【あ号作戦・渾作戦】Z旗ふたたび-マリアナ海空戦-(前編)・附マリアナ沖海戦要約

マリアナ沖海戦要約

 セレベスのタウイタウイ泊地に集結した機動部隊は、大鳳以下九隻の空母を主力として、六月十三日、いよいよマリアナの決戦場めざして出撃した。

 十五日には連合艦隊から「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層努力セヨ」と魂を揺さぶる電報が全軍に打電される。

 だが、米潜水艦が巧みにリレーして日本艦隊の動静を報告しているのに引き替え、こちらは全然敵の様子がわからない。機動部隊をつかまえたのは、やっと十八日の午後。遅く、遠すぎ、攻撃を翌日に延ばさねばならぬ時であった。

 十九日午前、決戦の幕は切って落とされ、二波に分かれた攻撃隊332機が母艦を飛び立つ。日本の作戦は、脚の長い飛行機に物をいわせて、アメリカの手の届かぬ大遠距離から一撃を食らわせ、さっと引揚げようとの巧妙なやり方。

 ところが、米軍は、戦闘機全部を20カイリほどの近いところに集中して、550キロ以上(東京-大阪間の距離に等しい)を飛んでいった伎倆不充分の日本機に猛烈な空戦を挑んできた。だから、これを突破したのはわずかに40機。戦艦サウスダコタとインディアナにカスリ傷を負わせただけ。敵を見ずに帰ったのをふくめて、生還102機にすぎなかった。

 その上、大鳳と翔鶴は、つけ狙っていた米潜水艦のため撃沈されてしまった。惨憺たる敗北であった。


【マリアナ西太平洋戦局概要図】
マリアナ西太平洋選挙区概要図_2.jpg

マリアナ失陥が日本に与えた影響

 マリアナ沖海戦における敗北によって、空母部隊の再建が困難となり、連合艦隊は近代海軍としての戦力を失った。また、当然の結果として、マリアナ諸島およびビアク島その他の西部ニューギニアの要衝を失陥した。サイパン島は7月8日、テニアン島は8月3日、グアム島も8月11日に陥落した。

 マリアナ諸島の喪失は、米軍に次の進攻のための基地を獲得させただけでなく、やがてはB29による本土空襲を、覚悟しなければならなかった。日本の敗勢はもはやかくすすべもなかった。

 7月18日、東條内閣は総辞職し、22日小磯・米内内閣が成立した。海軍大臣には米内光政大将、軍令部総長には及川古志郎大将が就任した。日本は、戦争継続のために最後の努力を注ぐこととなったのである。

 昭和18年(1943年)か秋から多量に動員された学徒兵も、さらに大量に動員されて、若い学徒が戦場へと赴いた。昭和19年における予科練の採用は、実に3万名を越えた。若い人は、みな第一線への道を進んでいった。


【米軍反攻中部太平洋要図】
アメリカは自国の世界政策(世界経済一極支配)完遂および世界統一の障害となる民族国家を破壊し共和国化するべく西進してきた。容共連合国は唯物論国家なので、絶対に「正義」のために戦争したりはしない。連合国の戦争目的は自国の利益のみである。
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毎日新聞従軍記者の手記「Z旗ふたたび-マリアナ海空戦-」 

・1953(昭和28)年 富士書苑 森高繁雄編 「秘録大東亜戦史 海軍篇」所収 毎日新聞社報道部副部長 中島 誠 「Z旗ふたたび-マリアナ海空戦-」

痛恨の傷なお生々(なまなま)し

 ふっと、今でも当時の惨烈な海戦の様相を思い出して、胸をしめつけられることがしばしばある。

 キラキラと南海の天を蔽(おお)って連日来襲する敵の定期便、とどろく爆音、小さな珊瑚礁の島は根こそぎ揺(ゆら)ぎ、焰(ほのお)と水煙の火の柱の中に逃げまどう人々、あまりにも高価な物的消耗戦にも増して、民間人を含む幾万という尊い人命が無限のうらみをこめて南海の孤島につぎつぎと散って行った (*1)

 まことにサイパン海空戦を中心とした戦いは、犠牲の点でも仮借ない悲惨な海戦であった。

 サイパン、テニヤン、グァム──ここでは私の同僚や多くの知人たちが死んだ。然(しか)も一片の遺品すら残すことなしに……

 私がサイパンを出発したのは、敵がサイパン上陸作戦をはじめるわずか一週間前であった。

 当時すでに内南洋(うちなんよう)は完全な敵の制空権下に収められ、いつ何時(なんどき)撃墜されるかも判らないという悪条件の中に四発西式大艇は積み切れぬ程の人をのせヨタヨタと飛立った。

 幾度か敵機に接触して航空路を迂回し、或(あるい)は海上スレスレに飛んで内地(ないち) (*2)上空を包んでいた不連続線に幾度か胆(きも)を冷やしながら、ようやく横浜に着水した時は文字通り身体もやせる思いだった。


 それから一週間、敵は艦載機の反復大空襲ののち大挙サイパンに殺到、軍人、民間人を含む幾万の人々が一カ月後ここで玉砕した。

 この中には、うら若い乙女や、いたいけな幼児たちも多数含まれていた。

「おじちゃん帰るの。あたいも内地へ連れてって……」

 南洋航空の宿舎で小さなその家の子供がしきりと私にせがんだ。

「いまに日本の艦隊が、君たちを必ず迎えに来てくれるよ、それまでがんばるんだよ」

 心なくも私たちはそう答えるより仕方がなかった。目のくるりとしたオカッパの可愛い女の児(こ)だった。

 あの珊瑚礁のリーフにかこまれた美しいサイパン島、長い恨みをこめて散って行った幾万の人々の声なき声が、今も悲しくも生々しくよみがえってくるのだ──。


【米軍の攻撃から逃げまわる日本の商船。このほとんどが無差別撃沈された】
日本軍は真珠湾攻撃で故意の民間人攻撃はやっていない。米軍は第一次大戦でドイツが非難攻撃された非戦闘員でも構わずに商船を撃沈する無制限潜水艦戦を踏襲したのである。この米潜水艦から日本の民間船を護るため、1943(昭和18)年11月、わが日本は海上護衛隊総司令部を創設した。 (*3)
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美しきマリアナ珊瑚礁

 空から見たマリアナの海は、たとえようのない美しさだ。

 エメラルドの透明な海の中に点綴(てんてつ) (*4)する首飾りの様な珊瑚礁、ここに砕ける波の色は青、白、赤、みどりなど、七色に映えて夢幻的な美しさがあった。平和な時ならば再びここを訪ねて、あの南海の珊瑚のリーフに密生したヤシ林の中に原始生活を楽(たのし)めればどんなにか心楽しいことであろう。

 そんなたのしい夢想を誘うほど美しい海の色であった。

 しかしこの島は、いま苛烈なたたかいによって静寂の眠りからようやく醒(さ)めようとしている。

 こうした楽しい夢、さまざまな思いを乗せ、私の乗った一式双発の海軍爆撃機はテニヤン基地に向っていた。

 昭和十九年二月半ばの或(ある)日だった。中部太平洋の航空隊附(づき)を命ぜられた私は、東京-木更津航空隊の間を幾度か足を運び、この日あさ七時やっと見つけた連絡機に便乗して一路テニヤンに向うところであった。

 出発した前夜、内地には小雪混りのきびしい寒さであった。

 高度三千メートルという上にがらん洞の爆撃機の中の寒さは又格別、機銃座その他いたるところの隙間から吹き上げてくる寒風に、便乗の南方転勤の将校たちに混ってオーバーの襟を立て足をガタガタと震わせながら片隅にうずくまっていた。

 やがて太平洋に散らばる小笠原諸島を足下にのぞんで南下すると、海上にお伽(とぎ)話の鬼ガ島を思わせる様な怪奇な名も知れぬ火山島が黒煙を噴き上げているのが見える。

 やがて黒潮圏の上空を通過すると海の色が急に明るい輝きをもってくる。機内の気温もぐんぐんと上りやっと人心を取り戻すのだった。

 飛ぶこと十時間、やがて広漠とした太平洋の中に、豆粒程の小島が視界に入り、機は高度をぐんぐんと下げ始めた。

 目指すテニヤン島だった。

 機を降りるとムーンとする暑さと草いきれ、ギラギラする南海の太陽が、アスファルトの滑走路にはねかえってクラクラと目まいがしそうだ。

 防暑服の水兵がバラバラと機にかけ寄ってきた。

 真黒に陽焼けした彼らは動作もにぶく、みんなすっかり南洋ボケのした顔付(かおつき)だった。

 零下一度という内地から、いきなり赤道に近い百度 (*5)以上の猛暑の中に投げ出された私は、すっかり戸惑ったばかりかこの冬、悩みつづけていた親指の凍傷がいつの間にか、痒痛(ようつう) (*6)を止め半日のうちに癒(なお)ってしまったのにはすっかり驚かされた。


【1944(昭和19)年6月19日-日米両軍態勢図】
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飛び散るカンナの花畑

 それから四カ月、南洋基地に於ける悪夢のような毎日は、今でも生々しい記憶となってはっきりとよみがえってくる。

 テニヤン、サイパン、トラック、ペリリュー各地の航空隊を渡り鳥の様に飛び廻り、苛烈な航空戦をまざまざと体験した。

 到着したその日、二月十七日未明敵大機動部隊トラック島急襲、この日終日にわたる艦載機の大攻撃で陸上の基地は散々にたたかれ、陸上基地にあった二百数十機の飛行機が一瞬の間に燃え、小さな環礁の中に巡洋艦二隻、駆逐艦四隻と輸送船二十六隻が撃沈せられ、トラック環礁は赤腹を出した無残な艦船の残骸で墓場と化していた。

 この輸送船の中には捕鯨船を改造した"第一図南丸(となんまる)"も含まれていた。トラックに集結したこの飛行機は、ラバウル救援のためかき集め、その前日トラックに進出ばかりであったという。当時として全くなけなしの飛行機であったが、その救援の飛行機も目的地ラバウルにつく前に、一日のうちに灰燼に帰した。この潰滅でラバウルに対する救援は再び行われなかった。

 飛行機の無くなったラバウルは、この日から孤児となりやがて敵からも見捨てられてこの太平洋に取残された。"千早城" (*7)は、数万の陸海軍人や軍属をかかえ、食糧も自給自足で終戦の時まで持ちこたえた。

 このトラック島空襲の敵機動部隊に対し、わがテニヤン基地から第七五五飛行隊(司令楠本幾登中佐)が攻撃をかけたが、殆(ほと)んど見るべき戦果もなかった。


真珠湾以上の決定的大損害を与えようとする米軍の猛烈な空襲下、敢然と飛び立った艦上攻撃機(天山)一機。
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猛烈な弾幕をかいくぐり、米軍の不意討ちに立ち向かう。
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米空母にいどむ天山。乗組員は3名。機体下に魚雷を抱いている。
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弾幕をぬい真一文字に低空を飛ぶ。乗組員は歯を食いしばっていたにちがいない。
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いよいよ敵に近づく。機首を上げ、敵艦めがけて魚雷を投下。この3名は無事帰投できたのだろうか?
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 それから一週間の間隔を置いた二月二十二日、敵の大機動部隊がサイパンテニヤン強襲。

 前はテニヤンにあった雉(きじ)部隊の偵察によって、テニヤン東方四五〇浬(カイリ)に戦艦三、巡洋艦三、以下艦種不詳十隻以上に護られた空母数隻が、マリアナに近接しているという報告に、サイパンテニヤン各基地では敵の強行上陸を予想して、にわかに緊張、陸軍部隊も速成の陣地について待機姿勢に入ったが、翌二十三日未明五時半から艦載機の大編隊が強襲をかけてきた。

 敵編隊は最初に両島の基地をねらい恰度(ちょうど)集結したばかりの飛行機に爆撃と掃射を浴びせた。メラメラとマッチ箱のように焰を噴いて燃え上る友軍機、わが方には反撃する一機もなく、かすかに数門の機銃や高射砲が空(むな)しく暁の空に曳光線を打ち上げるばかりだ。

 グラグラと格納庫も白煙をふいて倒れる。どこからか折悪しく帰ってきたわが陸攻一機が、敵機の間隙を縫って滑走路に着陸しようとして近づいたが見る間に敵戦闘機に喰いつかれパッとどす黒い煙をはき、はげしい勢いで滑走路に突込む。メラメラと燃える機体には、苦しそうにうごめく搭乗者の影がはっきりと見える。

 敵機は地上のあらゆる動く目標をなぎ倒す様に、間断ない機銃掃射の雨を降らせるので手の施しようもない。

 滑走路の獲物をしゃぶれるだけしゃぶり尽すと、島の民家や施設にも掃射の雨を降らせる。無惨に荒されるカンナの花畑!

 砂糖きび畑の中で草を喰(は)んでいた大きな黒い牛が血だるまとなって横倒しになる。


【トラック島を急襲した米軍はたった一日で島を焼きつくした】
白人にとって人命は物よりも軽い。
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空虚なる大戦果発表

 恐怖の数時間──それはてんで問題にならぬ大人と幼児の太刀打(たちうち)以上の力の差だった。

 殆んど武器らしい武器を持たぬ基地の兵隊たちは、たこつぼへ身をかくすのがせいぜいであった。

 サイパン、テニヤン各島には幾万という民間人がまだ島に頑張っていた。これらの人々もまた空襲で多くの家を焼かれた。この人々は南興精神 (*8)に燃えて、すでに十幾年この南海の島に根を生やし、孤島に骨を埋める覚悟の人々であったが、はじめて情けない友軍の敗(まけ)っぷりを眼前にまざまざと見せつけられた。

 真珠湾の大戦果以来いつも片耳をふさがれ、一方的にだけ吹き込まれる空虚な大戦果発表──無敵海軍の健在を人も我も信じて疑わなかった人々であったが、このサイパン初空襲ではじめておぼろ気ながら前途の不安を予感するのだった。

 しかし日本にはまだ聯合艦隊が健在だ、──いつか起(た)ってめざましい大戦果を収め、戦局を一挙に挽回してくれるに違いない。──これが孤島に生活する人々の夢であり願望であった。

 この大空襲の五日前、恰度テニヤンには角田(すみだ)中将麾下(きか) (*9)の第一航空艦隊が進出していた。

 この第一航艦はソロモン南太平洋以来玉砕につぐ玉砕、相つぐ航空消耗戦に対応、一挙に戦勢を盛り返すために当時内地で訓練を終ったばかりの航空隊に熟練の航空搭乗員を加え編成された当時最精鋭を誇る航空部隊で"大東亜決戦部隊"と呼ばれていた。

 硫黄島からテニヤンに進出してきた第一航艦の優秀機を第一飛行場に迎えて、これこそ正に戦局挽回の唯一の部隊として全軍の期待をかけるに充分の威容であった。

 戦闘機編隊は"豹""虎""狼"各部隊、高々度戦闘機は"隼(はやぶさ)"部隊、爆撃機は"鵬(おおとり)"部隊、夜間戦闘機は"とび"部隊などとそれぞれ呼称され戦闘の中心兵力を構成する中攻部隊は"竜"部隊といわれた。

 飛行場を圧してつぎつぎと降りてくる精鋭機で、広い滑走路も見る見るうちに埋まるばかり、最後に滑降してきた双発中攻 (*10)から降り立った若鷲(わかわし) (*11)の飛行服の胸に大きく"竜王"の文字が踊っていた。

 その中には真珠湾作戦以来の歴戦の勇士も多かった。何んという頼もしい勇姿だろう。

 搭乗員のはち切れるような覇気は南洋ボケした基地航空隊の人々の目を奪うものがあった。

 自ら中攻に座乗して最後に乗込んできた角田中将ほか司令部は、テニヤン第一飛行場の将官宿舎に、基地の空を圧して将旗をひるがえした。

 だが何んとしたことであろう。この期待された第一航艦はテニヤンに到着してその翼のまだ充分休まらぬうちにこの大襲にあって一挙に百数十機が一回も戦(たたかい)を交えず無残に灰燼に帰してしまったのである。

 飛行機が敵の餌食になるまで、テニヤン飛行場では一機も避退(ひたい)するでなく目白押しに並んだまま燃えてしまったことは、返す返すも遺憾なことであった。油断、不用意、司令部の判断はたしかに誤った。

 トラック島の苦い経験のまま、テニヤンにも当てはまるのである。

 サイパン、テニヤンを荒し尽した米機動部隊は、上陸の気配を見せながら遂に上陸せずそのまま東方に去った。


【トラック島米機動部隊行動図】
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 この夜この米機動部隊を追って、サイパン、テニヤンの残存攻撃機三十機で三回にわたって布留川(ふるかわ)、梅田、永代(ながしろ)各部隊が夜襲を試みたが、未帰還二十五機、第一次攻撃隊指揮官のハワイ空戦以来歴戦の勇姿布留川大尉機も遂に還らなかった。

 帰った搭乗員は大型空母、戦艦各一撃沈、空母一撃破と報告したが、夜間のためにこれを確認することは不可能であった。

 当時七五五部隊にあって私はこの帰還した飛行士の一人一人について詳細に戦場の模様、敵空母撃沈の模様などを聞いたが、"雲間から海上に白い閃光が散るのを見た""空がパッと明るく燃えるのを見た"といった程度で撃沈を確認したものは一人もなかった。

 それにもかかわらずこのサイパン空襲とその戦果は三月二日のラジオニュースで相変らず軍艦マーチとともに放送された。私は何んだか狐につままれた様な気持であった。勿論(もちろん)空襲に脅え切っていたサイパンやテニヤンの人々も、この戦果を信ずるものはあまりなかったようである。

トラック島空の定期便

 "可愛いあの娘(こ)は何処(どこ)の娘よ"
  可愛いあの娘は何処の娘よ
  可愛いあの娘は私の
  ああ思い出の娘よ

 ニッパ椰子の木蔭でうたうカナカ土人の、あの哀切極まりない恋歌のリズムが、故国を離れて千里遠く南海の孤島に戦う戦士たちの胸を疼(うず)かせる。

 赤道直下、美しいエメラルドの海の中に寄り添うように一かたまりとなった、首かざりの様な珊瑚礁の島──カロリン諸島のトラック島は、この頃からはげしい空爆にさらされていた。

 二月十七日、機動部隊の航空兵力のほとんどをたたかれたトラック諸島夏島の基地には、その後増援される飛行機はたまにしかなかった。

 二機又は三機ずつ太平洋の島々を飛石(とびいし)づたいにやっとたどりついたかと思うと、翌日の内にはB24コンソリー (*12)の編隊による昼間爆撃でこっぱ微塵になってたたかれてしまう。 

 敵の大型機による空襲も日をついで執拗となり、夜間、昼間の二回毎日定まった時間に必ず空襲をかけ、そして何かしら土産を残していった。夜間爆撃は特に不気味だ。

 重い金属的な爆音が東の方から進空してくると、やがてせまい島の周囲をゆっくり旋回をはじめ、ここぞと思うあたりにパッと照明弾を投下、真昼のような明るさの中に、つづいて進空してきた編隊がドカンドカンと爆弾を投下する。

 小さな島全体が、ゆれ動くような震動、防空壕はその度に、バラバラと砂をかぶって胆(きも)を冷やされる。適確 (*13)なねらいで、ジャングルを根こそぎ倒し、せっかくかくしていた友軍機もメチャメチャに破壊してしまう。

 空襲警報の度にまず逃げることが第一だ。堅牢な防空壕もつぎつぎとねらわれ破壊され、たこつぼからたこつぼへ逃げまどう兵隊は穴掘りが唯一の日課だ。

 相手にたたかれ、日に日にやせ細って行くトラック島には、反撃に出る一機の友軍機もない。

 夏島にあった原中将麾下の第四艦隊も艦隊とは名ばかりで数隻に満たぬ漁船改造の掃海艇が、わずかに残っているばかり、春島に集結している二十二航戦の各航空隊も、反撃能力を完全に失い地下防空壕の中に潜り、野菜や芋の自給自足がもっぱらの仕事となりトラック島もかくて第二のラバウルと化していた。


【トラック島図】
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古賀長官行方を断つ

 三月三十一日──敵機動部隊パラオ来襲──敵機動部隊は空母九隻を基幹とした大集団であった。

 前日の索敵でこの機動部隊を捕捉したパラオ基地には、当時聯合艦隊の大艦隊が集結していた。

 古賀司令長官は来襲の報告をうけて旗艦「武蔵」から司令部をパラオの陸上に移し、全艦隊は空爆を避けるため北西海面に避退を命じたが、当時この米機動部隊は再度カロリンを衝くかパラオにやってくるか、はっきりと判断がつかなかった。


【古賀峯一聯合艦隊司令長官】
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 しかし敵を索(もと)めて一挙に反撃する態勢をととのえ、パラオの基地には二百余機を集結この中の使える飛行機を、全部反撃に投ずる予定であった。

 然(しか)し三十一日未明悪天候をついて敵機の大編隊が大奇襲をかけてきた。地上では飛立つばかりにゴウゴウとプロペラを回転させていた友軍機も、出鼻をたたかれてつぎつぎと爆撃や機銃掃射の好目標となり、パッパッと黒煙をあげて燃える。つけたばかりの爆弾をかかえたまま轟然と自爆して四散するもの、惨憺たる有様だ。

 友軍機も反撃に舞上ってパラオ上空に壮烈な空中戦をくり展(ひろ)げた。"あッやったぞ!"と見ているうちに敵の一機は赤い焰を吹き、やがて長い黒煙の尾を噴いて墜落して行く。パッと開く落下傘。

 然し味方零戦もつぎつぎと喰われて火だるまとなって落ちて行く。

 友軍の反撃にも限度があった。戦闘を終って燃料補給のため滑走路に降りようとした途端、息もつかせず第二波、第三波。新手に喰われてわが零戦も空しく地上で破壊されてしまう。

 かくて友軍の飛行機損害は地上破壊焼失、未帰還などで二百余機、パラオ港内にあった大小の輸送船十数隻も沈没するという惨たんたる有様だ。

 夕刻になってやっと空襲が止んだ。だが敵機動部隊はパラオ周辺にへばり附いたまま放れよう (*14)ともしない。

 このまま敵はパラオ上陸を強行する公算も大きくなった。

 陸上にあって指揮をとっていた古賀聯合艦隊司令長官も、遂に意を決してパラオ脱出を決意したのであった。

 空襲でわずかに生きのこった飛行艇二機に分乗した司令部は夜蔭(やいん)にダバオへ──。

 然し古賀長官艇は目的地に達せずそのまま行方を絶ってしまった。

 宇垣参謀長艇はセブ島南東方海上に不時着、重傷のまま辛うじて救出された。

 当時北島ミンダナオ附近海上には優勢な低気圧が発生しており、古賀長官は艇とともにスコールに巻きこまれ、機とともに海中に没したものと確認された。山本長官の戦死についで半年もたたないうちに起った古賀長官の殉職は戦争の前途に何かしら不吉なかげを投げかけるのだった。

嵐の前のサイパン

 きびしい航空消耗戦──南ソロモンの激烈な消耗の結果がようやくここに現れていた。

 太平洋戦争はソロモンの補給戦で既に決していたと、キング元帥が喝破していたが、戦勢はすでにこの時にはっきりしていたのである。

 この頃米軍の二正面作戦はニューギニアから一挙に北島を衝こうとするマッカーサー攻勢、一方日本列島の内懐(うちふところ)深く短刀をつきつけようとする中部太平洋のニミッツ攻勢となって大河の決する進攻速度であった。

 その度毎に国民の耳を打つ玉砕!

 それは民族の宿命とはいえ、何という悲しい悲報であったことだろう。

 四月にいたって米軍は遂にホーランジャに達し、ここを跳躍台として次に来るものは、パラオかサイパンか?

 南十字星の美しいサイパン島では、トラック島の連日にわたるはげしい空襲にもかかわらず、表面的には平穏であった。その平和はあたかも颱風圏の眼の中にあるような不気味な静けさであったけれど──

 内地との連絡船は既に杜絶(とだ)えていたが、島で一番大きなガラパンの街には小さなデパートも開いており、学校も平日と変らず授業をつづけ"彩帆館(さいはんかん)"という小さな映画館兼芝居小屋では、内地の古い映画が人気を集めていた。ここに在住する邦人は一万数千人、主として南洋庁の役人、南洋興発という砂糖会社社員や従業員、一般の商人、漁師たちがほとんどであったが、表面は平穏であきらめ切った顔だった。

 石黒という南洋興発の元気のいい社員があったが時々社員クラブに招いてくれて、砂糖からつくった"南洋梅"という日本酒の肴(さかな)にサイパン近海でとれたというカツオのとろける様な味、チャモロ土人が猿の様に、高い木に登って落してくれたヤシの実をたたき割ってすする甘い果汁、ビンゴの甘ずっぱい味覚──サイパンの思い出とともに忘れ得ぬものの一つだ。

 しかしこれらの邦人たちの不安は、また蔽(おお)い難いものであった。南洋航空──それは当時わずか一機の西式大艇しかなかったが──社員宿舎の手伝をしていた東京の出身だという中年の夫人は心細そうに、

「サイパンは大丈夫でしょうかね。もしかのことがあれば、この子供達が可哀そうで……」

 と目をくもらせていた。

 この小さなおかっぱの女の子は南洋で生れ、まだ内地を知らず「おじちゃん、雪ってどんなものかしら?」と可愛い首をかしげていた。

 一年中むっとする百度以上の暑さで一日一度さっと行きすぎる快適なスコールだけがたのしみであった。古い珊瑚礁の変化した珪土質のサイパンには井戸というものは殆んどなく、方四里ばかりの島の中にあるマルポの井戸が唯一の井戸らしい井戸で、一般の民家ではスコールの水を貯めてわかし、飲料水や風呂水に使っていたのだ。

 五月下旬、米軍サイパン上陸の半月ばかり前、厳重な敵潜水艦の目を逃れてサイパン邦人引揚げのため最後の船便として、アメリカ丸サントス丸の二隻が着いた。

 邦人たちはどっと喜びに沸いた。久しぶりに嗅ぐ内地の香り、当時すでに貴重品になっていた白米が、陸揚げされ、入れ違いに内地帰国の希望者たちが乗船することとなったが、これをめぐって一週間も前からサイパンの町は大騒ぎであった。

 船の収容力は限りがあるが、希望者はあり余る程多いし、結局軍と南洋庁で相談して、特別の事情ある者と婦女子の希望者に限ることとなった。

 当時軍でも後方任務のため出来るだけ多くを残して置きたかったのだ。

 かくて多数の婦女子をのせた両船は島に残る肉親たちの見送りをうけ一隻の駆逐艦の護衛で出発した、サントス丸だけは無事帰ったがアメリカ丸は潜撃によって沈没、わすか十六才の女の子一名だけを残して千名近い人々は海底の藻屑となって散った (*15)という。

(後編につづく)

【戦時日本の船腹事情】
米軍のトラック島急襲後、日本側船舶は軍民問わず撃沈され急激に数を減らした。
大東亜戦争写真史戦時日本船腹事情.jpg


【出典】
・1954(昭和29)年 富士書苑 森高繁雄編 「大東亜戦争写真史 特攻決戦篇」
・1983(昭和58)年 講談社 千早正隆編 「写真図説 帝国連合艦隊-日本海軍100年史-」

  • 最終更新:2018-02-17 11:24:27

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