった。

 夜のサイパンはさすがに燈火管制だけは布かれていたが、軍人相手の花街(かがい) (*3)では、なまめかしい嬌声にまじってわいせつな放歌が絶えなかった。

 ああ風前の灯(ともしび)サイパン!

隠れ場もなき聯合艦隊

 そのころここ常夏のマレー、シンガポールの南方約百浬(カイリ)にあるこのリンガ泊地(はくち)、南北約四十浬、東西約三十浬というこの入江の様に波静かな泊地に、わが聯合艦隊の主力部隊が錨を投じていた。

 ソロモン、南太平洋、中部太平洋と苛烈なたたかいに艦隊はすでに七つの海に安住の住家(すみか)を失い、しかも内地では南方からの補給が潜水艦で封鎖寸断された今日、かつて無敵をほこっていた艦隊も燃料さえままならない。


【リンガ泊地】
リンガ泊地1.jpg


 リンガ泊地は南方の油田地帯を近くに控え、しかも米軍の攻撃もここまでは届かず恰好のかくれ場所であった。

 パラオ空襲で当時同湾にいた聯合艦隊はこの南方の単調な泊地で次の出撃の機をねらっていたのである。

 すでに戦いの様相も激烈な航空戦に突入し、戦艦も巨砲も幾百浬も魚雷や爆弾を積んで攻撃する飛行機にはかなわない。

 マレー海戦しかり、ハワイ海戦しかり、ミッドウェーや南太平洋の戦いもしかり、飛行機の護衛の無い戦艦がうっかり飛出すことはわざわざ敵に好餌を与えるに過ぎない。

 武蔵、大和の超弩級(ちょうどきゅう)戦艦もいたずらにその巨大な身体を持て余し、港から港へ安全地帯を求めて、敵の目からのがれるのが最大の努力だった。或(ある)時は巨体を利用して南方の油の輸送に使われたこともあった。

 「武蔵」「大和」がマル通という有難くないニックネームをつけられたのもこの頃からである。

 全国民から「聯合艦隊今なお健在なり」という信頼が大きければ大きいだけに惨めだった。艦隊の乗組将兵はくる日もくる日もうだる様な暑さ、無聊(むりょう) (*4)な南方生活の中に焦慮していた。

 じり貧! よく使われる言葉だが、これ程現在の艦隊にぴったりとする代名詞はなかった。わが陸上部隊には米軍の進攻するところ、必ず玉砕の悲報が相ついだ。

 しかも唯一の決戦兵器である航空隊も、日につぐ激烈な消耗戦であったから焼石に水を注ぐように、片っぱしから煙の様に消えて無くなる。しかも艦隊はいたずらに巨大な身体を持て余し港から港へ安全を求めての逃避あるのみだ。それにしてもおそるべき神出鬼没の敵機動部隊であった。

 このみじめな態勢を盛り返すためにはなによりもこの敵機動部隊を撃滅せねばならない。

 まず敵の空母、これに一撃を加えて制空権を握らなければならない。

 だが……聯合艦隊の巨砲が敵機動部隊の頭上に火を噴くときは、果たしていつの日であろうか。

しかも決戦の日は迫る

 四月三十日、さきに殉職した古賀大将の後をついで豊田大将が聯合艦隊司令長官に補せられ、新らしく迎えられた草鹿参謀長の艦隊首脳部を中心に、この戦局の立直しに腐心していた。

 このまま敵の進攻を無為に見送ることは、この上さらに犠牲の上に犠牲を築く玉砕の悲報があるばかりであった。

 「あ号作戦」はこうして敵機動部隊をいかに捕捉しこれを撃滅するか、この一点に頭脳をしぼって考えられた計画であった。

 次に敵機動部隊撃滅のためには、これをわが攻撃圏内に吸寄せて、最も有功 (*5)な機をねらって捕捉殲滅するより外(ほか)はない。

 第一決戦海面はパラオ海域、第二西カロリン、決戦の期待は概ね六月初旬パラオ、サイパン、トラックの各基地はこれを三角点に結んで敵迎撃に最も好都合な死守線であった。

 「あ号作戦計画」にもとづいて五月中旬から聯合艦隊は決戦の気をはらんで展開をはじめた。

 基地航空隊の主戦闘力であるテニヤンの第一艦隊は、麾下の第二十二(司令官澄川少将)、第二十三航戦(同伊藤少将)、第二十六航戦(同上野少将)の四航空戦隊をあげてマリアナ、カロリン、遠くハルマヘラ、濠北(ごうほく) (*6)に展開、サイパン島にあった第六艦隊(司令長官高木中将)の所属潜水艦は先遣部隊として遠く敵機基地の偵察並に攻撃に出動していた。

 一方リンガ泊地にあった海上部隊は五月十一日泊地を出港、北島(ほくとう)ミンダナオ南西タウイタウイ泊地に前進した。


【タウイタウイ島】
マリアナ西太平洋選挙区概要図_3.jpg


 低い環礁に囲まれた方三十浬のタウイタウイ泊地は、リンガに比べ安全性はもとより少なかったが、中部太平洋の決戦場への跳躍台としてはもってこいの前進基地である。

 艦隊が泊地入港の翌十六日内地からの増援部隊として「武蔵」ほか六空母がここに会した。

 狭い港を圧する聯合艦隊の威容──それは艦隊最後の幻の威容であったかも知れない。

 機動部隊最高指揮官小沢治三郎、中将は新鋭空母「大鳳(たいほう)」に将旗を掲げこれに従う各艦艇は第一戦隊、大和、武蔵、第三戦隊、金剛、榛名(はるな)及び扶桑(ふそう)、第一航空戦隊、大鳳、翔鶴(しょうかく)、瑞鶴(ずいかく)、第二航空艦隊、隼鷹(じゅんよう)、飛鷹(ひよう)、竜鳳(りゅうほう)、第三航空戦隊、千歳、千代田、瑞鳳(ずいほう)の戦艦五隻、空母九隻に加えて第四、五、七一〇各戦隊の重巡 (*7)十一隻、軽巡 (*8)二隻、これを護衛する駆逐艦二十八隻、空母搭載の航空機四百五十二機を加えて、正に全海上部隊の決戦兵力をすぐった、堂々の艦隊であった。

 決戦の日はじりじりと歩調を早めて近づいていた。

【小沢治三郎中将】
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統帥混迷ビアク上陸

 敵の次の進攻は何時(いつ)、何処(どこ)へ──全海軍はかたずを呑(の)んで待つうちに突如として的は我方(わがほう)の虚をついて思わぬところに上陸を企ててきた。

 五月二十七日朝ニューギニア西北方のビアク島に対しB24による、猛攻撃についで、戦艦三隻、巡洋艦各三隻、駆逐艦十四隻からなる敵艦隊が反復して猛烈な艦砲射撃 (*9)を加え、手薄なわが方の守備隊は瞬時の間に沈黙してしまう。

 つづいて待機していた輸送船八隻、小型輸送船三十隻以上から陸続として強行上陸を行ってきた。

 上陸部隊は約一個師団であった。

 敵は思わぬところに上陸してきたのである。「あ号作戦」をすでに準備し決戦海面をパラオ、西カロリンとあらかじめ予想していた作戦がくずれたのだ。

 ビアク島を決戦場としてここに敵の機動部隊を誘い出すべきか、又あくまで初めの予定通り中部太平洋に置くべきか、作戦指導部の混乱──。

 だが前者の意見が決定的だった。上陸の一個師団をビアク島の孤児とさせれば必ず敵はこの救援のために我方の求めてやまぬ虎の子の機動部隊を送り込むに違いない。しまもビアクをそのまま易々と敵手に委ねることは、今後ここを基地とする南西方面の補給路はたたれ中部太平洋も爆撃圏内に入ってしまうこととなる。

 この際敵の来攻を待つだけではなくこの機にすすんで我方から決戦を求める好機はビアク攻防戦より外(ほか)にない。

 ようやくまとまった作戦指導部の意見によって、直ちに即応の決戦態勢が不眠不休で練り直された。

 これがビアク争奪の「渾(こん)作戦」であった。

 陸軍の逆上陸部隊を海軍の艦艇でビアクまで運び上陸させてこの島に敵をへばりつかそうというのだ。

 海軍の輸送隊は左近允(さこんじゅう)少将指揮の第十六戦隊、青葉、鬼怒(きぬ)ほか駆逐艦三隻、外(ほか)に警戒隊及び擁護隊として第五戦隊の妙高、羽黒の二重巡と戦艦扶桑ほか駆逐艦六隻、全員白たすきの決死隊の覚悟であった。

 突入の日は六月三日と予定されたがここにも陸海協同作戦のむづかしさがあった。

 まず上陸部隊として当てられたザンボアンガの海上機動第二旅団は神速 (*10)を尊ぶ機動の名に拘(かかわ)らず準備がおくれ一日無為に過(すご)して突入は四日と変更された。いよいよ出発となったが四日突入の直前、陸軍偵察機の報告でビアク附近に敵機動部隊の発見が報ぜられ空しく第一次の突入を断念してソロンに引揚げてしまった。

 然しこの偵察は全くでたらめであったことが判り再度上陸部隊の建て直しを行って四日後八日ソロンを出発したが、この日早くも敵機に発見された。やがて敵機の編隊の攻撃をうけ間もなくビアクの附近では待ち構えていた米艦隊の砲撃をうけ、遂にビアクを目前にして引揚げてしまった。

 有力な米艦隊出現! 六月十日と三度(た)びこれとの決戦を企図してビアク攻撃が企てられた。

 第一艦隊の大和、武蔵の二戦艦を含む巡洋艦一隻、駆逐艦二隻が追加され指揮官は第一戦隊の宇垣中将、──相手の巨砲に対してこんどはこちらも巨砲でたたかうというのであった。

 武蔵を先頭とした海上なぐり込み部隊は一挙に敵上陸部隊の撃滅を期し、十日突入と決めて機動艦隊直隊と離れ、一路ビアクに向う。

 然しこの渾作戦は遂に雄図空しく崩れてしまった。

 ビアクを主戦場の如くみせかけた米軍は、巧みに日本軍を翻弄しながら牙をむいて、一挙サイパンに怒濤の如く進攻を開始したからである。

突如サイパン強襲上陸

 米軍がサイパン強行上陸をひそかに準備していた時、たしかに日本作戦指導部の目はビアクの小さな島に奪われていた。

 まさかサイパンまではと考えていた悪夢が遂に目の前に事実となって現れたのだ。

 五月三十一日トラックから飛び立ったわが偵察機は遠くマーシャル群島のメジュロ、クエゼリンを飛び両泊地に輸送船団を含む大機動部隊が碇泊していることが判明していたが、この大機動部隊はうまくいけばビアク島救援にノコノコと出てくる位に考えていたのだった。

 果せるかな、メジュロ泊地を出港して以来杳(よう)としてわが偵察の網にかからなかったこの大機動部隊は、六月十日あたかもビアク第二次攻撃を予定された日に、突如としてマリアナのサイパン、ロタ、テニヤン、グアムの各基地に猛然襲いかかってきた。

 全く虚をついた奇襲だった。テニヤンに司令部を置いた第一航艦もビアク救援のためすでに兵力の大部を濠西(ごうせい) (*11)に転進した直後であった。

 猛烈な反復空襲、我がマリアナの基地は瞬時の間にたたきつぶされ反撃に飛出す一機だにない。

 この日組み易しと見た米艦隊はサイパン八十浬の視界内に悠々と近接してきた。十一日についで十二日には、サイパン、テニヤンに艦砲射撃 (*12)をさえ加えてきた。

 大本営を襲った深刻な作戦の混迷、マリアナ救援か、ビアク作戦の続行かいたずらな時の刻みのうちに事態は急速に悪化し、翌十三日には猛烈な空爆についで午前八時サイパン、テニヤンのわが陸上陣地に再び猛烈な艦砲射撃を加えてきた。

 陣地緑林は吹きとんで、見る見る島は赤茶の肌を現わし、島の形も変るばかり、陸上陣地はすでに沈黙して、島全体が恐怖のどん底にふるえている姿だ。

 午後四時、砲撃についで上陸地点附近海上の掃海をはじめ、十五日朝チャランカに無数の上陸用舟艇を連れて続続と上陸を開始した。

 チャランカには道路をひろげてつくった不時着飛行場が建設されたばかり浜辺は砂浜で敵前上陸点としては最適のところであったが、果たして敵も最初の上陸地をここに選んだ。少数の守備隊は忽(たちま)ち北方の山岳地帯に追い払われて、ガラパンのわが主力と合体、必死の応戦がつづく。

 あの美しい並木の街に幾千かの老幼男女の在留邦人たちが恐怖にふるえながら、飛び交う砲弾と猛火の中を逃げまどう姿がありありと目に浮かぶ。

 サイパンの陸海軍守備隊も果敢にたたかった。

 最初の上陸を水際でたたき落すことは不可能であったが、ガラパンの線をあくまで死守しようと試み屍(しかばね)をふみこえて突撃また突撃、夜間は壮烈な斬込みを敢行、必死の応戦であった。

 敵は引つづき軽戦車を揚陸し一挙に突破を試み、二日後には奪取したアスリート飛行場から戦闘機が飛立っていた。

 爆撃、戦車、火焔放射器、ロケット砲、これに対するわが方は肉弾のみ、決定的な力の差が運命の時をじりじりと縮めて行った。

怒りのZ旗再び上がる

 ビアクの陽動に引き寄せられていたわが聯合艦隊も、サイパンの危機を知ってはじめて愕然と色をなし、直ちにビアク作戦「あ号作戦」に切替えるとともに全軍に即時待機が命令された。あわただしい臨戦準備、南海の泊地タウイタウイは果然戦機をはらんで色めき立った。

 今や一刻を争う危機、サイパンの上陸友軍部隊の孤軍奮闘を思って全将兵は緊張に身もしまる思いだ。

 翌十四日午前八時全艦は早くも錨を上げ巨艦は静かに揺(ゆる)ぎはじめる。

 前衛駆逐艦を先導に機動艦隊全艦艇六十余隻、延々たる単縦陣(たんじゅうじん)で、同日夕刻早くも狭隘なサンベルナジオ海峡を一気に通過して太平洋上に出る。

 低く垂れた鉛色の空、輪型陣に護られて薄暮の洋上を行く九隻の空母陣、今こそ全兵力を結集し恨み深き敵機動部隊との一騎打に起(た)ち上がったのである。

 十五日早朝、サイパンへの上陸が確認され、午前七時あ号作戦決戦発動命令についで午前八時Z旗が旗艦「大鳳」のマスト高くひるがえった。

【空母 大鳳】
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 「皇国の興廃、この一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」

 日本海海戦に、真珠湾につづいて三度びひるがえった伝統の旗、戦いのきびしさの点では全く様相を異(こと)にした苦しいたたかいであったが、こんどはすでに皇土(こうど)の一端サイパンの友軍や同胞の危機を思う将兵のいかりがこの旗にこもっていた。

【Z(ゼット)旗】
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 しかも、この機を逸して聯合艦隊は再び起(た)つことは永遠にないであろう。

「サイパンの同胞を救え!」

 ハタハタと南海の風を切ってはためくZ旗は必殺の戦気をはらんで太平洋に翻(ひるがえ)るのだった。

 午後四時すぎビアク救援を断念して急遽転進してきた渾部隊の第一戦隊大和、武蔵、扶桑、ほか巡洋艦三、駆逐艦八の部隊と合同、威容いよいよ加わる。

 今や巨艦大和、武蔵を加えて鉄石(てっせき)の重みを加えた感じだ。

 基地航空隊の偵察によると敵はマリアナ東方に空母九、戦艦四、巡洋艦十四、駆逐艦十五を含む一群、その西方に空母三、戦艦五、巡洋艦十二、駆逐艦三十八、その他輸送船八十四隻を含んだ上陸後援部隊と思われる第二群、トラック北方に空母一、戦艦一、巡洋艦三の第三群、硫黄島附近に空母三以上を含む第四群、発見された空母だけでも合計十七隻、数に於いて圧倒的に優勢な敵兵力だ。

 しかし天佑(てんゆう) (*13)を信じたわが艦隊は、これにたたかいを挑んで勇気りんりん(凛々) (*14)進撃する。 (*15)

待望空し攻撃隊の戦果

 十七日早くも決戦海面に進出したわが機動艦隊は、すでに臨戦の体形をととのえ前衛に第三航戦千歳、千代田、瑞鳳の三空母を中心として、第一第三戦隊の大和、武蔵、金剛、榛名、第四戦隊愛宕、高雄、摩耶(まや)、鳥海(ちょうかい)、第七戦隊熊野、鈴谷(すずや)、利根、筑摩、第二水雷戦隊の九駆逐艦の輪型陣を配しその後方に本隊として甲部隊第一航空戦隊大鳳、翔鶴、瑞鶴、第五戦隊妙高、羽黒、第十戦隊矢矧(やはぎ)、その他駆逐艦十一隻、乙部隊第二航空戦隊隼鷹、飛鷹、竜鳳、長門、最上その外(ほか)駆逐艦十二隻がそれぞれ輪型をつくって進み縦深(じゅうしん)三段構えの水も洩らさぬ即戦態勢であった。

 しかしこの機動部隊も見えざる敵の重囲 (*16)にあることはひしひしと感ぜられる。

 わが艦隊の動きを刻々に知らせる敵潜水艦の電信が絶え間なくキャッチされるからだ。

 陸上の友軍基地航空隊ははげしい空爆下にかかわらず、攻撃を反復しているらしく時たま戦果を伝える無電が入ってくる。

 その度に一喜一憂であったが、十八日に至って早朝空母を出発した索敵機が、硫黄島東方とサイパン西方に二群の機動部隊のあることを報告したが、満を持して矢は弦(つる)を離れなかった。

 十九日に至って俄然戦気が動く。早朝大鳳から出発した第一索敵隊九番機が敵発見を報告、ついで九番機から空母十隻以上戦艦十隻を含む三群の機動部隊を発見、午前八時半第一次攻撃隊二百六十機につづいて午前十時第二次攻撃隊八十機が轟々と耳を圧して飛立って行った。

【米機動部隊を攻撃する日本機】
マリアナ米機動部隊を攻撃する日本機19440619.jpg

 まず攻撃の好機は、わが方がつかんだのだった。この攻撃隊の発進の報をうけて聯合艦隊司令部はこおどりして喜んだ。

 海空戦の勝利の鍵である先制集中のチャンスを我艦隊が握りこれで敵機動部隊は完全に捕捉撃滅出来ると判断したからであった。

 聯合艦隊司令部ばかりでなかった。小沢司令部も小躍りして大戦果の報を今か今かと待ったのだ。

 しかし何たることであろうか、これらの攻撃隊は遂にほとんど接敵しないうちに次々に敵戦闘機に喰われ、或いは追われ、基地に不時着したばかりを折柄の敵空襲にたたかれて潰滅するなど、惨たんたる結果に終ってしまったのであった。

 未帰還百二機、戦闘兵力の大半は、この一挙に失ってしまったわけだ。

 なんという不幸な結果であったことだろう。遠征はるばる幾百浬、必勝を誓って、あれ程期待された攻撃隊も遂に坐折 (*17)してしまった。

 ここにも泣いても泣き切れぬ決定的な力の差があった。

【米巡洋艦バーミンガム艦上の弾薬と薬莢(やっきょう)】
経済封鎖下の日本と最富有国アメリカとでは力の差があって当然。
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三空母相ついで轟沈す

 不幸はそればかりではなく、運命の悪魔は思いがけないところにポッカリ大きな陥(おと)し穴を設け、血の犠牲を待ちうけていた。

 この第一次二次の攻撃隊の収容も終らぬ午後二時、後方にあって飛行機の帰りを今か今かと待ちわびていた第一航空戦隊翔鶴の舷側が、突然大轟音とともに爆発、黒煙をもうもうと噴きはじめた。

【航空母艦 翔鶴】
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 潜撃! 警戒態勢をとる暇もなくつづいて旗艦大鳳が数発の魚雷をうけて大爆発を起す。翔鶴はそれから三十分ののち大傾斜を起し全部の人員収容も終る暇もなく沈没、つづいて二十分後大鳳もあっ気なく海中に没し、やがて轟然と水中爆発音を残したまま永遠に海底の柩(ひつぎ)と化してしまった。

 旗艦大鳳は当時竣工して間もない四万トン級の制式大空母で、防禦力は堅牢であったが、ガソリンタンクの漏えいから艦内にガスが充満、乗艦員の不注意からこの換気を忘れ密閉したためにこれに引火し一瞬のうちに大爆発を起したものであった。

【特設航空母艦 大鳳(たいほう)】
雷撃を受けた時に、ちょうど発進した彗星のうち1機が雷跡を発見、これに向って自爆して同艦の急を救おうとしたがおよばなかった。
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 小沢司令長官は沈没の寸前羽黒に移乗事なきを得たが突発事故のため、多くの乗組員がほとんど脱出の機会もなく艦と運命をともにしたといわれている。

【一等巡洋艦(重巡洋艦)羽黒】
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 この突然の悲惨事の発生は艦隊の全将兵に深刻な衝動を与えた。ほとんど忘然自失 (*18)という形容がぴったりとするであろう。しかも犠牲はこれだけではまだすまなかった。

さらば痛恨の海マリアナ

 この突然的な悲惨事故に驚愕した艦隊は態勢をととのえるため一旦北上したが、翌二十日再び南下、終日索敵攻撃をつづけたが遂に得るところがなかったのみかようやく暮色迫ろうとした午後五時三十分不意を襲って敵編隊機が薄暮攻撃をかけてきた。

【米軍機の攻撃をうける日本艦隊】
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マリアナ米母艦機の攻撃を受ける日本艦隊19440620_2.jpg

 これを迎えて飛立つわが邀撃(ようげき) (*19)戦闘機、戦艦の巨砲も轟然と火を噴く。

 新型の対空用三式砲弾をあびた敵機の編隊がバラバラと墜ちていく。

 二十五機の敵編隊はほとんどこの巨砲のえぢきとなったが我方(わがほう)も又空母千代田が爆撃によって飛行甲板に大穴を明けられ使用不可能となった。午後六時十分、こんどは雷装機を含めた六十数機が襲いかかってきた。

【千代田を発進しようとする戦闘爆撃機】
機に向って走る搭乗員、その様子をうかがう整備員たちの緊迫した空気を感じる。
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 もうわずかの時間で海上は夕やみに包まれようとする時であった。

 艦隊は必死の反撃・逃走、あと数十分でひろがる闇は艦隊をすっぽりと包んで敵機から安全に護って呉(く)れる。

 然し運命の神はあくまで冷たかった。

 敵の分散攻撃をうけていまや海上いたるところ、火を噴き、もうもうたる黒煙を上げてのたうち燃える艦、第二航戦飛鷹も雷爆各一をうけてすでに行動の自由を失い、瑞鶴、隼鷹、竜鳳、相ついで傷つき戦艦榛名も甲板に一発を喰って艦上惨たる有様だ。

 爆撃をうけた玄洋(げんよう)、清洋(せいよう)のタンカーも瞬時のうちにもうもうたる黒煙を吹き上げ、やがて水底に姿を没した。

 ようやく敵機の攻撃も終った。

 傷(きずつ)きのろのろと逃げる飛鷹は潜水艦の絶好の餌だった。

 スルスルと延びてきた数条の雷跡がねらいもたがわず飛鷹にかみつき、轟然たる爆音とともに水煙に包まれていた。

 それから数分飛鷹は急速に傾いてズルズル海中に呑まれ、その瞬間弾薬庫に誘爆して水中で大爆発を起して沈んで行った。

【空母 飛鷹】
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 飛行機の損害は四百五十機中残るものわずか三十五機、遂に機動艦隊としての機能を完全に失ったのだった。

 午後七時最後の反撃を試みて大和、武蔵を含む夜襲部隊が挺身夜襲をかけたが、遂に一艦も発見せず空しく引揚げた。

 艦隊は再起の日を期し損傷艦は深傷(ふかで)によろめきながら内地へ、他の艦はリンガへ再び相見ることのなかった痛恨の海マリアナを後にしたのであった。

 マリアナ沖海戦はこのように惨憺たる敗戦に終った。つまり、敵は周到な邀撃準備をもって、十九日にはまずその戦闘機の全力をあげて防禦に努め、この日の攻撃はもっぱら潜水艦の雷撃にまかせておいて、わが航空兵力を徹底的に消耗させた上で、二十日には直ちに飛行機による反撃に転じた戦法をとっている。

 この敵の戦術にひっかかったわが方は、全くその企図するままに翻弄されてしまったのである。わが決戦の夢はZ旗とともにここに敗れたのだ。

 基地航空の方は、このとき、まず横須賀航空隊の教官を主にして編成された「八幡隊」を硫黄島に前進させる計画であったが、荒天に阻まれてこれは実現を見なかった。一方、第一航空艦隊の角田部隊は、南方に展開していた。各隊を急遽北に呼び寄せたが、余りにも移動が激しいために機体を破損したり、ハルマヘラ島のワシレ基地やミンダナオ島の第三ダバオ(デゴス)基地に寄った搭乗員は、そこの悪質マラリヤにやられて倒れてしまい、決戦に備えて十九日グアム島に集結させたときには、トラックからきた零式戦闘機十五機、夜間戦闘機二機、艦上攻撃機二機など合せて五十機に満(みた)なかった。そのわずかな飛行機もグアム空襲の敵機にたたかれて"大東亜決戦部隊"は決戦の夢とともにここに潰(つい)え、まさに、太平洋はアメリカの握るものとなってしまったのである。

太平洋の防波堤も空し

 砲煙と阿鼻叫喚の中に、いつかは救援に来て呉れるものと思っていた聯合艦隊もかくて遂に姿を見せなかった。

 中部太平洋基地の飛行機もすべて潰滅し反撃の機会は失われた。

 艦隊の護衛のない陸軍の援軍の逆上陸も、絶対不可能であることは云(い)わずもがな (*20)のことである。

 サイパンはこうして見捨てられた。

 敵上陸の約一カ月後島の北端バナデル岬の一角に押しこめられた数少ない友軍は七月七日最後の突撃を敢行して壮烈な戦死をとげた。

 この日海軍最高指揮官南雲中将、陸軍の斎藤中将も洞窟の中で自刃して果て多数の子女を含む邦人もこれに従って自ら命を断った。

 幾万の南の防人(さきもり)は万斛(ばんこく) (*21)の恨みを呑んでここに玉砕"太平洋の防波堤" (*22)も空しく崩れ去ったのだった。

 十一月七日最後に飛んだ指揮官機らしい一機からサイパンの英霊を弔う黒白(こくはく)のリボンで結ばれた花輪が投下せられた。

マリアナ海戦その後

 サイパンを含む内南洋は、海軍にとって絶対の防衛線であった。果して、この戦略基地が敵手に入ってから、戦局は急速に悪化したばかりか、米戦略航空隊はここにB29の大基地を設営して、あの惨たんたる本土の都市爆撃がはじまったのである。

 この頃海軍報道部長も平出(ひらいで)大佐から栗原少将に変っていた。

 栗原少将は軍令部の補給のエキスパートでソロモン以来の補給戦の惨めさを身をもって知り尽していただけに黒潮会(こくちょうかい:海軍記者の団体)の戦況説明にも戦局が容易ならぬ段階に入っていることを力説していた。

 平出大佐が報道部課長の頃は景気のよい大本営発表がある度に、記者会にもウヰスキーや清酒の振舞(ふるまい)がさかんについたものであった。

 これはたしか空母一隻轟沈についてウヰスキーの振舞も殆んどなくなった。

 サイパン玉砕後間もない或日、栗原報道部長の戦況説明が例によって行われたが、彼は戦況について非常に悲観的な説明を行い「このまま推移すれば重態事態となることは必至だ」と語り粛然となった。

「そうすると、このままで行けば敗戦ということになるわけだが、軍としてこの戦局を盛り返す手はないのか?」

 彼はしばらく考えていたが、

「いや無いこともない」

「一体その方法は何です」

 栗原少佐は表情を固(こわ)ばらせて、

「それは唯(ただ)一つある。具体的にはいえないが将棋にたとえれば全部の"歩"が始めから"金"になることだ」

 そういって彼はわざとらしい哄笑(こうしょう) (*23)で巧みに話題をそらした。

 "歩"が"金"になる。そんなルールが将棋の中にあるだろうか。

 "そんな無茶な"記者会のメンバーたちは笑殺してしまった。

 私には栗原さんの言葉が何んだかピンと胸に来た。

 水上特攻隊の蛟竜(こうりゅう)、海竜(かいりゅう)、震洋(しんよう)、震海(しんかい)、回天(かいてん)などをはじめあの"カミカゼ自殺兵器"として米軍をさわがせた航空特攻作戦──機密維持の厳格であった当時栗原さんは苦しい言葉でこれを表現されたものに違いなかった。

 しかしこれが戦場にはじめて出た頃は、もう戦局はケタ違いの段階に突入していた。

 "歩"は"金"に成らず、みじめな敗戦となったのである。(終)


【資料出典】
・1967(昭和42)年 朝雲新聞社 防衛庁防衛研修所戦史室 「戦史叢書 大本営陸軍部〈1〉昭和十五年五月まで」第二章 日露戦争後の帝国国防方針 日米対立の深まり

  • 最終更新:2018-02-17 13:44:31

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